第九章:英雄
年度末と言われる三月がやってきた。
先月のSNSでの盛り上がりから一か月、千代田市は空前のブームを迎えていた。
結局、一か月間で得られたふるさと納税の納税額は前年比百倍、今月に入り市内を訪れた観光客の数、概算で前年比十倍、その他の数値も、軒並み右肩上がりに伸びていったのである。
それを受け、市内の有志は「千代田市もりあげ隊」を結成し、YouTubeなどで自発的に配信を始めたが、これが更なる祭りを呼び込むとは、この時、誰も予期してはいなかった。
三月に入り二週目の日曜日。
この日は、すかっと抜けるような晴天に恵まれた。
すっかりにぎわいを見せる休日の市内にあって、的屋の津野一平は、ひとり興奮の渦中にいた。
街の大広場に朝からたこ焼き屋を構え、観光客を待ち受ける。
前日から近くのホテルなどで宿泊していたのだろう、朝九時にもなると、観光客とおぼしき人がぽつぽつと現れ始めた。
それを皮切りに、十時、十一時ともなると、方々から急遽組まれたバスツアーなどで、バスから降りてくる人の波が、大広場を埋めた。
たこ焼きは飛ぶように売れた。
こんな繁盛は何年振りだろう。
近年、地元の人しか集まらない祭りに出店しており、その客足の伸びの少なさを嘆いていた一平は、思う。
顔をあげると、そこに一平を待ち受ける客の姿がある。
それがこんなにうれしかったことはない。
売り上げが上がることもうれしいが、それ以上の喜びがそこにはあった。
一平は、脇目も振らず、一心にたこ焼きを焼いた。
午後一時になると、大広場に併設されている大時計が、その時刻を鳴らした。
そこで、どこかからアップテンポな曲が流れだした。
大広場に集まった客たちは皆、きょろきょろとあたりをみまわしはじめる。
一平も、突然流れ出した曲と、動きを止めた客たちを怪訝に思い、顔をあげて屋台の下から覗き込むようにあたりを見回した。
「みなさーん!こんにちはーっ!」
マイクを通した音が、突如大広場に響き渡る。
若い、女の声である。
見ると、設置されていた野外ステージに、カラフルな衣装を身に着けた若者たちが、ぱらぱらと躍り出ていた。
彼らの手には、金色に光る楽器が握られている。
遠目にそれを確認した一平は、ふと、三笠市長が頭に浮かんだ。
そういえば、三笠市長は、五千万円集めて町おこしをしようと言っていなかったか――。
果たして、一平の読みは当たっていた。
この日、午後一時に大広場を占拠したのは、地元ブラスバンドチームの「To-Sky」だった。
三笠市長は、集まった五千万円を使い、早速、計画の一つであった「地元ブラスバンドのゲリラライブを行う」を実行したのである。
「ねぇ、何か始まったよ」
目の前の客たちが口々にステージ上の動向を知らせ合う。
そして、誰からともなくスマホを掲げ、シャッターを切り出す。
この時の市内また市外から訪れた観光客の掲げたスマホのうちの大半に、久能元の待ち受け画像が使われていたが、祭りの喧騒の中、見とめたとしてもすぐにそれは見間違いと判断され、誰一人としてそれを話題にあげることはないのであった。
この日は、久能元の退院の日でもあった。
晴天の下、まだ冷たさの残る風が吹く中を、元は院外へと足を踏み出した。
元、約二か月ぶりの娑婆であった。
約二か月間、空調や食事、人当たりが極端に人工的で温室のような環境に身を置いていたせいか、病院の外に一歩足を踏み出して元の頬に触れていった春の風を、元は乱暴だなと感じた。
タクシーで家に帰ると、両親が待ち構えており、父は一言「おつかれさん」と、母は「よく頑張ったねぇ」と褒めてくれた。
そのまま二階の自室へあがった元は、なんだか疲れてしまって、ぐったりとベッドに横になったのだった。
目を覚ますと既に日が高く昇っており、一日のうちでも一番気温の高い時間帯になっていた。
元はベッドから起き上がると、退院時に返してもらったスマホを取り出した。
