第五章:漏洩
時計の針は、久能元がショッピングモールの駐車場で写真を撮られたあたりから、ちょうど一か月経った頃の、九月の下旬に戻る。
この日は残暑のきつい日だった。
どこへ行ってもスマホを向けられるので、久能元は朝から部屋にこもりきりで、動画サイトをはしごして時間をつぶしていた。
はじめのうちは、お気に入りのお笑いタレントの芸や、ひそかに追いかけていたアイドル歌手『虹色デイズ』の特集を見ていたが、一か月も同じ生活を続けていると、さすがにそれも飽きてきていた。
一か月も引きこもり生活を続けていると、髪の毛も伸びてくる。
そこで元は、午後から散発に出かけることに決めた。ネットで近くの、安すぎず高すぎない、ちょうどいい料金体系の、ウェブサイトに力の入っているいまどきのサロンを探すと、「オノウエ」と偽名を使い、予約を入れる。
外出するだけでスマホで撮られる顔である。偽名を使ったところで果たしてどの程度、他人としてごまかせるかは分からなかったが、とりあえず試しに使ってみたのである。
それから階下に降りると、リビングでテレビを見ていた両親に「午後から外出していないから」と一声かけておく。既に免許を返納している両親に、午後の足はないことを伝えておく必要があったからだ。
テレビを見ながら母が「分かった」という返事をよこす。それを聞きながら、ついでにリビングで冷えた麦茶をコップに継ぎ足して、再び二階の自分の部屋へと戻ってゆく。
引きこもりの一か月間、狭い久能家の中で繰り返される両親との会話も、時間を経るごとに数少なになってゆく。
幸い、両親は、元が仕事を休んでずっと家にいることについて、深く聞いてきたりはしない。「いずれ説明するから」と時間をもらい、今は甘えて適度な両親の不干渉に甘えている。
元がリビングを出て、玄関前の廊下に出て階段を上ろうとした時だった。
パシャリ。
乾いたシャッター音が、玄関の方から確かに聞こえた。
元の全身がこわばり、同時に総毛立つ。
何度もこの耳で聞いた、あの音だ。
誰かがスマホをこちらに向けている――。玄関の、はめ込まれたすりガラスの向こうから。
目を見開き急いでそちらに頭を振った。
そこには、玄関前に飢えられた植物が、ピンボケしたようにすりガラスの表面に透いて見えるだけだった。
気のせい――?
しかし、階段を上ろうとした時だった。
パシャリ。
元の背後から、再びあの音が聞こえた。
今度はすぐさま振り返る。
しかし、玄関前には誰もいない。
こんな他人の家の敷地の中にまで入り込んで、いったい何のつもりだ――。
気持ちの悪さをぬぐえないまま、元は自分の部屋へ戻った。
それから、気持ちがなえてしまったので、一旦入れたサロンの予約を取り消す電話をするために、スマホのダイヤルに指をかけたのだった。
何やら、得体のしれない大きなものが、背後からせまってきているように感じられてならなかった。
某県豊島市は、太平洋をのぞむ千代田市とは間反対の、日本海をのぞむ海岸沿いの小さな市である。
十月に入ってすぐのこの日も、豊島市市長の
今日は既に港町の広報と打ち合わせを済ませ、市役所の募金コーナーで写真を撮り、これから昼の会食へと向かう頃合いであった。
そこへ、一本の電話が入る。
この知らせが、豊島市を大きく変えることとなる。
その知らせは秘書を通じ、すぐさま江島の元へともたらされた。
「なに、千代田市の三笠市長から連絡と」
三笠市長と言えば、江島にとってはかわいい大学の後輩である。学年は、ちょうどひとつ違う。ともに法学部の弁論部でならした口で、当時は互いにこの国を憂えて将来の夢を語り合った仲でもあった。
久しぶりの旧友からの連絡に、江島は公務の合間をぬって上機嫌で電話を折り返した。
すると、「折り入って話があるんですよ。ここだけの話なんですがね」と切り出されたので、これはどうしたことだと、江島は眉根を寄せた。
互いに忙しい市長という役柄、単なる世間話で電話をかけてきたのではないことは明白であった。
