第六章:流行
師匠も走るといわれる師走に入ったある日の午後、久能元は自宅のベッドで蓑虫のように布団にくるまって、さきほどからやや伸びた髪の毛を指の先でいじっていた。
することがない。
外に出れば誰彼構わず写真を撮られるのは目に見えているので、とてもじゃないが外出する気にはなれない。
ついこないだなどは、玄関先でシャッターを切る音が聞こえた。それ以来、玄関ホールを通るたびに、玄関脇にはめられたすりガラスの向こうをうかがってしまう。
一体、いつからこんなに憶病になってしまったのか――。
自分で自分が嫌になる。
元は、いまいちど胸の奥まで息を吸い込むと、大きなため息を吐いた。
先ほどからため息ばかりついている。
そんな自分がより一層みじめで、駄目な存在に思えてくる。
一体、何が原因で――。
そう、そもそもこうなってしまったきっかけは、一体何だったのだろう――。
元は、ぼんやりとした頭で、今となってはおぼろげになってしまったはるか昔の記憶をたぐりよせる。
一年前、東京――。
元は厚生労働省で働いていた。
直属の上司の工藤さんは、いつも厳しくて、いつ怒られやしないかと常にひやひやしながら仕事をしていたっけ。すらりと伸びた手足にスーツがびしっと決まっていて、歩く姿がいつも緊張感に満ちていた。瞼を閉じると、工藤さんの一挙手一投足をありありと浮かび上がらせることができる。
厚生労働省での仕事は、多岐に渡った。
厚生労働省は、社会福祉や社会保障に関する機関だが、元のいた部門では、地方の職業安定事業をとりまとめていた。簡単に言えば、仕事のあっせんをするわけだが、それは各地方の出先機関がすることで、元たち中央組がすることといえば、もっぱら各地方からあがってきた細かい数値の照会などだった。
毎日毎日、やれ全国の正社員の変動率がどうの、やれ某県の労働基準法違反率がどうのと、モニタで数字を追いかける日々を送っていた。
帰宅するのは決まって日付をまたいでからで、他でもない官僚が労働基準法違反をしているのにそれを申告していない現状を、元たちは犠牲的精神でもって語っていた。
あの頃は、いかに根を詰めて働くか、いかに仕事に専念するかを競い合うようにして働いていた。食事といえば、朝はエナジードリンク一本で始まり、昼は社割の格安弁当、夕方に缶コーヒーを数杯とったら、あとは深夜まで飲まず食わず。深夜になり家に帰ったら、コンビニで買ってきた弁当やカップラーメンを胃に流し込んで数時間後の起床に備えていた。毎日が怒涛のように過ぎていき、馬車馬のように働いていたっけ。
そんな元の体調に異変が出だしたのが春先だった。
最初は、なんだか妙に下痢が続くな、といった程度だった。
しかし、それが段々、妙に鼻風邪を引くな、と変わってゆき、そういった細かい体の異変を放置していたら、五月の健康診断で引っかかったのだった。
久能元、三十二歳、まだまだ働き盛りのど真ん中であった。
元は、健康診断の結果を見ても、医師の診察が必要だと言われても、それまでと変わらず休日返上で働き続けた。
その結果、七月に入って最初の出勤日に、見事に職場で倒れたのだった。
職場は騒然となった。
工藤さんが号令をかけ、すぐさま同僚の幾人かで元の体を医務室に運び、間を置かず救急車が呼ばれ、元は都内の私立病院へと救急搬送されたのだった。
気づくと、そこは病院内の一室で、腕には長い管がつながれ点滴がぽたぽたと落ちているのが目に入ってきたのだった。
あの時は急いで工藤さんに電話をしたのだっけ。
深夜ではなかったから、まだ職場にいるはずで、職場にいるからには、電話に出てくれるはずだった。
果たして、工藤さんは、三コール目で電話口に出て、一通り病状を聞いた後に、ひとこと「長期休暇を命ずる」と、ぴしりと命じたのだった。
