第四章:待ち受け

九月に入っても、うだるような暑さはおさまらない。

国枝恵くにえだけいは、差すような日差しの中、自転車の車輪止めを片足ではじくと、勢いよくこぎだした。家の前の坂道を下り、線路を超え、通っている千代田高校までは十五分の距離である。飛ぶように過ぎてゆく道の両側からは、夏はまだ終わらないとばかりに、蝉の大合唱が聞こえている。

恵の心ははずんでいた。

無理もない、今日から新学期である。

世の多くの学生がそうであるように、二か月にもわたる長い夏休みを終え、一回りも二回りも大きくなった同級生に会うのは、なんだか照れるような、うれしいような、何か楽しいことがこれから始まるような、そんな気分になるものだ。

高校の敷地内に入ると駐輪場に自転車を止める。

他にも、駐輪場を行き来する生徒、校門を抜けていく生徒、校舎から顔をだしている生徒などが目に入ってくる。

この朝の騒がしさこそ、恵が懐かしく思う最たるものであった。

ああ、また始まるのだ、という思い。

恵は、意気揚々と校舎に入ってゆく。

千代田高校では校内は土足厳禁で、校舎を入ってすぐのところに、土足から上履きに履き替えるエリアが設けられている。

恵はそこで、下足から上履きに履き替える。かがんで足元にある土足を右手の三本の指でつまみあげ、無造作に自分の下駄箱に入れる。代わりに、夏休みの間家に持ち帰っており、今朝持ってきたばかりの上履きを袋から出し、そこに足をすべりこませる。

こういった動作一つ一つさえ、どこか懐かしく、いとおしい。

ぱたぱたと上履きの音をさせながら、廊下を伝ってゆく。

すれ違う生徒たちは、皆どこか高揚しているようで、笑い声がそこかしこで聞こえている。皆、これからとても楽しいことが起こるのだという予感につつまれているように。

校舎の端の階段から数えて二つ目の部屋が、恵の教室だ。

「2-B」と書いてある札の下をくぐり教室に入ると、その真ん中に、懐かしい顔ぶれが並んでいた。

「おはよう」

満面の笑みを作って、恵はその集団に挨拶をする。

「おはよう、恵、元気だった?」

教室にいくつかできている学生服の塊の一つが、恵の友人たちだった。

未来に葵に知世、皆、夏休み中の部活動にいそしんでいたせいで、二か月分こんがりと焼けている。

「焼けたねー」

「恵は全然だね、このもやしっ子」

「やめてよもー」

二か月ぶりの、互いに相変わらずの仲を確認するための、どこかぎこちないやりとりが展開する。

隅に相合傘の落書きの入った恵の勉強机も、夏休み前と変わらない場所にある。

恵は鞄を机のフックにかけると、速足で友人たちの元へと急ぐ。

「どうだったー夏休み」

新たに輪に加わる恵を、友人たちはあたたかく迎えてくれる。

「もー部活三昧。部活しかしてない感じ」

未来と知世は同じ吹奏楽部で、葵は陸上部だ。

「いいなー恵は。部活なくって。満喫したんでしょ、夏休み」

「そんなことないよ。宿題だっていっぱい出たじゃん。逆にどうしてたの宿題。部活三昧だったらする暇なかったんじゃない」

「そこはもう最終日に追い込む感じで」

「だよねー」

そう言うと、未来と知世は顔を見合わせて笑う。

ああ、これこれ、この感じ。

よみがえってきた友人たちとやりとりをする感覚が心地よく、恵は内心、何者かに感謝したい気持ちになる。

何者か?

誰だろう。

神様?

ううん、そんな人格を持った誰かじゃない。

言うなれば、この世界すべて。

この世界すべてに、そっくりそのまま、ありがとうございますと感謝したい気持ちになるのだ。

友人たちとのやりとり、家族とのやりとり、街ゆく人々とのすれ違いの中で、恵は時たまこういった気分になる。それは、宿題ができたり、誰かに褒められたりした時にはついぞ得られない感覚であった。

恵はそんな自分の性質を、きっと寂しがり屋だからに違いないと踏んでいる。

寂しがり屋だから、こんなにも他人とのふれあいがいとおしいのだ、と。

友人たちは、今日も相変わらずである。

そのまま友人たちとおしゃべりをしていると、教師の安河内が教室に入ってきて、ホームルームを始めると号令をかけたので、恵たちは蝶が花をつつかれたように散り散りになって自分の机へと戻っていった。

