第十章:乾杯

「香旬停」の松の間で、第二十回目の会合が開かれようとしていた。

梅雨が明け、これから夏がはじまるという七月の第一土曜日のことである。

この日一日、天気はからっと晴れており、それは日が落ちる今頃になっても続いている。

三笠市長は、ひとり上座にあって、扇をぱたぱたと振り仰いでいる。

今まさに、秘書の別所が、集まった十名の有志に資料を配っているところである。

別所が隣の席に戻るのを待って、三笠市長は汗をかいたグラスを手に取る。

「それではみなさま、今夜もひとつ、よろしくお願いいたします。乾杯」

口々に言い交わされる乾杯に、場内は和やかな雰囲気になる。

第一回目、二回目などの雰囲気とは隔世の感がある。

というのも、この半年で、千代田市は毎日がお祭り騒ぎのようなにぎわいを見せており、街全体が潤っているからであった。これから一体どうするのだといった不安を抱いた顔は一つも見当たらない。集まった皆が、現状に満足しており、今後の明るい展望を期待してもいた。

お通しが各々にふるまわれ、多少の食物が胃に入ったところで、世間話に花が咲く。

頃合いを見計らって、三笠市長は声をあげた。

「みなさま、それでは今夜も、話を進めてまいりたいと思います。お手元の資料をご覧ください」

言われて皆が手元の資料を取り出す。

「そこにありますのは、直近十年分の、千代田市のGDPを示したものです。どうぞ、ご覧ください」

場内から、おお、ああといった感嘆の声が漏れる。

「ご覧の通り、ここ半年で、過去十年分のGDPに匹敵する値を示しております。これはもう奇跡と言っていいでしょう」

三笠市長は、少し間を置く。

「次いで、次のページをご覧ください。過去五年間のふるさと納税の額でございます。こちらに至っては、過去五年を大幅に上回る値となっております。こちらも、驚くべき結果であります」

「これはすごい」

ははは、と場内では笑い声まで起きている。

「これも、皆さまのおはたらきのおかげでございます。今一度、お礼を申し上げたく存じます。ありがとうございます。」

さて、と三笠市長は続ける。

「調べてみましたところ、今や千代田市は世界からも注目される超有名都市となっております。平日にも市外から観光客を乗せたバスが乗り付け、ご存じの通り、街は連日大盛況です。しかし、このままではいけません。ブームはいずれ去ります。その前に、手を打たねばなりません」