「どうした、三笠君」
うながされ、三笠市長は続ける。
「これは確かな筋の情報なんですが、五年後に、千代田市が合併で消滅することが確定しましてね……」
急な打ち明け話であった。
頭がついてゆかない。
しかも、この打ち明け話の真意が分からない。
「おお、どうした三笠君。急にそんな話をして」
江島は、がっしりした体躯をソファの手すり部分に乗せ、とりあえず言葉をひねり出した。
三笠市長は畳みかける。
「その五年後の合併が、『令和の大合併』と題されて、全国で実施されるんですがね、お宅の豊島市も、人口がうちの市より少ないため、選ばれていると思われるんですよね、合併の対象に」
ややあって、遅れて口をついて出た言葉は、形を成していなかった。
「なにっ」
「まだ公にはなっていないですけど。あくまで、これは私の予想ですが」
突然のことに、江島は思わず言葉をなくす。
無理もなかった。
朝から精力的に公務をこなしていて、そこへ入った旧友からの一本の電話。
その電話で、まさか自分の立場を危うくするような話を打ち明けられるとは思ってもみない。
「またまた、君も冗談がうまいね」
一応、ちゃかしてみるも、「冗談ならよかったのですが」と、電話口の相手の意気は弱い。
「しかし、急な話だね、えーと、君」
江島は、部屋を行き来する秘書の一人を呼び止めて、今日のスケジュールを確認する。
「三笠君、こういう話は直接会ってしたいんだが」
突然の打ち明け話に何の準備もできていないものだから、返す言葉もないのである。
ここは時間をとってじっくり話を聞きたい、という趣旨の発言であった。
「はい、私もそのつもりでしたから」
目の前で開かれたスケジュール表を確認しながら、江島がたずねる。
「今日はどうかな。ヘリでそっちまで行くよ」
この話は、緊急性を帯びている。
そう判断した江島は、豊島市から千代田市までヘリを飛ばすというのである。
幸い、市長が自由に使えるヘリは常時一台用意されており、豊島市と千代田市は県境を越えさえすれ、二時間もあれば行き来のできる距離であった。
「いいですよ、では、お気に入りの料亭がありますからそこを紹介しますよ」
「いいね、じゃあ」
「じゃあ」
そう言って何事もなかったかのように、電話は切られた。
秘書に言って、午後のいくつかの予定をキャンセルしてもらい時間を作った江島は、「十五分後から第三会議室で会食です」との秘書の声に、快諾を示して、やはり何事もなかったかのように市長室をあとにした。
残された市長室のソファには、さきほどまで江島が尻をのっけていたくぼみだけがぽっかりと残っていた。
その日の夕刻、一台のヘリが、市庁舎の屋上から飛び立った。
言うまでもなく、江島を乗せたヘリである。
大きなプロペラ音で室内での話し声はほとんど聞き取れない。
江島は大きな夕日を横顔に浴び、今日一日の仕事を振り返っていた。
市長になって三年、今日という一日が、その新たな一ページに加えられる。
そんな心持であった。
市長になって以来、さしたる事件・事故、不祥事もなく、やってこれた。
巷では地味な市長だと言われているが、その分、職務には誠実であったと思う。
あと二期は確実だろう、誰もがそう囁いている。
なのにここへきて、それを覆すような事態が起ころうとしているらしい。
豊島市がなくなるなどということは、あってはならない。
そう、あってはならないのだ。
ヘリの中で、爆音に包まれながら、江島は表情を硬くし、歯をくいしばる。
しかし、三笠市長は、一体何のために自分にそんな打ち明け話をしたのだろうか。
向かうヘリの中で、ようやくそのことに思いを致す江島であった。
ヘリは千代田市の市庁舎の屋上へと降り立った。
時刻は既に夜の七時である。
プロペラの生み出す爆風の中、江島を出迎えた三笠市長がヘリに歩み寄る。
「お久しぶりです、江島市長!」
叫ぶようにして挨拶をする三笠市長に、ああ、と手を振って江島がこたえる。
「何年ぶりかな!」
四方八方から吹く風に四肢をふんばり耐えながら、二人がぐっと握手を交わす。
