第八章:論争
『記者にその電話があったのは、十二月五日、水曜日の夜ことだった。とある男性が、「ここだけの話ですがね」と切り出してきたのである。何事かと思ったが、話を聞くと男性は「中央政府で、『令和の大合併』という計画が進行中らしい」と言う。詳しく聞くと、「千代田市も五年後になくなるらしいが、詳しいことは分からない。ただ、千代田市長の三笠洋子がいち早くこの情報を得て、対策に乗り出しているらしい。その対策というのが、五千万円を使った町おこしだという」と伝えてきた。記者は驚いた。中央政府がそんな計画を秘密裏に進めていることにも驚いたが、一番驚いたのは、三笠市長がその情報をつかんで、これも秘密裏に動いていることだった。一体この国の政治は――』
そこまで読んで、斎藤良太は紙面から顔を上げた。
目の前には、店の顔なじみのおじさんの顔がある。
時刻は午前十時。
斎藤酒店の開店直後である。
開店直後にも関わらず、良太は仕事の手を止めて、雑誌『ザ・ワイド』を手にしていた。
「おじさんの言ってたこと、本当だったな」
今しがた読んだ内容を、目の前のおじさんが噂として教えてくれたのは、いつのことだったろうか。
「そうだろう、そうだろう。一番に良太君に知らせようと思って持ってきたんだ」
おじさんは自慢げに鼻を鳴らす。
「こりゃあ、母さんに知らせないと。ありがとう、おじさん」
そう言って、良太はおじさんに心からの笑顔を向けた。
その晩、良太は食卓の席で、『ザ・ワイド』を見せつけ母のセツに伝えた。
「ほら、母さん、言った通りだろう。雑誌にも出てる」
セツは、該当部分を読むと、目を見開いて良太に向き直った。
「あらまぁ、ほんとだ。えらいことじゃないの」
「そうだよ、えらいことだよ」
自身の焦燥感にやっと追いついてくれた母親を、良太はほっとして見やる。
「どうなっちゃうんだろうねえ、千代田市は」
「そんなこと、分からん。でも、三笠市長が町おこしするって言ってる」
「町おこしして、何になるの。また余計な事して」
セツは半ば怒ったように言う。
三笠市長が男性だったら、母はここまで声を荒げはしないだろう。
店の女性客にも厳しいのが、昔からの母であった。
「でも、町おこしって言ったら、酒の席が増えるよね」
酒の席が増えるだけ、斎藤酒店の売り上げも上がる。
「そりゃそうだけど」
「このビッグウェーブに乗らん手はないよ」
斎藤良太の目がきらりと光った。
それから親子で酒の席が主にどこで立つか算段をつけると、それを片端から一覧表にしていった。
「私は明日友達に連絡してみるから」
金儲けにはうるさいセツである。こうなれば乗り気であった。
「明日、店に立てるのぼりを発注するために今からデザイン考えるわ」
良太は既に動き出していた。
この夜、斎藤家の明かりは、遅くまで消えることはなかった。
津野一平が『ザ・ワイド』でその文面に触れたのは、イベント会場に資材を運んだ帰りにコンビニに寄った時だった。
雑誌の表紙にでかでかと、『令和の大合併』と書いてあったので、思わず手に取ったのだった。
いつだかの夜、ガソリンスタンドでカップルが声高に唱えていた『令和の大合併』。
あれから一平の頭の隅にずっと残り続けていたフレーズだった。
書かれている文章を何度も読んで、一平はうなった。
自分たちに隠れて上の連中が動いていることは気に入らなかったが、町おこしが確実となれば的屋の出番が多くなる。
「こりゃあ、仲間に知らせてやらんと」
一平はコンビニを出て、すぐに的屋仲間に連絡をとるため、ポケットから携帯電話を取り出した。
商店街にあるバー『和心』のマスター、小川俊一郎が『ザ・ワイド』を見つけたのは、同じ商店街にある書店『長嶋書店』にぶらり立ち寄った時だった。
