十五話

 私の仕事は終わった。これでいい。命令通りに果たした――そう満足して、達成感を覚えてもいいはずなのに、胸の中は凍えるような冷たさに震えが止まらなかった。それどころか、伯爵の顔色が次第に青白く変わっていくのを見てると、また別の感情が湧き上がって来た。本当にこれでよかったのだろうか。好きな人を殺して……失って……仲間と自分のためと思ったけど、これが本当に自分のためだと言えるのか……。


「……私は……」


 ナイフを握る手がひどく震えてた。刺した時の感触が残ってることに嫌悪を感じる。こんな気持ちになるなんて……私は伯爵を刺したのに、まるで自分を突き刺したような痛みを感じてる。苦しい、痛い、辛い……そして、伯爵を失うことが、恐ろしい。


「いや……いや……!」


 感情に押されて私はナイフを投げ捨てると、倒れた伯爵に駆け寄った。なぜ刺してしまったの? なぜ殺そうと決意したの? 自分の心まで刺し殺すとわかってたら、こんな馬鹿なことはしなかったのに――猛烈な後悔は私に我を忘れさせた。


「ご主人様! しっかりしてください! 今お助けします」


 血が流れる傷口を手で押さえ、止血を試みる。でもこれだけじゃ助けることなんてできない。


「オリ、アナ……」


 弱々しい声が私を呼んだ。見ると青白い顔の伯爵は、今にも閉じてしまいそうな目で私を見てた。


「ごめんなさい、ご主人様……私が、馬鹿なことを……」


「いい、から……逃げろ……」


「え? な、なぜ……」


「逃げ、るんだ……」


「ご主人様を置いて行けま――」


 その時だった。外で物音がしたと思うと、玄関の扉が勢いよく開けられた。


「ご主人様! ここにおられ……ご、ご主人様!」


 現れたのはソウザ隊長とカミロだった。倒れた伯爵に気付くと血相を変えて走って来る――どうして二人が、ここに?


「オリアナ、ご主人様から離れろ!」


 そう怒鳴ったソウザ隊長は止血する私を力任せに押し退けた。


「乱暴、は……やめろ……」


 伯爵の小さな声はソウザ隊長には届かない。


「この傷は彼女にやられたのですね。……カミロ、応急手当だ。使える物を探せ」


「オリアナはどうする。捕まえないと――」


「今はご主人様をお助けするほうが先だ。早く探せ」


 言われたカミロは私の部屋にあるものを物色し始める。そんな光景を私は呆然と眺めるしかなかった。


「オリアナ、では、ない……」


 ソウザ隊長に傷口の様子を見られながら伯爵は言った。


「では誰にやられたと? 突然ここに押し入って来た賊とでも言うのですか?」


「そう、だ」


 これにソウザ隊長は呆れたように首を振る。


「ならばもう一つお教えください。なぜ我々に嘘の時間をお告げになったのですか? 彼女と会うのは深夜一時と仰ったはずです。それまでは私室で休んでいると。我々はそのお言葉を信じて待っていた。ですが現在の時刻は十一時過ぎ……仰った時間より随分と早い」


「布巾と包帯、あと少ないが消毒液があった」


 カミロが見つけて来た物を見せると、ソウザ隊長は受け取る。


「よし……ご主人様、少々沁みますがご辛抱を」


 そう言うとソウザ隊長は瓶から直接傷口に消毒液をかけた。伯爵は歯を食い縛り、表情を歪めて痛みに耐える。


「……我々がもしご主人様の私室へご様子を見に行かなければ、この傷が元で命を失われていたかもしれないのですよ? 独断で行動されるのはあまりに危険だとおわかりいただけたでしょう。なぜですか? なぜお独りで向かわれたのですか」


 応急処置をしながらも、ソウザ隊長は強い口調で伯爵に問う。でもその伯爵の口は開かない。痛みのせいじゃなく、あえて黙してる感じに見えた。


「まあ、状態が状態です。まずはこちらを優先しますが、館へお戻りになったら説明していただきますよ。……傷は思ったほど深くないが、まだ安心できるほどじゃない。俺達がやれるのはここまでだ。あとは医師に診せないと」