午前中は、長い休み明けのため、全学年が集められ、講堂で始業式が催された。

それが終わり昼休みになると、恵たちは屋上前の踊り場で弁当を広げ始める。休み前からすっかり定着してしまった階段の踊り場に、二か月ぶりにあぐらをかいて車座になる。

さて皆が夏休みの間の出来事を各々が披露して、ひとしきりしゃべり倒した後のことである。

「ねぇ、久能元って覚えてる」

知世がうかがうようにして皆にたずねた。

突然の話題の転換は、知世のお家芸である。

「うん、この街が生んだ天才君だっけ。夏休み前に話してたよね。それがどうかしたの」

すかさず未来が答える。

「私、会ったんだよね、こないだ。お父さんとお母さんにモールに連れてってもらった時に」

知世はそう言って頬を高揚させる。

「へぇ。どうだった、本物は」

葵が興味深げに尋ねる。

「ふっふっふ、写真、撮っちゃった」

「えーっ」

「まじで」

「見せて見せて」

これには興味の薄かった恵も、つられて知世のスマホを覗き込んだ。

そこには短髪で、中肉中背の、どこにでもいそうな普通の男性が、車の老夫婦と一緒に写りこんでいた。

「なんだ普通じゃん」

おもしろくなさそうな声をあげたのは未来である。

「そう、超フツーだった。なんかがっかり」

「がっかりなんだ」

恵が合いの手を入れる。

「反応うすー。なんかむかつくから、恵、スマホ出して」

「いいけど、なんで」

わけもわからず、恵はスマホを取り出す。

「嫌がらせに、久能元のドアップの写真を待ち受けにしてやる」

「えーっ」

「何その意味不明な嫌がらせ」

知世のこの突飛な行動には、皆で笑った。

しかし、せっかく知世が嫌がらせにと変更してくれた待ち受け画面を、すぐに元にもどすこともためらわれたため、恵はしばらくこのままにしておくことにした。久能元の顔は、そのままデザインにでもなりそうな、本当に何の特徴もない普通の顔だったから、このままでも特に問題はないだろうとふんだのだった。

幸い、男の顔を待ち受けにしているのを見られて困る相手も、恵にはいない。

いや、いるにはいるが、今はまだ、スマホを見せ合う関係にはなっていない、と言った方が正しいだろうか。


始業式のあった今日、授業は無く、午後はホームルームにあてられ、後期のクラス委員会のメンバーを決めることになった。

黒板の前に今日の日直が男女二人立ち、「委員長」「副委員長」と書いたうえで票決がとられる。

昼ご飯の直後とあって、教室には気だるい雰囲気が立ち込めている。

「はい、それでは、推薦などがありましたら手をあげてください」

日直も、どこか間延びした号令をかける。

部活動で放課後忙しい生徒は、誰もがみんな目をそらしたり、机につっぷしたままである。委員長と副委員長は自然と放課後の雑用を押し付けられるからである。

「誰かいませんか」

日直が重ねて言う。

そこで、一人の男子生徒が手をあげた。

「はい、委員長には矢田部君がいいと思います。副委員長は国枝さんで」

おお、と、教室内がざわめく。

というのも、矢田部義則と国枝恵は、前期の委員長と副委員長だったからだ。面倒だから、同じ面子でことをおさめようというのだ。

恵は、まさかといった顔で、矢田部義則と日直の二人を見比べた。

日直がうかがうように視線を送ったが、傍らで会を見守っている担任の教師は何も言わない。

「他に意見はありませんか」

誰の手もあがらず、再び教室内は雑多なひそひそ声で満たされる。

「はい、では、票を取りたいと思います。委員長が矢田部君、副委員長が国枝さんでいいと思う人は、手を挙げてください」

一斉にぶらぶらと手が上がる。

結果は、数える間でもなく賛成多数であった。

「それでは、委員長と副委員長は、早速、今日の放課後職員室へ来てください」

友人たちにうんざりした顔を送っている恵の方へ向かって、教師はそう言い放ち、議題は他の委員の選出へと移っていった。


矢田部義則は帰宅部であった。

背は180cm近くあり、細身の体つきをしており、短髪で、眼鏡をかけている。成績はトップクラスで、教室では国枝と一、二を争う仲である。性格は温厚、おだやかな笑顔で敵を作らず、いつも友人たちに囲まれてはいるが、一人でする作業も苦ではないらしく、放課後の居残りにもおとなしく従うタイプである。