ほんの挨拶に寄っただけだったが、世間話をしながら店内を見回していて、思わず『令和の大合併』という字面が目に飛び込んできたので、すぐさま買い求めたのだった。
祭りの日、自身の経営するバーで、旧友である久能元がこぼした愚痴が、まさかこんな大事になろうとは――。
芸能人の恋愛事情や政界のスキャンダルに挟まれて、『令和の大合併』はひときわ大きい幅を与えられて目次に載っていた。
俊一郎は、その雑誌を、帰宅して妻に読ませてやった。
「まぁ、大変なことじゃないの」
いつもと変わらぬ、おっとりとした調子で妻が言う。
この妻にかかれば、天下の一大事も主婦の世間話に早変わりしてしまうのではないかと思われた。
「君がそう言うと大事さが薄れるな」
はははと笑って、俊一郎は足元の娘の脇を両手でつかみ持ち上げる。
「こりゃあ、えらい騒ぎになるぞーう」
そう言って、俊一郎は、娘を高い高いするのだった。
北浜建設の社長、北浜登が、妻から『ザ・ワイド』を渡されたのは、夕食の席でのことだった。
妻は特段、『令和の大合併』について目くじらを立てていたわけではなく、千代田市が記事に載っているという友人の噂を聞きつけて、雑誌を買ってきたのだった。
「あなたは関心、あるかしら」
そう妻に言われた登だったが、関心があるもなにも、実は『令和の大合併』に反旗を翻す一派の当事者であるなどとは、この期に及んで言う訳にはいかなかった。
「あなた?」
様子のおかしい登を、妻がいぶかしむ。
「ああ、なんでもない。千代田市が紙面に載るなんて、めずらしいもんな」
つとめて冷静を装い、登は印字された細かい文面に目をやる。
どこから情報が漏れたのか――。
いや、秘密裏に事を進めるということが、土台無理な話だったのだ。
だから嫌だったのだ。
最初から、この話には嫌な予感がしていたのだ。
「五千万」という字面に目を止めて、登は、自身が寄付した一千万円のことを思った。
ここまできて、町おこしを本当にするのか、どうか。
三笠市長に連絡しなければ――。
登は、自分の部屋に戻り、デスクに腰かけ、三笠市長の番号を押した。
井口病院の院長、井口雅之が、見回りの入院患者から『ザ・ワイド』を見せられたのは、その雑誌が千代田市の書店に並べられた翌日のことだった。
「先生、ここに、千代田市が載ってる」
そんなふうに患者が言うので、はじめはへぇと思ってにこやかに応対したのだった。
見ると、その『ザ・ワイド』という雑誌の表紙には、原色の鮮やかな帯がいくつも印字されており、その中でも一番大きいものに『令和の大合併』とあるのだった。
井口は目を見開いた。
「ちょっと、これ、どこで手に入れたんですか」
気づけば思わず患者に聞いていた。
「どこでって、ここの売店ですよ」
きょとんとする患者に謝罪をして、井口はその足で売店へ向かった。
どこからから情報が漏れたのだ。
どこから――。
雑誌を手にした時には、胸の鼓動がはちきれんばかりに早鐘を打っていた。
院長室へ戻ると、ブラインドを下げ暗くした部屋で、スタンドライトの明かりだけを頼りに、井口は雑誌を端から端までつぶさに読み込んだ。
そして、ひとり目頭を押さえ、ううむ、とうなった。
秘密裏に進めていた『令和の大合併』に対しての対抗策。
その町おこしが、明るみに出てしまった。
三笠市長は、一体どうするのか――。
私が寄付した二千万円は、一体どうなるのか――。
ここには、五千万円と書いてある。それだけ集まったなら、それは計画通りに事は運ぶだろうが、ここまできて、果たして行う意味はあるのだろうか――。
とにかく、三笠市長に連絡を入れてみよう。
井口は自身のスマホを取り出し、三笠市長の番号をプッシュした。
