十六話

 夕食の下ごしらえをしてたレオノアさんが私に気付くと言った。


「オリアナ、いつもの薬草をまた採って来てくれるかい?」


「はい、わかりました」


 私は薪の束を台所へ運び終えると、かごと採取用のナイフを持ってすぐに家を出る。


「気を付けるんだよ。向こうの小川近くには熊が出るからね」


 家の前の畑で作業をしてたマヌエルさんが腰を痛そうに叩きながら私に言う。それに気を付けますと返して私は遠くに見える雑木林へ向かった。


 逃げ出したあの日から三年――居場所を失った私はシーレドラスの街を出てからあちこちをさまよってた。きっとトレベラは何も言わず消えた私を捜すだろうから、なるべく目立たない、人気の少ない場所を選んでるうちに、こんなのどかな田舎まで来てしまった。この頃、私は身も心も疲れ果て、飢え死に、あるいは野垂れ死ぬのを覚悟するぐらい弱ってた。そんなところを助けてくれたのがレオノアさんとマヌエルさんの老夫婦だった。二人は私を家まで運び、十分休ませてくれると、寝食を与える代わりに下女として働かないかと提案してくれた。高齢の二人は山野の中にぽつんとあるこの家に昔から住んでるが、年々体力は衰え、力仕事などができなくなってきたという。手伝ってくれる隣人もおらず、若い私が住み込みで働いてくれれば助かるという理由だった。当てもなくさまようことに疲れてた私はありがたくそれを受け入れた。一箇所に長く留まるのは少し怖い気もしたけど、人がまったくいない場所なら大丈夫だろうと思い、久しぶりの平穏な日々を手に入れた。


 二人の世話になってそろそろ一年が経とうとしてる。今は秋。足下の草や木々の葉は茶色や黄色に色あせ始めてる。凍える季節はあっという間にやって来るだろう。冬支度はしっかりやらないと。薬草を採ったらまた薪割りだ――そんなことを考えながらいつも来てる雑木林を目前にした時だった。


「オリアナ」


 不意に呼ばれて私は警戒もせず振り返った。


「随分と捜したぞ……無事だったんだな」


「……!」


 突然現れた人物に、私は息が止まり、全身が固まった。


「……何で……父さん……」


 少し伸びた銀髪に、眉間にしわの寄った険しい顔……記憶にある三年前の父さんの顔より、大分老けたようにも感じる。それとも、初めてまじまじと見て、こんなにしわが刻まれてると知らなかっただけだろうか。


「何でだあ? お前を捜して来たに決まってるだろが」


 父さんの足が一歩こっちに近付き、私は同じように一歩後ずさる。


「せっかく見つけてやったのに、礼や挨拶ぐらいしたらどうだ」


「どう、して……」


「俺はお前の父親だ! そんなの当たり前だろ!」


 大声に私は肩をすくめて目を強く閉じた。


「おい、勝手に目を閉じるな。こっちを見ろ」


 父さんは私の胸ぐらをつかみ、ぐいっと身を引き寄せた。目の前に迫った怒る顔を、私は恐る恐る見つめる。


「俺の命令を無視して、なぜ逃げた」


 いつ拳が飛んで来てもおかしくないような、鋭く、冷たい目が私をとらえる。


「お前のせいでトレベラはもう風前の灯だ。伯爵を殺らなかったから、シーレドラスの勢いは強まる一方だ」


「トレベラは今、どうなってるの……?」


「逃げ出しても気になるか? じゃあ教えてやる。意気地のねえ下っ端のやつらが、トレベラを抜けたいなんてぬかし始めたから、これ以上の人手減少を食い止めるために、お前がよこした情報を売って、その金で引き止めることができた。そこまではよかった。だが後日、売った先の組織はシーレドラスの捜査を受け、大勢が捕まった。……なぜだかわかるか?」


 私がわからず黙ってると、父さんは胸ぐらをつかむ手にさらに力を入れた。


「情報が、ガセだったからだよ。ガセ情報で動いたやつらは、張ってたシーレドラスの網にまんまと絡め取られたってわけだ。別のやつらに売った情報もそうだ。ことごとく裏をかかれ、数十人が捕まった。情報に騙されたと気付いたやつらは、当然俺達トレベラを目の敵にした。自分達を潰そうとしたと思ってな。けどそれは違う。トレベラは取り引きのつもりで情報を売っただけだ。お前がよこした情報を信用してたからな。だが全部嘘だった。おかげでトレベラの周りは敵だらけだ。仲間は襲撃され、おちおち出歩くこともできなくなった。同業者同士で喧嘩する様を、シーレドラスはさぞ喜んで見てるだろうよ。盗みで稼げなくなりゃ、トレベラは消えるしかねえ」


 私が盗んだ情報が、でたらめだった……?