これが、恵が持っている矢田部の情報であった。

試験期間になると毎回張り合うせいか、どこか同士のような関係を築いている二人である。

「また、一緒だね、よろしくね」

放課後、机を向かい合わせにして座り、職員室で手渡されたクラス全員分のプリントで指示された通りに冊子を作りながら、恵は矢田部義則に声をかける。

前期にも、何度も繰り返された作業であった。

「うん、よろしく」

いつもははつらつとしている矢田部の反応が、今は鈍い。

「どうしたの、なんか元気ないね」

「別に、昨日夜遅くまで宿題してたから」

「え、矢田部君が?」

優等生で知られる矢田部が、夏休みの宿題を三十一日の夜遅くにしているなど、およそ想像していなかったので、恵は驚いたように問いただす。

「宿題、してなかったの?夏休みの終わりまで?」

教室内に他の生徒はいない。

日よけのために引かれたカーテンごしに夕日が差し込み、二人の長い影が掃除したての床に伸びている。窓の外からは、吹奏楽部が奏でる音色と、グラウンドで汗を流す運動部の掛け声が聞こえている。

「塾が、忙しかったんだよ。おかげで宿題する暇もなくって」

「ああ成程。塾が本命で、学校の宿題はおまけって感じなのか」

恵の通っている塾は矢田部の通っている塾とは違い、そこまで厳しくないらしい。恵は夏休みを丸々使って、余裕をもって宿題を終えることができていた。

「寝る前にスマホいじっちゃってさ。今日は始業式だけって分かってたから。あんまり寝てないんだよね。」

「へぇ」

「国枝さんは?」

「私は爆睡。おかげさまでね」

何がおかげさまなんだろう。恵は内心自分でつっこみを入れながら、この穏やかな時間も久しぶりだなと感じていた。

今年は高校二年生、来年は受験生だ。早い生徒は既に進路を決めていて、矢田部や恵のように受験勉強を始めているだろう。一方で、未来や葵や知世のように、進学はしないからと、二度とはない青春を部活動に専念する者もいる。

どちらの人生が幸せなんだろう、なんて、大事な友人たちと自分の人生とを乱暴に比較なんて、本当はしたくないけれど、たまにどうしても考えてしまうことがある。

どう考えたって、塾に行きながら受験勉強をして、将来大学進学をする矢田部や恵の方が「勝ち組」には違いないのだけれど。

時々、ふっとその前提が間違っているように感じるのはなぜだろう。

「あ、『わかものデイズ』だ」

淡々とプリントを折ってはホチキスで止めるという作業を差し向かいでこなしていた時、矢田部がぽつりと言った。

「あ、ほんとだ」

耳を凝らすと、なるほど、吹奏楽部のトランペットが、ソロで『わかものデイズ』のサビの部分を奏でていた。

『わかものデイズ』は、最近、ティーンの間で流行しているアイドル歌手『虹色デイズ』の最新楽曲である。

『なにはなくとも我らティーンわかものデイズ

 我らが背負う孤独には

 誰も名前をつけちゃくれない

 ひとりで背負ってなんぼでしょ

 それでも隣で笑う時

 我らは互いに繋がっている

 我らティーンズわかものイズ』

サビは確かそんな歌詞だったはずだ。

「国枝さん、知ってるの、『わかものデイズ』」

矢田部が、作業する手はそのままに、口だけこちらに向けて驚いてみせる。

「もちろん」

恵も、目線は手元に留めたまま、口だけで矢田部に返事をする。

「へぇ。国枝さんて、お堅いイメージあったけど、こういう歌も聞くんだ」

見ると、矢田部は口元に笑みを浮かべている。

「うん。月曜の夜八時から、定期的に歌番組やってるでしょ。あれは見逃さないんだ。あと、動画配信でもランキングチェックしてる」

「へぇ。意外」

「一応、世の中の流れは把握しておこうと思って」

聞かれてもいないのに、矢田部相手だと、ついそんなことが口をついて出てしまう。

「なるほどねぇ。実は同じ理由で僕も聞いてるんだよね。でもいいよね、『わかものデイズ』。最近の曲にないメロディというか」

「ああ、分かる。詩的なんだよね、メロディが」

そこからは、二人して分かる分かるの言い合いで、あそこのメロディがいいの、この歌詞がいいのと感想を言い合った。

「ふふ、二人とも音楽に関しては素人だから、感想が印象に頼ったものになって、ものすごくアホっぽいね」

「ほんと」

知的な友情で結ばれているせいか、矢田部と恵の会話には、普段のそうではない会話に比べて漢語が目立つ。しかしそれをあえて崩しての発言である。二人ともそれを分かっていて、二人だけの会話を楽しんでいるようなところがある。