「この辺りに医師はいるのか?」


「わからない。こっちの住宅地はほとんど来たことがないから、どこに何があるかも知らない。でもまごついてる時間はないんだ。住人に訪ねて医院の場所を――」


「場所なら知ってるわ」


 私が声を上げると、二人の険しい目が警戒の色を見せながら向けられた。


「お前には聞いてない。黙って大人しくしてろ」


 ソウザ隊長の敵対心ある冷たい口調に怯みそうになったが、私は自分を奮い立たせて言った。


「私もご主人様を助けたいの。だから――」


「自分で刺しておきながら助けたいだと? 俺達を笑わせる気か?」


「それは、何も言い訳はしない……でも助けたいのは本当よ! 私ならすぐに呼んで来られるから――」


「盗賊で、しかもご主人様を殺そうとしたお前を、誰が信じられるって言うんだ。え?」


 ソウザ隊長の憤る顔、声、視線、すべてが凶器のように私の胸に突き刺さる――伯爵と同じように、ソウザ隊長も私の正体を知ってたのか。やっぱり馬鹿だったのは私だけ……。


「信じなくてもいい。それでも私はご主人様をお助けするだけだから……呼びに行くわ」


 立ち上がり、私は玄関へ向かう。


「待て! 逃げる気か! ……カミロ、捕らえて縛り付けろ」


 ソウザ隊長の指示にカミロがこっちへ来ようとした時だった。その足が止まり、視線が不思議そうに足下を見る。


「……ご主人様? 何をなさって……」


 見るとカミロの足を伯爵が片手でつかんで引き止めてた。


「行かせて、やるんだ……」


「しかし、そうすれば逃げて――」


「医師を呼ぶ、と、言っている……行かせろ」


 すると伯爵の細めた目が私のほうを見た。そしてかすかに頷いたように見えた。一度は殺そうと、ナイフで傷付けた私なのに、どうして信じてくれるのだろうか。また同じ目に遭わされると恐怖や疑いを抱かないのか……いや、そんなことはどうでもいいのかもしれない。伯爵は私を信じてくれようとしてるんだから、それに対して私は偽りなく応えればいい。それが、私の示せる唯一の心――


「必ず呼んで来ますから……!」


 扉を開けて私は外へ飛び出し、走る。


「待て、オリアナ!」


「追うな! 追うんじゃない!」


 ソウザ隊長の怒鳴り声にすかさず伯爵の大声が響いた。振り返らず私はそれを背中で聞いて走り続ける。背後に誰かが追って来る気配はない。邪魔されないうちに急いで医師を呼ばないと。私が今できることはそれだけだから。


 あの家に住み始めた頃、近所の様子を一通り見て回ったことがあって、その時に見た医院へ私は一直線に向かった。家からそう遠くない場所にあるが、着いた建物の窓に灯りはない。中に医師がいるのか、それとも生活してる場所はまた別なのか……わからないが私は正面の扉を強く叩いて呼びかけてみる。


「誰かいますか! いるなら開けてください!」


 返事は聞こえない。それでもしつこく呼んだ。


「怪我人がいるんです! お医者様に助けてほしいんです! 誰か――」


 しばらく呼び、叩いてみたが、扉の向こう側は静まり返ったままだった。ここで呼べないなら、他に知ってる医院の場所は――と記憶をたどろうとした時だった。窓の隙間からいつの間にか灯りが漏れ、中に人の気配があった。よかった。誰かいた……!


「騒がしいな……一体何だ……」


 少し眠そうな声がして、私は扉越しに言った。


「怪我人なんです! 助けてください!」


 すると鍵を開ける音がして、扉は警戒するようにゆっくりと、少しだけ開いた。そこからひげを生やした男性の顔がのぞく。


「……怪我人? 本当なのか?」


「本当です! あなたはお医者様?」


「そうだが……君は?」


「私は伯爵の、ベルデ伯爵の警護人です。向こうの家で今、ご主人様が倒れて仲間に応急手当を受けてるんです」


「ベルデ伯爵って、まさかあの、ベルデ伯爵なのか……?」


「だからそう言ってるでしょ!」


 伯爵の名に表情が引き締まった医師は、扉を開けると急にてきぱきと動き出した。


「それならそうと早く言いなさい。すぐに支度をする。あ、隣の部屋から往診用の黒いかばんを持って来てくれるか」


 言われるままに私は隣にある診察室から大きなかばんを持って来る。その間に素早く着替えた医師は私からかばんを受け取り、医院を出た。


「案内を。ベルデ伯爵はどこに」


「こっちです!」


 来た道を走って戻り、私達は家へ向かう。これで伯爵は助かる――そう安堵したのも束の間で、私は大きな不安を覚えた。このまま伯爵の元へ戻ってしまっていいんだろうか。私は殺そうとした犯人で、そんな人間がまた伯爵の側にいるなんて許されるわけがない。その前に、戻った瞬間ソウザ隊長に拘束されて捕まるだろう。私は罪を犯したんだ。伯爵の思いを裏切る、ひどい罪を……。もう居場所はない。ソウザ隊長やジュリオも仲間じゃなくなった。カミロは、私が殺せなかったことを笑ってるかもしれない。警護人のふりをしながら。トレベラの仲間も、父さんも、これを知ったら落胆……いや、それだけじゃ済まないだろう。怒って罰を与えるかも。父さんは失敗やしくじりを許さない人だ。それは避けられない。でもトレベラを裏切ってる人間の元になんか戻りたくない。唯一の親であっても裏切り者なんだ。その言葉を聞くことなんてもうできない。私は、守りたかった居場所も失った。どこにも行けないし、留まれない。伯爵を愛してしまったせいで、すべてを失ったんだ……だけど、殺してしまうよりはいい。そうしてたら私はこの先ずっと後悔を引きずってたはずだ。伯爵の側には二度と行けないけど、無事に助かってくれれば、それで私は救われる。この先の孤独も、生きて行くことができると思う――


「……あそこです! あの正面の、灯りのついてる家です!」


 私は走りながら見えて来た自分の家を指差した。


「あの家か。わかった」


 医師が走る横で私は足を緩め、その後ろ姿を見送る。私が付いて来ないのを気付かず、医師は一人家へ向かって行った。私ができること、示せることはここまで。ごめんなさい伯爵……逃げ出す私を、どうかお許しください。そして、愛おしい時間をくれたこと、感謝いたします――遠ざかる医師に背を向けて、私は暗い道を駆けた。灯りも何も見えない、暗闇だけの道の先へ。

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