媚薬
@misaki21
第1話 媚薬
「この合成タンパクによるγエンドルフィンGTが視床下部を刺激することにより、感覚神経に一時的な麻痺を引き起こし、幻視、一種の幻覚を被験者に見せ――」
「もう結構だ!」
スライドを背に朗々と語る神経学者を、少尉の野太い怒声が射抜き、同時に落とされていた照明が復活した。驚きの余りあんぐりと口を開けたままの神経学者を指差し、続いて長細いテーブルに居並ぶ研究員を一瞥(いちべつ)し、少尉は勲章で彩られた胸板を半周させる。
「報告を聞いた時はまさかと思ったが……仮にも君らは科学者だろうが? 君らが何を志そうと構わんが、結果の出ない研究に予算を割くほど軍は酔狂ではない」
「お言葉ですが少尉。結果は先程ご説明したように……」
神経学者はセルロイドの眼鏡のずれを直し、先刻まで複雑な化学公式スライドが写っていた白い壁をなでた。
「結果? はん! 確かにな。君らの作った薬を頭上から散布すれば、しぶといゲリラどもはすぐさま撤退するだろうよ。我が軍の最新兵器がホレ薬だと知ったら、馬鹿馬鹿しくて戦意も失せるというものだ。大した結果じゃあないか。まったく、君らが我が軍を笑い者にするためにどれだけの予算をつぎ込んだか、知らない訳ではなかろう? ともかく、上層部の決定通り、この研究は即時中止、君らは解散だ。精々再就職にでも励んでくれたまえ」
その神経学者の研究アプローチは、最小限の被害で最大の戦果を上げるための兵器開発という軍部の意向に、大筋では沿ったものだった。本来せん滅すべき敵の精神をこちらで操作し、そのまま人的資源として転用できるのであれば、それは理想的で効率的な兵器と呼べるだろう。
が、無数の臨床試験を終え、既に実用段階直前にあったその研究が唐突に打ち切られたのは、その新薬のコードネームが軍人を苛立たせるものだった、という実に些末(さまつ)な理由であった。
――ホレ薬。
神経学者が新薬に与えたコードネームは、その効果を一言で表していた。
常温で液体形状のその薬は、摂取した人間の脳に複雑な反応を起こさせるのだが、公式にすると至極複雑で常人にはとても理解し難いその反応過程でさえ、コードネームを持ち出せば文字通り一言で済んだ。
アルミドアを蹴破って研究室から立ち去った少尉に披露される予定だったスライドの続きには、このホレ薬の高々度ジェット機からの広域散布によるシミュレーションが含まれていた。効果範囲である散布地点から半径15Km以内にいる人間全てが愛で愛を語るそこは、既に戦場ではなかった。
スライドにはご丁寧に、ホレ薬の効果範囲の内側と外側で双方軍が結ぶべき停戦・平和協定の素案まで用意されていた。
研究中止によりデータ類の破棄を命じられた神経学者が、サンプルの一つを密かに持ち出し知人の科学者に宛てたのは、日の目を見ることのなかったスライドが事実を語っていたからに他ならない。ホレ薬は研究を終え、いつでも運用可能な完成品になっていたのだった。
かくして、一介の神経学者の半生と情熱と願いを注ぎ込んだ人類最高の兵器たるホレ薬は、埃っぽい貨物輸送機で大海原を渡って行ったのだった。
数日後、少尉の言葉よろしく新しい食いぶちを探していた神経学者は、そのニュースを見て飛び上がりそうになった。
ニュースキャスターが怒鳴るように報じていたのは、ホレ薬を積んだ貨物機の墜落事故だった。どこまでも悲運な研究成果は、戦闘機のニアミスにより海の藻くずと化してしまったのだった。
真っ白になった頭で神経学者は、新たにサンプルを作り出せるかどうか、自らの半生分の記憶を必死に掘り起こし、どうにも無理であることを諦め半分で納得したのと同時に、ふと閃いた。
もしも、ホレ薬の厳重な収納カプセルが貨物機と共に粉砕していたら、海の中にその成分が溶け出していたらどうなるだろうか? と。神経学者は海面が陽光により温められ、海水が上昇気流となって空に向かう様を思い描いた。
もしも、巨大な積乱雲の一部となったホレ薬が季節風に乗り、地球をくるくると回りつつその効果を世界中に振りまいたら?
軍事傘下にありながら人類の未来へと貢献しようと尽力していた神経学者は、至福の満足感に顔を緩ませた。
更に数日後。
まだ明けきらない海岸を散歩していた長老の次男は、漂着物の山からキラキラと光る銀塊を拾い上げた。砂を払って徐々に姿を現す太陽にかざすと、それは西の山で採れる宝石にも負けないほどの美しさを見せた。
永らく恋焦がれていた隣村の娘にその楕円形の銀塊を渡しつつプロポーズする様子を思い浮かべ、彼の胸は一気に高鳴った。
長老の次男は砂浜から持ち帰った銀塊に細工を施そうと、熱し、金槌を振るったが、その余りの頑強さに根負けし、考えた末、奇麗な布で包んで隣村の娘に渡すことにしたのだった。
――おわり
媚薬 @misaki21
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