理想郷

 その場所には既に絶滅した動物たちが、自由に生きていると噂があった。

 パンダ、ライオン、ペンギンやゾウ等々、今では地球上のどこにも存在しない生物達が人類と暮らすユートピアが存在していると。

 人類が地球の覇権を失ってから数百年。

 他の生物から隠れるように地下に潜った人類にとって、それは最後の希望であった。

 そこには、人類が地下に潜る遙か以前に蓄積された科学の知識が残されており、その技術を使い絶滅した種を復活させたと言われていたからだ。

 もう一度、人類が『人間』として太陽の下を大手を振って歩くために、絶対に必要な科学の知識。

 しかしそれを求めて旅立った数多くの科学者が、帰らぬ人となっている。

 そしてまた、ティンという若者がユートピアを目指して旅立とうとしていた。


 洞窟を削って十畳ほどのスペースを確保し、扉をつけたただけの家。

 その中でロウソクの薄暗い明かりの元、ティンと老婆が深刻な話をしていた。

「本当に行くんじゃな?」

「地上時代の道具も既に大半が故障したまま放置されている。これじゃ食料も燃料も以前より手に入らない。このままじゃ村はいずれ消滅してしまう」

「だがのう、おぬし達みたいな優秀な人間が村を出ていき帰ってこなかったから、伝わっていた少ない知識すら失われて、単純な故障すら直せなくなってしまったんじゃないかね」

「最低限の知識がなければ、ユートピアに着いても何が重要か分からないから仕方がないんだ」

 同じものを見ても、知識や経験の差で受け取れる情報量が違うことを、科学者のティンはよく分かっていた。

「大事な知識は全部、記録ではなく記憶として村の人に伝えてあるから大丈夫さ。それに」

 ティンは先程までの険しい顔を崩し、少しはにかんでうれしそうな顔をする

「この間ミァイにプロポーズをしたんだ。今のこの村は子供を安全に育てるには、色々な物が足りなすぎる。子供達の未来のためにもっと環境を良くしないと」

 ティンの顔には希望と自信から来る活力が溢れており、老婆は説得を諦めた。


 

 村と地上への入り口のある分厚い門との中間地点で、ティンの見送りは行われた。

 洞窟の中は、点在するロウソク台の上にロウソクの置いてないものが、半分近くあった。

「必ず地上時代の技術を持ち帰って、この村と君を幸せにしてみせる」

「ええ、待ってるわ。いつまでも」

 涙を流すミァイのほおを指で拭い、強く抱きしめると、ティンは闇の中に消えていった。


 見送りに来た村の者達のほとんどは、ティンの姿が見えなくなると村に帰っていった。

 ティンの後ろ姿が見えなくなりしばらく経った頃、残った老婆は、涙を流してティンのいなくなった闇をいまだ見つめるミァイに、非情な言葉をかける

「ミァイ、他の男と子を産むのじゃ」

「な、何を言っているの、ばばさま。ティンはこの村と私たちの未来のために、命がけで旅立ったのよ」

 悲鳴に近い声で、ミァイは老婆に抗議をする。


「残念じゃが、ユートピアを目指してこの村に帰ってきた者は一人もおらん」

 老婆は目を細めて、地上への入り口を見つめる。

「外の生物に襲われたか、ユートピアなど存在せずに死ぬまで探し続けているか」

 そこまで言って言葉を区切り、老婆の顔のシワの影が更に濃くなる。

「もしくはユートピアの素晴らしさを知り、この村に戻ることを忘れてしまったか」

 老婆の深いため息が、その場の空気をより重くさせた。


「本当の所は分からん。しかし科学者にとって人類の叡智という魅力溢れる誘惑を前に、抗うことなど容易くはないはずじゃからな」

「そんなことないわ、ティンは必ず村のために。いえ、私と未来の私たちの子供のために帰ってくるわ」

 ミァイの顔には強い怒りの色が浮かんできていた。


「この村は旅立つ優秀な若者を無理に引き留めたりはせん。苦しい環境では人類は理想に希望を持ち続けなければ、生きてはいけぬからのう。じゃがな、同時にワシらは現実をも生きねばならん。ワシやおぬしの時代には無理でも、いずれ地上時代の技術を持ち帰る者が現れたら、この村の子孫達がもう一度地上で暮らせる日が来るかもしれんのじゃ」

 

 ミァイの手がわなわなと震えだした。

 それは今にも老婆に掴み掛からんくらいの激しいものであった。

「今ならまだ少なくとも食料や薬も存在する。希望の灯を繫いでいかなければならん」

「バカバカしい、ティンが必ず私の元へ幸せを持ち帰ってくる。絶対によ」

 その言葉に、老婆は寂しそうな顔をミァイに向けてから、村に向かって歩き出した。

「絶対に帰ってくるわ」

 ミァイの叫びは、岩肌の壁に囲まれた暗闇の中に吸い込まれていった。

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鰊のショートストーリー 明日和 鰊 @riosuto32

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