この日の午後、千代田銀行頭取の金谷あさみは、取引先との会合で冷や汗をかいていた。
というのも、取引相手が、雑誌『ザ・ワイド』をテーブルに広げ、いったいどうなるんでしょうなぁとすごんでいたからだった。
「合併の話が本格的に進めば、メガバンクがこの千代田市に乗り込んでくるのは目に見えていますよね」
取引相手が、じりじりと金谷を攻める。
「わたしもね、おたくとは取引を続けたいんですよ。ですから、その気持ちを、もう少し汲んでいただきたいんですよねえ」
こう言って、金谷から更によい条件を引き出そうというのだ。
この手合いの取引先を、金谷は朝から既に三件は相手にしていた。
「おつかれさまです」
疲労困憊の金谷を見て、本店支店長が声をかけてくれる。
少し休憩を取るわといい、自身で購入した雑誌『ザ・ワイド』を片手に、金谷は空いている会議室に移動した。
皮張りのソファに腰を落ち着けて、ふうっと一息入れる。
それから面白くなさそうに雑誌をぱらぱらとめくってみる。
もう何度も読んだ文面だ。
おそらく、北浜登あたりが情報をリークしたのだろう。
彼は最初から三笠市長が音頭を取るこの町おこしに乗り気ではなかったし。
面白く思わない以上、非協力的な態度になっても仕方が無いのかもしれない。
しかし、それでも情報のリークなど、非常識極まりないではないか。
金谷は、勝手に北浜を犯人と決めつけ、北浜に対する恨みを会議中から頭の中でぐるぐると巡らせていた。
それより、町おこしはどうなるのかしら。
問題はそちらであった。
一千万も寄付したのだから、下手なことはしてほしくない。
三笠市長が次にどういう手を取るのか、知っておかなければ――。
金谷は、スマホを取り出し、三笠市長へと電話をかけた。
三年生が受験ということもあり、千代田高校の一階フロアはひっそりとしていた。
国枝恵たちは、今日も昼食を摂るために、屋上手前の階段の踊り場に陣取っていた。
冬本番ということで、皆、スカートの下にジャージを履くのは当然として、腹巻にカイロと完全防備の姿である。
弁当を食べながらの話題は、いつものように多岐に渡り、駅前のパンケーキ屋が繁盛しているだの、靴下屋の靴下の新作がかわいいだので盛り上がっていた。
知世が鞄の中から『ザ・ワイド』を取り出してきたのは、そんな流れの延長だった。
「じゃーん!こないだ言ってた『令和の大合併』、雑誌に載ってましたー!」
いきなり見せられた大人の世界のそれを、生徒たちは違和感を持って迎える。
「ああ、そんな話、してたっけね」
「へー、大事件だったんだねー」
「すごいすごい」
知世以外の反応は、みな淡白である。
「ねー、それよかさ」
未来が言う。
「私、彼氏ができましたーっ!」
「えーっ!!」
「誰誰?」
「一個上の先輩でーす!」
「えーっ!!」
未来はスマホを取り出し、彼の写真を見せ始める。
その際に、スマホの待ち受けが恵にちらりと見えた。
「あっ。久能元だ。まだ待ち受けにしてるんだ」
「うん、お守りにねー。てか、やっぱご利益あったね。彼氏できたもん」
今や、久能元の待ち受けは、女子高生の間で知らぬものがいないほど、流通している。
「今回の受験生の先輩も、みんな久能元の待ち受けにしてるってさ」
「それでみんな合格したらすごいよね」
「そしたら、もっともっと流行るよね。すげー久能様!ウケる!」
あわれ、知世の提示した『令和の大合併』のニュースは、久能元の待ち受けの前には無力なのであった。
「香旬停」の仲居、竹尾登美子が、息子の竹尾学とともにコンビニに立ち寄ったのは、他でもない、『ザ・ワイド』を購入するためであった。
「三冊は買わなきゃ」
