見上げれば降るかもしれない
芳岡 海
見上げれば降るかもしれない
月刊ムーを愛読している人には初めて会った。
駅ビルのレストランフロアの、有機野菜が売りの自然派レストランのホールスタッフのアルバイトを終えた美月がバックヤードに入ると、三十分前にシフトを上がったはずのすばるが雑誌を読んでいた。
お疲れ、と軽く声をかける。
まだいたんだ、とも言おうかと思ったけどやめた。サヤカと待ち合わせしていて時間を潰しているんだろうと思ったから。それで代わりに、「何読んでるの?」と訊ねた。
すばるは、丸いパイプ椅子の上で膝に乗せていた雑誌を持ち上げて、失われた古代文明と宇宙人の交流についての説が特集された、月刊ムーの表紙を美月に見せてくれた。
オカルト研究部の部室でもない場所で、いきなり少年ジャンプのノリで月刊ムーを見せられたら誰だってなめらかな返事はできないと思う。思わず「お、おう」とぎこちなく返した。
すばるは見せたからといってどうということもなく、雑誌を膝に戻すとまたページをめくり始めた。
「私が知り合ったときのすばるは、オーパーツが好きって言ってたんだけどね」
夜の公園でサヤカが言うと、そうだっけ、とすばるは返した。世間一般の月刊ムーのイメージがどんななのか、全然気づいていないのかわかっていてもう悟りを開いているのか美月にはわからなかった。
「そうだよ。それで一番おもしろいやつ教えてくれたじゃん」
あの機械、なんだっけ? と思い出せないサヤカに代わって「アンティキティラ島の機械」とすばるが答えた。
「何それ」
美月が聞く。
「古代ギリシャ時代の、世界最古のアナログコンピューターって言われてる」
「え、ごめんすでに全然ついてけてないんだけど、ギリシャ時代にコンピューターがあるの? あとコンピューターにもアナログがあるの?」
そーそー、あるんだよ。すばるはろくに答えず、三人並んで腰かけていたブランコの低い柵から立ち上がって、空いていたブランコに乗った。
「私も聞いたんだけど忘れちゃった。たしか惑星の動きを測るんだよね。忘れちゃったけどおもしろかったな」
美月の隣でサヤカがあっけらかんと言った。すばるのブランコの音が夜の公園に響いた。美月とサヤカが並んで横からそれを眺めていた。
サヤカは自然派レストランのアルバイトは三ヶ月前に辞めたけど、すばると付き合っているからこうして会う。すばるのシフト終わりに待ち合わせしたり、もちろんすばるがサヤカの今のアルバイト先に迎えに行ってあげたりしていて、暇な美月がアルバイト終わりにこうして二人の待ち合わせについてきても、二人は文句を言ったりしない。すばるはマイペースだし、サヤカは優しい。
「歯車を回すとね」
青と黄色のブランコをキイキイと言わせながらすばるが言った。
「太陽とか天体の運行が計算できるらしい。かなり正確に。まあコンピューターっていうか、計算機ってことだけど。そんな精度の計算機はその後は千年生まれなかった」
「でももうオーパーツも飽きたんでしょ」
サヤカが口を挟んだ。すばるは頷く。
「うん。だって大体偽物なんだよな。ガセだったり、単なる勘違いだったり。本当にロストテクノロジーって言えるのがアンティキティラ島の機械くらいしかなかった」
「むしろ偽物しかないと思ってたよね」
サヤカが笑う。二人は仲がいいなと美月は思う。仲がいいのはサヤカが優しいからだと思ってたけど、こんなふうにふわっとすばるの話を受け入れるのは、優しいというだけではできない気がする。
「それでさらなる世界の謎を求めてムーを読んでるの?」
美月が聞くとすばるは首を傾げる。
「いやそういうわけじゃないけど。ムーはムーでたまに読みたくなるんだよ」
むーはむーで、の語感のかわいらしさが、あのとんちき雑誌のおどろおどろしい表紙のイメージとかけ離れていて美月はちょっと笑う。規則的な音をキイキイと立てるブランコに自分も乗りたくなって、美月も立ち上がってもう一つあるブランコへ行った。