そこには、若かりし頃の二人の姿があった。
「くまさんも、年をとりましたね!」
『くま』とは、体格がよく人の優しそうな顔をした江島の風貌からつけられた、学生時代のあだ名であった。
「ねこさんも相変わらずで!」
こちらは、釣り目気味の三笠市長を猫に見立てたあだ名である。
互いに気の置けない友人同士といった風の二人を、それぞれの秘書が取り囲むようにして、一行は三笠市長のお気に入りの料亭、「香旬停」へと二台のタクシーで向かった。
真夏の夜とあって、街にはビアガーデンの明かりがちらほらと見えた。
話を通してあったため、香旬停でのもてなしは到着後すぐに始まった。
食前酒に舌鼓をうち、二人は長年の互いの様子を語らう。大学を卒業して以来、たまにしかやりとりをしていなかったため、積もる話でいっぱいだった。
そんなよもやま話もたけなわとなり、二皿目が終わり、三皿目が運ばれてきた時であった。
頃合いを見図って、江島は切り出した。
「三笠市長、それで、今日の電話での話だけど」
三笠市長が心得たようにうなずく。
「ああ、そうですね、その話をしなければなりません」
三笠市長は、呑みかけていた日本酒を、ことりと脇に置く。
「昼間もお話した通り、五年後に、『令和の大合併』と題して、人口の少ない市町村を対象に、大規模な大合併が行われます。これは確かな筋からの話です」
江島は息をのんだ。
「それは、なんと……」
次の言葉が出てこない。
「そこで、急なお願いで申し訳ないのですが、お力をお借りできませんでしょうか」
「お力、というと」
「はい、このままでは、うちの市と人口が変わらない、もしくはそれより少ない豊島市、ほかにも文教市、錦糸市なども、同じ運命をたどることになると思われます。そこで、これも先日の会議で決定したことなのですが、他のそのような市とも秘密裏に連携して、町おこしをして地域を盛り上げてはどうかという案が出まして」
「町おこし、ですか」
江島はしばし考え込んだ後、口角をあげて言った。
「ははぁ、地域を活性化させて、合併の話をなくそうって腹ですか」
「さすがくまさん、話がはやい」
三笠市長は、脇にやってあった酒に手を伸ばす。
「ここは手を携えて、一緒にこの難局を乗り切って行こうではありませんか」
酒はあおっても、顔色一つかえない三笠市長である。
そういえば、こいつは学生の頃から酒豪だったな、江島はそんなことを思い出していた。
「はは、そんな選挙みたいなこと言っちゃって」
「笑いごとではないんですよ、くまさんたら」
地元の会議では切れ者の優等生然とした三笠市長も、江島の前ではこうである。
はははと言って、江島は、笑う。
「文教市と錦糸市からは既に快諾を得ています。」
「ほう」
この一言が、江島の背を押した。
「それで、お返事は」
改めて、三笠市長が真顔で問う。
「うん、乗るよ、その話。そうしないと、まだまだ今の立場でやらなきゃいけないことが山積みだからね」
卵焼きに箸を伸ばしつつ、目を細めて江島が言った。
「ありがとうございます、では具体的な町おこしの内容ですが」
「うん、話が進むなら、詰められるとこまで詰めちゃおう」
「それはありがたいです。実は既に案が十ほどありまして、そのすべてをゲリラ展開しようという話になってまして」
日頃から意思決定の場にいる二人である。
その後の詰めの話は、この夜、とんとん拍子に進んでいったのであった。
明くる朝、千代田市の市長、三笠洋子は、昨夜の酒が多少残る頭を抱えて、市長室で朝のコーヒーに口をつけていた。
傍らでは、秘書の別所が、せわしなく動いている。
昨夜、香旬停で催された豊島市の江島市長との会食では、町おこしの大枠を八割がた決めることができた。
具体的な話は今後詰めていくとして、とりあえずは、以下の五つの行事が、市の役員を中心に執り行われることとなった。
・ 地元の定期的な祭の開催日数の増加。ゲリラ的に行う。
・ 地元JAの納涼祭をゲリラ的に行う。