場内が静まり返る。

いい気分になっていたところへ、水をささなくても、といった声が聞こえてきそうである。

しかし、この三笠市長の言に同調を示したのが、北浜登だった。

「俺は賛成だな。ぽっと火のついた人気なんざすぐに消えちまう。その前に何かしらの手を打つべきだ。それこそ、俺たちから集めた金を使って」

会合の序盤にあんなに非協力的だったのが嘘のようである。

そんな視線を北浜に送りつつ、金谷あさみが次を続ける。

「私も、賛成ですね。今は攻めの姿勢が大事な時。この機に乗じて一気に攻めるべきです」

女のくせに、戦国武将のような物言いをする。

そんな視線が北浜から送られる。

二人の間に挟まれるようにして、居心地悪げな井口が口を開いた。

「そうですね、三笠市長、町おこしのプランはどんな具合ですか」

皆の視線が三笠市長に集まる。

「そうですね、

・地元の定期的な祭の開催日数の増加。ゲリラ的に行う。

・地元JAの納涼祭をゲリラ的に行う。

・地元アイドルのゲリラライブを行う。

・地元スポーツクラブのゲリラライブを行う。

の四点で進めていきたいと思っております。」

「他の市と連携しながら進めるっていう話はどうなった」

どこからか声が飛ぶ。

「はい、そちらも順調でございます。七月の第三日曜日に、同時開催する予定でございます」

七月の第三日曜日には、千代田市の大広場で年に一度の祭りが行われる。

それと同時に、豊島市や他の連携をとっている市とも、同時多発的に祭りを開催する予定であると、手元の資料には印字されていた。

「こりゃあ、楽しみだ」

「違いない」

気をよくした面々により、会合は途中から完全に宴会に変わり、この日は夜遅くまで松の間から笑い声が絶えなかった。

ちなみに、千代田市および連携をとっている市のGDPは、落ち着きを見せながらも、この後十年は成長を続けるのだが、この時点では誰にも知りえないことであった。



「そうですねぇ、それは有識者の意見を待ちたいと思います」

ニュースを読み上げた司会者に振られて、久能元がモニタの中で難しそうな顔をしてコメントを返していた。

図書館前のベンチに座り、お昼のワイドショーの録画をスマホで眺めながら、国枝恵はふぅとため息を漏らす。

半年たった今でも、いまだに、自分の身に起こったことが、信じられないでいるのだ。

長い間、待ち受けにしていた久能元その人が、目の前に現れ、他でもない恵に対して話しかけたのだ。

大勢がスマホを向ける中で、恵だけに。

動画を撮ってくれませんか、と。

恵は、無心でスマホを向けた。

画面越しに久能元は口上を述べ、千代田市をよろしくお願いしますと叫び、それから深く、一礼した。

そのすべてを、恵は自分のスマホの画面越しにつぶさに見ていた。

動画を撮り終わって、それを確認してもらったら、久能元はすぐにどこかへ去ってしまった。

それを見ていた「千代田市もりあげ隊」のメンバーだという人が、撮ったばかりの久能元の動画をサイトにあげたいので使わせてもらえないかと申し出てきたのだった。

突然、荒れ狂う渦の中に巻き込まれたような感覚――。

そして、まるで、何事もなかったかのように恵の上を通り過ぎてゆく時間。

ぼうっと空を見上げて、蝉の声に身を溶かそうとしていたら、いきなり頬に冷たいものが触れた。

「うわっ」

見上げると、矢田部義則が立っていた。

見るとその手には缶コーヒーが二缶、握られている。

「遅かったねぇ」

恵はうれしそうな笑顔を向けて言う。

今日は、矢田部と市立図書館で勉強会なのだった。

「ぼーっとしてたなぁ」

恵の隣に座りながら、矢田部が言う。

「久能元の動画見てた」

「ああ、恵が動画撮ってって言われたやつな」

二人して缶コーヒーを開ける。

「そそ。今お昼のワイドショーでコメンテーターしてるってさ」

「へぇ。マルチなタレントをお持ちで」

「すっかり、あっち側の人になっちゃったなぁと思って」

喉を伝わってゆく冷たいコーヒーが心地よい。

「もともと、あっち側の人だったんじゃない?」

「ふふ、そうかも」

でも。

でも、目の前にいて、手を触られたんだよなぁ。

口に出そうになって、あわてて恵は引っ込める。

浮ついた気持ちを手放せないまま、恵は目の前の矢田部に目をやる。

そこには十八歳の、明らかな肉体がある。

そこに生命の発露を見出しながら、恵は、私はこの人とどこまでいけるのかなぁと思う。

三年生となり受験生となった恵と矢田部は、進路を決める段になり、二人して同じ大学を志望した。二人とももともと関東圏の国立大学を志望していたこともあり、それならつきあっていることもあるしと、同じ大学にしたのだった。

