第七章:養生
一日中、自室にこもっている久能元にとって、世間のいうクリスマスなどというイベントは、特に何の感慨も湧かない、布団にくるまったまま過ぎてゆく、それまでと同じありきたりの一日として過ぎていった。
そうこうしているうちに、年の瀬が迫り、大晦日の日がやってきた。
この日は快晴で、朝から抜けるような青空であった。
母が元の部屋へ入ってきて、「もう起きなさいよ」と、換気のために窓を開けてゆく。
きんと冷えた冷たい風が、元の頬に触れた。
元は毛布を首元まで引き寄せ、よりいっそう体を丸くした。
こんなはずでは――。
母の出ていった部屋で、元は一人思う。
徐々に空気が入れ替わってゆく室内にあって、元の思考は鈍い。
俺は、官僚で、この街が生んだ希代の天才で――。
ぼんやりとした頭と、どんよりとした目で、元は考える。
いつから――。
一体いつから、俺はこんな風になってしまった?
この街に帰ってきてから?
今年の夏のはじまりに、倒れてから?
その前、働いている時から、その片鱗は見えていたのか?
考えてみたところで、断片的な思い出が浮かび上がってくるだけで、それらは筋道を描いて答えを与えてはくれない。
パシャリ。
その音に、元はびくりと自分の肩を抱き寄せた。
おそるおそる、そちらに目を向けるも、そこには青空をのぞかせる窓枠があるだけである。
いつからか、室内にいても、写真を撮る音が、聞こえる。
馬鹿な。
ここは二階だ。
ノイローゼというやつだろうか。
パシャリ。
ほらまた、聞こえた。
ああ、もう嫌だ。
どこか静かな場所に逃げ出したい――。
その時、再び母が、ぱたぱたとスリッパの音をさせて部屋へ入ってきた。
「大晦日だし、こんないいお天気なんだもの。お布団、干しなさいよ」
そう言って、元のくるまっている布団をはいでいく。
元はあきらめて、のそりとベッドに起き上がると、ぽつりと母に言った。
「母さん、俺、年が明けたら、精神科に行ってこようと思う」
母の動きが止まった。
ややあって、母は布団を干す手を再び動かしながら、こちらを向かずに、「そう」とだけ言った。
夏から一度も切っていない髪の毛を気にしながら、一月も上旬を終える頃、元は精神科への途上にあった。
向かう先は「井口病院」という、この地域では一番大きな総合病院である。
そこに、なかなか大きな精神科病棟がくっついていると知ったのは、今回の受診を決めてネットで調べたからであった。
井口病院がなければ、精神科のある病院は隣町まで行かなければならないらしかった。
バスに揺られながら、井口病院がこの街にあってよかったなと、元は、そんなことを思った。
車で向かわなかったのは、自分の精神状態が不安定であることを自覚しているからであった。
万が一の事故などあっては、ただでさえ迷惑をかけている両親に申し訳がない。
元は、バスに揺られながら、自分の右手を見つめてみた。
そこには、縦に長く刻まれた生命線が走っている。その下には、静脈と思しき青い線がいくつも見える。
生きている――。
元は、ゆっくりと指を折り曲げていく。握りこぶしを、つくって、ぎゅっと握る。
生きているんだ――。
視線をバスの中に移すと、寒さもあって、何枚もの重ね着をした人が幾人も見受けられた。みんな、もこもこの恰好をしている。その誰の彼もの顔が、どれもかすかな生気を帯びているのだった。
みんな、生きているんだ――。
バスはのろのろと、「井口病院前」のバス停で止まった。
すると、それまで座っていた人々が、いっせいに席を立ち始めた。
なんだ、みんな、病院に行くのか。
正月の連休は過ぎたが、体調の悪い人がこんなにいるのかと、元は気の毒に思った。
しかし、自分のように、精神が参っているやつはいないだろうな、なんてことも思ったりした。
パシャリ。
相変わらず、シャッター音は聞こえている。
そして、そちらを振り返るも、誰もこちらにスマホを向けてはいないのだ。
分かっている。
元はうんざりした気持ちで、井口病院の受付へと進んでいった。
「あけましておめでとうございます。それで、本日は、どうされましたか」
呼ばれて診察室へ入ると、若い、元と同じくらいの年齢の医師が迎えてくれた。
医師は、それが患者に受けると思ってか、意味もなくにかっと満面の笑みを向けてくる。
第一印象から、なんだか苦手な医師であった。
「ええと、多分、幻聴が聞こえるんですけど」