「そ、そんなはずは……情報は、伯爵の机に入ってたわ。ガセなわけが――」


「下手な芝居はいい。……お前が逃げたのは、トレベラを裏切ったからだろ? だからガセ情報をよこした。伯爵にどう言いくるめられたんだ? 抱え切れないほどの金を渡されたか? それとも余ってる別荘をやるとでも言われたか?」


 私利私欲だと決め付ける態度に、私は苛立ちを覚えた。裏切ってしまったことは否めない。でも情報を渡した時点では、そんなつもりは微塵もなかった。言われた通りにしてただけなのに、まさか間違った情報だったなんて……。でも裏切ったのは私だけじゃない。父さんに私を責める資格はないんだから――胸ぐらをつかむ手を振り払って、私は父さんを見据えて言った。


「贅沢がしたいからって、私は仲間を裏切らない。そうしてるのはむしろ父さんのほうでしょ?」


「何……?」


「誰にもばれてないと思ったの? 父さんがシーレドラスに協力してるって、私知ってるんだから!」


 思い切って言うと、父さんは唖然とした顔で見つめてくる。


「……誰に吹き込まれた? 伯爵か?」


「とぼけないでよ。皆のこと考えてるような素振りしながら、裏じゃトレベラを裏切ってシーレドラスからお金貰ってたんでしょ? 私のことも、そのうち切り捨てるつもりで――」


「お前はそこまで馬鹿じゃないはずだ。やっぱり伯爵に丸め込まれたか」


「丸め込まれたのは父さんでしょ! 私を、皆を騙して……トレベラの状況を見て、罪悪感はないの? 父さんのせいでも――」


「黙れ」


 冷酷な眼差しに射ぬかれた私は、それに寒いものを感じて言葉を止めた。


「今のお前に何を言っても労力の無駄になりそうだ。だがお前が伯爵に騙されたことだけはわかった。トレベラの決まりじゃ、裏切り者は死ぬしかないが、娘として、そういう事情を汲んだ上で、助かる道を作ってやる」


 父さんは冷めた目で見下ろしながら言った。


「もう一度、伯爵を消しに行け。それが果たせれば、お前を再びトレベラに迎え入れてやる」


 私は心の中で呆れた。裏切っておきながら何を言ってるのか。今さら私が言う通りにすると思ってるなら、父さんはひどい考え違いをしてる。


「どうだ? お前ならやれるだろ」


「……もう、言うことなんて聞かない。トレベラにも戻らない。戻ったって……」


 伯爵を手にかけたら、いくら居場所があっても、後悔が私を押し潰してくる。


「じゃあ、死を選ぶのか?」


 聞いた父さんを私はねめつけた。


「言うことは聞かないって言ったでしょ。父さんに私は、殺させない」


 そう言うと父さんは口角を上げ、鼻で笑った。


「ふんっ、お前が俺に逆らうとはな。遅れて来た反抗期か? しょうがねえ……救いようのない裏切り者は、死んで詫びてもらう」


 腰から短剣を引き抜いた父さんは、何の躊躇もなく娘の私に刃を繰り出してきた。その迷いのない動作に私は慌てて短剣を避けた。その時に持ってたかごを落とし、中にあった採取用のナイフが地面に転がった。私は急いでそれを拾い上げる。


「おら! もっと逆らってみろ!」


 短剣を振り回して迫って来る父さんに、こんな小さなナイフで対抗できるとは正直思えない。だけどどうにかやるしかない。やらなきゃ殺されるんだから――私はナイフを突き出し、攻撃を牽制しながら隙をうかがった。