しかし、プリントを折る手を休めずに、二人してぽつぽつと交わす会話に、何やら色がついているように感じられたのは、この時は初めてであった。



九月の中旬、なんでもないある日のことだった。

「あの、国枝先輩って、矢田部先輩とつきあってるんですか?」

昼休みの廊下で、いきなり後輩とおぼしき女子生徒三人組に呼び止められたかと思うと、こう切り出されて、恵は思わずその場にいた友人と顔を見合わせた。

見ると恵たちより一回り小柄な女子たちが、手を胸の前で握り合わせながら、顔を赤くして言葉を絞り出そうとしているのが分かる。無理もない、学生同士の間の一年の差というのは、それだけの距離を感じさせるものなのだ。さらに言えば、彼女たちはつい半年前まで中学生だったのだ。小さい心を矢田部にときめかせてしまったのもうなずける。

「ううん、つきあってない」

もう何度目だろうか、このやりとり。

恵は、内心うんざりしながらも、それを表には出さずに優しく答えてやる。

すると一学年下の女子生徒たちは、ああよかったぁと言って、黄色い歓声をあげながらぱたぱたと廊下の向こうに消えていった。

「いやいや、もてますねぇ、矢田部氏は」

一部始終を見ていた未来がすかさず口を出す。

「ほんとだねぇ。まぁ、知的な感じがクールに見えるんだろうね。身長も高いし、顔はあの通り醤油顔ですっきりしてるしで」

実際、恵から見ても、矢田部の顔は好ましいものだった。

「急がないと、旦那がとられちゃうよ」

「そうそう、いつまでたっても進展しないと、誰かに取られちゃうんだから」

葵と知世がいらぬお世話を焼いてくる。

これもいつものこと。

委員長と副委員長は男子と女子から一名ずつ選ばれると決まってはいる。だからこそ、どのクラスでもこういったある種の話のタネにはなりやすいものである。そんなことは、他のクラスの例をみるまでもない。前期に嫌ほど経験した恵である。あしらい方もお手の物になっていた。

しかし。

しかし、である。

ここへきて恵は、何か今までにない感情が、矢田部とのやりとりで浮かび上がってきたことを自覚していた。それは夏休み前までにはなかった感覚で、行ってみれば矢田部とやりとりをすると少し浮足立つといった程度の事なのだけれど、それでもついぞ今まであまり経験したことのないほどの胸の高まりが恵を襲うのであった。

まずい……かもしれない。

恵は自覚する感情を前に、一人苦悩していた。

というのも、無駄に頭の出来のいい恵である。先々のことを考えてしまうのである。

たとえば、この先、矢田部と恵がつきあったとしよう。

すると何が起きるだろう。

まず、恋愛にかまけて学業に身が入らなくなるのは当然だろう。

するとどうなるか。

成績が落ちる。

来年は受験生である。人生を左右する大事な受験を、十代の軽はずみな恋愛ひとつで棒に振るなんてことはするなよと、今まで塾の講師からさんざん注意を受けてきた。

また、仮に矢田部とつきあったとして、また仮に受験がうまくいったとしても、進路は当然違うだろうからそこで自然と別れることになってしまう。この場合、どうせ別れるならはじめからつき合わない方がましなのでは、と思えてしまう。

またまた、仮に矢田部とつきあって、受験もうまくいって、大学生になってもつきあいが続いたとしよう。二人とも、当然、県外の大学へ進学する。遠距離恋愛に耐えられるのか、という問題が浮上する。

またまた、また。仮に矢田部とつきあって、受験もうまくいって、大学進学後も問題なくつきあいが続いたとしよう。結婚、するのか?矢田部と?一生添い遂げるのか?人生で初めて体を許すであろう相手と?他につきあう相手もおらず、一生矢田部しか知らない女として生きてゆくのか?そんなギャンブルみたいなこと、できるのか自分に。

