第一章 醜女と神獣

「ひいいいいいいっ! しっ……醜女っ! この化物! 近寄るなあっ!」

 豪奢な部屋をつんざく悲鳴が裂き、がしゃっと壁にぶつかる音が続く。

 すっきりと爽やかな見目の青年が、零れ落ちそうなほど目を見開き、開いた唇をわなわなと震わせて腰を抜かしていた。

 その視線の先に、悠然と静かに座る娘は、ニイッと真っ赤な唇の端を吊り上げている。


 彼女の口は、耳まで裂けていた。


「はっ……ああっ……!」

「うふふふふっ」

 白い歯が覗いて、歪な笑い声があふれだす。

「ああ、素敵ね、いい気味だわ! あなたなんてみっともないのかしら。見苦しいものはだぁいすきよ、私」

 けらけらと笑う彼女の顔の全貌はうかがえない。

 顔を覆い、首まで隠れるほどの大きさの白い布が顔の前に垂れ下がっているからだ。

 布には何かのまじないか、いくつかの図形を組み合わせた紋が黒く描かれている。

 娘は今、白く細い枯れ枝のような指先で、その布をぎりぎり口元が見えるほどの高さまでめくりあげていた。

 指先がするりと布をはなすと、おぞましい口元はたちまち隠される。

「ふふふふふっ、どうかしら、どうかしら! ねえ、今の私の顔、醜かったでしょう、おそろしかったでしょう! あああなた、本当にいい気味、いい気味ねぇ! ついさっきまで寒気のするような甘ったるぅい言葉をつらつら並べ立てていたじゃない? それがほんのちょっと口元を見ただけでこうだもの! ああ、やっぱり男は汚い方がいいわぁ、見ていてとぉっても愛しくなるもの」

 頬に手を添え、小首を傾け、艶めく黒髪をさらりと流して、壊れたように娘は嗤う。

「ええ、可愛いわよ、今の顔私大好き! 素敵ね素敵ね、無様でみっともなくて、もっとそばで見たくなるわ」

 娘が立ち上がると、青年はひっと喉の奥でくぐもった悲鳴を詰まらせ、青ざめた顔で瞳を揺らして、腰を抜かしたままさらに後ずさる。

 背中が限界まで壁に押し付けられた。

 娘は立ち上がったあと、それ以上は近寄る素振りもなく、けたけたと嗤い続ける。

蔵面ぞうめんの下が息の根も止まるような美女だなんて、誰から教わったのかしら。うふふふふふっ、先刻さっきの反応本当に素敵だったわ、いい声だったわね、大好きよ、だぁいすき!」

「ひっ……ばっ……! ――っ、化物っ! 来るな寄るな近づくな! 離れろ! 今すぐ部屋から出ていけ!」

「あら」

 これ以上下がれないとわかっていても壁にますます体を張りつけ、青年は震える声でわめく。

 娘はこてんと首を傾げ、次の瞬間、ふっと吹き出した。

「まあまあまあ、生贄に祭壇から降りろと? 面白いことを言うわね。そうなるとあなたが生贄を代わってくださるの?」

「ひ……!」

「別に私はそれでも構わないのだけれど。美しい娘をご所望の神獣様が、いざ祭壇を覗いてこぉんな情けない男が一人じゃあ、さぞお怒りになるでしょうねぇ?」

「ふっ……ざけるな……!」

 なんとか男が、よろよろと立ち上がったときだった。


其方そなたがふざけるな」


 ふいに部屋の中に、凛と鮮やかな美しい声が響く。

 いや、それはもはや声と言えるかどうかもわからない。天女の楽器を軽やかに鳴らしたような、まばゆい音色。

 それは人間の喉が出せる音ではなかったし、人が創り出したどんな上質な楽器だろうと、この声を表現することはできないだろう。

 あら、と小さく呟いて、娘が声のした方――開け放たれた、金屏風のごとく豪華な模様の襖へと顔を向ける。

 そこに立っていたのもまた、姿形は紛れもない人間だったが、人間が生み出せるかんばせではなかったし、人間が創り出すどんな素晴らしい彫刻や絵画だろうと、この容姿を表現することはできないだろう。

