第29話『悪辣』
先ほどまでホーホーと梟が鳴いていた所に、〈狼〉の遠吠えが鼓膜を叩き、微睡んでいた俺の意識は急激に覚醒する。
ついに影狼が動き出したのだ。
瞳を開けた俺は、跳ねるように起きて森の奥を睨む。
遠吠えは、ここよりも遠く、元拠点の方向から響いてきた。
煙が赤く照らされながら立ち上っている。雷を纏う〈狼〉を使ったのか炎を吐く〈狼〉がいたのか分からないが、火事を引き起こしたようだ。
「……何が、狙いだ」
〈狼〉の声に混じって高い悲鳴が聞こえてくる。
間違いなく、影狼は子供達へと群れを差し向けた。俺を狙っていると感じたのは、俺の勘違いでただ単に俺が襲撃の邪魔をしないように監視していただけなのか……。
俺が僅かな安堵を抱いていると、子供達の悲鳴が段々とこちらに近づいて来た。
「まさか、子供を使ってこの拠点の罠を解除させるつもりか」
直接こちらに炎を起こさないのは、影狼の能力に干渉させないようにするため。
やがて炎と〈狼〉の群れに追い立てられた子供たちが、拠点周辺の罠の防壁に踏み入った事で、カラカラと鳴子が音を響かせる。
焦る俺の視界の端で大きな尻尾がゆらりと持ち上がる。
眠気と苛立ちを孕んだ金の瞳がゆっくりと開かれる。
「ころす」
殺意を込めた一言と共に、一瞬で濃密な気が周囲の空間を押し流すように放たれる。
「お——」
襲撃者が子供ではなく〈狼〉であることを伝えようとしたが、地面を全力で蹴った彼女は砲弾のような初速で放たれた彼女に俺の声は追いつけなかった。
『ギャン』
『ガォッ』
遅れて届いた獣の悲鳴により、俺の心配が杞憂であった事はわかったが、俺が最も頼りにしている戦力が消えたのはキツいな。
俺は服に縫い付けたフックに千枚通しを引っ掛けて、消えかけていた焚き火の中から薪を取り出し、用意していた松明もどきに炎を移す。
簡易的な影狼対策だ。
流石に森を焼くほどの火力は出せないが、拠点内部に用意していたもの全てに光を灯せば、影が這い寄る隙も無くなる。さらに拠点の中にはワイヤーをできるだけ張り巡らせている。その一部は竜人娘によって先程引きちぎれたが、大部分は残ったままになっている。
「グルウウウウウ!!」「ウウウゥ!」
完全な体制で、〈狼〉共を待ち構えていると、拠点内に4匹の風狼が飛び込んで来た。それだけでも驚異だが、奇妙だったのは、風狼たちが口に何かを咥えていること。
〈狼〉たちが咥えて持って来たのは人間では無い。もしそうだったらこれ程に嫌な予感はしない。俺は〈狼〉達に向かってナイフを振るう。
彼らは俺にナイフを受けても構わずに、拠点に向かってポイとそれを投げ捨てる。
それは松明の目の前にポトリと落ちた。
地面に頭をぶつけて意識を取り戻したそれ、〈鮭〉は、ピチピチとその場で跳ねた後、急激に水を周囲に撒き散らした。
水の代わりに水を吐き出す生き物を持って来たのか。
「なんて頭の回るッ」
狼の皮を被った人間が彼らを指揮しているとしか思えないほどに、狡猾で悪辣な策の巡らせ方に、思わず悪態を吐く。
水浸しになった拠点内部で松明が火を灯し続ける事は叶わず、夜が侵略する。
二匹の風狼を失った彼らは、俺へと敵討ちをする事なく、森の中へ姿を消す。
「グル”ゥ”」
悲鳴の中にあって一際低い唸り声が耳に届いた。薄暗がりの中でそれよりも黒い何かが持ち上がるのが見えた。地面を横向きに蹴る。
「来たな」
地面が鋭利な断面で切断されている。
しかし、以前と同じくこちらから相手の姿は見えていない。
情報のアドバンテージを取られた上にあちらはどこからでも攻撃ができる能力を持っている。
察知した気の塊に向かって竹針を投げつけるが、空を貫いて地面に刺さるだけだ。
おそらく、敵は影を操る能力を使って自分の姿を覆い隠している。
そして気の探知に集中したとしても、気によって影が操られているせいで、影狼本体だけを探るのは難しい。
あとは怪しいところを虱潰しに探していくしか無い。
生い茂る木を足場に、森の中を縦横無尽に駆け続ける。
「害獣め、少しは遠慮しろ」