「私を殺す時まで嘘をつき続けるの? 保身のためなら、娘すら手にかけるの?」


「お前は娘じゃない。裏切り者だ」


「自分を棚に上げて、よくも言えるわね……!」


 わずかな隙に私はナイフを突き出した。だが動きを読んでたように父さんはひらりとかわした。


「俺がいつ、誰を裏切ったって言うんだ? お前の頭は重症だな」


 素早く距離を詰められて、私はすぐに後ずさったが、振られた短剣の切っ先が腕に届き、袖とその下の肌を浅くかすっていった。避けられると思ったのに――


「こんな単純な攻撃も避けられないとはな……せっかく俺が鍛えてやったのに、台無しだ」


 残念そうに言いながらも、その父さんの顔は薄笑いを浮かべてる――ナイフで牽制しながら何となく感じてはいた。自分の動きが鈍くなってると。伯爵の元を離れて三年、さまよってるその間、剣や体術の鍛練なんて一度もしなかった。ここで働き始めてからも、頭にそんなことは浮かばなかった。こんな田舎で見つかるわけないという油断……あがいても、私は父さんの手で、ひっそりと殺されるかもしれない。


「どうした? 怖くなったか。今ならまだ助けてやるぞ。伯爵を消しに行くと約束すればな」


 死にたくなければ言うことを聞くべきだ。だけど私にとって伯爵を殺すことは、自分の命を失う以上に辛く、耐えられないこと――


「……伯爵は、殺さない。たとえその通りにしたとしても、これは父さんの罠……行った途端に私を殺させるんでしょ? わかってるんだから」


「罠か……お前はそう思い込んでるのか……なら、覚悟はあるんだろうな」


 短剣を構えた父さんに、私もナイフを構えて対峙する。


「やるわよ……やってやる!」


 父さんに対する初めての反抗――これまで受けた苦しい思いをぶつけるつもりで私は立ち向かった。ナイフを振って一撃を与えようとするが、父さんの身のこなしは速い。かすりもせずナイフは宙を切り続ける。三年前の私なら、こんなに空振りしてなかったはず……これが今の力の差……。


「ひどい体たらくだな。こんなんじゃお前はもう使えない」


 一歩踏み込んだ父さんは勢いよく短剣を振って来た。それを避けようとしたが、少し動きが遅れ、握ってたナイフが甲高い音を鳴らして空中へ弾かれてしまった。私の、唯一の武器が――


「価値のなくなったやつは用なしだ」


 短剣が顔目がけて振り下ろされる――その右腕を私は咄嗟につかみに行った。攻撃を止めてそのまま組み伏せようと思ったが、父さんは思い通りにはさせてくれない。


「うぐっ……!」


 距離を詰めると腹に強烈な膝蹴りを食らって、私は呼吸ができないままその場に崩れ落ちた。


「用がないと言っただろ。大人しく殺されろ」


 顔を上げると、真上から見下ろす冷めた表情の父さんが短剣を振り上げてた。やっぱり、あがくだけ無駄だったか――私は両目を閉じてその瞬間を覚悟した。


「なっ――」


 父さんの驚く声が聞こえ、それと同時に気配が動くのも感じて、私は恐る恐る目を開けた。すると目の前にいたはずの父さんの姿は、私に背を向けて立つ見知らぬ男性の姿に変わってた。これは、一体――


「ぎりぎり間に合ったな」


 そう言って後ろに振り返った男性の顔を見て、私は自分の目を疑った。そんな、馬鹿な……もう二度と見ることも、関わることもなかったはずなのに……何で、伯爵がここに……?


「オリアナ、一人で立てるか?」


「は、はい……」


 警護人だった三年前とまるで変わらない雰囲気で聞かれて、私は疑問も忘れて普通に返事をしてた。


「私から離れていろ」


 膝蹴りの痛みをこらえて私は静かに伯爵の背から遠ざかる。見れば伯爵の手には立派な剣が握られてる。あれで私を助けてくれたのか……でも確か伯爵は、剣の扱いには慣れてなかったはずじゃ……。


「追い付かれたか……けど、まさか大物のご本人が直々に来るとはな」


 伯爵と対峙する父さんが余裕を見せるためか、笑い混じりに言った。


「私がお前を追っていたこと、さすがに気付いていたか」


「なめてもらっちゃ困る。この程度のことに気付けなきゃ盗賊なんて続かねえよ。一度はまいたつもりだったが……こっちもあんたのこと、なめてたようだ」


「捜査で悪事の証拠は揃い、お前は指名手配されている。もはや逃げ場はないぞ」


 ……これは、どういうことなの? 父さんは伯爵に協力してたんじゃないの?


