第2話

 キュートな猫ちゃんをプリントした白色のティーシャツに、藍色のオーバーオール。白色のハットから栗色の髪が後ろへと流れている。オレンジ色の籠編みを模したバッグを持っている。大人っぽいなかにキュートな感じを抱かせるコーデだ。

 シルエットだけだとモデルさんみたいだ。こんなにオシャレだっただろうか。


「よっ、元気だった?」

「元気にやってるよ、柑奈かんなは?」

「わたしも、元気だよ」

「それならよかった……ところで、手を繋いでいいかな?」

「黙って繋いでくれると、キュンときたかも」


 今年の夏も暑い。白雲がひとつも見えない。文句ひとつない快晴だ。

 なかなか指をからめられないで、もたついてしまうぼくの手を、柑奈がしっかりと結んでくれた。


「いきなり恋人繋ぎとか、大胆だねえ」


 柑奈は赤くなっているであろうぼくの顔を、のぞきこんできた。そして、くすくすと笑う。


「これで分かった。あっちで浮気してないってことが」

「そんなことを、疑ってたの?」

「ちょびっとだけね。恋人が遠いところにいると、それくらいの不安を覚えるものだと思うけど、ケンくんは違うのかな?」

「なんだろう。付き合ってから二年も経っているから、柑奈のことを信頼できてる」


 その言葉に、柑奈は苦笑した。そして、「そうだねえ……」と独白ひとりごとのように言ったあと、こう続けた。


「まるでわたしが、ケンくんを信頼していないみたいな物言いだなって、思っちゃったかな」


 確かに、そうかもしれない。

 正直、柑奈がほかのオトコに言い寄られていないかということを、こころのなかで心配していた。ただ、それを口にしてしまうのは妙に恥ずかしいし、泰然自若たいぜんじじゃくと構えている風を装っていたのだ。


「ごめん、そういうつもりで言ったわけではなかったんだけど……」

 柑奈は失笑し、「分かってるって」と笑い飛ばしてくれた。


「嬉しいんだよ、わたしは。こころのなかではどうだったかは分からないけど、そう言ってくれることがさ……そうだ、これを言わなきゃ。ごめん、今年の冬は会えなくなると思う」

「かなり忙しくなってるよね。メッセージの返信で分かってたから、連絡を控えていたんだけど……」

「ああ! だからか! ぜんぜんメッセージが来ないからさー、愛想を尽かされたと思ったじゃん。言ってよ! もう!」

「そうだったの? だって、鬱陶しいかなって思って……」

「これからは、おやすみ、おはようは絶対に言ってね。そうしないと、ぐっすり眠れないし気持ちよく起きられないんだから!」

「わっ、分かった! ごめんね」


 安堵のため息をついた柑奈は、「それでね」と話を元に戻した。


「来年から、学会発表とか、ジャーナルに投稿する論文の執筆とかで忙しくなると思うからさ、しばらくは会うっていうのは無理になるかも」

「そっか……それは寂しいね」

「……それは、わたしも。だからさ、ちょっと心配になってる」

「えっ?」


 柑奈は、帽子を目深にかぶり直し、ぼくから目を逸らす。


「浮気しちゃうと思っちゃう。電話だってできないだろうし、メッセージのやりとりも少なくなるだろうし……」


 そのもどかしさは、ぼくだって同じだ。だけど、信じてほしい。


 ぼくは柑奈を愛し続けるし、まだ言っていないけれど、生活を成り立たせられる準備ができたら、結婚を切り出したいと思っている。


「こういう不安がなくなってしまう、魔法の言葉があればなあって」


 魔法の言葉――柑奈も、ぼくが結婚を切り出すのを待ってくれているのかもしれない。でもいまは、柑奈を幸せにできる自信はない。


 だから、いまのぼくには、これしか言えない。


「柑奈のことが世界で一番好きだし、これからもずっと好きだし、ずっと側にいたいって思ってるけど……それだけじゃ信じられない?」

「信じられないんじゃなくて、不安なんだよ。わたしだって、ケンくんのことが世界で一番大好きだし、これからもずっとずっと好きだし、永遠に一緒にいたいと思ってる。だから、裏切られたときが、こわいんだよ」

「裏切らないよ」

「信じてるんだけれど、でも――えっ、ちょっとっ……んっ」


 だれもぼくたちを見ていないだろう。見ていたとしても、なにをしているか分からないだろう。帽子で隠して、一秒……二秒だけ口づけをした。くらくらするほどの甘い香りがする。名残惜しさを引き連れて、帽子を柑奈の頭へと返していく。


 柑奈は帽子が返されたあとも、ぼくの肩の向こうにある空を見つめていた。


「どう言っても確信を持てないだろうから、このことを話すのはもうやめよう。大丈夫、絶対に裏切ったりしないから、ね?」

「…………」

「柑奈?」

「……初キス」

「え?」

「わたしのファーストキスが、こんな形で……」


 やばい! 感情が高ぶってしまった!


「……ばか」

「ごめん! 本当にごめん!」


 両手を合わせて、深く頭を下げて、何度も謝る。

 柑奈は両腕を組んで、なにか考え込んでいたが、小さく「よし」とかけ声をしたかと思うと、ぼくの名前を呼んだ。


「まず、これからはちゃんと、きっ、きっ……キスをするときは言うこと。突然しないこと」

「はい、気をつけます……」

「そして、一週間に一度は、通話をすること」

「えっ? そういう時間がないから不安になるんじゃ……?」

「作業通話をしましょう」

「作業通話……?」


「そう。作業をしながら通話をするの。片手間みたいになるかもしれないけど、まったく話さないよりはいいと思う。声の調子とかで、相手がどういう気持ちでいるのかって、なんとなく分かるじゃない。だから、近況報告と愛情確認の意味で、作業通話をするってのはどう?」


 片手間みたいになる――といっても、それができるのならぼくも嬉しいし、柑奈がそれで少しは安心できるのなら断る理由はひとつもない。実際、どんな感じになるのかは想像がつかないけれど。


「いいわよね?」

「うん、もちろん」

「じゃあ、約束」


 ラベンダーのネイルが、陽光に鮮やかにひらめく。一昨日深爪をしてしまったぼくの小指を、柑奈の小指にからみつける。


「どちらからほどく?」


 挑戦的な表情でこちらを見る柑奈。

 そんなことを言われたら、もう二度とほどけなくなるじゃないか。


「あー、自分で言いだしたんだけど、わたしからほどけなくなっちゃった」

「ぼくも、ほどくことができない……でも、指を切らないと約束をしたことにならないんじゃない? だって、最後は『指切った』だし」

 ふたり、くすくすと笑い合った。

「じゃあ、指切ったっと。えいっ!」


 一週間に一度、作業通話をしてお互いの気持ちを確かめるという約束――うん、針千本飲むことがないようにしよう。


 こんなに清々しい気持ちになったあとに、ホラー映画を見るのかと思うと、気が乗らない。


 でも、なんだろう。安心感みたいなものが、胸のあたりでじんわりと温まりはじめている――夏の暑さではない、べつの温かさが。

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発表の前に質疑応答の時間を設けます 紫鳥コウ @Smilitary

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