三人で公園に来るのは久しぶりだった。すばると美月のシフトが終わるタイミングが合って、さらにサヤカが来れるタイミングがなかなかなかった。もちろん二人を待って合流したりしてもいいのだけど、もともと二人の時間なのだからそこまでするのも申し訳ないし。
漕ぐとキイキイという音が感触になって手に伝わる。すばるとサヤカが二人で話をしている。
「ギリシャ時代は天動説じゃなかったのかな?」
隣に向かって美月が聞くと、すばるはブランコで前後に揺れたまま、どーだろ、と言った。サヤカが立ち上がり、私も乗りたい、とすばるに降りるよう促す。すばるは立ち上がりたくないようでしばらくゆらゆらしていたが、二人乗りを試みて子供みたいにぶらさがってくるサヤカにしぶしぶ席を譲った。
「確か、製作者が天動説だったか地動説だったかは、その機械からじゃわからないんだ。でも天動説だったとしても、惑星の運行を当時の研究者はかなり知ってたらしいよ」
二人に向かい合うように正面の柵に腰かけて、すばるが言った。ブランコの周りの柵は膝くらいの高さで、ブランコ本体と同じく青と黄色に塗り分けられところどころが剥げていた。すばるの後ろには砂場と鉄棒が見えた。
「ギリシャ時代はすごいね。日本なんてちょっと前まで、ハレー彗星で空気がなくなるって迷信で騒いでたのに」
「ねえ、それって、ドラえもんの話になかったっけ?」
美月の言葉にサヤカが食いついた。
「あったよね?」
美月もパッと目を光らせて、隣のブランコからサヤカを見た。
「自転車のチューブに空気溜めておく、みたいな話」
「そうそう。それでチューブが買い占められちゃったんじゃなかったっけ」
二人で目を合わせたいのに、ブランコがほんの少しズレて揺れるからうまく合わない。揺れてすれ違いながら、二人は笑った。
「わ~、今完全にドラえもんの絵柄で思い浮かんだ。細かい話覚えてないのに」
サヤカの楽しそうな声が響く。前ですばるがサヤカを見ている。二人は仲がいいと、美月はそれを見てまた思う。見ていてわかる。すばるがサヤカを見るときの、サヤカがすばるを見るときの視線は他とは違う。特別な線。太くて頑丈って感じじゃなくて、途切れそうに細いのに、たまにすごくきれいに光る、特別な一本の線。
「タイムマシンで行くなら、ギリシャ時代行ってみたいね」
サヤカの言葉にすばるが笑った。
「海外旅行行くなら、みたいなノリ」
「いいじゃん。どっちにしろ行ける予定ないし」
「でも、そんないい時代じゃないと思うよ」
旅行を億劫がるような言い方ですばるは言った。
「一部の知識人以外は、迷信とか伝説だけで生きてた時代だよ」
「でもすばるくん、そういう迷信とか伝説とかが好きなんでしょ」
ブランコを漕いでサヤカが言う。すばるはちょっと首を傾げたけど、まあそうかも、そうだね、とあっさり認めた。旅行くらいで見に行きたい気はする。とも付け足して。
「ムー読んでて楽しいのはさ」
ブランコに揺られる二人にすばるが話を続けた。
「常識っていうか、前提条件が全然違うところ。他だったらまずありえない話を前提に話が進んでたりして。あと、みなさんもご存じの通り~、みたいな語られ方でとんでもない話が登場したり」
すばるがムー側にいるのか常識側にいるのか、よくわからないなと美月は思う。
「結局すばるは、ムーに書いてあること信じてるの?」
んー、信じるっていうか。すばるは考える顔をする。考えたままひとりごとのように、
「千年後には、今俺らが信じてることはほぼ全部迷信だよ」
と言った。
千年後にも生きてるかなあ。サヤカが言う。え、サヤカが? なわけないでしょ。人類が千年後も生きてるかなって話。あはは、そうだね。
「千年ならまだ大丈夫でしょ」
サヤカの発言にひとしきり三人で笑ってから、すばるが言った。月刊ムーを読んでいる人にそう言われるのは、なんだか妙な説得力があった。月刊ムーで増す説得力って何?