このまま矢田部と人生を共にするのかしら。

それとも、またふいに久能元のような人物が私の人生に現れるのかしら。

時計は午前十時を指している。

「いこうか」

揺れる十代の心を持て余しながら、恵は矢田部に続いて図書館の薄暗い館内へと入っていった。

そのスマホの待ち受けに、久能元を携えながら。



ぽんっ、ぽんっ。

七月の第三日曜日の朝八時、晴れ渡る青空に、白い煙が小さく広がった。

「お母さん、花火があがったよー」

美晴は、階下の母に聞こえるように大声を張り上げる。

着替えをし、姿見の前で一応の身なりを整えると、元気よくk階段をくだってゆく。

洗面所のシンクの前に立つと、歯ブラシをとり、歯を磨きだす。

今日はどんな一日になるのだろう。

歯磨きを終え、顔を洗う。

「美晴、今日はどうすんの、畑」

母が洗面所に顔を出し、美晴に尋ねる。

「ああ、行くよ。斎藤さんのおばあちゃんと約束してるから」

タオルを顔にあてながら、美晴は答える。

今日も、明日も、きっとその次の日も、美晴は畑に出る。

朝食を食べたその足で、いつものリュックを背負ったら、いつもの自転車にまたがって、美晴は十分ぶん離れた場所にある、畑へと向かう。

「あっつ~」

自転車をこいで、住宅街からこだまする蝉の大合唱の中をつっきってゆく。

「祭りだ祭りっ」

ご機嫌な鼻歌も混じって、美晴の自転車はぐいぐいと進む。

しかし、ふと、思うのだ。

今この時、久能元は何をしているのだろう、と。

最近、久能元はお昼のワイドショーでコメンテーターを始めた。

例によって美晴は、世間から少し遅れてその事実を知ったのだが、それにしても、久能元がいきなり遠くに行ってしまったような気がしていた。

目を見て、隣でしゃべっていたのが嘘のよう。

あの時、電話番号の交換に成功していたら、今頃は――。

今頃は?