確かに矢田部と自分との子が生まれたら、そりゃあ頭がよくて見た目もよい子が生まれるだろう。しかし。

しかし今目の前にある問題はそんなことではなく。

そこまで考えて、いつも恵は思考を止めてしまう。

どうせ十代の恋なんて実らないと相場が決まっているのだ。ならばはじめから実らないままでいい。時間の無駄だ。貴重な十代、もっと他にすべきことがある。

頭のいい恵は、いつもそう、結論付けてしまうのだった。

そんなことを考えながら、今日も放課後となり、矢田部との共同作業を行う時間がやってきた。

友人たちは部活動へと行ってしまい、教室には先日と同じように、矢田部と恵だけが取り残されている。

「じゃあ、職員室にプリント取りに行こうか」

今日の矢田部はいつもの矢田部だ。

さわやかで、はつらつとして、誰からも好かれている矢田部。

年齢の割には大きなものを背負っていそうな、矢田部。

恵が、うん、といって見上げると、矢田部はまぶしそうな笑顔をよこす。その笑顔に、恵は今までに感じたことのない感情を抱かずにはいられない。

ずるい、笑顔だ――。

二人して、放課後の廊下をぺたぺたと歩く。

矢田部の方が歩幅が大きいので、恵はなるべく速足で歩くようにはしている。

けれど恵は知っている。

矢田部が、恵の歩調に合わせてくれていることに。

そのことに気づいたのはいつだったろうか。

前期の梅雨に入る前あたりだったと思う。

矢田部が、「国枝さんって、歩くの速いよね」と言ったのだ。

「そう?」と返して恵は自分の歩調をゆるめた。

すると矢田部はそれに合わせるように歩幅を調整し歩き始めた。

二人の歩調が合った瞬間だった。

お互いふふっと笑いあったのを覚えている。

それから恵は、毎日のように矢田部が誰かと歩くのを見ているが、矢田部の方から歩調を合わせるような歩き方をしているのを、ついぞ見たことが無い。

これは、どう解釈したらいいんだろう。

考えないようにしている先で、うれしい、自己中心的ともいえる誤解を自ら生じてしまいたくなる。

危険――。

「じゃあ、お願いね」

この日、教師から言い渡された雑用は、クラス全員の住所録の作成であった。

生徒一人ひとりの名前と、住所と、電話番号を、パソコンのデータと用紙のデータとで照らし合わせてゆき、一人ひとりの成績表を入れるバインダーを作成する作業である。

矢田部が用紙などの重いものを持ち、恵がノートパソコンを持ち、二人して午後の、まだ暑さの厳しい廊下をゆく。歩調を合わせて。無言の矢田部の横を、恵が歩いてゆく。しずしずと、それは、そう、長年連れ添った夫婦のように。

