第二章
第36話『走る』
「今日から『走破訓練』は【ジン気】の習得を目標にしてもらうよ」
蛇人族の師範がニコニコと笑って言った。
シスターの代わりは今のところ彼が務めているため、彼を見る頻度は『戦闘訓練』の師範、コンジを抜いて一番多くなった。
「森の中の木に印を付けてるから、その周りを通ってここまで一周する。もちろん【充気】は使って良い」
「ただし、一周で終わって良いのは最も早くここに戻ってきた子だけ。それ以外はもう一回同じことを繰り返す」
つまり、勝ち抜けということだろう。
「最後に一つだけアドバイスをしておこう」
師範は楽しそうに指を立てた。
「走ること以外を考えてはいけないよ」
そして【ジン気】なるものの具体的な説明は一切なしに、師範はスタートの合図を下した。
子供達は一周がどれほどの距離か分からない状態からのスタートな上に、起伏や障害物の大きな森の地形に、ペースを掴みかねている。
「ハハッ、おせぇ」
そんな中で、一番に躍り出たのはトラだ。
彼は密林の王者と呼ばれる虎の特性である身軽さと跳躍力を十二分に発揮しながら森の中を駆けていく。
【ジン気】か。若干難しい言葉のようで、俺の知識では単語から意味を察することは出来ない。
訓練の内容と言い、速度を上げるような気の使い方をさせようとしている。
【ジン気】、おそらく【迅気】といったところだろう。
しかし【充気】を足に集中させるのとは違うのだろうか。
考察を深めながら、森を回っていくが、そこである事に気づいた。
……一周がかなり長い。
既に1キロは走っているにも関わらず、スタート時と太陽の方角が変わっていない。
最下位になったらフルマラソン以上の距離を走らされることになるぞ。気の強化を含めて考えても、かなり容赦が無い。
トップをトラが独走する。
しかし、彼が最も速いという訳ではない筈だ。
どちらかというと力に秀でる彼の種族よりも速く走ることに秀でる子供も中には居るのではないだろうか。
子供達の中には、鹿の獣人や豹の獣人、馬の獣人など走るのが速そうな種族が混じっている。
彼らは集団の中位を維持しているが、どう見ても全力を出していない。おそらくトップに出るのが怖いのだ。
いわゆる前世のクラスカースト、と呼ばれるものだろう。
影響力を持った者に対して、周りが勝手に遠慮するのだ。
やがて、コースは曲がりスタート地点へと戻る。
一位はトラ。
彼は自慢げに走る子供達を見ながら笑う。
そして、彼は師範から渡された小瓶を手に持っていた。
俺は疑問を覚えながらも、彼らの前を通り過ぎて二周目に入る。
二周目に入ると、速度に秀でたタイプの獣人達が顔を見合わせた後、そのうちの一人がペースを上げる。
明らかに一周目のトラよりも速度が速い。
そして、彼らは談合をしていたのか、それ以外の者が本気を出す様子は無い。
なるほど、理にかなっている。
しかし、談合は一位になれるもの全員でしなければ意味は無いだろう。
五周目。豹の獣人が重力を感じさせない緩やかな走りによって他の子供達を引き離しながら走っていた。
流石に10キロ以上を走り続けているせいか、その表情は険しい。
そして、師範がゴールと定めた線を越えようとしたとき、背後から飛び出した影がそれよりも速く師範の前を通り過ぎた。
「な、ず……」
ズル、とでも言おうとしたのだろうか。
「……ごめんね。で、でもルールを守っただけだから……」
彼を追い越したモンクはこれまでよりも密度の高い気を纏っていた。
おそらく、体力の限界を感じてこのタイミングでスパートをかけたのだろう。
このタイミングでの一位を狙ってペースを上げていた彼は落胆により調子を崩しながらも一位を保ち、六周目に入る。
俺も上位を保ちながら、獣人達の背を追う。
やはり、この訓練で不利なのは
俺も一応獣人の部類に入るので人族よりはこの類の訓練は得意なのかもしれない。ただ蛇人族は特性重視な感じがするので、ここまで食い下がれているのはどちらかというと気の扱いのお陰だろう。
鱗の仙器化によって、ここ最近かなり気の扱いが上達している。
特に一部に集中させる、いわゆる【集気】の技術は初めとは比べものにならないくらいだ。