充電されていたスマホのロックを、約二か月ぶりにあける。
そこには、二か月前までの活動記録がそのまま残っていた。
浦島太郎になった気分である。
元は、とりあえず、この二か月間、世間で何があったのか調べようと思った。
さしあたって、NHKのニュースサイトへ飛んでみる。
過去のニュースには報道された日付が付されているので、それを頼りに約二か月分、遡る。
元は、大体二時間かけて、約二か月分のニュースを消化した。
めぼしいニュースといえば、季節外れの台風が沖縄県に上陸したとか、大型新人の芸能人が電撃結婚をしたとか、国会では相変わらず様々な分野で与野党の攻防が繰り広げられているとかだった。あと内閣支持率がどうのこうの。
元はスマホを閉じようとして、ふと、地元のニュースもさらってみようと思い、SNSの自分のアカウントへと飛んだ。元は、SNSで地元の様々なイベントの公式アカウントなどをフォローしており、そこから地元の情報を得ることを常としているのだった。
千代田市の公式アカウンを探す。
見つけた公式アカウントに目を通すと、何やら、今日は朝から街の中央の大広場で屋台を並べてのお祭り騒ぎがあったらしいことが分かる。
アカウントのタイムラインをさかのぼってみると、どうやら、午後一時から地元ブラスバンドのゲリラライブがあったようで、大いに盛り上がりを見せたようでもあった。
へぇ。
とんとその手の噂に縁のない千代田市が、一体どうしたことだろう。
不思議に思った元は、そこにぶら下がっているコメントを読むことにした。
『消しごむ@千葉:いやー、千代田市、きてるねー!さいこー!!』
『〇ッキー@夢の国:三笠市長、頑張って!応援してます!!千代田市がんばれー!』
などなど、何やら、千代田市を応援しているコメントが多いことに、元はこの時はじめて気が付いた。
はて。
何故、千代田市がこんなにも応援されているのだろうか。
それに加えて、千代田市の三笠市長も応援されているようである。
なぜ――。
この約二か月の間に、NHKのニュースにはならない規模で、千代田市を中心にした何かがあったのだ。
一体、何が――。
元は、勉強机へと移動すると、パソコンを立ち上げた。
そして、「千代田市 三笠市長」と、検索をかけた。
検索はスマホでもできるが、パソコンでの検索をした方が情報量が多いので、元は、物を調べる時にはスマホではなくてパソコンで調べるようにしているのだった。
果たして、検索をかけると、『令和の大合併 五千万円 町おこし ザ・ワイド 五年後』という字面で編まれた文言が、画面の上から下へと並んだ。
元は、その一番上から読んでゆく。
一つ記事を読むたびに、独立していた単語たちが、意味を持ってつながれてゆく。
記事を五つ読むころには、元は、事態のあらましを大体把握することができていた。
つまり、「五年後の『令和の大合併』を阻止すべく、三笠市長が街の有力者を集めて五千万円かけて町おこしをしようとし、それがタブロイド紙の『ザ・ワイド』にリークされた」ということらしい。
元の頭の中で、記憶と現実が交錯する。
それは、一年前のことだった。
ちょうど今日のように、外では冷たい風が吹いていた。
そんな春先のこと。
元は、同僚と共に、厚生労働省部内の朝礼に出ていた。
先輩の工藤さんの口元がクローズアップされてよみがえる。
「五年後に『令和の大合併』と題して、大規模な市町村合併が行われることとなった。まだ計画に毛の生えた段階だが、今後徐々に仕事量が増えていくからそのつもりでいてくれ。当然だが、このことは他言無用でよろしく頼む」
確か、そんなことを言われたのだっけ。
なんということはない日常の中で、突如として降ってわいた『令和の大合併』というキャッチ―なフレーズが、妙に頭に残っていた。
それから数か月経つ間に、計画は具体性を帯び始め、元にも関連した仕事が回ってくるようになったのだった。