「はぁ、幻聴ですか……」
医師は、突然の元の告白に、大仰にいぶかしげな顔を向けた。
「何か、きっかけとか、ありましたか」
「はぁ」
これは、言うか言わないか迷ったが、元は自分の体調のことであるしと、思い切って伝えることにした。
「あの、僕は久能元といいます。お聞き及びかもしれませんが、この街ではちょっとした有名人です」
「はぁ……」
目の前の医師は、眼鏡の奥から上目遣いにこちらを見て、にんまりと苦笑いを見せた。
どうやら、久能元という名前を知らないらしかった。
元は、しまった、と思った。
が、しゃべりだした口は止まらない。
「そんなわけで、パシャパシャと写真を撮る連中がいるんですよ。無断で。とても迷惑しているんですがやめてくれなくて」
「なるほど」
何がなるほどだ。
元は、内心で毒づいた。
もうこうなったらすべて言ってしまおう。
元はもうやぶれかぶれだった。
「部屋に一人でいても、聞こえるんですよ。シャッター音が。パシャ、パシャって」
「部屋に一人でいても、聞こえるんですか」
医師は、元の言った言葉を、おうむ返しに返した。
なんだその馬鹿にしたような対応の仕方は――。
元はいらいらしてきた。
くそっ、なんだって俺が――。
半年前は、霞が関でバリバリ働いていたんだぞ。
それが、周りの小物と一緒に、こんな小さな街の精神科なんぞに世話になって。
情けない――。
そう思うと、じんわりと涙が込み上げてきた。
するど、どんどん涙があふれてきた。あふれ出る涙が、止まらない。
医師は苦笑いを浮かべたまま、そばの看護師に行ってティッシュを渡してくる。
それを受け取りながら、さらなる屈辱を、元は感じていた。
こんな医師、俺が学生の時には、俺と同じ学年だったなら、俺の方がずっと成績は良かっただろうに――。
涙が、あとからあとからあふれてくる。
いたたまれなかった。
もう、ここにはいたくなかった。
「帰ります」
元は席を立った。
「ちょっと、久能さん」
「なんか、話したらすっきりしちゃいました。なんか治った気がします」
嘘だった。
ただ、もうこの場所には、いたくなかった。
元は、置いてあったかごから上着を取り上げると、それを小脇に抱えたまま、診察室を後にした。
あーあ、薬さえもらえればよかったのになぁ。
元は、病院に併設されているラウンジで、ひとり赤くなった目を休ませていた。
視界の内では、乳幼児を連れた母親、老々介護であろう老人二人、学生が一人、作業服を着た中年の男性などが、思い思いに過ごしている。
皆、どこかくたびれた格好をしており、彼らの中にあって、元はなぜか落ち着かない気分を感じていた。
見るともなく館内を眺めていると、元の目の前で、乳幼児が手に持っていたおもちゃを落とした。
原色をしたおもちゃは元の足元まで転がってきて止まった。
元は、仕方なしと、そのおもちゃを拾って母親であろう女性に手渡した。
母親と思しき女性は、軽く会釈をして、再び腕に抱く乳幼児に、そのおもちゃを握らせてやっていた。
老々介護をしているであろう若い方の老人が、すかさず「よかったねぇ」と乳幼児に向かって言葉をかける。
学生と作業服の男性はそ知らぬふりである。
なんだかな、と元は思う。
目の前の母親は、まさか自分の息子(娘かもしれないが)のおもちゃを拾った人物が、精神を病んでいるなどとは思いもしないだろうに。
元は、なんだか自分が悪いことをしているかのように感じた。
その時であった。
パシャリ。
また、シャッター音がした。
どうせまた誰もいないのだろうと、元はうんざりするように振り返った。
するとそこには、三人の女子高校生と思しき集団が立っていたのである。
見ると、各々の手にスマホを提げている。
元は目を見開いた。
パシャリ。
再びシャッター音が鳴る。
元は立ち上がった。
やめてくれ、と言おうか、それとも立ち去ろうか――。
いきなり立ち上がった元に、目の前の親子がびくっと肩を震わせるのが目に入る。
元はも何も言わずにその場を立ち去ることを選んだ。
しかし元が立ち去るそぶりを見せても、彼女たちのシャッター音は鳴りやまないでいた。
これだから田舎は嫌なのだ。
いつしか、元の胸に、そんな思いが去来していた。
パシャリ。
これは幻聴なのか、それとも現実なのか――。
振り返ると、女子高校生たちは、まだこちらにスマホを向けている。
この、――田舎者どもめ!