・ 地元アイドルのゲリラライブを行う。
・ 地元スポーツクラブのゲリラライブを行う。
・ 地元ブラスバンドのゲリラライブを行う。
これらすべてのゲリラ祭り及びゲリラライブが、他県の市と連携して行われる、という
具合である。
なぜすべてゲリラ的なものなのかと言われれば、それは二人が二人とも、サプライズが好きだからという共通点が答えであった。
問題の開催資金は、秘密裏に話を通した各地元の有志により集められることになっている。
これが頭の痛い点で、一体どれだけの資金援助が受けられるかというのが、まったくの未知数であるため、ゲリラ祭りやゲリラライブの規模も、今のところすべてが未定なのであった。
調達資金の目標金額を大体決めておいてから寄付を募り、計画を進めながら規模を微調整するという、通常の祭りの段取りと変わらない手続きがとられるのではあろうが、その計画すらも、今はまったくの白紙である。
しかし、ことは動き出した。
日頃の業務をしながら計画立案から事務手続き、資金集めなどの実際の準備をしていかなければならない。
今のところ、話を通してあるのは、街の重鎮たち十名の他は、親衛隊とも言える身近で業務を行う職員五名と、秘密を守れる後援会の幾人かだ。
彼らと蜜に連携しながら、業務の合間を縫って、秘密裏に事を進めなければならない。
年に一度の市の祭りだけでも相当大がかりなのに、今度は他県の市と連携して、それも中央にばれない形で計画を立てて動き、事を成さねばならない。
本当にできるのだろうか――。
三笠の頭に、一抹の不安がよぎる。
できるか、じゃない、やらなければ、後がないのだ。
千代田市がなくなれば、一転、私は無職となる――。
自身のキャリアを第一に考える三笠は、まだまだやり残したことがあるため市がなくなっては困ると考える江島市長とは別のタイプである。
ともあれ、すべては、五年後の『令和の大合併』を、中央の連中に思いとどまらせるために。
ともすれば臆病風に吹かれそうになる自身の尻を叩き、三笠は今一度目をつむり、決意を新たにするのであった。
しかし――。
間に合うだろうか。
もろもろの計画を実行したとして、中央の連中が考え直す材料となる数値が表にあがってくるまでには、それ相応の日数を要する。
中央の連中が、どこまで『令和の大合併』の計画を進めているのかは今のところ誰にも分からない。
とはいえ、なにもせずに手をこまねいていることはできない。
三笠は呼び鈴を鳴らす。
市長室に秘書の別所が入ってくる。
「お呼びでしょうか」
「文京市と錦糸市の市長に電話をかけたいからアポイントをお願いします」
そう言われ、別所は目を丸くする。
昨夜は江島市長に話を通したというふうに言ったのに、実はまだ話を通してなかったのですか、と言わんばかりの顔だ。
くすり、と笑って三笠は別所に向けて右目をぱちりと閉じて見せた。
日足は徐々にその長さを短くしている。
暖冬と言われているように、十一月に入っても木枯らしひとつ吹かない、そんなあたたかなある日のことだった。
北浜登は、北浜建設の建物の二階にある事務所の中で、ひとり帳簿とにらめっこをしていた。
上がってきた先月の数字も、先々月と同じく厳しいものがある。
北浜は、誰もいないのをいいことに、口をとがらせて、唇の上に鉛筆を乗せていた。
頭にあるのは、他でもない、『令和の大合併』である。
五年後に実施されるという、その大合併で、この千代田市がなくなる――。
そうなれば、市のコンペの常連である北浜建設はどうなるだろうか。
先月も、先々月も、その前の月も、毎月開催される市のコンペに、北浜建設は勝ち残ってきた。先代からの多少のコネがあるとはいえ、確かな実力が評価されての結果だ。
先代の代から、積み重ねてきたものがある。
それが、合併となり千代田市がなくなれば、当然コンペは合併後の新たな市で行われることとなり、なんのつながりもない北浜建設ははじかれてしまうに違いない。
北浜は、再度、目の前の帳簿に視線を落とす。