そこまで考えて、美晴は自分で噴き出してしまう。

今頃も何も、何も変わらない現実が、今もこうして続いているだけなのに、一体私は久能元に何を期待しているのだろう。

「おはよう、美晴ちゃん」

畑に着くと、斎藤さんのおばあちゃんが挨拶をくれる。

その顔にはいつだって深い皺が刻まれている。

「おはようございます、斎藤さん」

斎藤さんの皺を見るたびに、美晴は、いずれ自分もこうなるのだという気がしてならない。

自分の未来の姿を見ているような気がしてならない。

斎藤さんの向こうに、斎藤さんの息子さんが見える。

今日の祭りの飾りを取りに来たのだろう。

斎藤さんには子供がいるが、美晴に子供はいない。

そう、美晴は一人で死んでゆく。

いや、その前に、父が死に、母が死んでゆくのだろう。

その後、子供のいない美晴の人生はどうなるのだろう。

ひとりぼっち。

ひとりぼっちの人生が、待っている。

久能元――。

あの時久能元と電話番号を交換していたら、今頃は、そんな思いとも無縁でいられたのだろうか。

でも。

でも、電話番号は交換されなかった。

久能元が、それを拒んだのだ。

であれば。

であれば、それは仕方のない事なのだ。

これから一人で生きていきなさいという、天からのお達しなのだ。

でも、久能元に会えてよかった。

私はこれから毎日、テレビで久能元を見ながら過ごすだろう。

それだけでも、大きな変化じゃないか。

年齢的には、久能元より私の方が早く死ぬかもしれない。もしくは、同じころに死ぬかもしれない。だとしたら、一生追いかけられる推しが見つかったってことじゃないか。

その事実を喜ぼう。

同じ時代に生まれてよかった。

その事実を喜ぼう。

美晴は、目の前にたわたに実っているナスやキュウリといった野菜に目をやった。

この子たちも、縁があって、私の目の前に実っている。

であれば、ありがたく、その命をいただこう。

美晴は、内心そうひとりごち、枝切りばさみを握りなおすのだった。



「良ちゃん、『大吟醸ちよだ』あるかな」

そう呼ばれて斎藤良太がカウンターから顔をあげると、そこには丸眼鏡をかけた池井町長の姿があった。

そのお腹はでっぷりと出ており、大きなズボンがサスペンダーで吊り下げられている。

「お疲れ様です、池井町長」

「お疲れ様」

祭りの日である今日、街では朝から皆が浮足立っている。

商店街の役員である良太も、池井町長の指示の元、祭りに出す山車をせっせと飾っていた。

今はちょうど昼休みであった。

良太の手元にはスマホが見え、そこからは夜のバラエティの録画が流れている。

番組はクイズ形式のようで、設問に間違えたら頭の上からタライが降ってくるという趣向らしい。

「正解」

小さな画面の中で、久能元がガッツポーズをしている。

池井町長は、ちょうど一年前のことを思い出していた。

そう、あれは、ちょうど一年前の祭りの次の日のことだった。

小川俊一郎が慌てた顔をして、うちの戸を叩いたのだっけ。

話を聞くと、酔った久能元が、五年後の『令和の大合併』の話を打ち明けたのだというから驚いた。

池井町長は、その話をすぐさま三笠市長へと持って行った。

その話が、まさかこんな事態を招こうとは。

年に一度の千代田市の祭りとあって、例の騒ぎ以降、今日を目当てに市外から訪れている観光客は多く、近辺にホテルをとって祭りを楽しむのだろう、街には朝から人であふれていた。