登美子は、鼻息も荒く、積まれた雑誌を奥の方から三冊取り出しかごに入れる。
他に炭酸飲料や菓子も買い込むと、二人は車へ戻り、運転席と助手席をまたいで、ささやかな宴が始まった。
「それでは、我らの雑誌デビューを祝して、乾杯!」
「よっ!大将っ!」
登美子が音頭を取り、息子の学が合いの手を入れる。
菓子の袋を開け、乱暴に手づかみで口に放り込むと、それを炭酸飲料で流し込む。
「で、なんて書いてあるのよ」
「待って待って。じゃあ、読むよ」
学が、該当する箇所を、まるで表彰式で賞状を授与されたかのような恰好で雑誌を広げ読みだした。
文面が読まれる間、菓子を頬張る手は止まっている。
最後の句読点まで読む音が聞こえたかのように、読み終わってしばらくの間が空いた。
その後、「よっ大将っ!やりましたなーっ!!」と、親子そろって、やんややんやと騒ぎ立てた。
傍から見ると、コンビニの駐車場ではしゃいでいる不審者二名、という図だ。
「言いふらしたいけど、リーク元は秘密にしとかないとだからね」
登美子が言う。
「母さん、駄目だよ、言っちゃあ。言いたいだろうけど」
息子がくぎを刺す。
この夜、竹尾家の食卓には、握り寿司が並んだのだった。
三笠市長に、『ザ・ワイド』が渡されたのが、発売の二日後の午後のことだった。
三笠は、この時も、公務に精を出していた。
そこへ、秘書の別所が、青い顔をして市長室に飛び込んできたのであった。
「三笠市長、大変です。一大事です」
日頃から冷静で有能な別所が、こんなに取り乱しているとは余程のことに違いない。
三笠は身構えた。
しかし、別所がもたらした知らせは、そんな予感を軽く超えていくものだった。
「とにかく、これを読んでください」
別所に言われ、三笠は『ザ・ワイド』を手に取る。
中を見ずとも、その拍子にでかでかと『令和の大合併』と載っている。
嫌な汗が背中をつと流れるのが分かった。
おそるおそる紙面をめくる。
該当箇所を読む。
読む目が文章をとらえず、何度も同じ文章を読む羽目になったが、三笠はどうにか最後まで読み終えることができた。
そして、読み終えたところで一泊起き、静かに別所に尋ねた。
「情報の出どころは?」
「分かりません。実は朝から不審な電話が相次いでおりまして。いつもより件数が多いので何事かと思っておりましたが、おそらくこの雑誌と関連があると思われます。あの――」
とまどいを隠せない別所が、間を置いて二の句を継ぐ。
「いかがいたしますか?」
どのような言葉を発したらよいのか、すぐには分からず、三笠は口元にやった手に唇をつけたり離したりしている。
三笠と別所が、ふたりして気まずい沈黙を破れずにいる、その時であった。
秘書の机にある一台の電話が鳴った。
嫌な予感しかしない。
「はい、三笠市長の秘書、別所でございます」
さすが別所、動揺をおくびにも出さない。
別所は、はい、はい、と何度か相手とのやりとりに返事をして、電話を三笠に回してきた。
電話の相手は、豊島市市長、江島公信だった。
軽く目をつむって息を吐くと、三笠は「はい、三笠です」と電話口に出た。
「ちょっとちょっと、三笠君、見た?『ザ・ワイド』!どういうことなんだあれは!」
開口一番、耳が痛くなるほどの怒号である。
「はい、拝見しました」
小さく答える。
「どこかから情報が漏れたんだ!一体、誰が漏らした!」
「さぁ……」
そんなことは、聞かずともわかるだろうに、それを問うということは、江島は三笠を疑っているということであろうか。
「江島市長、こうなってしまったからには、今後の方針を今、この時点で決めなければなりません」
三笠はきっぱりと言い放つ。
「ああ、ああ、分かっているとも!」