そして知ることになる。
元の故郷、千代田市も、『令和の大合併』の対象となっていたことを。
それを知った時の元は、冷静も冷静だった。
なにせ故郷を出て十年以上経っており、今後帰省はしても根を下ろすつもりなど毛頭ない、いわば捨てた土地である。
そんな土地がどうなろうが、知ったことではないのだった。
元は淡々と仕事をこなしていった。
しかし、そんな折、地元で祭りもあるし久しぶりに帰ってこないかと友人の俊一郎から連絡が入ったのだった。
そうだった。
すべてはあの時に――。
元が記憶を辿りながら、パソコンの画面を眺めていた時であった。
画面はいつの間にか、アングラの書き込み掲示板へと移っている。
そこに、こんなコメントが書き込まれていた。
『かもねぎ@お鍋:俺、千代田市民!今日の午後、千代田市に「虹色デイズ」が来るらしい!楽しみ!!』
元は目を見開いた。
『虹色デイズ』――デビュー時から密かに追いかけていた、推しのアイドル歌手である。
見たい。
元は、思った。
病院の閉鎖病棟の中の、培養液の中にいるようなあの空間にあって、一番つらいものは、歯ごたえのない食べ物を食べることであった。
そして二番目につらかったのが、外の情報に触れられないことであった。
今は、こうして自分の好きに外界の情報に触れることができる。
そして、望めば足を運んで、この目で見ることもできるのだ――!!
元は今、娑婆に出た囚人よろしく、その自由を心の底から噛みしめたいと望んでいた。
「ちょっと出てくる」
気づけばリビングにいる両親にそう言い、元は街の中心にある大広場へと向かっていた。
元が大広場へ着いた時、広場の大時計は、ちょうど午後四時を知らせていた。
元はその鐘の音を聞き、急がなければ、と思った。
昼間行われるイベントなど、大体が夕方には終わってしまうものだからだ。
いや、千代田市など小さな市のイベントなど、もっと早くて、大広場のイベントはもう終わってしまっているかもしれない。
そんな思いを胸に、元はイベント会場へと向かった。
イベント会場には、二メートルはあるステージが設置してあり、その上には大きな音響装置や照明装置が並べられていた。
いつも画面ごしでしか見ないそれらに圧倒されつつ、元はステージ前へと歩を進めてゆく。
ステージ上では、どこかのお笑い芸人が漫才をしており、集まった人々は思い思いに足を止めて彼らの芸に手を叩いていた。
午後一時に始まったというブラスバンドのゲリラライブは盛り上がったのだろうか、地面には、屋台で買ったと思われる食品のごみが人の足に踏まれてぺしゃんこになっているのが見てとれた。
『虹色デイズ』はどこだ――。
元が目を皿のようにして、辺りを見回した、その時である。
「あれ、久能元じゃない?」
元のすぐ近くから声がした。
見ると、「ちょっと知世、声がでかい」と隣の女子にたしなめられている女子学生が目に入った。
元は、どきりとした。
すっかり忘れていたが、そういえば、元はこの街では有名人なのであった。
それを忘れてこんな人込みにでてしまった――。
自分の浅はかさが悔やまれた。
しかし時は既に遅かった。
「きゃーっ!私、叶知世っていいます!こっちは友人の恵に未来に葵、久能様のおかげで、みんな彼氏ができました!ありがとうございますっ!」
そう言って、その知世という女子学生は、きらきらした目を元に向けてくる。
何なんだ――。
彼女たちとの、身にまとっている温度差に戸惑う。
今までなら、ここでたじろいで退却していたかもしれない。
しかし、閉鎖病棟に入っていた元は、この時、久々に話した他人という存在に、軽い感動を覚えていた。
閉鎖病棟にあって、つらいもの、その中に、他人とまともに会話ができない。ということがあげられていた。
それが、今は自由に会話ができるのだ。
望めば、誰とでも――!!