この命令に、元は衝撃を受け、必死になって工藤さんに追いすがった。一時的に体調を崩しただけで、自分はまだ働ける。役に立つ。皆が望む成果をあげてみせると、懸命に工藤さんに訴えた。
しかし、工藤さんの答えはノーだった。
その後何度となく同じやりとりが繰り返されるも、工藤さんが首を縦に振ることはなかった。
元はあきらめて両親と母校の恩師に帰省する旨を伝え、東京を後にしたのだった。
ひっそりと傷ついた心身を田舎で癒すつもりだったのに、なんだこの騒ぎは。
思い出から一気に現実へと意識が飛び、元は急にむかっ腹がたってきた。
しかし、物にあたる性格でもなく、自室で布団にくるまったまま、元は今一度、大きく息を吐くのだった。
年の瀬の香旬停にあって、ロビーには人の背丈ほどあるクリスマスツリーが飾られて、訪れる人々の目を楽しませていた。
県下でも有名どころの老舗とあり、忘年会の予約は数か月前から埋まっている。
松竹梅の奥の間も、先ほどからひっきりなしに人が出入りしていた。
「竹尾さん、おしぼり5つ、竹の間ね」
「はぁい」
香旬停の仲居、竹尾登美子は、この日も午後三時からシフトに入り、上から下へせわしなく立ち働いていた。
登美子といえば、時たま訪れる三笠市長一行の会談に聞き耳を立て、そこから五年後の『令和の大合併』という一大事を知るに至り、今月のはじめ、職場から帰宅後すぐに、息子の学にそのことを話して聞かせたのだったが、当の彼女は忙しく立ち働く中で、そんなことなどすっかり忘れていた。
息子の学が、登美子の話を全国規模のタブロイド紙にリークしたことなど、知る由もない。
しかし、一旦口火をきってしまえば緊張が緩むもので、息子に話して聞かせた話を、登美子はこの頃、同僚に打ち明けたい気持ちになっていた。
「竹尾さん、休憩入っていいよー」
そんな登美子にとって、この日は特に忙しかったこともあり、口が滑ってしまったのも仕方のないことであった。
「ねぇねぇ、こないださ」
疲労から解放されるひととき。一旦、言葉を紡ぎだすと、あとはもう流れるように滑ってゆく。
「聞いちゃったんだよね。竹の間で。三笠市長がさ、江島市長っていう他の市の市長と話してるところを」
「えっ、なになに」
食事を終え煙草休憩に入っていた同僚は、興味深げに登美子の話に身を乗り出す。
年末の忙しさの中にあって、皆、このお祭り騒ぎのような喧騒に、どこかしら浮足立っている。
「なんかね、五年後にね、千代田市、なくなっちゃうんだって!『令和の大合併』って言ってたかな。もう決定事項らしかったよ」
「えーっ。あんたそれ、すごいこと聞いちゃってんじゃん。大丈夫?」
登美子は一泊、わざとじらすように間を置く。
「しかもね、三笠市長たちがね、それを阻止したいからって、五千万円集めて町おこしするんだって!」
「えーっ!町おこし!?何考えてんだろうね」
「でしょでしょ?町おこしなんかして、何になるんだってーの」
登美子と同僚は、えーっだのうそぉ、だのといった言葉を連発して、自分たちの興奮をよりいっそう盛り上げている。
「これって、トップシークレットだよね」
同僚がひそひそ声で、あからさまに手を口に当てて肩をすぼめて登美子に言う。
年末の浮かれた気分の中にあって、その目は完全に笑っている。
「当たり前じゃん。ここだけの話だからね。守秘義務ってやつで」
「分かった。守秘義務だね」
同僚はそう言うと、気持ちよさそうに煙草の煙を吐き出した。
勿論、この同僚が帰宅し夫を前にする頃には、こんな約束など記憶の彼方に追いやられてしまっていたのだが、すべては年の瀬という時期が悪かったのだということだったのであろう。
十二月も中旬に入り、世間がそわそわしだしたこの日、吉田晴美の母は、玄関先で隣に住む初老の女性に声をかけられた。
お互いに、年末は忙しくて大変ですねと言葉を交わした後で、話題はあらぬ方へと転がってゆく。
「そういえば、聞きました?」
「何をですか?」
「大合併の話」
はて。
大合併?