先月、先々月の表に並ぶ細かな数値を、目を細めて追ってゆく。
毎月の市のコンペがなければ、北浜建設の今はない。
「でも北浜さんのところも、市のコンペなんかもう縁がなくなるんじゃありませんか」
」
宴会の席で、金谷あさみに言われた言葉が頭の中で滲みあがってくる。
なんとしてでも、千代田市合併を阻止しなければならない。
そのためには――。
そのためには、役人どもが行う町おこしとやらに寄付する必要があるわけだが。
のんびりとしたお役所仕事で果たしてどこまで世間に通用するものが作れることやら。北浜の心配はそこにあった。寄付で集まった金の使い方など、商売に疎い優等生君たちがまともにできるとは考えにくい。集まった金で行った町おこしは十中八九、失敗するだろう。
それが、北浜の見立てであった。
であれば、どうするか――。
市の連中は放っておくと失敗するが、それを見捨てたところで他に打つ手もない。
であれば、助け舟を出すか。
どんな助け舟を出そうか。
そんな風に考えていた時だった。
「ただいま戻りました」
営業部の連中が、三人ばかり出先から戻ってきて事務所へと入ってきた。
考え込んでいた北浜は、慌てて鼻先の鉛筆を手に戻す。
「ご苦労さん、どうだった」
北浜は三人をねぎらう言葉を口にした。
「いやあ、今月のコンペも、うちがもらいましたね。万歳三唱ですよ社長」
営業の三人は、口々に成果をほめたたえ合っている。
「そりゃあご苦労さん。来月もまた頼むわ」
「社長、そりゃあ気が早いですよ」
どっと笑いが起こる。
ああ。
北浜は思う。
ああ、この景色を、俺は守らなくてはならない――。
この日、北浜は、三笠市長へと連絡を取り、一千万の小切手を切ることを約束したのだった。
帳面とにらめっこをして頭を悩ませていたのは、何も北浜登だけではなかった。
ここにも一人、モニタに並ぶ数字を相手に、苦悩している男がいた。
井口病院院長の、井口雅之である。
井口もまた、病院の存続をかけて頭を悩ませていたのである。
井口病院は、戦前から続く名家、井口家が代々つとめる総合病院である。その院長、井口雅之は、内科を専門とする医者で、物腰柔らかな風貌から、院内外で歌舞伎の女形みたいだと噂される存在であった。
その井口は今、その経理担当部門からデータを預かり、ひとり院内の院長室で、パソコンとにらめっこをしていた。
今月の売り上げも、まずまずといったところである。
しかし、その実情は、新たに新設した病棟の工事やら、新たに導入した新機材の購入費を差し引くと、ぎりぎりといった線であった。
世は少子高齢化、人口減少が進む。病院は今後ますます、高齢者のものとなってゆく。その高齢者の人口も、年々減ってゆくことは明らかである。
いかに受診してもらえる患者を増やすか、いかに高額な医療を受けてもらえるか――。
日頃から頭を悩ませている点ではあるものの、ここへきて新たな問題が浮上してきている。
『令和の大合併』である。
五年後、千代田市がなくなって新たな市になるとする。すると新たな市では、井口病院よりも、もっと大きな総合病院と患者の取り合いになるだろう。病棟を新設しているとはいえ、資金力に余裕のある大手の総合病院に、とてもじゃないが地域の一総合病院である井口病院がかなうはずもなく。
どうしたものかと考えているところへ、部屋の扉がノックされた。
「はい」
ブラインドを下ろし、薄暗がりの部屋で考え込んでいた井口は、はっと顔をあげる。
「先生、往診です」
「分かりました、今行きます」
井口は立ち上がり、ブラインドを上げ、陽の光を室内に取り入れる。
トレードマークの七三分けを、今一度、のっと手で押し付け、井口は院長室を後にした。
平日の午後、向かう先は入院患者の病棟である。
「小山内さん、院長先生が来られましたよぉ」
看護師の明るい声に案内されて、小山内健司は仰向けになってパジャマの腹の部分をめくりあげる。
「では、失礼しますね」
言って井口は、左手の指先に右手の指先を添えて触診を行う。