「今日も面倒な作業になるな」

恵の頭があらぬ妄想をしているのを知ってか知らずか、矢田部はそんなことを言ってくる。

「ほんと、やんなっちゃう」

恵はつとめて明るく言葉を返す。

クーラーのかかっている教室に入り、日よけのためにカーテンを半分だけ閉め、机を向かい合わせに移動させて、二人は委員長と副委員長の顔になる。

恵はパソコンを開き、クラス全員のデータが入った住所録のファイルを開く。

矢田部が、それと照会するための用紙を準備する。

「じゃあ、読み上げるね」

恵がクラス一人ひとりの名前、住所、電話番号を読み上げてゆく。矢田部が用紙のそれを指でなぞり確認してゆく。

住所録がカ行に差し掛かった時であった。

「国枝さん、携帯持ってる?」

矢田部が聞いた。

「うん、持ってるよ」

矢田部の意図するところが分からずに、恵は聞かれたままを答える。

「電話番号とライン、交換しない?」

恵は、かたまった。

電話番号とラインを交換して何をするのだろう。

まず頭に浮かんだのは、その一点であった。

それから、しょっちゅう頭をかすめるうれしい誤解が去来した。

「いいよ」

恵はスカートのポケットからスマホを取り出した。

矢田部はいったい、何を考えているのだろう。

それを机の上に出し、画面をオンにする。

待ち受け画面が立ち上がる。

「誰?これ」

矢田部が一段低い声で尋ねた。

ああしまった、と恵は思った。

しかしごまかしても意味がない。

恵は聞かれたままに答えた。

「久能元。知ってる?我が街の生んだ天才児」

「知ってる」

気まずい沈黙が降りる。

「なんで待ち受けになってんの?」

「久能元ね、なんでも今この街に帰ってきてるらしくって、それを知世が夏休み中に激写したんだって。それで話の流れで私のスマホの待ち受けにされてね」

わけもないのに早口になる。

「へぇ」

「なんでそれを大人しく待ち受けにしたままにしてんの?国枝さんともあろう人が」

詰問調の、けれどもどこかとぼけたような笑みを含み、矢田部がたずねる。

「別に。天才にあやかろうと思って。受験勉強してるしね」

思ってもないことを言った。

「なるほど」

なぜ矢田部に対して言い訳をしているのだろうと、恵はあせる。

「じゃあ、僕もあやかろうかな。僕にも送ってよ、ラインで。僕も待ち受けにしたいから」

恵の顔が見る間に赤くなってゆく。

なぜ今日の矢田部はこんなにも積極的なのだろう。

それとも、単なる友人としてのやりとりの延長なのだろうか。

誤解、してしまう――。

恵は、つとめて冷静を装ったまま、矢田部に電話番号とラインのアドレスを伝えた。そして、待ち受けにしていた久能元の画像を、ラインで送った。

これが、恵が矢田部に送った、はじめてのラインになった。

「ありがとう、大事にするわ」

ありがとう、大事にするわ?――頭の中で、矢田部の言葉がこだまする。

「うん、大事にして」

何を言っているのか、自分でも分からないままに、恵はそんなことを矢田部に返していた。

それからの矢田部は、それまで以上に積極的だった。

毎日のように恵に連絡をしてきては、やれ天気がいいだの、暑いだの、弁当がうまいだの、数学の問題が難しくて解けなかっただの、どうでもいいことを伝えてきた。

しかし恵にとってそれらの文言は単なるメッセージではなく、他でもない矢田部からの、連絡をとりたいという意思そのものであった。

自宅で、授業中、休憩中に、スマホがぶるると振動するたびに、恵の心は、小さく踊った。

十月に入るころには、既に二人して下校する仲になっていた。

毎日顔を合せて話題が尽きるかとも思われたが、矢田部の繰り出す世間話は授業の内容からエンタメまで多岐にわたり、恵を飽きさせることがなかった。

恵にとって矢田部の口から発せられる言葉は、何ものにも代えがたい、祝福された言の葉であった。

また、二人の間に沈黙が降りたときでさえも、恵はその沈黙をいとおしいと思わずにはいられなかった。

二人の間に何が起ころうとも、二人が一緒にいる限りは、何事も大丈夫で、今後は素晴らしいことが次々に起こってゆくような気さえしていた。


十月も中旬となり、夏の暑さがだいぶやわらいできたある日、矢田部はカラオケボックスで、恵にはじめてのキスをした。


十一月に入った。

今年の冬は暖冬らしい。夏に記録的な猛暑を経験し、冬までもその影響を受けるだの受けないだので、天気予報は連日、十一月に入っても暖かいこの日和について報道していた。

このころになると、恵と矢田部は連れ立って登校するようになっていた。

とはいっても、家のある方向は違うため、落ち合うのは学校のすぐ近くの交番の前である。

今日も矢田部の方が先に着いていて、恵が後からやってくる。

「おはよう」

「おはよう」

朝の挨拶とともに、恵は自転車を降りて満面の笑みを矢田部に向ける。

矢田部の顔がくしゃっと和らぐ。

「昨夜はよく眠れた?」

矢田部が毎朝、恵に尋ねることである。

「うん。矢田部は?」

いつのころからか、恵は矢田部のことを呼び捨てで呼ぶようになっている。

「もうぐっすり。気力満タン、体力全開!」

「ふふ、なによりだね」

二人の横を、同じように登校する生徒たちが通り過ぎてゆく。

こうして二人して歩くようになって、恵は思う。

矢田部とつきあうようになって、勉強する時間が減り、成績は下降傾向にある。

それは事実だ。

でも、矢田部とつきあうようになって、今までに経験したことのないような素敵な日々を送ることができている。

それも事実だ。

勉強はいつでもできるけれど、十代の矢田部とは今しかつきあえない。

であれば、多少成績が下がろうが、私は矢田部を取る。

それに、矢田部となら、切磋琢磨して一緒に成績をあげていくことも可能。

賢い大人はみんな、学生同士がつき合うことを嫌悪する向きがあるけれど、それは間違っている。

私は矢田部と証明して見せる。

恵は、先日塾で講師に、つきあっていたら受験戦争で敗れるぞと発破をかけられたばかりだった。

私は矢田部とつきあいながら、大学受験を乗り切ってやる。

ああでも、矢田部とはまだ進路の話をしていない。

矢田部はどこの大学を志望しているんだろう。

私とは当然違うだろうか。

その場合、私たちってやっぱり別れるしかないのだろうか。

それとも――?

恵がその先に思考を巡らせようとした、まさにその時であった。

「危ないっ」

矢田部が、恵の上に覆いかぶさってきた。

何――。

恵が何事が起ったのかとまばたきをした、次の瞬間。

一台の軽トラが、矢田部の上へと乗りあげた。

そのまま、矢田部と恵は、軽トラに押しつぶされる形で地面に叩きつけられる。

矢田部の下敷きになり、コンクリートの固い地面に押し倒された恵の上に、ものすごい重さと衝撃がのしかかる。

軽トラは、前輪を矢田部と恵の上で一度バウンドさせ、そのまま後輪を従えて進み、近くの電信柱にぶつかって止まった。

恵は、突如押さえつけられたみぞおちの衝撃に目を開けることができず、今朝食べた朝食を戻しかけていた。

矢田部は、恵の上にうつぶせに覆いかぶさったまま、先ほどからぴくりともしない。

周囲では、きゃーとかわーとかいった声が聞こえている。

頭ががんがんする。

何も見えない。

何も分からない。

恵の意識は、徐々に遠のいていった。

「ちょっと、恵、大丈夫?」

この時、ちょうど通りかかった知世の声も、当然、恵には届いていなかった。

そして、この時ちょうど、二人のスマホが並ぶようにして地面に投げ出され、その二つの画面の両方に、久能元の顔がでかでかと表示されていたことに気づいた学生が何人かいたことも、恵は知る由もなかった。