美晴の母は、何のことだか分からないので首をかしげてみせた。
「五年後にね、大合併があるんですって。それでね、千代田市がなくなっちゃうんですって。怖いわねぇ」
女性はそう言うと、大掃除、頑張ってね、と言い去っていった。
美晴の母は、帰宅してそのことを美晴に打ち明けた。
「お昼隣のおばちゃんに声をかけられてそんなことを言われるものだから、お母さん困っちゃって」
「へぇ」
母の打ち明け話に、美晴はあまり関心が湧かないらしい。
テレビで放送されている年末特番を見入っている。
「暇だねぇ」
そう美晴に言われ、母は自分がそう言われたように感じてむっとして、夕飯の片づけを始めたのだった。
吉田晴美の母が隣人につかまっていた頃、斎藤酒店の店主、斎藤良太は、違う筋から『令和の大合併』の噂を聞いていた。
良太に打ち明けた人物、それは、店にやってきた顔なじみであった。
「良ちゃん、知ってる?『令和の大合併』の話」
顔なじみのおじさんは、酒のケースを抱えながら忙しそうに店内をまわる良太をつかまえてそう言った。
「何それ。政治のニュース?」
動きながら、良太は答える。
おじさんは、ふふんと鼻を鳴らすと、「ここだけの話だがね」と話し始める。
「うちの母親の友達が言ってたらしいんだけどさ、五年後に千代田市がなくなっちゃうんだってさ。合併するんだと。隣の市と。」
情報を咀嚼するのに若干の間を置いて、良太は動かしていた手を止める。
「そりゃあ、本当の話か」
「ああ、うちの母親の友達の話だから、まぁ、本当だ」
それのどこが本当らしいのかは良太には分からなかったが、この際、おじさんの顔を立てて信じることにした。
「そりゃあ、大事件じゃないか」
「そうよ、俺もまだ昨晩聞いたきりで信じられねぇ」
おじさんはそう言うと、おもしろそうに、にかっと笑った。
その晩、良太は家で、夕飯を食べながら、母のセツに打ち明けた。
「母さん、今日、店で変な話聞いてさ」
セツは口をつけていた味噌汁を置く。
「また何を聞いてきたんだいこの子は」
「違うんだよ。大変な話でさ。『令和の大合併』っていってさ」
「何が『令和の大合併』だ。仕事しな仕事」
食事の席で口を開くことをよしとしないセツである。まるでとりつくしまがない。
良太は母に打ち明けたのが間違いだったと諦めて、ひとり自室に移動した。
自室で良太はデスクトップパソコンの電源をつける。
モニタにうつるいくつかのファイルの中の、「売上」と題されたファイルを開くと、今年の収益がずらっと数字になって並んでいるのが目に入ってきた。
それらを眺めながら、良太はため息をつく。
今年もぎりぎり、店舗の家賃が払えるほどの収入があるばかりである。
年末になり、いくらか伸びを見せているとはいえ、今月も厳しい日々が続く。
「どかんとでかいイベントでもあればなぁ」
良太は、ベッドにあおむけになり、天井の電灯に目を細め、面白くなさそうにそうつぶやいた。
そうして、あることに思い至った。
『令和の大合併』が成ったら、市の祭りはどうなるんだろうか。
隣の市と合同だなんて、嫌だな。
良太は起き上がり、もう一度、モニタの数字に目をやるのだった。
的屋の津野一平が、その噂を耳にしたのは、それから二日後の深夜ことだった。
屋台を出していない間は、トラックの運転手とイベント会場のスタッフで日銭を稼いでいる一平は、市のガソリンスタンドで、その噂を聞いたのである。
一平は、いつものように、大型のトラックで資材を市外から市内のイベント会場へと運んでいた。
すると、「ねえねえ、知ってる」と、大きな女の声が聞こえてきたのである。
場所は、ガソリンスタンド内の休憩所である。
十畳ほどの縦長のスペースの中にカウンターを設けただけの休憩所には、自動販売機が二つあり、一平はちょうど、その片方から缶コーヒーを取り出したところだった。
耳だけで振り返ると、声の主は、若いカップルのようだった。
「知ってるって、何を?」
狭い店内で、ちゅっちゅっといった、キスの音が響く。
普通の人間であれば、いたたまれなくなり、早くこの空間を出ようとしたろう。しかし一平は、この時少々虫の居所が悪く、少しいじわるをしてやりたい気分で、カップルの邪魔をすべく、わざとこの空間内にとどまることを決めたのだった。