元は、怒りに打ち震えながら、帰宅の途についた。
パシャリ。
帰宅して、玄関ホールに体をなだれこませた元の耳に、またしてもシャッター音が響いた。
これは、幻聴だ。
周囲を確認しなくとも、玄関の内側までにありありと聞こえてくるほどの距離でカメラを構えている者などいるはずもないので、これは幻聴だとすぐに分かる。
それでも、聞こえるものは聞こえる。
「ただいまぁ」
その音をかき消すかのように、元は声を張り上げる。
家の中は、しん、としている。
「ただいまぁ、誰かいないの」
今一度、元は声を張り上げる。
返事は、ない。
後から思えば、この静寂が悪かったのかもしれない。
が、そんなことなど、この時の元には構う余地がなかった。
誰も、いない。
そんな閉ざされた空間の中、
パシャリ。
と、また、シャッター音が響いた。
元は歯を喰いしばると、急いで二階の自室へ駆けあがった。
それから、引き出しの中からカッターナイフを取り出すと、そのまま風呂場へ直行した。
浴槽は空だった。
元はその中に入り、栓をすると、体育座りになって、急いで蛇口をひねった。
急にひねられた蛇口からは、勢いよく水が噴き出す。
左の手首を、その流水の中にねじこむ。
冬場の浴槽の中に、じわりじわりと水が溜まってゆく。
元は、右手でカッターナイフを構え、左の手首にあてた。
パシャリ。
こんな場所にまでも――。
元はかっと目を見開くと、その後ややあって、力なくまぶたを閉じた。
極限にまで思いつめた状況でなら、聞こえないかもしれないと踏んでいたのに。
脳をだませるかもしれないと、思ったのに。
もはや、ここまで――。
元は、右手に力を入れ、カッターナイフの刃を押し当て横にすべらせた。
流水の中、赤い鮮血が左手首から流れ落ちる。
既に足元に溜まっている水の中に、徐々に赤色が広がり始めた。
左手首は、痛い、というより、冷たく、硬かった。
とめどなく流れる鮮血に少し恐れをなしてか、元は左手を流水から引き揚げた。
傷口からは、どくどくという音が聞こえてきそうなほどの勢いをつけて、血があふれ出ている。
元は、こうなったからには早く死んでしまわなければと思い、右手で、左手首の傷の近くを圧迫した。
すると、鮮血は、浴槽の中へ向かい、きれいな放物線を描いて飛んだ。
まるでおしっこみたいだな。
元は、そんなことを思った。
赤い、赤い、しょんべん小僧のおしっこみたいだ。
何度かその赤いおしっこで放物線を描いた後、元は力尽きたとばかりに両手をだらりと浴槽の中に泳がせた。
蛇口から流れ出る水は、既に胸元の高さにまで及んでいる。
脳内で、声が聞こえる。
シャッター音ではない。
人の声だ。
「田舎者めが」
そう、あれは、官僚として働いていたころ、言われた台詞だったか。
天才とあだ名された田舎者の秀才が、官僚まで昇りつめたのちに、ひっそりと実家で息を引き取る。
俺の人生、こんな感じかぁ。
でも、もう、これで解放される――。
薄れゆく意識の中で、元はどこか、あたたかいものを感じていた。
気づくと元は、真っ白な部屋の中で、あおむけに横になっていた。
顔のちょうど上に蛍光灯があるので、まぶたを開くと、とてもまぶしい。
元は目を細めながら、自分の体がいつもとは何かが違うことに気が付いた。
動かない。
そう、手足が思うように動かないのだ。
おかしいな――。
元は、自分の顔を右手で触ろうとした。
しかし、おかしい。
右手が、何かに引っ張られるようにして、動かないのである。
おかしい――。
元は、顎を引き、顔を下に少しずらすようにして、自分の動かない右手の方へ眼をやった。
元は、目を疑った。
自分の手首に、白い布が巻かれているのだ。
その白い布は、ぐるぐると二重三重に、ベッドの柵に巻き付いている。
何だ、これは――。
元は、腕を引っ張ってみた。
すると、腕に巻き付いた布に引っ張られて、ベッドの柵が、がたがたと鳴った。
もしかして、他の四肢も――。
元は四肢をばたばたと動かしてみた。
すると、手足にそれぞれ、右手と同じ抵抗を感じたので、これは四肢をつながれているのだと、合点がいった。