幸い、恵と矢田部は、軽い脳震とうで済み、そのほか、体には特に異常は見られないとのことだった。

恵と矢田部は、次の日には、再び同じ通学路を通って登校した。

同じ時間、同じ道であるため、昨日と同じ顔ぶれの学生たちが見える。

二人して頭に包帯を巻いているせいか、みな、物珍しそうに恵と矢田部に視線を送っては通り過ぎてゆく。

「なんだか、一夜にしてすごい有名人になったみたいだね」

つとめて明るく、恵が言う。

「もともと目立つカップルだったところに、この騒ぎだもんね。仕方ないね」

「もともと目立つカップルって、自分で言うか」

恵はすかさず、つっこみを入れる。

よかった、いつもの矢田部だ。

恵はかるく安堵した。

昨日、恵は目覚めると病院の一室に寝かされていた。

隣のベッドには矢田部がおり、既に到着していた矢田部の母親と思しき女性が、しきりに意識のない矢田部に呼びかけていた。やや遅れて恵の母親が到着し、いきさつを聞いた恵の母親は、かばってくれてありがとうございますと、何度も矢田部の母親に頭を下げていた。

そんな親たちのやりとりを、恵はぼんやりする頭で眺めていた。

何度かまどろみ、何度も眠り、再び意識がはっきりした時には、既に隣のべっどに矢田部の姿は無かった。

そのため、矢田部と言葉を交わすのは、事故以来、今朝が初めてであった。

「でも、びっくりしたよね、実際」

「ああ、僕が気づいた時には、もうすぐそこにトラックがあったもんなぁ。何事もなくてよかったよ二人とも」

「ほんと」

それから、矢田部が衝撃的な事実を口にした。

「トラックに乗っていた人、死んじゃったってね」

「えっ」

頭が真っ白になる。

「頭を強く打ったって、お医者さんが言ってた」

「へぇ」

この場合、「頭を強く打った」とは、原型をとどめていない、という意味ではなかったか。そんな関係のない知識ばかりが頭に浮かんでくる。

「ともかく、それだけの事故だったのに、僕たち二人が助かったのは、本当に奇跡に近いって言ってたよ」

「奇跡……」

その言葉を、くしくも恵は、この日、二度も聞くことになるのであった。


昼食の時間になり、いつものように屋上に通じる階段の踊り場で、友人たちと車座になり弁当をつついていたときのことである。

一足早く弁当をたいらげた未来が、恵の顔をうかがうようにして聞いた。

「ねぇねぇ、千代田高校前の歩道で軽トラックの事故、運転手は死亡って、昨日の地方ニュースでやってたけど、あれって恵と矢田部君のあった事故だよね」

「うん、そうだけど」

からあげを食べながら、恵は答える。正直、死人の出た事故なので、弁当を食べながらしたい話ではない。

「えっ、運転手、亡くなったの?」

「らしいね」

矢田部に聞いたままを伝える。

「うわぁ……」

みな、自然と言葉少なになる。

「見た……?」

何を、とは問わなかった。それはおそらく運転手の死体のことであるはずだったから。

「見てない。気づいたら気を失ってた」

「矢田部君は?」

「知らない」

そうだ。

そういえば、恵をかばって倒れこんだ矢田部は、運転手のその後を目撃したのだろうか。

頭のつぶれた――。

十代の多感な時期にそんなものを目撃したらトラウマになるだろう。

考えていなかった。

大丈夫だろうか、矢田部は――。

恵の心配をよそに、話は進んでゆく。

「でも、よく無事だったよねぇ。運転手が死ぬほどスピード出してたのに、車に乗り上げられただけですんだって」

「ちょっと知世」

知世のこの無遠慮な発言には、すぐに未来が制しにかかる。

「いいよいいよ、実際、よく助かったなって医者にも言われたし」

本当のことである。

「奇跡だよねぇ。私ちょうど事故現場見たけど、矢田部が恵の上に覆いかぶさっててさ、まるで姫を守るナイトみたいでさ」

「ちょっと知世、ふざけていい場面じゃないよ」

重ねて未来が注意する。

「そういえば」

まだふざけたことを言いそうな知世を、なに、とうんざりしたように未来がにらみつける。

「二人が折り重なってるとこに、二人のスマホが並んで放置されてたんだよね」

「へぇ」

「事故の衝撃で投げ出されたんだろうね」

皆、それがどうしたの、という具合に前のめりになる。

「その待ち受け画面がさ、二人とも、久能元だったんだよね」

「えーっ」

声をあげたのは葵である。

「なんで二人そろってなの。頭おかしいんじゃないの」

「いや、それはね――」

恵は、ある日の放課後に、矢田部とたまたまスマホを取り出すタイミングが重なり、待ち受けを見られたことから、久能元の画像をシェアすることになったと、適当に説明をつけた。それをそのまま信じた友人三人は、口々に、そんなこともあるんだねぇと息巻いている。