このまま、同じペースを保てば、早めに……っ。
「ゴホッ、ゴホ」
思わず出た咳に、口を手で抑える。
呼吸と体勢が乱れてペースが落ちる。
そうして開いた掌には赤い血液がべったりと付いていた。
今、シスターの代わりに朝食に同席するのは蛇の師範の仕事だ。
あの男、毒が使えたのか。
ゾワリと湧き上がる死の予感から目を逸らしながら走り続ける。
ゴールのご褒美は解毒薬といったところか。
俺は気の密度を上げて、一歩の距離をより長くする。
モンクがいきなりペースを上げたのもこのせいか。
気弱な彼らしく無いと思っていたが、納得だ。
上位集団から抜け出そうとしているところを、一位を維持している豹の獣人に見咎められる。
今度こそゴールして苦行を終えたい彼は、抜かれる訳には行かないと本格的にペースを上げる。
ふむ。
足では追いつけないと思った俺は、尻尾で小石を拾い上げる。
それを右手に受け取る。一瞬だけ気の出力を上げると、振りかぶって投げた。
「フッ!!」
「が」
体勢を崩した彼は木の根に足を引っ掛けて転ける。
そうして、彼に追い付く。
「テめ”っ!?」
立ち上がって文句を言おうとした彼の足首を踏んで速度を奪うと、俺はそのまま彼を追い越してゴールへ向かう。
ゴールの少し手前で、憎しみの感情を背後から感じて振り返れば礫が飛んできていたので、横に避けて躱す。
上位集団とは既にかなり間が空いてしまっているので、追い越される事も無く、順当にゴールを踏んだ。
「お疲れ。解毒剤なのは分かるよね」
蛇人の師範が笑顔のまま瓶を手渡してくる。
俺はコクリと頷くと、その瓶を受け取りトロリとした粘性のある液体を呷った。
前世の健康飲料のようなサイズの瓶を握りながら、回ってくる子供達を眺める。
豹の獣人は結構後ろの方を走っていた。右足を庇ったような走り方だ。特性を使わなくとも伝わってくる憎悪に寒気を感じて目を逸らすと、蛇人の師範が感心したようにこちらに目を向けている。
「そうか、君はやったのか。優等をあげたい位だけど、この訓練は一位の子にあげると決めてるから、ごめんね」
やった、とは妨害の事だろうか。
訓練内容からして妨害を前提にしているようにしか思えない。
見通しの悪い森の中をわざわざ走らせることと言い、勝ち抜けのシステムと言い、白々しい男だ。
しばらく前を通っていく子供達を見ていたら、やっと竜人娘が来た。
彼女の後ろには誰も居ない。つまり最下位だ。確かに彼女には毒が通じ無いため、時間制限を気にする必要はないが、わざわざ最下位になりたい理由もないだろう。
俺は彼女の意図を測りかねて気の探知に意識を振ると、彼女は自身に纏う気の量を普段よりも少なくしていることに気づいた。
気の補助が減って身体能力が普段より落ちている状態の彼女は疲労しているように見えた。
僅かに息を荒げながら一定のペースで走り続ける彼女に、なぜだか俺は空恐ろしいものを覚えた。
次の一周はかなり荒れたようで、先頭集団の順番が大きく入れ替わっていた。それに怪我をしている者も増えている。
おそらく俺と同じく毒の症状が出始めたのだろう。
周回数が増える毎に彼らのランニングは泥沼となり始める。
十周を超える時には血を流すものが現れ始めた。
師範の前を通る時には取り繕っているが、森の中で激しい争いが起こっていることは明らかだった。
幸い、現在はナイフを没収されているので死人こそ出ないものの、『走破訓練』に『戦闘訓練』が加わったような現在の状態は急速に子供達の体力を削った。
そして30を超えると、争う体力すらなくなり、毒の影響で顔を真っ白にした子供達がひたすら走り続けるようになった。
「お疲れ」
最後にゴールした彼女は、出迎えた師範に何も言わずに地面に腰を下ろして、立てた片膝の上に腕をのせる。
「ふぅ…ふぅ…」
疲労で虚ろな他の子供と違って彼女の瞳はまだ光を宿している。
ゴール直後の彼女は初めに俺が見た時よりも呼吸が落ち着いているように見えた。
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第36話『走る』
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