「はい、問題ありませんね。便は出ていますか」
「ばっちりです」
「それは何よりです」
井口は小山内に向かい、にっこりと笑顔を向ける。
「先生、俺、早く仕事に復帰したいです」
「まぁ、ゆっくり回復してからにしましょう。焦りは禁物です」
いつもの物腰柔らかな口調で、井口は小山内に諭す。
「先生、いつもありがとうございます」
「はい、こちらこそ」
回診をしながら、井口は思う。
この街の市民が、いざという時に頼りにする病院、そんな病院にこそ、井口病院はなるべきである、と。
今までだってそうであったかもしれないが、これからは、今まで以上に、地域の頼りになる総合病院として、皆の記憶に残るような存在でありたい、と。
合併すれば、それは競争が働いて医療の質が上がる可能性はあるが、井口は、今の延長で未来を見据えたいと思った。
もとが安定志向の井口である。
この日、井口は、二千万の寄付を、三笠市長に申し込んだ。
ここにももう一人、資金繰りに頭を悩ませる女が、いた。
千代田銀行頭取、金谷あさみである。
午前十時、千代田銀行本店の定例会議で、金谷あさみは声を張り上げていた。
「ですから、今のままでは取引先の数も先細りになり、新たな融資先は見込めないということになります。先手先手で、何らかの手を打たねばなりません」
その具体策を決める場が、この定例会議であった。
「それでは、意見のある方、挙手を願います」
金谷の脳裏に、宴会場で同じセリフを吐いた三笠市長の姿が去来する。
冗談じゃない。
あんな学級委員会のような宴会とは異なり、こちらは銀行の存続をかけた定例会議である。
背負っているものの重みが違うのだ。
金谷は、「先月分実績」と書かれた、細かな数字の並んだ手元の資料を引き寄せる。
その前のページの先々月の分にも、その前の分にも、厳しい数字が並んでいる。
数字の色は、すべて赤である。
「いかに地域の皆様に信頼していただけるか――」
誰かがそんな発言をしている。
地域の皆様――。
金谷の頭にあるのは、五年後の『令和の大合併』であった。
五年後、合併が行われれば、今は市にないメガバンクが、この千代田市に支店を出しにくるだろう。
そうなれば、資金力のあるメガバンクに軍配があがるのは明らか――。
今はメガバンクがないという消極的理由で利用してもらっている客が大半だが、合併ともなれば、その多くは大手の安心感を取るだろう。そうさせないために、何ができるか――。
つんとした三笠市長の顔がちらちらと頭をかすめる。
市では、同じような立場にある他県の市と連携して、町おこしをするという。
何が町おこしだ。
金谷は思う。
学園祭じゃああるまいし。
しかし、そんなことでもして盛り上げないと、五年後には合併となり、ただでさえ経営難に苦しむ我が千代田銀行の先行きが、さらに心もとないものとなってしまう。
会議が終わり、店内の窓口業務に目をやりながら、金谷は思う。
地域の皆様に利用してもらえる銀行であり続けるために、できることはしているつもりである。
知名度は十分にあるはずである。
少子化でパイの数は限られている。
この先、地銀は小さく細く生き残るしかないというのに。
そこへきてのメガバンクとは、神様は一体私たちになんという試練を与えてくださるのだろう。
金谷は、四角い眼鏡の奥で、両目をじっとつむりため息をついた。
町おこしがどれだけの効果を生むか分からないが、今はそれにかけるしかないのだろう。
この日、金谷は、一千万の寄付を、三笠市長に願い出た。
午後四時をまわり、香旬停では、夜の営業の準備が着々と進められていた。
香旬停の一パート従業員である竹尾登美子は、この日もくるくると立ち働いていた。
「竹尾さん、これ持って行って」
「はあい」
先輩からの指示が飛ぶ。
厨房では仕込みがピークを迎えており、そちらも戦場のような有様である。
その様子をちらりと見やって、登美子は個室の準備に取り掛かるため、廊下を下って奥の座敷ばかりの集まる棟へと移動していった。