酒への需要も高く、斎藤酒店には朝から客足が絶えず、今も狭い店内にはカップルや学生グループといった客が数組うろついている。

モニタの中の久能元を見て、池井町長がぼそりと言う。

「久能様様だな」

はははと良太も笑って答える。

「足向けて寝られませんねぇ」

カウンターの壁には、でかでかと、あるポスターが貼ってある。

ポスターの中央には深々と礼をした久能元の姿。

そしてキャッチコピーには「千代田市をよろしくお願いします!」の文字。

祭りを前に、市の広報が打ち出した千代田市のピーアール広告であった。



街中にでかでかと貼られた久能元のポスターを見て、権平陽介は思う。

「なぁにが『千代田市をお願いします』だよ」と。

精神科の閉鎖病棟で出会った久能元は、『令和の大合併』について、知らないと答えた。

それがこれだ。

今ではテレビをつければ見ない日はないというくらい、引っ張りだこになっている。

とんだ食わせ者だったというわけか――。

公安は、久能元の騒ぎがあって以降、久能元の動画にまつわるデマ騒ぎの火消しに追われていた。

何か騒ぎが起きると、必ず便乗するやつがいる。

都市伝説になるような害のないデマなら放置しておいても構わないが、中には悪質な陰謀論など看過できないものも含まれる。

それらをふるいにかけて、しかるべき処置をするのが権平の目下の仕事であった。

「まったく、世話をかけてくれるぜ」

権平は気だるげに、白髪の混じる髪の毛をさっと片手でかき上げた。



「久能元さん、どうぞ」

名前を呼ばれ、久能は黒い革張りの長いすを立つ。

ここは井口病院の精神科。

今日は元の通院の日であった。

井口病院は、中庭から薄日の差し込むエントランスホールを中心に、ぐるりとすべての科が並んでいる。

建物の影の隙間から真上に枝を伸ばす中央のあすなろの木にまぶしげに目をやって、元は「井口」と名札の提げられた診療室へと入ってゆく。

「こんにちは、どうぞ、そこに荷物を置いてください」

七三分けに髪をなでつけて、井口は相変わらず柔らかな物腰で元を迎える。

「こんにちは、先生」

元は井口の前に据え置かれた丸椅子に腰かけ、姿勢を正す。

「どうですか、調子は」

井口が、さもいつもと変わらぬ調子で問う。

「変わりありませんね。時々シャッター音が聞こえるくらいで、あとはいつも通りです」

「なるほど」

井口はパソコンに向かい、パチパチとキーボードを打つ。

「ずいぶんと活躍されているみたいですが、いかがですか調子の方は」

そうですね、と元。

「厚生労働省の方の仕事もお役御免ですし、有名人になってしまった以上、メディアに出る機会があるのも何かのご縁と思って励んでいます」

はははと笑い、井口は元の目を見る。

「頑張りますねぇ。でも、無理はしないようにしましょう。長い人生ですから」

元も井口の目を見返して言う。

「はい、ありがとうございます」

自分の脳が、もう死ぬまでバグってしまったままかもしれないという事実に、落ち込まないといえば噓になる。

が、井口医師の言うように、長い人生なのだ、こういうこともあるのかもしれないと、元はこの頃気楽に考えるようになっていた。

「では、いつものお薬を出しておきますから」

「はい」

つと立ち上がった元に、井口が添える。

「そういえば、今日のお祭り、行くんですか」

元は満面の笑みで答える。

「もちろん」



いままでの年に一度の祭りの日は、日中に街中で祭りの準備がなされ、日が暮れてから山車をはじめ祭りのメインとなる出し物が催されるというのが通例であった。

しかし今年は、千代田市が一躍世界的に有名になったことから、日が高いうちから出し物をして観客をわかせようという趣向になっていた。

津野一平は、朝からたこ焼き屋を大広場の一等地に構え、訪れる客に笑顔で応対していた。

客足は朝から途絶えることはなく、正午ともなれば、これが祭りのピークなのではないかと思われるほどのにぎわいをみせていた。

大広場では、朝から地元JAの納涼祭がゲリラ的に開催されていた。

とはいえ、地元の農家たちがあらかじめ周囲に宣伝してまわっていたものだから、ゲリラと銘打ってはいても、まったくのゲリラ開催ではなかったのだが。

ともあれ、自慢の野菜を持ち寄る農家や、家庭菜園を楽しむ有志らが集まって、青空市場を展開したのである。

祭りはSNSですぐさま拡散され、市の内外から、青空市場を目当てにやってくる人で大広場はごった返していた。

吉田美晴はその中にあって、斎藤セツと共にこじんまりとしたスペースで育てた野菜を売っていた。

その前を、矢田部義則と手をつないだ国枝恵が横切ってゆく。

中央の的屋で仕切られた十字路の向かい側には、野菜の買い出しに出てきた小川俊一郎一家の姿があった。

的屋の裏、大広場のベンチの上では池井町長がすっかり出来上がっており、そうしている間にも斎藤良太は街中の酒盛り場へと酒を配達していた。

みながそれぞれの時計の元で、各々の時を刻んでゆく。

日頃はさして意識もしないそんな当たり前のことを、めいめいが一同に会することで、祭りの日は浮き彫りにしてくれる。

一期一会。

袖触れ合うも他生の縁。

意識上にあってか、無意識下にあってか、この日この場に集まった人々の頭の中には、この世界的祭りの元に互いを目にしているという事実からか、そんな言葉がちらちらと浮かんでいた。



ぞわり――。

日が傾きかけたころ、いよいよ人の出が多くなって、大広場の人通りが足の踏み場もないほどのにぎわいを見せた頃、そのような音が聞こえてきそうなほど、勢いよく人だかりの山が崩れた。

津野一平は敏感にそれを感じ取り、すぐさま思った。

奴だ――。

奴が来たのだ――。

果たして、十字路の端からのらりくらりと歩いてきたのは、久能元その人であった。

久能元は、グレーのTシャツにジーンズというラフないでたちで、十字路にさしかかる。

その久能元の周囲には、四方からスマホを掲げた人だかりが見える。

一年前とは違った、あの騒動があったが故の人だかりである。

よく見ると、久能元の隣に老夫婦が見える。

両親だろうか。

だとしたらなんたる親不孝!