「言われなくたって知ってるよ。けど伯爵、あんたの目的は俺じゃなく、オリアナだろ? でなきゃたった一人でのこのこ来るわけがない」


「ああ。お前を追えば、必ずオリアナにたどり着くと見ていた。ついでにお前も捕らえるつもりでな」


「ふっ、俺はついでか。心底なめられたもんだ……それ、後悔させてやるよ!」


 短剣を構えた父さんが攻撃を仕掛けた。伯爵も剣を向けて迎え撃つ。


「あんたを殺せばシーレドラスは弱体化して、トレベラもまた勢いを取り戻せる!」


「私一人が死んだところで、シーレドラスは弱体化するほどやわではなくなった。お前達が手をこまねいている間に、こちらの基盤は盤石なものになっている」


「本当のことか強がりか……あんたが死ねばはっきりする!」


 父さんの攻撃を伯爵は剣で弾く――二人の武器は重さと長さが違う。伯爵の剣は長さがある分、重さで機敏に振れない。対する父さんの短剣は振りやすくて軽い。しかも長年愛用してる武器だ。扱い方は身体に染み込んでる。武器は有利でも経験の差で伯爵のほうが結局不利になる――そんな予想通り、伯爵は剣で攻撃を防ぐだけの防戦を強いられ始めてた。反撃しようとしても父さんはその隙を与えまいと細かく攻撃を仕掛ける。それに翻弄されて伯爵は思いっきり剣を振れないでいる。


「ははっ、いくら得物がよくても、使うやつがヘボじゃなあ……!」


 伯爵が剣で突こうとわずかに動きが止まったところを父さんは見逃さなかった。素早く近付くと、伯爵の肩に短剣の刃を走らせた。


「……っ!」


 痛みに伯爵の顔が歪む。服の上から切られた肩には真っ赤な血が見える――駄目だ。疲れ始めてる上に傷まで負ったら、伯爵はますます動けなくなってしまう。そうなればおもちゃのようにもてあそばれ、殺されるだけ……そんなこと、絶対にさせない。何があろうとも!


「次はどこを切られたい? 望みがあれば聞いてやるぞ。……おい、命の恩人置いて逃げる気か? こいつをやったらすぐにお前も片付けてやるから待ってろ」


 地面を這いつくばって動く私に気付いて父さんが面倒そうに言った。この姿が逃げてるように見えたらしい。まさか。私の代わりに戦ってる伯爵を見捨てるわけがない。伯爵は、私が助ける――地面の枯れ草の間から見つけた採取用のナイフを握り締め、私は腹を押さえながらゆっくり立ち上がる。膝蹴りの痛みでまだ走れそうにないけど、父さんの意識が伯爵に向き続けてくれれば、これで私が――


「賊などに、屈するものか……!」


 伯爵は懸命に攻撃を繰り返すが、傷のせいか明らかに動きに精彩がない。


「あんたはもう終わりだよ。諦めな!」


 短剣で攻撃を弾くと、父さんは伯爵につかみかかり、そのまま地面に押し倒した。


「さあ、おしまいだ。あんたが死ぬ瞬間を、ずっと待ってた……!」


 伯爵に馬乗りの姿勢で、父さんは短剣を掲げるように振り上げて心臓へ狙いを定める。そして――


「父さんのほうが、おしまいよ」


 背後から忍び寄った私のナイフは、無防備な父さんの首に深々と突き刺さった。


「……は……」


 何が起きたのかというように、父さんの顔がこっちへ振り向く。瞠目した黄色の瞳は、一撃を与えた私を確認して固まった。


「オ……リ……ア……」


 名前を呼ばれて、私は思わずナイフから手を離した。娘を用なしだと言って殺そうとした人……だけど、たった一人の父親だ。決して好きになれなかったけど、唯一血のつながった肉親なんだ。そんな人を私は、手にかけてしまった――


「父さ――」


 呼ぶのと同時に父さんの身体は傾くと、地面にバタリと倒れた。半分開いたままの目はどこか遠くを見つめ続け、そこからもう動くことはなかった。


「……ありがとう、オリアナ」


 身体を起こし、立ち上がって剣を収めた伯爵が微笑みを見せて言った。でも私は父さんを殺したことでまだ放心状態でいた。すると伯爵はおもむろに私の手を取り、握ってきた。


「……なぜ震えている? もう恐怖は去った」


「私は、殺してしまった……」


「間違ったことじゃない。そうしなければ私達が殺されていたんだ」


「でも、私の父親なのに……」


「彼はオリアナの父親なんかじゃない」


「確かに、辛いことばかりさせられたけど、でも――」


「そうじゃない。ロレンゾ・ブラガは、本当に君の父親ではないんだ」


 放心したまま、私は伯爵に目を向けて聞いた。


「……どういう、こと?」


「トレベラはかつて人身売買をしていて、各地から幼い子供をさらっては売り買いしていた時期があったんだ。そして君は、その子供の中の一人なんだよ」


 私が、さらわれて来た子供……?