いつも穏やかな江島の慌てた姿を目の当たりにすることができて、実はラッキーなんじゃなかろうか。
三笠は、事態の緊急性とは裏腹に、そんなことを思った。
他人が慌てている方が、かえって落ち着くというものである。
「江島市長、現在の状況を整理しましょう。中央で秘密裏に進められているであろう『令和の大合併』を知り、我々は町おこしを画策しています。五千万円集まり、計画も具体的になり、いざこれから動き出さんという矢先にその情報が漏れてしまった」
「ああ、そうだな」
今までの会合などの時系列を追って、江島は考えを巡らせる。
江島の相槌を丁寧に待って、三笠は続ける。
「我々の選択肢は三つになります。このまま町おこしを実行するか、それとも中止するか、はたまたそれ以外か」
「ああ、その通りだ」
日頃から意思決定の場にある二人の会話は、こういう時スピードを増す。それは、弁論部で肩を並べていた頃からの二人の癖であった。
「結論を急ぐようですが、既に五千万円集まっていることを考えても、実行する以外に考えられないのではと思うのですが」
「ああ、計画がリークされたために町おこしをやめますとなれば、それこそまたスクープとして取り上げられてしまう。勿論、悪い意味でだ」
ここで、間を置いて、江島が口を開いた。
「目下、問題なのは、中央も我々も、一般市民に内緒で事を進めていたという心象の悪さだよ。これをどうにかしなければならん」
「確かに、雑誌の記事もそのような論調でしたね。しかし、何か手を打とうにも、中央が事を公にしていない以上、我々も公に動くことはできません」
「その通り」
二人が煮詰まった様子を見せたその時、横から別所が口を挟んだ。
「あの、関係があるので一応お知らせしておきたいのですが、現在、SNSで各分野のインフルエンサーたちが騒ぎだしていますね」
二人はきょとん、とする。
「インフルエンサーだと」
この忙しいのに、何をそんなに構う必要があるのか、といった江島の言に、三笠も同意を示す。
「しかし、とにかくお読みしますね」
そう言うと、別所は淡々と読み上げ始めた。
『焼き鳥のたれ@静岡:政治はいつも俺たちの方を向いてはいないってことが分かったよね、みんな。』
『もいもいママ@地球:自治体のすることが後から市民に知らされるってどうよ。』
『ひーたそ@実家:こうやって政治家がのさばるんだぜ、次の選挙はボイコットな』
三笠も江島も、目頭に手をやる。
別所は続ける。
「どれもSNSで十万人を超えるフォロワーを持つ巨大アカウントです。そんな彼らの発言に、今現在、多いものでいいねが二十万近くついていますね」
「この大変な時に……」
三笠が、思わずこぼす。
しかし、江島の反応は違った。
「それだよ、別所君」
指をぱちりと鳴らすのが電話口からでも聞こえた。
「それ、と申しますと……」
「彼ら、インフルエンサーに金を渡して、世論を誘導してもらうっていうのはどうかな。みんな、彼らの言うことなら聞くんだろう?金ならあるじゃないか」
「それは名案とは言えませんね。このご時世、その事実もいずれ明るみに出るでしょう。そうなった時に、お二人の心象は地に落ちることになります」
別所にぴしゃりといなされ、江島はがくりと肩を落とす。
市長室内の、かちこちという壁掛け時計の針の音が、耳に迫ってくるように痛い。
「あら?」
パソコンのモニタを眺めていた別所が動いた。
「お二人とも、今、よろしいですか?こんなインフルエンサーたちもいるみたいです。読み上げますね」
『医者だった人@日本:これって、五年後の大合併を、千代田市長がなんとか阻止しようとしていたっていう構図じゃないか?』
『小長谷/KONAGAYA@宇宙:千代田市長って三笠市長っていうんだ。へー。合併阻止するために裏で動くとか、かっこいいんですけど!惚れた!!』