香旬停には、松竹梅と、三段階に分かれた座敷が用意されている。
松の間は、十名程度の大所帯が利用する際に、竹の間は五名程度、梅の間は二名と、分かれており、今、竹尾は松の間の準備に取り掛かっていた。
登美子はざっと掃除機をかけると、白糸で刺繍の織り込まれた紫の座布団を、座椅子に一つ一つ、折り目正しくセットしてゆく。座卓を布巾で拭いたら、紙ナプキンにつまようじ、醤油に塩コショウ、ラー油をセットして。最後に、床の間の掛け軸が曲がっていないか、生けられた花に歪みはないかもチェックして。
その作業を、松竹梅の順にこなしてゆく。
登美子の仕事は主に仲居である。
座敷のセッティングをしながら、登美子は思い出していた。
つい先日、この松の間で、市長と街の重役たちが集まって何やら話をしているのを見かけたのだ。
部屋に料理を持って行った際には、誰もかれもが口をつぐんでしまっていたため何の話をしていたのかは定かではないが、よほど込み入った話だったのだろう、みな苦虫をかみつぶしたような顔をしていたのを登美子は覚えている。
そんな会が、登美子が知るだけでも、もう三、四回、この松の間で開かれていた。
次いで、登美子は竹の間に入る。
そういえば、三笠市長は、こないだ、どこかの男性とここで秘書らしき人達を携えて会食をしていたっけ。
それも、登美子が知るだけでも二、三回。
そのいずれの時も、やはり何やら難しい顔を突き合わせていたような気がする。
登美子には一人、二十歳になる息子の学がいたが、息子にだけは、職場で起こったことをあれこれ話すようにしていた。
登美子が三笠市長たちのことを話すと、学は決まって、市の問題について話し合ってるんじゃないの、と興味なさそうに言っていた。
おしゃべり好きな学が興味なさそうに口を閉ざすので、登美子もそれ以上はしゃべるのを控えるのだったが、実のところ、登美子は三笠市長たちの動向が気になって仕方がないのだった。
松竹梅の間のセッティングを終えて、登美子は厨房へと戻ってきた。
布巾を水で洗って、今度は予約席のセッティングを始める。
予約してある席に提げる札を作ろうと、事務所に行って予約票を見たところで、登美子は小さく驚いた。
予約表の中に、三笠市長の名前があったからだ。
このとき、何故だか分からないが、登美子はどうしても、彼らの話が聞きたいという衝動にかられた。
どうしても、今日、彼らの話に聞き耳をたてて、それについて息子と語らいたいと思ってしまったのだった。
魔が差したとしか、言いようのない瞬間だった。
思い立ってからの登美子は、急いでない頭を働かせた。
同僚に頼んで、体調が悪いからとテーブル席の接客を抜け竹の間の担当にしてもらい、ついでに「おつき」にもしてもらった。
「おつき」というのは、その座敷に初めから最後までいて配膳などを取り仕切る役の、香旬停での隠語である。
これで話を聞くことができる。
登美子は、まるでスパイにでもなったかのように、胸を躍らせていた。
果たして、その時は、やってきた。
「三笠様、到着されました」
駐車場のベルボーイから無線が入る。
登美子たち店の者は、玄関に並んで出迎えの姿勢を取る。
ややあって、三笠市長と、このあいだ竹の間で見た男性と、その後を秘書二名が歩いてくるのが見えた。
「いらっしゃいませ」
長い夜の、はじまりだった。
竹の間へ到着すると、三笠市長は相手の男性に席を進め、自分は下座に座った。
「どうぞ、江島市長」
という発言を聞くに、相手は「江島」という名前で、どこかの市の市長をしているらしことが判明する。
登美子はそういうふうにして、三笠市長たちの発言から、彼らが一体何でそんなに会合をもっているのかを突き止めようとしていた。
そうとは知らずに、三笠市長と江島市長は和気あいあいと話を進めてゆく。
食前酒を片手に、ひととおりの世間話が済んだ後で、「本題ですが」と、江島市長が切り込んだ。
登美子はよりいっそう耳をそばだてる。
「町おこしの計画は進みましたか」
何?
