醜女と神獣
おんぷりん
序章 黄に染まる花車
殺してしまえ。
目の前で眠る、その美しい顔を見た瞬間に。
窓からさしこむ青い月光が、照らす表情を見た途端に。
今までに何度も考えてきたこと、心に浮かんだ言葉が、毒で蝕むようにじわりと脳内によみがえった。
それは私の声をしていた。
耳元で囁かれた私の心の臓が、どくりと大きく一度動く。
自分を縛り、どこまでも追ってくるその声が、体中で木霊する。
殺してしまえ。
こんな想いは、感情は。
殺してしまえ。
最初から、死んでいたも同然だったのだから。
私にはいらないのだから。
さっさと殺してしまえばいい。
誰かを嫌うこと、人を恨むこと、世界を呪うこと、私の容姿に見合ったそんな思いだけで生きてきて。
とっくに死んだものだと思っていた。そもそも自分の中に存在すらしていないと思っていた。
いらないと、知らないと、どこかで見ないふりをして、耳を塞いで。
ずっと拒否してきたのなら、今更だ。
さあ。
どうせ傷つくのなら。
叶わないなら。
報われないなら。
最低で醜悪で歪で汚いこんな想いは、恋とも愛とも呼べないほどに腐って傷ついた感情は、今この場で。
殺して、忘れて、最初からなかったように。
消して、踏み潰して、屑籠へ押し込めて、さあ、殺してしまえ。
殺してしまえ。
「……」
そうだ。
私はそのとき、ふいに思い出した。
こんな感情、今まで知らなかった、と。知っていたのに、気づいていなかった。
だって。
ずっと知らずに生きてきたんだ。
あなたと出会うまでは。
私だって消せるものなら消したかった。
忘れようとした。何度も何度も捨ててしまおうとして、だけど、できなかった。
どこが間違っていたのだろう。
どこで道を踏み外したのだろう。
私に不釣り合いな感情だと、とっくに知っていたはずなのに。
「――愛しているわ」
がらにもない言葉を、静かにその閉じられた瞼へ落とす。堕とす。
消えない、消せない、捨てられない、忘れられない、殺せない、なかったことにできない。
だけど終わりにならできるはずだった。
今ならきっとできると思った。
「ごめんなさい。さようなら」
終わりに、したかった。
きっともう二度と、会うことはない。
だけどそれでもよかった。それでよかったんだ。
私がこんな感情を持つのは、本当に間違いだったのだから。
間違いなく、世界に起きた、奇妙な馬鹿げたズレだった。
持ってはいけない。
知ってはいけない。
だからこれは、私への罰。
恋は罪悪ですよ、と、書き記したのは誰だっただろう。
そう、恋とは毒で、罪なのだ。
私にとっては。
私にだけは。
もしも私たちが違う出会い方をしていたら。
あるいは私が、もっと美しい容姿をしていたなら、なんて。
いつから私は、こんな馬鹿なことを考えるようになったのだろうか。
考えるだけ全部無駄で、「もしも」なんて優しい世界はどう足掻いたって存在してくれない、なんて。
神様が酷いことなんて。
私が世界に嫌われていることなんて。
私がこんなに醜いなんて、もうどうしようもなくて、今更何も誰にも変えられなくて、そんなこととっくに分かっていたはずだったのに。
諦めていたその幻想に、どうしても手を伸ばしたくなってしまって、小さく嗤いがもれた。
ああ、本当にいつから。
変わってしまった。
まだこんな諦めの悪い汚れた手で、隣を求めてしまう。
ありもしない結末にすがりたくなってしまう。
少し前の私ならもう少し理性的で、賢くて、潔かった。
こんなふうに、なってしまったのは。
全部、全部、
「ぜんぶ、あなたのせいです」
目の前が滲んだ。
涙が零れ堕ちていく。
愛しいその頬を濡らして、するりと枕へ滑り落ち、染みをつくる。
貴方が悪い。
全部、全部、貴方が悪い。
貴方のせいだ。
貴方の。
「――ありがとう」
最期に唇を辿ったその言葉はゆっくりと、揺らめくように、まどろむように、青すぎた月の眩しさにかき消さられるようにして、空気の中にとけて消えた。
私は。
私は
今の名は――
家族からも世界からも忌み嫌われ、そして――誰からも愛されず、誰も愛せない、世界で一番の、
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