これだけの大騒ぎになることが分かっていながら、疲れやすい老人をその中に連れ出すとは。

最近その評価を覆しはじめていた一平の久能元への値踏みは、ここへきて再び悪感情に引きずられる。

一平は、人込みの隙間から、久能元の動向を見守る。

久能元は、老夫婦の足取りに合わせるようにして、ゆっくりゆっくりと祭りばやしの中を練り歩いてくる。

久能元と共に移動する雑踏が、パシャリパシャリとシャッター音をかき鳴らす。

見ると、久能元は、両親と思しき老夫婦の手を引き、こちらへやってくるではないか。

一平はたこ焼きをひっくり返す道具を握る手を持ち替えて生唾を飲み込んだ。

久能元が一平の屋台の前へ立つ。

「すいません、たこ焼き、一つ」

わぁっと、人だかりから声が上がる。

久能元ともなると、たこ焼きを注文しただけで歓声があがるらしい。

「へいっ。一つね、ただいま」

一平は、そう元気よく返事をすると、すぐさま生地を熱せられた型に流し込んでゆく。

昼の暑さを地面が伝える夕刻にあって、じゅわっと、小さく生地の焼ける音がする。

久能元と老夫婦は、つぶさに一平の挙動を観察している。

「すごいねぇ」

「見て、あんなに手早く」

まるで子供のような感想を述べる老夫婦に、久能元は、そうだねぇと相槌を打っている。

一平の、久能元への評価が、今度は好印象に引きずられる。

「はいっ、お待ち」

タコを入れ生地をかぶせ、まるっと三百六十度を焼いたたこ焼きにマヨネーズやソース、青のりを乗せてつまようじを差し、屋形船の形をしたたこ焼きは出来上がった。

「どうも」

久能元はそう言うと、料金を支払い、一平の手からビニール袋を受け取った。

パシャリパシャリとシャッター音が響く。

一平の顔に力が入る。

やがて人だかりは久能元に導かれるようにして、大広場のステージ会場の方へ消えていった。

ふぅ、と一平は息をつく。

毎日あれだけの目にさらされる生活というのは、一体どのようなものだろうかと、他人事ながらおそろしくなる。

きっと、自分たちの知らない苦労もあるに違いないと、今ではそんな風に、久能元への評価を定める一平であった。



宴もたけなわ、二十二時も過ぎると大広場の祭りの喧騒はすっかり絶え、今や二次会、三次会へと足を向ける人で街中があふれていた。

常にない賑わいを見せる商店街にあって、その一角にあるバー「和心」の入り口に、久能元が立っている。

元の背後を、若いカップルや学生たち、赤ら顔の中年男性の集団が通り過ぎてゆく。

元は思い切ってドアノブをまわした。

店内に、カウベルの音が響き渡る。

とはいっても、店内でにぎわう客の声にかき消され、その音はほとんど誰の耳にも届かない。

しかしただ一人、その音を耳ざとくとらえる男がいた。

マスターの小川俊一郎である。

俊一郎は入り口に立った人影をとらえ、思わず破顔した。

まさか祭りの日の今日、ここに来るとは思っていなかったからだ。

元は店内を見回した後、空いている席を求めてカウンターの一番隅の席に腰をおろした。

「いらっしゃい、元」

「いらっしゃいました」

そう言って元は、にっと笑う。

店内で、久能元というささやきが聞こえだす。

元はかまわず俊一郎に目をやる。

「クラフトビールください」

元の前に灰皿とコースターを差し出しながら、俊一郎は応える。

「はい、ただいま」

そこへ、背後から一人の女性が声をかけてきた。

「すみません、久能元さんですよね」

元はそちらに向き直る。

見ると、三十台後半と思しきロングヘアの女性が、その後ろに中年の男性を三名引き連れてこちらをうかがっている。

「はい、そうですが」

言うなり、きゃーっと歓声があがる。

「握手、いいですかぁ?」顔を赤くした女性が、その場でぴょんぴょんとはしゃぎだし、後ろの男性陣も顔を見合わせ高揚し、まじかよと声をあらげている。

成り行き上、彼らとの写真撮影に応じた元は、その後もそれを皮切りになし崩し的に店内のすべての客と写真撮影や握手をすることになった。

さらに、店内の誰かが読んだのだろう、やがて「久能元がいるって本当?」という酔っ払いの声と共にバー「和心」になだれこんできた学生たちの相手も、元はすることになった。

