第8話『トラ』
その日は『走破訓練』で歩法と言われる技術を教わった。
担当は蛇人族の師範だ。この師範は人族の師範やシスターと比べると若く見えるが、かなり鋭いので二人よりも油断ならない。
先日カマを掛けられて冷や汗をかいたことを思い出す。
そんな彼が教える歩法というのは、要は走り方だ。
走り出しの姿勢を変える事で、一瞬でトップスピードへと加速する【瞬歩】と言われる技術だ。
歩法というだけあって、名の付く技術は【瞬歩】だけではないようだ。
子供たちの多くが【放気】を身に付けつつある状況では、俺の身体能力は下から数えた方が早いから、こういった身体能力の差を埋める技術は有り難かった。
◆◆◆◆
夕食後、俺は自室の隣の部屋をノックする。
俺が居ない間にこの部屋の虎人族の少年が竜人娘にちょっかいを出していたことを受けて、ある可能性を危惧していた。
それは彼女が彼らに舐められているのではないか、ということだ。
別に彼らがどれだけ喧嘩を売ろうが好きにすれば良い。
しかし、間違いなく俺がとばっちりを受ける事になる。
だって同室だから。
出てきたのは虎人族ではなく、
土精族は小柄で肌が黒く、見た目が幼いまま育つらしい。
「ちっ、またお前かよ。もう水桶は返したぞ」
「いや、それは別の部屋に頼んだ」
負担が偏れば、また不満の声が上がりそうだからな。
シスターには『掃除をするために井戸の水を使う』許可を得ているので、最悪『自分の体を掃除するために使った』とゴネれば鉄拳制裁くらいで済むだろう。
「あまり『アレ』にケンカを売るのはやめてくれないか?」
「別に俺は…」
「前に手を出してただろ。虎人族のが……もしかして、部屋移った?」
「いる、けど……はぁ、トラ。お前に用だってさ!」
追い払うのを諦めて、件の虎人を呼び出した。
「眠いから、追いはらえよ、チビ」
同室だから呼び名が必要なのは分かるが、『トラ』に対して『チビ』とは力関係が透けて見えるな。
『蛇モドキ』と呼ばれている俺が指摘できることではないか。
「あ、おい!」
俺は『チビ』を静かに押し退けて、部屋に踏み入る。
後ろから抗議の声が聞こえるが無視する。
「トラ、だったな。あんまりこっちの部屋にちょっかい出さないで欲しいんだ」
「はあ?おまえ誰だよ。かえれ」
そういえば、俺が部屋にいる時に来たわけじゃ無いから、知らないのか。
「竜人がいる所の部屋長」
「ふうん。で?」
「『アレ』にちょっかい出さないでほ…」
「誰にケンカ売ろうがオレの勝手だろ。かえれ」
食い気味に断られる。一度ボロ雑巾にされてるのに、懲りてないのか。
「後片付けが面倒なんだ」
「何でオレがお前の言うことを聞かないといけないんだよ」
トラは馬鹿にするように笑った。
…もしかしてトラは、竜人娘にちょっかいを掛けたいと思っている訳では無く、単に俺の言うことを聞くのが嫌なだけか?