 人の腹ではなく、神の手が直接造形したに違いない。

 春の澄んだ小川のごとく流れ落ちる白銀の長髪、星彩せいさいを封じ込めた長いまつ毛、瞳は宇宙を映しているかのように、広く遠く、美しい。肌は新雪を集めたように、煌めいてすらみえる白さ。

 身にまとうのは素朴な着物のみだが、豪華に飾り立てられているより、むしろそちらのほうが美しさを際立たせているようにさえ見える。

 対して美しい着物と飾りを身に着けた娘は、その神々しさにまったく動じることなく、ふぅん、と一言漏らしたのみだった。

――あなたが神獣ね。

 続く言葉は、心の中に留める。

 人の形をとっていても、空気が、気配が、動作が、呼吸すらまるで違う。

 神獣は青年に視線を定めると、すぅっと目を細めた。

「そこの娘もそうだが、神域で騒ぐな。人が勝手に建立こんりゅうしたとはいえ、この……『祭壇』と言ったか、これは私のために造られた私の物だ。本来、人が入ることもできぬ聖域を何処と勘違いしている?」

 低く静かな圧をこめた声と、ゆっくりと蝕むように部屋に染みついていく殺気。

 全身から力が抜けた青年は、真っ青を通り越して真っ白な顔色で、がたがたと歯を鳴らす。

 神獣の目がさらに細められた。

「そのうえ先程から話を聞いていれば、其方は娘が逃げ出さぬよう祭壇まで送り届ける、謂わば護衛を兼ねた監視役だろう。それがなんだ、神につがうため捧げられた娘に、よりにもよって祭壇で言い寄るとは、――よほど罰を受けたいと見える」

 青年ははくはくと口を動かすばかりで、声も出せない。

 何か言おうとしても、言えなかった。呼吸すらできない。息が止まる。このままではそのうち心臓が凍りつきそうだ。

 神獣が、ふっと短く息を吐いた。

「――出ていけ」

 その一言が紡がれた瞬間、青年は稲妻のごとくものすごい勢いで跳ね上がり、部屋の四方にある襖のうち神獣から最も遠いものを叩きつけるように開いて、飛び出していった。

「みっともない……」

 どこか嬉しそうに娘がつぶやいて息を漏らすのを、神獣がおそろしいほど冷めた目で見る。

「其方もだ。神やその眷属の圏域では言葉を選べ。行動を選べ。常であれば口を開くことすら許されない場所で、軽々しくあのような物言いをするな。此処はお前の家ではない。親にどんな教えを受けたか知らないが、先刻の言葉遣いは神域どころか、人の世でも控えるべきだろう」

「……親、ねぇ……」

 青年では口もきけなかった相手に、娘は平然と向き合い、あろうことかくすくすと笑いだした。

「……何を笑っている? 言葉や行動を選べと言ったばかりだが」

「ふふふふっ、だって、私が選ばれたとき、神獣がいかに尊い存在なのかを嫌になるほど語られたから、どれほどご立派で全知全能かと思ったら! なぁんにも知らないし分かっていないのだもの、可笑しくって。ごめんなさいね?」

 嘲るような口調で言われ、神獣がかすかに眉をひそめる。

 ひとしきり笑った娘は、顔の前におろした蔵面の上から口元を手でおさえて、首を傾けた。

「たしかに私は親から、こういう言葉をたくさん教わったわ。親は私に、人生の大事なことをたくさん教えてくれたの」

「……何?」

「私に人を傷つける言葉を教えてきたのはほとんど家族だけれど、でも私、親には感謝しているのよ? おかげであの気持ち悪い護衛に痛い目見せられたもの。ふふふっ、あの顔すごく良かったわ、今思い出しても可愛い! ……ああ、ごめんなさい、こういうのがだめなのかしら?」