四席しかない狭いカウンターに、カップルと、一つ空席を挟んで一平が腰かける形となった。
手元の缶コーヒーに視線を合わせ、一平は二人の言動に集中する。
すると二人は、いちゃつく自分たちに配慮しない一平を面白くないと思ったのか、一層の声を張り上げて会話をしだした。
「知ってるっていったらあれでしょー。『令和の大合併』!」
どうやら女は少々酔っているらしかった。
しかし、女の言った『令和の大合併』とは――。
一平には初耳であった。
耳をそばだてなくとも女の声はよく響く。
一平は女の次の発言を待った。
「なんかね、五年後にぃ、千代田市、なくなっちゃうんだって!あはは!どうしよう!なくなっちゃう!合併で!あはははは!」
「へーえ、そうかそうか、ってお前、呑みすぎだって」
カップルの男の方は、女の発言よりも、飲んだくれた女の介抱に必死になっているようで、それ以上会話を続ける気はなさそうである。
しかし女は続ける。
「それでね、政府の悪者が千代田市をなくしちゃう前にね、千代田市のしちょーがお金を集めてお祭りとかするんだって!すごいよね!お祭りだよ!?やったぁ!あはははは!」
この女の発言に、一平は目をまるくした。
一平に去来した感情は二つ。
一つは、こともあろうに、政府の役人、いや悪人どもが、一平の知らないうちに千代田市を消しにかかっているという事実を知った怒り。
もう一つは、大規模な祭りがあれば、的屋での大々的な収入が見込まれるという予感からくる喜び。
一平の感情は、このうち後者に大きくかたむいた。
実入りが増えれば、もう年末に懐のさみしい思いをしなくて済む。
千代田市の市長が計画している祭りとやらはいつあるのか。
一平は、この日から、いつも以上に新聞やニュースに目を光らせるようになっていった。
年末の盛り上がりは、バー「和心」にも同様にして訪れていた。
クリスマス色一色に飾り立てられた店内には、忘年会で貸し切りの一行のために、先ほどからアップテンポなクリスマスソングが流れている。
今日の一行は、近所の商工会議所の会員たちで、皆、昼間の仕事後に設けられた一席を終えての二次会として、「和心」を訪れていた。
店内に普段設置されている椅子はすべて片づけられ、今日は立食パーティーの様相を呈している。
会食が始まって小一時間経った頃だろうか、めいめいが皆ちょうどよい具合に場の空気になじんでいた。
カウンターを挟んでの注文が少しおさまったのを見計らって、バーのマスターの小川俊一郎は、小休止をとるべく、カウンターの内側に小さな椅子を持ってきて、軽く腰を掛けた。
すぐそばのカウンターの反対側では、三十代と思しき二人が、何やら熱弁をふるっている。その内容は、大体が景気の話で、やれどこぞの役員が悪いだの、消費者の動きがにぶいだのという、どこかで聞いた話に終始していた。
聞くともなくそれらの話に耳を傾けていた俊一郎だったが、『令和の大合併』という言葉を耳にし、はっと息をのんだ。
それは、夏のはじめ、祭りの日に、他でもない俊一郎が、ここ、バー「和心」のカウンターで、酔いつぶれていた久能元から聞き出した秘密であるはずだった。
秘密を聞きだした翌日、俊一郎はその足で、町内会の池井町長に打ち明けたのだっけ。
そのあと、池井町長は一体どうしたのだろうか。
「任せておけ」と言われたから任せたままにしていたけれど。
あれ以来、頭の隅に引っかかったままだった『令和の大合併』というフレーズを、まさか再びこんなところで耳にするとは思わなかった。
俊一郎は、耳をそばだてる。
「なんでもさ、五年後に『令和の大合併』っていって、千代田市が合併されるらしいな。でもって、三笠市長は合併に反対するために町おこしを計画してるって。集まった金、ざっと五千万円也!」
「いや~っ。その金、分けて欲しいっ!」
すでに出来上がっている二人の男は、鼻頭を赤く染めながら大きな身振りで三笠市長の真似をしている。
カウンターの内でグラスを磨きながら、俊一郎は、静かな高揚感につつまれていた。
翌日の正午前、俊一郎は妻とブランチを摂る席で、昨夜の話について妻に打ち明けた。
「まぁ、『令和の大合併』……。大変なお話ねぇ」
日頃からおっとりしている妻には、荷が重すぎたのか、話を聞いてもおうむ返しを繰り返すばかりである。