『乱歩@江戸川:千代田市いいなぁ。こんな気概のある市長で。うちの市長も見習ってほしいわ。頑張れ千代田市!合併で無くなるには惜しい市じゃね?』
「――といった内容になります」
別所の声が、しんと静まりかえった市長室に響く。
三笠も江島も、一筋の光を見たかのような表情をつくっている。
「こりゃあ――」
「これは――」
「現在、これらのコメントにおよそ三十万、多いもので五十万ものいいねがついています。ぶら下がっているコメントを読みますね」
『千代田市長△!/三笠市長抱いて!!/三笠市長なら抱ける/がんばれ三笠市長!/がんばれ千代田市!/立ち上がれ千代田!!/がんばれ千代田市民!』
「あはっ」
さきほどまで沈痛な面持ちだった三笠の顔が、ほころんでいる。
それを見やって別所は笑顔で続ける。
「他には、『#がんばれ千代田市/#千代田市応援団』なんてのもできてますね」
「わお。すごいね」
もはやそれしか言葉が出てこない、といった心境である。
「江島市長、いかがですか」
先ほどから黙ったままの江島に、別所が水を向ける。
「いやぁ。いかがですかって。こりゃあ、一体全体――」
別所は、言う。
「お二人とも、追い風が吹いています。町おこし、成功させましょう」
それまで秘書という仕事に徹していた別所から、職務を超えた主張を受けて、三笠は笑う。
「ええ、そうね。江島市長、やりましょう。やり抜きましょう」
受話器の向こうで、江島も、ああ、と深く同意を示した。
この日、インフルエンサーたちのメッセージを閲覧した人数は、千代田市民三千人、全国民百万人、全世界民五千万人。
その各々の胸に、小さな火がともされたのであった。
日を同じくして、久能元は精神科の閉鎖病棟で変わらぬ日を過ごしていた。
今日も朝七時過ぎに起こされ、血圧を計られ、朝食を出される。
病院の食事は、歯ごたえのない料理ばかりで、元はいささか辟易していた。
この頃になると、毎週火曜と木曜の二日だけ、看護師のつきそいがあれば病院内の売店に行って、何でも買うことができていた。両親からお小遣いをもらった元は、歯ごたえを求めてお菓子を買いに、売店へと足を運ぶのだった。
思えば、髪の毛も、もう数か月いじっていない。
有料ではあるが、閉鎖病棟内でも散髪をしてもらえるので、元はそろそろ手を入れてもらおうかと思っていた。
そんな矢先のことであった。
「久能さん、面会ですよ」
そう看護師から呼び止められたのは、昼ご飯が終わって、緩んだ午後の日差しの中でのことだった。
毎日、レクリエーションという名のラジオ体操と塗り絵が十五時から始まる。
それまでちょうど暇だったので、元は時間が潰せてラッキーだと思った。
美晴とは、あの少し空気の悪くなった一件以来、話をしていなかった。
誰だろうか――。
両親は昨日、着替えとお小遣いを置いていったばかりだし。
そう思いながら、元はナースステーションへと向かった。
看護師を呼び出し、分厚いガラス張りの扉を開けてもらう。
そこに姿を現したのは、中肉中背、どこにでもいそうな、中年の男性だった。
見覚えのないその風貌に、元は、はたと首をひねる。
「はじめまして、権平といいます」
男はそう名乗った。
ああ、はじめましてなのか、と、自分の記憶が確からしいことを元は確認する。
閉鎖病棟の中というのは、時間が止まったように感じられるので、自分の記憶に自身が無くなるのである。
「じゃあ、とりあえず、どうぞ」
と、元はガラス扉横の談話スペースに置かれた小さな二人用のテーブルに、権平を案内する。
大の男が二人も向かい合って座ると、そのテーブルの小ささがいよいよ誇張されたように感じられる。