 静かな怒気を孕んだ神獣に肩をすくめてみせ、「次から気を付けるわ」と思ってもいなさそうな口調で告げてから、

「――ところで」

 娘は面の向こうから、見透かすように神獣を見上げた。

「あなたが私の嫁ぐお相手?」

 神獣がぴくりと眉を動かし、冷め切った温度の無い瞳で娘を見下ろす。

「――ああ、そうなるようだな。お前の名は」

「……言わなければだめかしら?」

「は? 名乗らないなら、この先ずっとお前とでも呼べと?」

「私としては、そちらでも構わないのだけど――面倒ね」

 あからさまにため息をつくと、娘はぼそりと呟いた。

「――しゅう

「シュウ?」

「ええ。『醜い』と書いて、シュウよ」

「――すまないが、それは本名か? まさかとは思うが私をからかって……」

 醜はしばらく黙ってうつむいていたが、やがてその肩が細かく震えだす。

「うふふふふふふふっ! いやねえ、もう気づいたの? しばらく経って気づいたら馬鹿にしてやろうと思ったのに」

「おい」

 ぐっと低くなる神獣の声を聞いて、醜はますます面白そうに笑い転げた。

「本名をあなたに教える気はないわ。呼ぶ名前が分かっただけマシでしょ?」

「さっきから思っていたが、あまりにも無礼が過ぎるぞ。人の姿をとっているとはいえ、私が神獣だと心得ているか? 態度も話し方ももう少し改めろ」

「――そう。ええ、かしこまりました」

 しばらくの間をおいてから、醜は面の下でうっそりと微笑んだ。

「ご満足? これでいいなら、次はあなたのお名前を伺いたいのだけど」

「……」

 あからさまに眉をひそめつつも、ため息を付いて神獣は答えた。

おうだ」

「黄様。それではこれからよろしくお願いしますわ、私の――旦那様になるのかしら」

「――念の為聞くが、他に生贄はいないようだな」

「ええ」

 軽やかな声で答えると、醜は優雅な仕草で深く頭を下げた。

「私が唯一の、あなたの花嫁ですわ、神獣――黄様。お会いできるこの日を、ずうっと待ち望んでおりました」

 丁寧に礼をした醜に、黄は微塵も信用していない目を向ける。

「その割には、まるで礼儀がなっていないようだが」

「ええ、それは勿論。だって私、神と名のつくものは大っ嫌いですの。ですから」

 顔を上げた醜は、両手で蔵面を口元が見えるまでめくり上げた。

 それは楽しそうに吊り上げられた、裂けた唇で、

「もしもあなたが、本当に神だと言うのなら――私が殺してさしあげますわ」

 ぴくりと、黄が眉を動かす。

「殺すだと?」

「ずっとそればかり願ってきましたの。いよいよ叶うのだと思うと胸が踊りますわ」

「……どこまでも無礼だな。そのうえ愚かだ。人が神を殺めるだと? 戯言も大概にしろ」

「さあ、戯言かどうかは、数年後のご自分にお聞きになったら? すぐに殺すつもりはありませんけど、確実に殺してみせますから」

 からかうように、歌うように、ひどく楽しげにそう告げられて。

 黄の瞳が、ぞっとするほどに暗くかげった。人の手では触れられない、久遠の深い闇の底。どこまでも続く、黒く塗りつぶされた深淵。

 艶やかな唇が細くひらいて、そうか、と吐息のような一言を漏らす。

「くだらぬ。――やはり人は、この世界に必要などないな」

 虚を突かれたように醜は一瞬小さく息を呑んで黙り込み、それからふっと小さく笑い声を漏らした。

 それは今までの、人を嗤う声にしては、驚くほど弱弱しい笑い方だった。

「……そうですね。私もそう思います」

「そう言うお前も人だろう」

 ばっさりと言い捨てて、黄はくるりと身を翻す。

「もういい、時間の無駄だ。ついてこい。受け入れがたいが、此度の花嫁はお前だ――私の家に案内する」

 もっとも、すぐに逃げ出すことになると思うが。

 心のなかで付け足して静かに歩き出す黄の後ろで、醜はしばらくの間、じっとうつむいて、黙って床を見つめていた。

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醜女と神獣 おんぷりん @onpurin

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