こんなにうれしいことはなかった。
気づくと元は、初対面の女子学生たちに向かって話しかけていた。
「確かに僕は久能元だけどね、君たち、僕の写真を持っているだろう。それ、何に使ってるの」
今こそ、その機会が巡ってきたのだ――。
外に出るたびに悩まされたシャッター音の、今こそその元凶をおさえようと、元は立ち上がったのである。
常日頃の元であれば、考えられない挙動であった。
「それはですねぇ、待ち受けにしてるんでーす!」
知世はそう言うと、「きゃーっ!言っちゃった!!本人に言っちゃった!!」とひとりで言いながら隣の恵という女子にぴょんぴょんと跳ねるようにして抱き着いている。
待ち受け――?
「えっと、僕の写真を、スマホの待ち受けにしてるってこと?」
「そうでーす!!」
訳が分からない。
「えっと、何のために?」
気づくと、元と女子学生のまわりには、元たちを囲むようにして黒山の人だかりができていた。
その誰もが、スマホを元に向けている。
元はその光景に少々驚きはしたものの、もう恐れはしていなかった。
それより今は、目の前の彼女たちだ。
「えっと、久能様、頭いいから、ゲン担ぎに!それがね!効果すごくてね!待ち受けにした先輩とかみんな受験に合格してるんですよーっ!!」
知世という女子学生は、再び、「きゃーっ!言っちゃったー!!」と顔を赤くして仲間たちと跳ねまわっている。
なんと、自分の知らないところで、そんなムーブメントが起こっていたとは。
そう思考を巡らせる暇もなく、四方八方からフラッシュがたかれる。
元の視点が、彼女たちとの会話から、周囲の人間たちに切り替わる。
「わっ!やめてください!オフなんで!!」
元は思えば、この時はじめて抗議の言葉を口にした。
口にしてみれば、自分の言葉など何の意味を持たないことは、ひっきりなしに鳴らされるシャッター音が証明している。
何が有名人だ。
有名人といったって、周囲の人間を従えるような力も何もないじゃないか。
これじゃあ見世物と同じじゃないか。
何が「久能様」だ――。
元が身をかがめながら頭の隅で、強く、そう念じた時であった。
「やめてください!!」
可憐な女子の声が、その場に響いた。
おそるおそる防御の姿勢を解いて目を開いてみると、そこには、知世という女の子が恵と呼んでいた女子学生が、元の前に仁王立ちになっていた。
「本人が嫌だと言っているんです!やめましょう、みなさん!!」
恵という女の子は、なおも胸を張る。
「ちょっと恵……」という仲間の心配そうな声が聞こえてくる。
その時、パシャリ――と、ひとつのシャッター音が聞こえた。
元は目を見開き、生唾を飲み込んだ。
目の前には、自分をかばおうとする年端もゆかない女子がいる。
一方で、自分はいったい、何をしている――。
もう怖くはない――。
元は立ち上がった。
そして、自分の前に仁王立ちに立つ恵を振り向かせて言った。
「恵さん、僕にスマホを向けて、動画を撮ってください」
恵は、一瞬、何を言われているのか分からない顔を元に返した。
しかし、「早く」と言われて、言われるがままに、スマホを取り出し元に向けた。
周囲では、なおも執拗にシャッター音が鳴り響いている。
「では、いいですか。動画、撮影始まってますか」
元の問いに、恵がおそるおそるうなずく。
元は一度、大きく深呼吸をした。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「はじめまして、久能元です。みなさん、僕のことはご存じですか。待ち受けにしてもう毎日見知った仲、という方もいらっしゃるかとは思います。どうも、久能です。お世話になります。さて、先月、我が故郷、千代田市は、タブロイド紙の『ザ・ワイド』に取り上げられました。ご存じの方もいらっしゃると思います。なんでも、五年後に計画されている『令和の大合併』の対象地域ということで。それを阻止しようと千代田市の三笠市長が五千万円もの予算を使って町おこしを画策しているとかで。すごいですよね。で、僕は考えました。なぜかここまで有名になってしまった僕ですが、そんな僕だからこそ、できることがあるのではないか、と。というわけで、宣伝させていただきます――」