なぜ――。
俺に、何があった――。
元は、パニックになりかけている自分を自覚した。
いけない、自我を保たなければ――。
なぜかそんな風に何かに焦ろうとする自分を不思議に思ったが、とにかく気をしっかり持たなければと元は思った。
手足を落ち着かせ、息を整える。
辺りを見渡すと、どうやらここは、病院のベッドのようだった。
しかし、まだ分からない。
どこぞの悪者に連れ去られて、手足をしばられ、これから拷問を受けるのかもしれない。
自由のきかない四肢でもって、元はそんな恐ろしい考えに至った。
であるとするならば、誰か来る前に、早く逃げなくてはならない。
次に現れる人物は、手に刃物を持っているかもしれないのだから――。
元は、四肢をばたつかせたり、ねじったりして、なんとか自由を束縛している布から逃れようとした。
しかし、思うようにはいかない。
そこへ、部屋の引き戸の外に、人の気配がした。
がちゃがちゃと、鍵を開ける音がする。
全身に緊張が走った。
俺は、これから、拷問を受けるのか――。
がらがらと戸が開かれると、入ってきたのは、白い制服を着た看護師のような恰好をした女性だった。
「あらあら、久能さん、目が覚めたんですねぇ。おかげん、いかがですか?」
女性は明るい、間延びした声で元を覗き込んだ。
誰だ、こいつは。
元は、警戒心をあらわにして女性を見つめる。
「手首、切られたんですよ。お風呂場で。覚えてませんか」
女性は、元の顔の近くで、一音一音を正確に発することが義務であるかのようにしゃべった。
そういえば――。
なかなか像を結ばない頭で、元は、なんとなくそんなことがあったように思い出した。
「それから、どのくらい経っているんですか、いま」
元は、天井を見つめながら女性に尋ねた。
「通報があったのが昨日の夕方でしたから、丸一日経ってますねぇ」
丸一日――。
だめだ、何か考えようとしても、頭がついていかない。
元のそんな様子を見やってか、看護師のような女性はことさら分かりやすい笑顔を作って言った。
「大丈夫ですよ、すぐに院長先生が来られますからねぇ」
そうなのか、院長先生が来るのか。
元は、それ以上、何かを考えることができなかったため、言われるままを素直に受け取った。
ものの十分ほどして、お供に何人かの屈強な男性看護師を連れて、本当に院長先生とやらはやってきた。
「はじめまして、院長の井口です」
髪の毛をきれいに七三分けにした井口という男性は、元の顔を覗き込むようにして言った。
その物腰柔らかな物言いが、もしかしたらこれから酷い拷問をされるんじゃないかという気にさせられて、元は顔を引きつらせる。
「これから、拘束具を取りますからね、暴れないでくださいね」
すると、部屋の出入り口にかたまっていた屈強な男性看護師たちが、元の四肢に取り付いて、手足に巻き付いている布をせっせと取り始めた。
「まずは、ごはんを食べましょうか」
そう言うと、先ほどの女性の看護師のような女性が、味噌汁や焼き魚を乗せたトレイを持ってやってきた。
思わず状態を起こすと、頭がふらりとして再びベッドに倒れこんでしまった。
「あらあら、大丈夫ですか」
後で、これは血を失いすぎたからふらついたのだと思い至った。
「じゃあ、これ、食べてくださいねぇ」
先ほどの女性がベッド脇の机に食事を置くと、院長はそう言い、屈強な男性看護師たちを引き連れ部屋を出ていった。
元は、ぼんやりとした頭で、目の前で展開するあれこれについていけず、ただぼんやりと、言われるがままに、箸を手に取り、とりあえず、味噌汁に口をつけた。
味噌汁をすすると、口の中いっぱいに、塩辛さが広がった。
まるで味を知らない生き物になったかのように、出された食事すべての味が濃いと感じられた。ふらつく頭を首で支えながら、元は食事を半分ほどまで食べて、ああ、本当に、今食べているものが自分の血肉になっているんだなぁ、と、当たり前のことを感じていた。血を失うって、こんな感じなのか、と、思いながら。