「嘘……そんなわけ……」


「シーレドラスへ行けば証拠がある。以前トレベラの拠点の一つへ捜査に入った際、溜め込まれていた資料の中に人身売買に関するものがあった。そこには売買された子供の名と年齢が名簿として残され、オリアナ、君らしき名も書かれていたんだ」


 物心ついた時には、もう側に父さんはいた。でも母さんの存在はどこにもなかった。それは私がさらわれて来た子供だったから……。そう思えば父さんが私に対して厳しく接した理由もわかる気がする。盗賊の一人として、トレベラのために働く駒にしようと剣術や体術を教えたんだ。自分が父親だと信じ込ませながら……。被害者とは知らず、私はずっとその犯人達を大事な仲間だと思ってきたのに……居場所は、あそこなんだと思ってたのに……。


「父親と呼ぶ必要はもうない。君は盗賊の子じゃないんだ」


 そうなのかもしれない。だけど――


「だけど……私はあなたを一度、殺そうとしてしまった。トレベラのために……」


「だが殺さず、助けてくれた」


「いいえ、逃げ出しただけよ。あなたに捕まるのも、この手で殺すのも怖かったから……知ってたんでしょ? 私が盗賊で、あなたの命を狙って近付いたんだと」


「ああ……大分前から知っていた」


「どうやって知ったの? やっぱり、この人から?」


 私は地面で動かない父さんを見下ろす。父親だと私を騙し、盗賊仲間も売った裏切り者――


「違う。知ったのはカミロからだ」


「……え?」


 カミロは裏社会の同業者……まさか、カミロまで私を裏切ったの?


「で、でも、父さんはシーレドラスの潜入捜査官だって……」


 これに伯爵は表情を緩めて言う。


「すまない。それはすべて私達の作り話だ」


 わけがわからなくて言葉も出ない私に伯爵は続ける。


「ブラガは今も昔も盗賊で、シーレドラスに協力したことは一度もない」


 父さんは、裏切り者じゃなかった? さっきそれを言って否定してたのは、演技でも何でもなかったの……?


「私はそう聞いたの。カミロから……じゃあ彼は、何でそんな嘘を私に……」


「私達の発案なんだ。君に嘘の情報を教えたのは」


 首をかしげて私は聞く。


「さっきから言ってる私達って……一体誰のことを……?」


「私とソウザ、そしてカミロだ。……さっぱりわからないだろうね。初めから説明しよう。きっかけは夜会での襲撃事件だ。覚えているかい?」


 私は頷く。給仕になってもぐり込んだローボが伯爵を消そうとしたあの時のこと。


「その時の様子をソウザとカミロに聞かれて伝えた際に、カミロが一つ怪しんだ行動があった。賊が君に何かをささやいた行動……もしかしたらオリアナは賊とつながっていたのではないかとね」


 これは前に聞いた……そう、カミロが私の家に突然来た時に、同じことを言ってた。囁きから疑いを持ったと。


「私もソウザも考え過ぎだと思ったが、念には念をと言うカミロは君のことを調べ始め、ますます疑いを深めた。しかし盗賊と決定付けるものがなかった。そこでカミロは直接君に聞くことにしたんだ。家へ行き、一対一で、こちらが正体を把握している体で聞き、それを認めるかどうか……もし認めた場合は、カミロは自分を裏社会の人間と偽ることになっていた。これはソウザの案で、君の警戒を解き、仲間意識を持たせることで、こちらが出す偽の情報を信じさせようと思った。それがトレベラに伝わることで、内部を混乱させられるかもしれないと考えてね」


 偽の情報……父さんが潜入捜査官と言われて私は確かに混乱させられた。それともう一つ、執務室から盗んだ他組織の情報。あれのせいでトレベラは同業者から怒りを買うことに――そこで私はハッと気付いた。