元は、ここで一拍、間を置いた。
そして恵のスマホに向かってまなじりを寄せ、こう叫んだのである。
「みなさん!どうか!千代田市を!よろしくお願いします!!」
言い終わると元は、折り目正しく九十度に礼をした。
その礼は長く、さながらどこかの政治家の謝罪会見のようであった。
何が起こったのかわからず、周囲のシャッター音は、一瞬ひるむ。
しかし、「やっば!」という声がしたかと思うと、それまでを上回る勢いで、シャッター音が鳴り響いたのであった。
その光景も、やはりどっかの政治家の謝罪会見のようであった。
「撮れましたか?」
元は頭を上げると、あっさりした笑顔で、恵に近寄る。
隣できゃーきゃー言っている知世を脇に置いて、恵は、たった今撮影された動画を再生して見せる。
「どうやらうまく撮れたみたいですね。じゃあ、それを雑誌にリークするなりしてください。それでお小遣い稼ぎくらいはできますから」
元はそう言うと、「じゃあ」と言って、その場を足早に立ち去った。
なおも元を追おうとする野次馬を引き連れ、黒山の人だかりは形を崩し、大広場の大混乱は、ここに終焉を見ることになったのである。
「千代田市もりあげ隊」のホームページに、久能元の切り抜き動画が掲載されたのは、それれからわずか六時間後のことであった。
「みなさん!どうか!千代田市を!よろしくお願いします!!」
もう何度繰り返されたろうか、その部分だけを切り取った動画を、元は朝から眺めていた。
時刻は午前十一時を過ぎる頃、日付はあのゲリラライブの日から一週間後のことである。
元を撮影した動画を、どうやら恵は雑誌になどリークしなかったようであった。
代わりに、SNSで検索したところ、半日後には「#久能元」という文字列と共に、「千代田市もりあげ隊」のホームページがヒットしたのである。
「へぇ。俺もついに公式デビューかぁ」
元は静かな春の自室で、他人事のように、そうひとりごちた。
しかし、事はそれだけでは終わらなかった。
その日の午後、元は再びパソコンを開いて、自分の動画がどのように派生しているかSNSで検索してみたのだった。
すると今度は、SNSのタイムラインに、大量の元のYouTube動画が流れていったのである。
なんと、あの切り抜き動画が、YouTubeで拡散されだしたのである。
「みなさん!どうか!千代田市を!よろしくお願いします!!」
そして深々と一礼する、その分だけを切り取った動画が。
元が観測するうちにも、動画の再生回数はうなぎのぼりに伸びていった。
元は、途中からカウントを数えるのが恐ろしくなり、二度ほど、トイレに立つのにかこつけて動画の監視をやめようとしたが、その後も再生回数は順調に増えていった。
日が暮れる頃には、動画のコメント欄には、外国語が並ぶようになり、彼らのコメント自体にも、いいねがつくようになっていた。
なんと、元の動画の流行の規模は、世界にまで及んだのであった。
外国語のコメントでは「素晴らしい!日本の礼!」「ファンタスティック!」などといった内容で盛り上がっているようだった。
更に祭りは加速する。
一週間後のとある平日の午後のこと、元は一階のリビングでテレビを見ている両親の後ろを通って、コーヒーを継ぎにキッチンまで行こうとした。
その時であった。
「みなさん!どうか!千代田市を!よろしくお願いします!!」
テレビからいきなり、元の声が聞こえてきたのである。
振り返ると、そこには、他でもない元が映し出されていた。
なんとその昼のワイドショーで、「現在、海外ではこんな日本人の動画がバズっています」という文言と共に、例の動画が紹介されていたのである。