食事を終えた元は、倒れるようにベッドに横になると、再び深い眠りに落ちていった。
まぶしい光に目を覚ますと、時間は定かではないが、部屋の外でかちゃかちゃと音がする。
その音に耳を傾けていると、ガラリと鍵が開いて戸がひらかれた。
「お食事の時間ですよ」
何時間眠っていたのか。
お食事とは、何時の食事なのか。
すべては不明だったが、言われるがままに元は箸を取った。
とにかく今は、食べなければ。
もしかしたら、実はとある研究機関のある部屋に閉じ込められていて、これから酷い拷問を受けるのかもしれないから。
いざという時、耐えるための体力だけはつけておかないと。
元は、必死の思いで一口一口を飲み込んだ。
すると看護師らしき女性が、
「もう昼間は自由に行動できるようになりましたから」
と、言う。
何のことだ?と思ったが、すぐに、部屋の鍵のことだと思い至った。
どうやら元の部屋には、外側から鍵がかけられていたことが、ふらつく頭で思い出す記憶の断片から読み取れた。
では、とりあえず、敵情視察といこうか。
元は、ベッドからのそりと起き上がった。
頭のふらつきは、昨日よりはずっとましになっていた。
足元を見ると、どこから持ってきたのか、元のいつも履いている靴が揃えて置いてあった。
どこまでも気味の悪い奴らめ。
元は毒づいた。
靴を履いて、元は部屋の外に出た。
すると、三十メートルはあろうか、元の部屋を中心にして、左右にそれだけの廊下が伸びていた。
その廊下の両脇に、いくつかの扉が見えた。
廊下には、だぼだぼの服を着た小太りの男性と、逆にがりがりに痩せた若い女性が、のろりのろりと歩いたりたたずんだりしている。
元は、少し歩いてみた。
すると、廊下の途中に、共同トイレがあるのを見つけた。それに、廊下の突き当りに、多目的ホールと書いた大きな空間があるのも。
多目的ホールにはテレビがあり、その前では、冬だというのにTシャツを着た人々が、四、五人集まって、何やら談笑している。
一体、ここは――。
時間の進み方が、まるで一秒ごとに、かたつむりが這うかのように、遅く感じられる。
それに、なんだか、気温が生ぬるい。
なんというか、人工的に調整された空間とでもいうか、そういう不自然さを感じる。
元は、廊下の端から端まであるいてみることにした。
ふらつく頭で、廊下に据えられた手すりにつかまりながら、一歩一歩あるいてゆく。
すると、元は、多目的ホールとは反対側に「ナースステーション」と書かれた看板が出ているのに気が付いた。
見るとナースステーションには、出窓と、その隣に引き戸がある。
出窓から覗いてみると、さきほどの女性が忙しそうに立ち働いていた。どうやら、看護師らしい女性ではなく、正真正銘の看護師らしかった。
元は、出窓の窓ガラスを叩いた。
やや間があって、中で作業をしていたらしい男性看護師が一名、出窓から顔をだした。
「どうされましたか」
元は言葉に詰まった。
どうしたもなにも、特に用はない。
「いや、目が覚めたんで」
我ながら、頭の悪そうな答えだと思った。
「そうですか、ご気分はいかがですか」
男性看護師は丁寧に尋ねる。
なんだか馬鹿にされたように感じられ、元は押し黙ってしまった。
ふと見ると、ナースステーションの向かい側に、大きなガラスの扉がある。
素人目にも、その扉がとても分厚いことが分かる。
元は、試しに扉の取っ手を握って、開いてみようとした。
しかし、扉は、前後にガタガタいうだけで、がんとして開こうとはしない。
その時、後ろから声がした。
「開きませんよ」
女性の声だった。
振り返ると、中年の女性が、こちらを向いて笑っている。
なんだ、気味の悪い。
元は少々の嫌悪感を覚えた。
しかし、情報は欲しい。
元は、思い切って話しかけてみることにした。
「ここは、開かないんですか」
我ながら、馬鹿みたいな質問である。
たった今、開かないのを確認したではないか。
「はい。ここ、閉鎖病棟ですから」
女性の言葉は、さも親切心から言っている風に聞こえた。
閉鎖病棟――?