「……執務室の、机の鍵……あれは、私に盗み見させるために、わざとかけずに……?」


「ああ。それもソウザの案だ。私は眠り薬で眠ったふりをして君の行動をこっそり見ていた」


 あの時は紅茶に混ぜた薬を飲んで伯爵は眠ってくれたものだと……まさか見られてたなんて。


「どうして薬が入ってると気付いたの? 入れるところは見られてなかったはずなのに」


「味だよ。一口含んで舌にいつもとは違う苦味を感じたんだ。だから飲むふりだけをした」


「でもどんな薬かまではわからなかったはず。それなのにどうして眠ったふりを?」


「カミロは君の家を密かに監視していてね。訪れた仲間が眠り薬と言って手渡すのを見ていたんだ。そこから近々、私に眠り薬を使うだろうと予想はできていた」


 私は呆然とした。何もかもお見通しだった……そうわかると確かに引っ掛かることもあった。カミロは何だかんだ助言しながらも、私が伯爵を消すのを引き延ばそうとしてた節があった。父さんのことを知った後は、もう命令に意味はないと館から去らせようともした。同業者を装いながらカミロは必死に伯爵を守ろうとしてたんだろう。でも、一つ疑問がある。


「全部わかっていながら、じゃあ何で私と二人きりのおしゃべりを続けたの? その時にもし私があなたを消そうとしたらどうするつもりだったの?」


 私が伯爵の命を狙ってると知りながら二人きりにさせるなんて普通は考えられない。守ろうとしてるソウザ隊長とカミロが何も言わずに了承するとも思えない。それなのになぜ続けたのか……。


 これに伯爵は微笑んで言った。


「オリアナは私に刃を向けないと思ったからだよ」


 あまりに意外な理由に、私は聞き返した。


「思ったからって……そんな、根拠のないことだけで?」


「もちろん、ソウザの案で君を騙しているから、普段と変わらない振る舞いを続ける必要もあった。だがそれでも私はオリアナが刃を向けないと信じていた」


 胸の奥がチクリと痛んだ。そんなことを言われると、この手で伯爵を刺してしまった光景が鮮明によみがえってくる――


「だけど私はあなたを……あの時も当然知ってたんでしょ? どうして私の招待を受けたの? 館を離れて、私の家に来るなんて……身の危険を感じないわけがないのに」


「君に誘われたと言ったら、ソウザとカミロに随分と強く止められたよ。殺されてしまうとね。けれど私は意地でも行くつもりだった。それを二人は隠れて付いて行くことを条件に了承してくれた。だが私はオリアナと二人で話したかったんだ。危険など露ほども感じていなかったよ。二人には誤った時間を教え、その目が離れた隙に、私は一人で密かに君の元へ向かった……結果、あんなことになってしまったけどね」


 苦笑した伯爵に私はさらに聞く。


「命を懸けてまで、私と一体何を話したかったの……?」


 伯爵は穏やかな笑みを見せて言った。


「君を助けたかったんだ。そして、助けを求めてほしかった」


 私の汚れた両手を取ると、伯爵はギュッと握った。


「オリアナは本来、盗賊に身を落とすような女性ではなかったはずだ。器用で聡明で、優しさを持ち合わせ、未来は明るいはずだった。だがそれをトレベラによって狂わされたんだ。盗みや殺しの技術を教えられ、盗賊として生きることを余儀なくされた」


「私にとっては、それが当たり前だった……」


「殺しを命令されることが当たり前なわけがない。それとも君は、そういうことを望んでいた? 人の命を奪うことにやりがいを感じていた?」


「やりがいなんて……ただ、父さんに言われたから、それに従って……」


「そこに君の意思はなかった。それは本当のオリアナの姿じゃないはずだ。君が君になれるように、私は助けたいんだ。苦しく辛いのなら、そう私に言ってほしい」


 握る伯爵の手に力がこもる。


「助けたいから、君を捜してここに来たんだ」


 喉の奥が震えて、妙な嗚咽が漏れそうだった。それをこらえて私は聞く。


「どうして……そこまで、私のことを……」


 伯爵は笑顔を浮かべ、淀みなく、はっきりと言った。


「オリアナを愛しているからだ」


 言われた瞬間、私は伯爵が握る手を振り払った。


「そんなわけない。私は盗賊で、犯罪者で、あなたを……この手で殺そうとした。恨まれても、愛されるはずない!」


「自分の心は自分がよく知っている。私はオリアナ、君を愛しているんだ。三年前と何も変わらずに……こうして君を捜すことを、ソウザとカミロは反対していたが、それでも私は捜さずにいられなかった。君に会い、助けたかったから」