国内でのバズりよりも、海外でバズった時の方が大きく取り上げられるのは、本当らしい。
「ねぇ、これ、あんたよね」と不安げな表情で元を見返す両親を前に、元は頭の隅でそんなことを考えていた。
流行は更にに加速した。
更に時間を経ると、徐々に切り取られた部分――『令和の大合併』のために三笠市長が立ち上がり、久能元もそれに追随したという事実に焦点が当たり始めたのだ。
「実は、久能元自身も、自身の画像の流行に戸惑いつつも、千代田市のために立ち上がった有志だったのである――」
そんな恥ずかしいナレーターで、特集まで組まれてしまった。
この話が、感動の秘話としてまたもやバズったものだから、今度はお茶の間や海外までも飛び火して、とてつもないムーブメントとなったのである。
昼のワイドショーはもちろん、雑誌、ウェブメディア、NHKの午後九時のニュースでも取り上げられ、果ては海外メディアまでもがその全世界的な流行を取り上げたのであった。
携帯電話を持っていても友人が一人もいない吉田美晴は、このムーブメントをテレビの報道番組で知った。
「みなさん!どうか!千代田市を!よろしくお願いします!!」
との声と共に映し出される美しい一礼。
その光景をモニタごしに目にして、
「お母さん、この人、入院中に会った人だよ」
と、美晴は目の前の母に報告していた。
「あら、最初のころ、よく挨拶してくれていた、あの男の人?」と母は問う。
「うん。その人。途中から、何か気まずくなっちゃったんだよね。それ以来、ぱったり」
閉鎖病棟内では、たとえ携帯電話を持っていたとしても、退院後のトラブルを考慮し、互いに連絡先を教えないでほしいと注意書きがなされている。
当時、久能元は携帯電話を持っていなかった。
両親に取り上げられた、と言っていたが、本当だったのだろうか。
もし久能元が携帯電話を持っていたとして、美晴と連絡先を交換したくないための言い訳だったのではないだろうか。
そんな思いが去来する。
美晴は知らなかったが、閉鎖病棟内では、いくら仲良くなったとしても、そしてたとえどんな約束が二人の間になされたとしても、連絡先を交換しない限りは、退院すればまったくの他人同士にもどるものである。
「実は有名人だったみたいだねぇ」
母の言葉が美晴の中で輪郭を持って大きく響く。
あのとき、強引にでも久能元から連絡先を聞き出しておくべきだったのだろうか。
そうすれば今頃、このお祭り騒ぎのおこぼれに預かって、美晴の生活もいくぶんか華やいだものになっていたのだろうか。
もしかして、人生の一大転機になっていた可能性もあるのでは?
でも――。
「連絡先、交換しとけばよかったね」
そう言って母には舌を出すように答えたが、美晴の本心では、連絡先を交換しなくてよかったという思いの方が強かった。
おそらく、私はこんな大きな変化にはついていけない。
自身の精神的な安定のためには、これでよかったのだ。
あの時、久能元が美晴に連絡先を教えなかったのは、正しい行いだったのだ。
キッチンの机の上の一本刺しに活けられた梅の枝を見ながら、美晴は、もう永遠に交わることのないであろう久能元との縁を思いつつ、これでいいのだ、と心の中で繰り返していた。
「みなさん!どうか!千代田市を!よろしくお願いします!!」
北浜建設社長、北浜登は、さきほどから、自身のスマホの画面越しに深々と礼をする久能元を食入るように眺めていた。
新年度も始まり、ゴールデンウィーク前の、春風の心地よいある日のことである。
「ああ、社長。久能元ですか。すごいっすよね」
出社してきた若手社員が、北浜の様子を見とめて言う。
「今や時の人ですもんねぇ。いないんじゃないっすか、こんな有名人、世界にも」
北浜の目の前で、久能元が、もう何度目かの礼をしている。
「お前、詳しいのか」
北浜が、画面から顔をあげて尋ねる。
「詳しくはないっすけど、うちの妹が、待ち受けにしてたんすよ。テレビで報道されるずっと前から知ってたみたいっす。すごいっすよね、女のネットワークって」