頭が追い付かない。
元は、もう一度、その、手にしているガラス製の扉を見つめた。
力をこめてみる。
しかし扉は、前後にガタガタいうだけで、開こうとはしない。
頭がふらつくようだった。
元は、よろめきながら、ナースステーションの窓口を、もう一度叩いた。
先ほどの男性看護師が出てくる。
「どうかされましたか」
元は、つとめて冷静に質問しようとした。
「あの、ここは、閉鎖病棟なんですか」
男性看護師の顔に、同情の色が見えたのは気のせいだろうか。
「はい、ここは閉鎖病棟になります。大丈夫ですか」
元はそのまま、男性看護師を無視して、うろおぼえながら自分の部屋まで戻っていった。
それから元は、なんとかここからの脱出を試みた。
共同トイレの小さな窓から脱出しようとしてみたり、ナースステーション前のガラス扉をどうにかして開こうとしてみたりした。
しかし、結果はどれも、思わしくないものだった。
なぜ俺が、閉鎖病棟なんかに――。
数日もすると、元の中に、激しい怒りがこみあげてきた。
俺を誰だと思っているんだ。
中央省庁で働く官僚だぞ――。
そうはいっても腹は減った。
院内では、食事は朝の七時半と、昼の十二時半と、夕方の十七時半と決められていた。
食事は毎食、全員の分が大型ワゴンに乗せられてやってくる。元は、皆と同じように看護師に自分の名を伝えて、自分のネームプレートの乗せてある食事トレイを取り出してもらい、部屋に戻って一人で食べた。
他の連中は、多目的ホールにあるテーブルで、みんなでそろって食べるらしかったが、元は一緒に食べる気にはなれなかった。
あんな連中と一緒に食べると、飯がまずくなる――。
「あんな連中」とは、一日中しゃべり倒している年配の女性であったり、アルコール中毒で入っているという中年の男性だったり、夜中中起きて廊下を歩いている老人だったりした。
一週間も経つと、どうやらここからは逃げられないというあきらめの境地に達してきた。
後で知るが、はじめてここに入れられる人は、誰でも大体が同じ経過をたどるらしい。
元も例にもれず、まずここから逃げようとし、それから諦め、その後ややあって、現状を受け入れていくフェーズへと移っていったが、このころは、まだ、諦め直後の絶望感が勝っていた。
そう、元は絶望していた。
もう二度と、明るい表を元気に歩くことはできないのか、と。
もう自分のキャリアは終わってしまったのか、と。
学生時代から続く、これまでの努力の道を思い返してみると、いかにも悔やまれる。
終わった――。
すべてが終わった――。
元は、食事を食べる以外は、一日中、個室のベッドにあおむけになり、茫然自失となり過ごしていた。
もはや衝撃が大きすぎて、涙も出なかった。
それでも毎日、腹は減った。
食事のたびに「ごはんですよ」と呼びに来るナースたち。
彼ら彼女らに従って、元は食事も薬も、順調に吸収していた。
動かないものだから、元の体重は見る間に増えていった。
いきなり体重がどかんと増えたものだから、体がびっくりして、便秘になったものだった。
風呂は二日にいっぺんで、十畳ほどある共同浴場を、一人ずつ使うようになっていた。
ここの生活にも慣れだして二週間ほどが経った頃、元のもとに、両親が面会にやってきた。
聞くと、長らく面会謝絶だったらしい。
大丈夫かと尋ねる両親に、大丈夫だと言うしかない元がいた。
ここで初めて、元が手首を切った後、母が風呂場で元を発見し救急車を呼んだことを知らされた。
もうろうとする意識の中で、元は、直前に受診していた精神科にまわされ、自分で閉鎖病棟への入院に同意したのだという。
本当かどうかあやしかったが、ここへ入ったいきさつはおおむねそんなところだった。
一週間分の着替えやおやつを置いて、両親は帰っていった。
僕も――。
僕も連れて帰って。
両親の後ろ姿に、そう叫びたくなる衝動を、元はおさえた。
自分の境遇が客観的に把握できてきた頃、元は一人の女性と知り合った。
なんでも、元が多目的ホールの隅にあるテーブルに、はじめてちょこんと座ってみた時に、声をかけてくれたのだった。
病棟内にあっては、患者同士の距離感は、患者たちに任されている。
誰に声をかけるか、誰と知り合いになるかは、当人たちの自由であった。
それまで他の患者から声をかけられても、どうせこんなところにいる患者は、頭のおかしな奴ばかりなのだろうと、煙に巻いていた元である。
この時も、元はすぐに話をきりあげようと、決めていた。
「美晴さんは、どうしてここへ?」
どうしてここに入ったか、というのは、閉鎖病棟内では、お決まりの質問であった。