俺の起こした行動が、今、市をまるごと吞み込んだ一大イベントとして成果をあげようとしている――。
三笠市長などの上の人たちが今度どういうつもりで何をするのか、具体的なことは分からないが、自分も発起人の一人であるような気がしている俊一郎は、この町おこしが他人事のようには思えなかった。
もし町おこしが本格化したら、俺はいの一番に協力しよう。
それまでは、じれったいけれど、様子を見守るしかないのか。
元なら、こんな時、どうするだろうな――。
俊一郎は、食事の片づけをしながら、事の発端である旧友のことを思った。
足元では、三歳になる娘が、「だいがっぺー」と言いながら積み木で遊んでいた。
千代田高校では、冬休みを前に、中間テストが行われていた。
国枝恵は、張り出された科目別順位表の上位十位以内に、相変わらず自分の名前がランクインしていることを認めて、ほっと胸をなでおろしていた。
矢田部義則とつきあい始めて二か月が経つが、失った勉強時間の割には、成績はそこまで落ちていなかった。
張り紙の前の人だかりの中で矢田部を見つけると、恵は「そっちはどうだった」と声をかけた。既に確認していたので、矢田部も各教科十位以内であることは間違いなかったが、本人の口からその感想を聞きたかったのだ。
「遊んでいた割には、順位が落ちてないよね」
他人が聞いたらえらく生意気だと判じられかねないことを、矢田部は平気で口にした。
そのうえで、「でも、常時五位以内を争っていた二人が、いきなり順位を落としたことには変わりないから、周囲の目は少しきつくなるかもね」と、付け加えた。
スマホで時間を確認すると、既に正午をまわっていたので、恵は、矢田部とは別れて、友人たちと落ち合うべく、弁当を持って屋上へと通じる階段の踊り場へ向かった。
久能元の待ち受けは、もう既に日常に溶け込んでおり、待ち受け画面のオンオフの際にも、いちいち気に留めるまでもなくなっている。
「ああ、来た来た。早く食べよう」
恵が到着すると、床が冷たいため、スカートの下のジャージを履いた、埴輪スタイルの友人たちが出迎えてくれた。
冬休み前、と同時にクリスマス前とあって、学校全体の雰囲気がお祭りのようである。
そんな周囲の空気も手伝って、今日もあれやこれやの話題に花が咲いた。
そんな中で、噂好きの知世が、珍しく真面目な話題を口にした。
「ねぇねぇ、『令和の大合併』って知ってる?」
皆、首を横に振る。
勿論、恵も初耳である。
知世は続ける。
「なんでもね、五年後あたりに、千代田市が別の市と合併するんだって。他の県でも同じようなことが起こるから、『大合併』って言うんだって。それでね、千代田市の三笠市長が、それを阻止するために五千万円かけて町おこしを計画してるんだってー」
ウインナーを食べ名がら言う知世の話に、皆、へーとかふーんとか、あまり関心のなさそうな反応を返す。
恵も他の二人と同じような反応を返した。
既に県外の大学に進学して千代田市を出ることを決めている恵にとって、五年後の千代田市の話など、どうでもいい話であった。
「そんなことよりさ」
未来が話題を変えた。
「クリスマス前じゃん。安永君とはどうなのよ」
『安永君』とは、隣のクラスのバスケ部エースで、知世の彼氏である。別名を『千代田のプリンス』という。
「ん?ラブラブだよ?なんならキスしてる写真見る?」
きゃーっという歓声があがる。
皆で知世と安永君のキスシーンを写した写真にひとしきり興奮した後で、クリスマス前に、一体どれだけの同級生に彼氏がいるのかといった話題になった。
半数はいるという知世と、そこまではいないという未来との間で意見が分かれる。
知世は、スマホを取り出して言う。
「だって、私が頼まれて久能元の待ち受けをシェアしたのって、ゆうに百人はくだらないよ?」
「えっ。そんなに?久能元、大人気じゃん」
「なんでも、隣のクラスの女子で、久能元を待ち受けにした途端に彼氏ができた子が数人はいてね」
知世の話に、皆、釘付けになる。
特に、目下彼氏のいない未来と葵は、拝むようにして知世の話を聞いている。
知世の話によると、久能元の待ち受け画像は、近隣の中高生にもじわじわと広がっているらしかった。