俺が足場にする木を片っ端から切り刻んでいく影狼。
なるべく拠点周りで大きな円を描きながら逃げ回る。
途中、うざったらしいくらいに濃い恐怖の色を感じ取ったが、この近くまで追い立てられた子供達のものだろう。
それか、俺が降り立った木の枝に止まっていた哀れな梟のものだろうか。
さらに激しくなった攻撃を木から落ちるようにして躱す。
空中にいる俺は気の探知だけに意識を注ぎながら、地面から伸びる黒い槍をナイフの側面でいなす。
空中にいるところを狙い撃ちして来たみたいだが、俺は常に尻尾が地面に届くギリギリの位置を保っている。例え空中にいても体を少しずらすくらいならできる。
そして、影狼はまた大きな木を切り倒す。
もうそろそろ良いだろう。
「考えなしに攻撃し過ぎたな」
例え、奴がどれだけ影を伸ばせる能力を持っていたとしても、伸ばすときは同心円状に飛ばすのが一番簡単だ。
俺が一ヶ所に止まっていた時は、囲むように全方位から攻撃が飛んできたが、逃げ続ける俺を攻撃する時はある一点から伸びてくるものばかりだった。
あとは、先ほどから続けている気の探知によって得た情報を組み合わせれば、影狼の影を捕捉できた。
俺は放出する気の量を増やして、直角に曲がり急激に速度を上げる。
影狼は迎え撃つように、棘を地面から伸ばして妨害する。
「ぐ、ぅ」
思いの外速度が乗っていたために、避ける姿勢が崩れる。
ナイフで触れた感触ではかなり固かったが、一本であれば斬れないほどでは無い。
シスターから教わった気の集中だ。
全体をぼんやりと強化するのではなく、必要な箇所に線を通すように明確に力を与えるイメージ。
「ハッ!!」
押し負けた棘の先が切り飛ばされて、空気に溶けるように消えた。
ついでのように左右から飛んでくる棘を速度を上げる事でかわし、暗闇の中にある小さな影、その脳天にナイフを刺した。
俺の速度に押し負けて、地面を削りながら後退した後、力を失って倒れ込む。
「ふぅ、よし」
狼に抱きつくように突進した姿勢を解いて、ナイフを抜こうと力を込めるが、なかなか抜けない。
俺は足で狼の頭を押しながら両手をナイフの柄に置いて引っ張り出そうとする。
これで、抜け……抜け……抜けない。
「硬いな……っ!」
遂には気を纏って抜こうとした時、先ほどのは何だったんだと言わんばかりに簡単に抜けた。
そして影狼を覆う影が消えて、その下にある普通の狼の死体が……。
「な、い……っ!!」
その瞬間、俺の全方位から森が消える。
影の顎が完全に俺を包んだ。
死体は偽物。そして俺は奴に誘い込まれたのだ。
逃げ場は、無い。
「あああああああああああああ”ああ”あ”あ”!!!」
これまでの訓練はなんだったんだとなる位に無茶苦茶な軌道でナイフを振る。
後先を考えずに最大量まで放出した気を全身に纏う。
死に瀕して、達人の刃は研ぎ澄まされるというらしいが、絶対にそんなことは無い。
死にたくない。
ただ死ぬのが怖い。
「ああああああ”あああ”あああ”あ”あ”あ”!!!」
死にたくない、死にたくない。
「あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あああ”ア”ア”ア”ア”ア”!!!」
死にたくない、死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない。
斬って、避けて、しゃがんで、避けて、飛んで、避けて、受けて、避けて、見て、避けて、また斬って、避ける。
瞬きさえ退屈に感じるほど引き延ばされた時間の中で最適解を選び取り続ける。それでも皮膚は裂かれ、肉は斬られる。
「ハァッ、ア……ぁ」
影の顎を破って、外に逃れる頃には、俺の体はズタズタになっていた。
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第29話『悪辣』
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