「いやぁ、勉強、頑張ってね」と、元は芸能人さながら、もとい、今や芸能人となった元は快く彼らにこたえていく。

その様子を、マスターである俊一郎は、カウンターのこちら側から、誇らし気に、しかしどこか遠くを見るように、目を細めて見やるのだった。

千代田市が世界的盛り上がりをみせはじめて以降、バー「和心」は閉店時間を一時間延長した。それまでは深夜一時で閉店していたところを、二時にしたのである。

そのかいもあって、バーの売り上げはうなぎのぼりである。

まさに「久能様様」であった。

さて今夜も、閉店の時間がやってきた。

俊一郎はBGMを「蛍の光」のエンドレスに変える。

ぽつ、ぽつと、店内から客が去り始める。

しかしその中にあって、元だけはその場でグラスを傾けつづけている。

互いにそれが分かっているため、あえて声はかけない。

表の照明を落とし、看板を入れ、二人だけの時間となる。

俊一郎が、ホールの掃除をはじめる。

「おつかれさん」

元が半身をひるがえらせて声をかける。

「ああ。おつかれさん。すっかり有名人だなあ」

と、俊一郎が言う。

ははは、とこたえる元。

「親御さん、元気?」

「なんで?」

突然の俊一郎の問いに、元は小さく驚く。

「夕方、SNSで話題になってるのを見たから。『久能元がご両親とおぼしき老夫婦を祭りで案内してる!』って」

「ああ、なるほど」

元は、合点がいき、はははと笑う。

「たこ焼きを両親にごちそうしてやったんだ。食べたがってたから。両親と祭りなんてのも、もう何回もないだろうしと思って」

「なるほどなぁ。しかし思い切ったな。あの人込みの中を」

ははは、とカウンターの内側を掃除しはじめた俊一郎の動きを、元は目を細めて眺めやる。

「両親にはつらかったかもしれないが、思い切って行ったんだ。来年の今頃には、両親も元気かどうかは分からないからな」

「なるほどねぇ」

少し、間が開く。

カウンターの内側で、手を動かしながら俊一郎は尋ねる。

「ここまで有名になったこと、後悔してるか?」

しばしの沈黙がおりる。

「いや、もうこうなってしまった以上、後悔はないよ。大事なのは、これからどうするかであって。今はそれしか考えていないな」

「なるほどねぇ。たくましいもんだな。」

 真実、俊一郎の目に、元は誰よりもたくましく見える。

 が、同時に、どこか危うさを含んでいるようにも思われる。

「病気の方が相変わらずか」

元は、俊一郎だけには、精神科に通っていることを伝えていた。

こうして、ざっくばらんに疾患のことを話題にできるのも、十年来の旧友故だと、元は思う。

「相変わらずだな。耳元でシャッター音がうるさいのなんのって」

「へぇ」

答えに窮してか、俊一郎の返事がにぶる。

それを察して、元はことさら陽気な声で語りはじめる。

「しかし、有名人になっていいこともあってな。なんとツテを辿って『虹色デイズ』と握手することができたんだ。もちろん、サインももらった」

『虹色デイズ』とは、元がひそかに追いかけていたアイドル歌手である。

「へぇ、よかったじゃないか」

はは、と元は笑う。

「まぁ、これだけ有名になった以上、官僚組織にはいられないし、上司からも戻ってくるなと言われているし、このままいくさ。そのうち、本でも出すかな」

「本を出す、か。そしたら読むからな、教えろよ」

カウンターの内側に自分用の小さな椅子を用意しながら、俊一郎が言う。

「ときに元」

突然違えた空気に、元の目から酔いが去る。

「おまえ、去年の今日、このカウンターで言ったこと、覚えているか?」

元は上体を半分つっぷしたまま、グラスの氷を片手でからんと鳴らす。

「いや」

「お前、ここまでの事態になることを、あの時、予想していたか?」

再び、からんとグラスが鳴る。

今度は俊一郎が自分の分のアルコールを用意する音である。

「いや」

ついその前の発言が嘘であることを認める発言であった。

自分の分のグラスを用意しながら、俊一郎が言う。

「まぁいいや。結果オーライだな」

ふっと、空気がゆるむ。

「ああ、結果オーライだ」

元が、にっと笑う。

「元、乾杯だ」

俊一郎が自分のグラスを元に向ける。

それにこたえて、元も、携えていたグラスをそれに合わせる。

かちんと、子気味よい音が、しんと静まり返った店内に響く。

「千代田市に」

「千代田市に」

二人が、ぐいと酒をあおる。

乾杯――。

店の外からは、いつまでも、祭りの後の喧騒が聞こえていた。

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里帰り、おおいなる くさかはる@五十音 @gojyu_on

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