町おこし?
早速、興味深いワードが飛び出してきた。
登美子の鼓動が速まる。
そんな登美子の前で、三笠市長は前菜に箸を伸ばしながら口を開く。
「苦戦してます。この間大枠を決めましたが、今中枠を決めている最中ですね。
そういえば、お伝えしておかなければならないことがございます。
町おこしの予算ですが、五千万円ではいかがでしょうか。
ちょうどそのくらい、今、集まっているんですよね。」
五千万円――。
突如飛び出してきた五千万という大金に、登美子の目が大きく開く。
しかしそれを悟られないように、登美子は部屋の隅の座布団の上で、おとなしく正座をしてすましている。勿論、両手はそろえて両ももの上に置かれている。
登美子の動揺など知らず、江島市長も前菜に箸を伸ばす。
「ああ、ちょうどいい額かもしれませんねえ。あの五つのゲリラライブを慣行するとなれば、それくらいで妥当でしょう。」
「これで、五年後の『令和の大合併』も白紙に戻してもらえたらいいんですが」
五年後?
大合併――。
登美子の頭の中で、段々とストーリーが出来上がってゆく。
「中央の連中がどこまで話を進めているのかは分かりませんがねぇ」
中央の連中とは、一体誰の事だろうか。
国会議員?
登美子が見るテレビ番組といえば、夜のバラエティ番組くらいである。
小難しい内容のものがあったとしても、せいぜいがセンセーショナルな事件や事故を声高にまくしたて、ひな壇の芸能人にコメントさせる類の番組だ。そんなものしか見ていないから、記憶に残るのは、「国会議員」や「汚職」といった、番組のテロップで使われ、コメンテーターが何度も口にするような単語に限られる。
そんな単語で彩られた登美子の頭の中では、地方の政治に関与する法案を作成するのは官僚であるといった発想すら像を結ばない。「政治」と聞けば「国会議員」が反射的に出てくる。
それが登美子の限界であった。
登美子はこの日、仕事を終えると急いで帰宅し、見聞きしたことを学にしゃべった。
「『中央の』国会議員が、五年後に『令和の大合併』を考えていて、それを阻止するために、三笠市長たちは五千万円集めて町おこしをしようとしてるんだって」。
「へっ。それマジ?」
登美子から聞かされ他情報に、学はぱくりと飛びついた。
というのも、学は高校専門学校で情報社会学という科目を履修しており、現在は地方の新聞紙社で記者の卵をしていたからだった。
「母さんそれ、特ダネじゃん!いただき!」
学は、飛び上がってよろこんだ。
「そうなの?でも、職場で聞いた話だから、あまり大事にしないでね。ほら、守秘義務とかうるさいから」
ここでも登美子は、上司に聞かされた「守秘義務」という言葉を日常語と切り離して、ことさらに強調する。まるでその言葉を使う自分が、普段より一段階も二段階も賢くなった風に感じられて。
「分かってるって。情報の出どころは秘密ってことで」
「よろしくね」
この会話の掛け違いが、これから起こる、全国を巻き込んでの大事件に発展しようとは、この時、この親子は知る由もないのであった。
この夜、学はツテをたどって、とある全国規模の芸能ニュースばかり取り上げる大衆雑誌の記者に、この情報をリークした。
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