そうなら俺は完全に余計な事をしたな。
「そう…」
「早くかえれよ、かーえーれーよー」
最悪彼らとやり合う気でいたが、無駄足だった事に気付いたので、大人しく帰ることにした。
「ハハッ、腰抜けがかえるぜ?」
「おいっ、やめろよトラ」
背後からトラが煽る声と、チビが制止する声が聞こえるが、どうでも良い。
多分トラは手を出さない。少なくとも一度やられた時の痛みを覚えている間は。
所詮、一度心が折れた側の人間なのだから。
「なんで…のこのこかえってきた」
そう来たか…。
このパターンのキレ方は初めて遭遇する。
今の彼女の言葉を人間語に翻訳すると、
『私の駒使いのお前が舐められているのは間接的に私が舐められているのだから、馬鹿にされて反撃もせずに帰ってくるとは良い度胸だな貴様』
という意味だ。
集団同士での諍いが初めてだから、今まで知らなかった一面だ。
どう弁解すれば良いだろうか。
『アイツは俺を舐めてるけど、アナタの事は怖がってますよ』
と言えば
『私が間違っているって言いたいのか貴様!』
『俺は何とも思って無いですよ』
と言えば
『貴様の話なんてしてないぞゴラァ!』
「……」
俺がどう話すか悩んでいると、苛々して来たのか、彼女の尻尾が空中をうねる。
全身から気が溢れ出して、威圧感が増す。
…はあ。
「俺はアイツが何を言ってもどうでも良いから。何も言い返さなかった」
沈黙よりはマシだと考えて、正直に話した。
「蛇モドキのはなしはしてない」
瞬間、何かが迫り、眼前に腕を構えて防御する。
「ッ、ガハッ…」
尻尾の一撃でピンポン球の様に弾かれた俺は、壁に強く背中を打ちつける。
前よりも力が強くなっていた。
手加減したのか血は出ていないが、防御が間に合っていなかったら意識を失うぐらいはしてそうだ。
「…ちっ」
舌打ちした彼女はのそりと立ち上がると、そのまま部屋を出て行く。
「痛った…」
俺は背中をささりながら呟く。その時俺は彼女に対する怒りの感情と同時に、何だか懐かしく、微笑ましい気持ちを抱いた。
それはきっと俺では無い俺のものだろう。ここまで来ると狂ってる。
直ぐに彼女は帰って来た。
その尻尾には血が付いていた。どうやら前回よりは軽めの仕置きのようだ。本気なら腕が血塗れだったろう。
恐らく彼女本人に向けられた侮辱でない事が理由だ。
俺は帰ってきた彼女に絞ったタオルを見せる。
「そのままだと、布団が汚れる」
『汚れるから拭け』とは言わない。命令したらキレるから。
「っち」
この舌打ちは『言われなくてもそんなことは分かってたのに、でしゃばりやがってムカつく』の舌打ちだ。ギリギリ彼女の逆鱗には触れない筈だ。
彼女は腕を組むと、おもむろに背中を向けてくる。
俺が提案したのだから俺が拭け、ということだな。
ゆっくりと波打つ尻尾に左手を添えると、タオルで特に汚れている尻尾の側面を拭き取る。
同じ尻尾が生えている身だが、よくよく観察すると俺のものと彼女のものではかなり違いがある。
まず一眼で分かる違いはその太さだ。俺の尻尾が腕と太ももの間ほどの太さだが、彼女のは太ももと同じくらい太い。
これだけ太ければそこから出る筋力もそれに比例した物の筈。尻尾の威力は気の力が無くとも蹴りと同程度だろう。
尻尾に添えた左手からは表面の瑞々しい感触とその奥の筋肉の詰まった弾力が感じられた。
そして、尻尾の背骨側に馬の様な鬣が生えている。これは蛇に生えることが無いものなので興味深い。
あと、コレは太さの影響だと思うが、鱗一枚一枚が大きいのだ。そして立体的であり、鞭のように振るわれれば皮膚が削られそうな形をしている。
タオルで優しく縁をなぞると、触り心地もかなり硬めだ。
「…んっ」
そういえば鱗の縁はかなり敏感な所だったな。慌ててタオルを彼女の尻尾から離す。
彼女がこちらに振り向くが、俺は両手を見せて
「…」
俺が故意に彼女の尻尾にイタズラをしたのでは無いかと懐疑的な目を向けてくるが、もう面倒になったのか、尻尾の先でタオルを持ち上げると、桶に投げ入れる。
そして、ストストと自身の布団に行き寝転がった。
俺は以前に用意した抱き枕を探すと、それが彼女の枕になっていて、代わりに彼女の布団の一枚が転がっているのを見つけた。
彼女は一方的な施しを好まない。
此れはトレードと解釈して良いだろう。
今日も瞑想をする時間が減ってしまった。
明日以降はもっと減りそうだ。
シスターは彼女が反抗している事を苦々しく思っていたし、『戦闘訓練』の師範は彼女の意思を徹底的に潰そうとしている。
何より大人の意図に子供達が気付きつつある。両者が手を結ぶ時も近いだろう。
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第8話『トラ』
尻尾レビューの所だけで1日分の『太』が摂取できそう……、ちょっとR15に収まるか不安です。
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