千年後には今信じてること全部迷信。とすばるの言った言葉は、よりどころが何もないのになんだか安心してしまう言葉だと美月は思った。
大きくブランコを漕いでみると、足が届くはずないのに、向かいのすばるを蹴ってしまいそうだった。隣のサヤカと揺れる周期が交互になって、それがだんだんぴたりと合って、またばらけた。
「私は最近教えてくれた話が好きだったよ」
サヤカが二人に向けて言う。なになに? と美月が促す。
「ファフロッキーズ」
すばるがサヤカの代わり言った。
「日本語だと怪雨、とも言う。その場に無いはずのものが空から無数に降る現象のこと。魚とか蛙とか。それも一つの種類だけが降ることが多い。世界中にそういう記録があって、古代の日本にもあるよ」
「へえー。蛙はちょっと困るかも」
「昔の話だけじゃなくて確か八十年代のアメリカとか、もっと最近にもそういう記録がある。調査はされたけど推測の結論しか出てないから、原因不明とも言えるな。ちなみにオーパーツって名前と同じ人が命名したらしいよ」
「私ねえ、小さいころ、空のこと怖いって思ってたことがあったんだよね」
サヤカがすばるの話に続いて口をひらいた。
「空?」
「うん。だって、こんなに広くて端が見えない空間なんて、普通に考えたら怖くない? 何が出てきてもおかしくなさそう」
「大丈夫だよ。魚とか蛙が降ってきても、たぶんそんなに怖くないよ」
フォローするつもりで美月は言ったが、サヤカは首を振った。
「物理的にじゃなくて、気味悪い感じなんだよ。『広い大空』って素晴らしいものみたいに言われてるけどさ、本当はもっと得体の知れないものなんじゃないかって」
広い大空、をサヤカがそんなふうに言うことが美月には意外だった。空のことを悪く言うなんて考えたことがなくて、それを優しいサヤカが言うことに驚いていた。
サヤカは優しいけど、優しいからといって空のことを怖いって思うこともあって、それはすばるの話を否定も迎合もしないで受け入れられるのが、ただ優しいっていうこととは違うようなことに思えた。
「すばるくん、どいて~」
ブランコを大きく漕ぎだしたサヤカが声をあげた。
「美月ちゃん、靴飛ばししよ」
いつの間にかサヤカは靴のサイドのファスナーを下ろし、つま先で靴をぷらぷらさせている。やるやる、と美月も黒いコンバースをかかとだけ脱いで、再びブランコを漕ぎ始めた。
「サヤカ、ブーツじゃん。やめろよ」
すばるがちょっと首をすくめて、身の危険を感じたような声を出す。だからどいてってば。サヤカは笑う。
靴飛ばしのコツを思い返す。上の方に飛びすぎると距離が出ない。でも高く、弧を描くように飛ばさないと遠くまで飛ばない。まずはブランコを精一杯高く大きく漕ぐ。
ブランコが落ちる直前、体がふわっと止まる瞬間に景色がみんな下の方に見えた。
大勢で靴飛ばしをして、空から靴が降るのを美月は想像した。空から雨や雪しか降らないというのはほんの二千年くらいの私たちの経験則で、私たちは科学的根拠に基づいた迷信を百年くらい信じているだけなので、本当は空に何が含まれていてもおかしくないのかもしれない。
久しぶりに本気でブランコを漕いだらちょっと足がすくんで、思わず下ばかり見てしまった。見上げれば降るかもしれない。魚でも蛙でも靴でも。
見上げれば降るかもしれない 芳岡 海 @miyamakanan
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