この時も元は、通り一遍の社交辞令であいさつ代わりに尋ねただけであった。
「うん、少し手首を切っちゃってね。いわゆる自傷行為ってやつ。それで、任意入院」
「へぇ。」
手首を切ったとは。
同じ境遇に、元は少し身を乗り出した。
しかし、「任意入院」とは何なのだろう。
官僚である自分が、こんなところで素人にものを乞うなど――、と思いはしたが、どうせここで起こることなど誰も知りはしない。
元は、聞いてみることにした。
「『任意入院』て、何なんですか」
我ながら、アホっぽい質問である。
「ああ、『任意入院』ていうのは、本人が望んで入る入院のこと。半強制的なのが『措置入院』」
「へぇ」
自分の場合は、どちらになるのだろうか。
元は、そんなことを思った。
「手首、痛そうですね」
美晴の手首には、真新しい包帯が巻かれている。
「そちらも」
元の方の手首には、もう傷もくっついたので、小さな絆創膏が貼られているだけである。
早くも話題がなくなったので、二人の間に沈黙が降りる。
その沈黙をやぶったのは、美晴だった。
「暇ですよねー毎日」
「そうですねえ」
「毎日何してるんですか、部屋で」
「何もしてませんよ。ぼーっと天井を眺めたり、本を読んだりしてます」
これは本当だった。
最近、元は、絶望感を超えて現状を徐々に受け入れつつあるフェーズにあり、今こうした環境の中でできないことはないかと、両親の持ってきてくれた本を読むようになっていたのだった。
「こんなことしてる場合じゃ、ないんですけどね」
これは本音だった。
官僚として、あくまで長期休暇下にあるだけの元にとって、精神科の閉鎖病棟に入院するなど、あってはならないことだった。
「お仕事、忙しいんですか」
「ええ、まあ」
美晴の方はというと、なんだかのんびりしているように見える。
そう生き急いではいないようであった。
「私も仕事、できたらなぁ」
美晴は言った。
「お仕事は、されてないんですか」
していたとしても、どうせ大した仕事ではないのだろうが。
元は言外に、そういう意味をこめたつもりだった。
「はい。大学を出てからはずっと精神科にお世話になっていて。発症したのが、大学を出てすぐだったんですよね」
会話の途中で、いきなり自分は大学を出ているのだとアピールしてきたようにも聞こえ、元はくだらない低レベルなマウンティングに、なかばうんざりするようにこたえた。
「ああ、それは大変ですね」
棒読みしすぎたかもしれない。
が、相手は精神病患者だ。かまうことはない。
元は気を取り直して、とりあえずの会話のキャッチボールを続けた。
「発症って、なんの病気なんですか」
「統合失調症です。あるころから段々と幻聴が聞こえるようになってきて」
幻聴――。
元はそれを聞いて、半開きになっていた口を真一文字に閉じた。
ごくりと、つばを飲み込む。
そういえば、元は、自分の病名を知らない。
意識が戻って以来、出される薬を飲む毎日だ。
「僕、実は自分の病名、知らないんですよね」
何故そんなことを告白したのか、分からないが、美晴には、言葉が通じそうな気がしたのだ。
元は美晴と会話をしたいと思い始めていた。
「そうなんですか?じゃあ、ナースステーションで聞いてみましょうよ。おしえてくれますよ、きっと」
美晴は、元を先導して、ナースステーションまで連れて行った。
そして窓口を叩くと、出てきた女性看護師に、「久能さんが、自分の病名、知りたいんだって」と伝えた。
なんだか、親に手を引かれている子供みたいだな、と元は思った。
「すみません、なんだか」
「いいんですよ、なんたって、暇だし」
そう言ってあははと、美晴は笑う。
「えーと、久能さんね、ああ、統合失調症だよ。なに、それがどうかしたの?何二人でしゃべってんの」
女性看護師は興味深そうにそう尋ねてきたが、教えてあげなーい、と美晴はまたも先導して元を多目的ホールの方へと引っ張っていった。
この日は美晴と長い時間しゃべっていた。
美晴の生い立ちから、学生時代のあだな、部活動、恋愛関係に至るまで、いろいろときいた。
まるで年来の友人のようなやりとりに、元はすっかり気をよくしていた。
気づけば、
「なんだか長年の友人みたいですよね、僕たち」
と、口に出すまでになっていた。
「僕、もっと違うと思ってました」
と、元は言った。
「違うって、何が?」
美晴が問う。
「精神病って、言葉が通じない人ばっかりなのかなぁって。こんなふうに会話ができる人がいるなんて、思ってもみなかったです」
「まぁ、統合失調症って、薬で幻聴や幻覚を抑えたら、あとは普通の人と一緒だし」