「そこまでくると、教祖様だよね」
「だねー。ウケる」
四人の話題は、それからすぐに別のものへと移っていった。
『令和の大合併』の噂が、千代田市の巷をにぎわせている――。
クリスマスを目前に控え、世界中がお祭りムード一色の中で、どこかからそんな情報を聞きつけ、動き出した男がいた。
男は、名を権平陽介といった。
歳は四十三。
白髪の混じる髪の毛を、片手でぐっとかき上げると、権平は今一度、モニターに視線を戻した。
権平は、ネットの書き込み、特にアンダーグラウンドでの書き込みの巡回を日課にしている。そこで気になるワードを見かけると、周辺に網を広げて情報を集めていくのがセオリーだ。
先日、権平は、いつも見る地方版のアングラサイトで、『令和の大合併』というワードを見かけた。
何の事だろうと不思議に思い、まずそのワードで検索をかけた。
しかし残念ながら、ヒットするのは関係のないサイトばかり。
元のアングラサイトに戻り、連なっている会話(スレッド)を広げて読んでみる。
すると、どうやら『令和の大合併』というワードは、「五年後」「千代田市」「三笠市長」「町おこし」「五千万円」というワードと関連付けて語られていることが、おぼろげながら分かってきた。
これだけでは、まだ何のことか分からないが、こういったアングラなサイトに政治にかかわる要人の名が出てくる事自体は、テロなどが頻発している昨今、警戒しておくべき事案である。
権平はそう思い、緊張の度合いを高めてモニタを眺めた。
するとスレッドを追っていくうちに、どうやら、「五年後に行われる『令和の大合併』への対策として、千代田市の三笠市長が、五千万円をかけて町おこしを計画している」という事象が浮かび上がってきた。
なるほど。
権平はすぐさま、思いついたうちの一つの連絡先に電話をかけた。
数回のコール音の後、くぐもった声で名が告げられる。
「久しぶりだな、権平」
相手が言う。
「悪いが、名前を呼ばれるのは好きじゃないんだ」
調子の変わらない声で、権平が告げる。
「相変わらずだな、その職業病も。それで、どうした、今日は。何か頼みがあって電話してきたんだろう」
「話が早くて助かる。実は、そっちで『令和の大合併』という言葉に聞き覚えは無いかと思ってな」
すると相手は、「どこからその話を」という驚きと共に言葉を区切った。
「お前のことだ。どこまでつかんでいる。」
権平は、にやりと笑って言った。
「いや、なに、ネットで見かけただけだ。『令和の大合併』という計画が進行中だ、と。それをただ確かめたくてな」
得た情報はすべては渡さない。これも、職業病であった。
「なるほど、お前のことだ。情報を悪用するような真似はしないと思うが、念のため、オフレコで頼む」
「分かった。それで。真相は」
男は少し間を置いてしゃべりだした。
「ああ、話は事実だ。まだほんの口約束にすぎんが、お偉方が今年の春に集まって決めたんだ。五年後、全国の人口の少ない市を集めて大合併をやろうってさ。選挙にももろに関係してくるから中々重い腰を上げたがらなお歴々が多かったけれど、税収面で考えるとメリットがデメリットを上回ってね。今回は国会議員より官僚に軍配が上がったんだ」
「なるほどな」
やや論理の飛躍したしゃべり方は、いかにも頭の回転が速い官僚である。
権平は、久々に聞いた自分と同じようなしゃべり方をする相手に親近感を覚えた。
「話はそれだけか。久しぶりなんだ、今度一緒に呑もうじゃないか」
相手の男はそう言うと、職場近くであろう高級居酒屋の名前をいくつか挙げだした。
「いや、気持ちだけもらっておくよ。ほら、俺、呑めないし」
これは真実であった。
「まぁ、でも近いうちにまたな」
前回の会話では、そう言って五年はご無沙汰だった権平である。
次もいつになるか分からないなぁと言って、相手の男は電話を切った。
なるほど。
大きな息を一つ吐いて、権平は得心がいったという風に、今一度、白髪交じりの髪の毛をぐいとかき上げた。
「はじめまして、わたくし、公安警察の権平と申します」
そう言って、権平が久能元の前に現れるのは、この日からちょうど二か月後のことであった。
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