お互いの間の空間を広く取ろうとお互いが同時に考えたのか、二人とも、椅子の背もたれに背を預けてしばし相手の反応を待った。
しばらくの沈黙の後、口を開いたのは権平であった。
「えっと、久能元さんでいいんですよね」
「はぁ」
いいんですよねも何も、一体この男は何者なのだろうかと、元は気になって仕方がない。
権平は続ける。
「この雑誌を知っていますか」
そう言って権平が示したのは、『ザ・ワイド』という全国版のタブロイド紙だった。
「いやぁ、残念ながら、流行にはうとくて。調べようにも、今携帯を取り上げられているので調べようがありません」
そう言うと、権平の顔から薄い笑みが消えた。
「そんな軽口を叩いていい身分じゃあないんだよ、君は」
およそ初対面の相手に向けるような言葉ではないだろうそれを向けられ、元は目を見開いた。
「あの、言っている意味がよく分からないんですが――」
「しらばっくれても無駄だ。この『令和の大合併』という文言に覚えがあるだろう」
言って権平は表紙の帯を指さす。
『令和の大合併』――。
ああ、どこかで聞いたことがあると思ったら、去年の春に、上司の工藤さんから聞かされたんだっけ。
確かあの時は、他言無用と言われた上で、五年後に千代田市および全国の同規模の市町村が合併する旨を通達されたのだっけ。
閉鎖病棟の中にあって、ただでさえおぼろげな記憶をたぐりよせ、元はひとりごちる。
だが、ここで目の前の権平に是を示すのは、どうも得策ではない気がした。
「知りませんね」
元は、嘘をついた。
「知らないじゃあないだろう。なぜ中央が進めていた『令和の大合併』の情報がタブロイド紙にリークされているんだ。お前がリークしたんじゃないのか」
権平は迫る。
雑誌の中の文面は読んでいないが、権平が言うような内容が記されていることを元は察した。
「リークなんて、しませんよそんなこと。大体リークして、僕に何の得があるって言うんですか」
眉間に皺を寄せて、元は抵抗する。
いいか、と言って、権平は続ける。
「お前は、中央省庁での仕事がきつくなった。それで去年の夏のはじめに倒れた。そうだな。それから実家に戻り、手首を切った。これも事実だ。そうして現在、閉鎖病棟に入れられている。この一連の流れが、お前が犯人だと指示しているんだよ、残念ながら」
「そんな」
とは言いつつも、改めて客観的に聞かされてみると、なるほど、濡れ衣を着させられるにはもってこいの略歴である。
自分で自分の成り行きに軽い感動を覚えた元であったが、いかんせん、この権平という男、怪しすぎる。
いつもの元なら、ここで相手の出方を見るのだったが、美晴と連日話をしていたせいか、嫌に素直になっている自分がおかしかった。
「なんなんですか、あんた、いったい」
気づけば目の前の相手にそう詰め寄っていた。
「公安だ。業務上知りえた情報を、守秘義務を破って漏らした犯人を追っている」
「なるほど」
それで、権平のまとう威圧的な雰囲気にも合点がいった。
しかし、一方で、本当にこいつは公安なのかという疑問も湧いてくる。
大体、公安の人って、こんなに堂々と名乗るものなのだろうか。
「でも、僕は知りませんから。お引き取りください」
とりあえずは関わらない方がよいと判断した元は、ぴしゃりとそう言うと、その場を去った。
後に残された権平は、ちっと舌を打つと、表情を変えずに閉鎖病棟を出ていった。
それを遠目に見やって、しかし、そんな偉い人に会うなら、身だしなみを整えておくんだったなと、元は自分のぼさぼさの髪の毛を、じり、とねじるのだった。
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