そうなのか。
思えば、意識を取り戻して以来、薬を飲んでいるせいか、元はあのシャッター音を聞いていなかった。
「そうなんですね」
決して、混じらないと思っていた病人たちに、今、自分が混じっている。
しかし、これは違う。
美晴は、患者たちの中でも、言葉の通じる、特別な患者なのだ。
他の患者とは、こんなふうに会話はできない。
あくまで、俺は、ここの患者たちとは違うのだ――。
元は、美晴との会話でゆらぐその境界線の上で、今、あやうくバランスをとっていた。
それから、美晴とは、連日話をするようになった。
美晴は、母と二人暮らしらしく、その母親は、時折面会にやってきていた。
美晴の母親とは、元も顔を合わせば会釈をする仲となった。
元の両親にも、元は美晴を紹介した。
仲良くさせてもらってる女性がいるんだよ、と。
美晴は、元と違い、他の患者ともある程度しゃべるようだった。
何度か、多目的ホールで、他の患者と談笑しているのを見たことがあった。
そんな美晴を見るとき、元は人知れず、軽蔑のまなざしを向けるのだった。
入院してからどれだけ経ったろうか、ある日の事、元は意を決して打ち明けた。
「実は僕、官僚なんですよね」と。
「僕が病気になった原因なんですけど」と、元は前置きしてしゃべりはじめた。
「僕が官僚であることで、千代田市で有名になっちゃって」
「あらら」
美晴は、驚くでもないふうに、相槌をうつ。
それが少々おもしろくなく、元は次を続けた。
「それで、写真をとられまくったんです。みんなから写真をとられまくって、ノイローゼになちゃって。しまいには、シャッター音の幻聴を聞くまでになってしまって」
「なるほど、それが幻聴の原因だったんですね」
「そう。もう、怒り心頭で。この田舎者どもがって。あの頃の僕は、どうかしてた」
「ふふ。今はもう、そんなことは無いんですか」
しばしの間があく。
「ないといったら、嘘になります。実は、ここの患者さんに対しても、少し同じように思っている部分があります」
閉鎖病棟という特殊な環境にあってか、それとも美晴との関係性が手伝ってか、元はここまで正直に本音を吐露するのは、なぜだろうと思った。
「官僚様だから?」
美晴が静かに言う。
「そう。俺は官僚なんだぞ、なんだ、お前らなんぞって。とういか、それ以前に、言葉通じませんけど」
これは本当だった。
幾人かに好奇心から話しかけてみた元であったが、美晴のように会話を普通に続けることのできる患者は皆無だったのである。
「でも」
「でも?」
「こうなってしまっても、ここにいる連中よりは、ましだなって思えるんですよね。それだけ、ましなのかも」
「なんで?」
「だって、精神科の閉鎖病棟に入院って、もう人生、終わりでしょ」
少々言葉がきつくなったが、偽らざる本音を吐露したことにより、元の気分はそれまでにないほど気分がよくなっていた。
「ちょっと」
すると、美晴の声色が変わった。
ややあって、美晴が口を開く。
それは、言いにくいことを言い出そうとしているようであった。
「あのね、悪いけど、それはここの人たちに失礼じゃないかな。っていうか、私も、その『終わった』側にいるんだけど」
「いや、そういうつもりじゃあ」
「そういうつもりじゃなくても、久能君は、そう言ったの」
「まいったな……」
軽い気持ちの発言だっただけに、ここまで美晴の機嫌をそこねてしまうとは読めなかった。
「久能君」
美晴は言葉を区切っていった。
「不幸な人を見て自分の不幸を慰めるのはやめて。代わりに、自分の幸せに気づいてそれを大事にしてよ」
突然の美晴の忠告に、元は目を見開き小鼻を膨らませた。
何を生意気な――。
それに続く言葉は、「一般庶民のくせに」だったが、さすがにそれは口にしなかった。口にすると、自分がひどく陳腐な存在になったように思われるからだった。
その台詞を聞いてすぐには反発心から腑に落ちなかった元だったが、個室にもどり反芻するうちに、この言葉は頭の中で大きくなっていくのだった。
「不幸な人を見て自分の不幸を慰めるのはやめて。代わりに、自分の幸せに気づいてそれを大事にしてよ」
時を前後して、元が閉鎖病棟に入院してしばらく経った一月の下旬、一冊のタブロイド紙『ザ・ワイド』が全国で発売された。
その紙面には、でかでかと、「噂の『令和の大合併』に迫る!!」と印字されていた。
このタブロイド紙の発行をもって、『令和の大合併』の事実は、全国に広まったのであった。
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