「へぇ。待ち受けにするきっかけは何だったんだ」
若手社員は、そうっすねぇ、と言いつつ、しばし間を置く。
「たしか、頭がいいからゲン担ぎだって言ってましたよ。あの通り特徴のない顔ですし、待ち受けにもしやすかったんじゃないっすかね」
「なるほどなぁ」
この街が生んだ、百年に一度の天才――。
久能元の噂だけは、妻に聞いて北浜も知ってはいた。
それが噂を凌駕するような現実になるとは、誰も想像していなかったろう。
それはそうと、北浜の心配事は、例の寄付金であった。
三笠市長は集まった五千万円を、早速、地元ブラスバンドのゲリラライブに利用したらしいが、その結果はまだ数値には表れていない。
ゲリラライブを一つぶち上げたところで、その場にいた通行人を喜ばせるだけで、大した変化は見込めないのかもしれない。
我々が出した寄付金が、無駄に使われるのだけは避けたい――。
金を出した以上、その使い道には口をはさむ権利がある。
そして、目の前の久能元である。
どうせ金を使うなら、この久能元のブームに乗っかった方がいいのではないか。
北浜は三笠市長とは異なり、生粋の商売人であった。
能ある者は、機を見るに敏なり――。
壁にかけられた見事な筆致が目に入る。
北浜登は、まだ朝礼の始まらないうちから、三笠市長のデスクに電話をかけていた。
久能元フィーバーが起こってから後、バー「和心」は連日、客足が途絶えない。
それまでは、平日の夜といえば、商店街の常連たちのたまり場になっていたのが、どこから聞きつけたのか、いつの頃からオシャレな恰好をした若者たちの二次会、三次会の場になっていた。
マスターである小川俊一郎が、当の久能元の旧友であることなど、勿論、誰も知らない。
「この際、大々的にアピールして、それを売りにしちゃったらいいのに」と、俊一郎の妻はこともなげに言う。
ははは、と俊一郎は笑う。
そういうことだけは、しない間柄なんだよな、俺たち。
学生時代に学年一、二位を争った仲の二人の間には、どこかしら、大人として守るべき一線が当時から意識されていた。十代の二人にとって、背伸びしたそれは、友情の証のようでもあり、そのものが背中を預ける戦友との絆でもあるような気がしていた。
「それにしても、久能元、ものすごい人気よね。衰えるところを知らないというか」
四月に入ってからも、午後のワイドショーでは久能元特集が組まれ、連日あの一礼がくどいほどに放映されていた。
夕方の商店街ともなると、おもしろがって我先にと久能元の一礼を真似する小学生の一団と二、三すれ違うほどであった。
「おかげで連日大繁盛だ」
四月に入り、売り上げが五倍になったバー「和心」にとって、久能元はもはや恩人であった。
さびれかけた商店街の一角にあった、地元の人たちでにぎわう、どこにでもあるような地方のバー。それが、一躍SNSで取り上げられるや、全国の若者に知れ渡り、知る人ぞ知る隠れ家的バーとして紹介されだしたのだから、人の噂はおそろしいものだと知る。
「このブームでかなりまとまった金が入るから、今度の夏の祭りまでに店をリフォームして、もっとこじゃれた風にしようと思う」
俊一郎は、そう妻に打ち明ける。
「へえ、いいじゃない」
幼い娘をあやしながら、妻はご機嫌に答える。
収入が増えて、夫婦喧嘩は格段に減った。
これも久能のおかげだよなぁなどと、洗濯物を畳みながら俊一郎は思う。
「ついでに――」
もう一人子供を作ってもいいかもね。
娘の相手をしながら、妻は俊一郎に視線を合わせずに言う。
これはまだ先の話だが、約十か月後、千代田市及び『令和の大合併』の対象地域内で生まれた子供の数は、前年の数をはるかに上回るものであることが明らかになった。
後にこの流れは、『令和のベビーブーム』と呼ばれることになる。
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