「私はあなたを助けずに逃げた。そんな人間を愛せるの?」


「それは違う。君は私を助けてくれた。医師を呼んでね。その後に逃げたと言うのなら、私はそれでよかったと思っている」


 わからず視線で聞いた私を伯爵は見つめる。


「逃げなければその身は拘束され、シーレドラスへ連行されていただろう。犯罪者として。けれど私はそれを望んでいなかった。だからあの時、君に逃げろと言ったんだ。逃げてくれさえすれば、後でいくらでも助けることができるから」


 苦しみながらも伯爵は確かにそう言ってた。傷付けた私を逃がそうと――


「でも、私があなたを殺そうとしたことは事実。だからナイフで――」


「そう言うが、オリアナ、君は本当に私を仕留めるつもりだったのか?」


「え……?」


「君の腕なら急所を一突きすることもできたはずだ。しかしそうしなかった。その上刺し具合も浅かった。おかげで私の命に別状はなかったわけだが……あの時、君に刺されながらも、私は殺意というものを感じられなかったんだ。その証拠に、君は直後、私に謝った。馬鹿なことをしたとね。過ちに気付き、助けてくれた……なぜそうしてくれたんだ?」


 私は黙った。そんな私の代わりに伯爵は言う。


「君は、自分の気持ちに従ったんだ。自分を、裏切れなかったんじゃないか?」


 伯爵の優しくも鋭い視線が私に答えを求めてくる。


「教えてくれ。オリアナの思いを」


「……一瞬でもあなたを殺そうとした私に、こんなことを言う権利はないわ」


「権利など、私がいくらでも認める」


 伯爵は握った手を引くと、私を腕の中に収めた。


「今も変わらず愛していると、どうか言ってくれ……!」


 息のかかる距離で切なげに笑う伯爵の表情に、私は自然と涙を流してた――本当にわからない。盗賊であり、命を狙い、ナイフで刺した女を、伯爵は三年をかけて捜し、助けようとしてる。そんな女をまだ愛してるなんて、正直どういう思考をしてるのかと思ってしまう。だけどそれ以上に私の胸は喜びで満たされ、苦しいほどにいっぱいだった。忘れようとしてた思いが伯爵に火を付けられたように、熱く、抑え切れないぐらいに膨らんでいく。私は伯爵を、こんなに愛し、求めてたんだと思い知らされた。ここでまた逃げたら……いや、そんなことを想像しただけで全身が氷漬けにされたように凍えてくる。もう私はこの人の側を離れちゃいけない。離れた途端に後悔の津波に襲われるのが目に見える。それは、やっと自分自身を、誰にも支配されない意思を手に入れた証なんだ。私は、泣けるほどにこの人の愛が嬉しい――


「もう、二度と傷付けない……愛するあなたを守る。私は、警護人だから」


 そう言うと伯爵は私の涙を指先で拭い、笑った。


「オリアナが守ってくれれば、こんなに心強いことはない。公私ともに、私の側にいてくれ。ずっと、ずっと……」


 伯爵に強く抱き締められて、私は胸の温もりに頬を寄せる。


「そして、時間を作ったら、君の本当のご両親を捜そう。誘拐された我が子が生きていると知れば、きっと大喜びするに違いない。それが、君の新たな道につながるはずだ。一緒に歩いて、見つけよう」


「ありがとう……助けてくれて……愛してくれて……」


 抱き締める手が私の背中をゆっくり撫でてくれる――もうどこにもないと思ってた。諦めるしかないと思ってた。このまま孤独に逃げ回るだけだと思ってた。でも伯爵は自分の気持ちを諦めず、私を見つけてくれた。居場所はここだと……。そんな愛に私は応えなきゃいけない。指示や命令はもうない。自分の頭で、心で決めるんだ。伯爵のためにできることを。この人は、私の居場所であり、大事な光……その輝きを曇らせはしない。見失ってはいけない道しるべだから。私はそれに寄り添い、守り続けて行きたい。それが私の、初めて示せる愛だと思うから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

私は裏切りたい 柏木椎菜 @shiina_kswg

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