するとまた、知世が変なことを言い出した。

「恵が、スマホの待ち受けを久能元にしてからさ、なんかいいことが続いてない?」

これには、頭の回転の速い未来がすぐに反応した。

「ああなるほど。矢田部君という出来のいい彼氏ゲットでしょ、不慮の事故もその彼氏と一緒に無傷で切り抜けるでしょ。うん、もしかして、お守りになってんのかな」

「だったとしたらすごいよね」

未来によい反応をもらえて、知世は上機嫌かつ早口になる。

「ねぇねぇ、私たちも、待ち受け、久能元にしてみようか」

「えーっ」

「ものは試しだしさ」

知世に言われて、何度かの押し問答の末、未来と葵はしぶしぶスマホを取り出した。三人で黄色い歓声をあげながら、スマホをつきあわせている。その中心にいるのはほかでもない、久能元である。

そんな彼女たちの様子を眺めやって、やはり皆、十代の女子高校生なのだ、という気がしないでもなかった。

しかし心配なのは矢田部である。恵は、今日も下校を一緒にするから、その時に運転手の件を尋ねてみようと思うのであった。



それから二週間後のことである。

この冬は暖冬ということもあり、この日は十一月も下旬にもかかわらず、ぽかぽかと暖かな日和であった。

三限の体育の授業は体育館で行われており、クラスを半分にして、バスケをする組とバレーをする組とに分けられ和気あいあいと試合が行われていた。

恵たちいつもの面々は、体育座りをしたりあぐらをかいたりして、思い思いに試合に見入っていた。他のクラスメイトも、試合をしていないメンバーは皆、隣の生徒と何やらしゃべったりして楽しそうに過ごしている。

そんな中でのことだった。

「これ、まだ誰にも言ってないんだけどさ」

いきなり、知世が深刻な顔をして切り出してきた。

四人の中で一番噂好きな知世が、重い口を開くとは、よっぽどのことである。

みな互いの顔を見合わせ、知世の発言を待った。

「あたしね……実は……」

緊張が一気に高まる。

「彼氏ができましたーっ!」

「えーっ」

恵、未来、葵の三人は、歓声とともに揃って後ろにのけぞった。

「えーっ。どこの誰なの」

「そうそう、どこの誰なのよ」

三人して、知世を取り囲む。

「ふふっ。隣のクラスの安永君」

安永君、といえば、恵にも見覚えのある人物であった。

確か、バスケ部員のエースで、その超絶技巧を繰り出す甘いマスクから「千代田のプリンス」と、主に周囲の取り巻きからあだ名されていたっけ。

「えーっ。知世が、あの千代田のプリンスと?」

驚きを隠せないのは恵だけではないらしく、未来と葵が代わる代わる知世の肩を抱きあごをがくがくいわせている。

「え、待って。まず馴れ初めから聞かせて?」

まずは落ち着けとばかりに自分の胸に手を当てる未来。

「それがね」

聞くと、知世と安永君は同じ図書委員らしく、先週の雨の日に二人揃って図書室で受付係をしていたのだとか。そこからあれよあれよという間に仲良くなり、つきあうことになった、と、こういうわけであった。

「へぇーっ」

「千代田のプリンスと知世がねぇ」

話を聞いているだけでは、いまだに信じられないでいる三人である。

すると、突然、恵たちの横でけたたましいほどの歓声があがったかと思うと、女子と思しき体が、どっと恵たちの方へ押し寄せてきたのである。

「なにっ」

この間から押し倒されてばっかりだ。

また押し倒されるのか、と、恵が思った瞬間だった。

「安永君と知世が、つきあってるって本当!?」

耳元で、女性特有の甲高い声が響いた。

こちらへ押し倒してきた肉体を逆に押し返して、恵が上体を起こしてみると、そこには先ほどから聞き耳を立てていたのであろう、千代田のプリンスの取り巻きたちが、こちらをにらんで肩を並べていた。

恵はたじろぐ。こういう時、どうしてよいか、まったく分からない。頭が真っ白になった。

おそるおそる横の友人たちを見ると、未来も葵も顔面蒼白である。

一人、知世だけが、強い意思を瞳にたたえて、彼女たち取り巻きの視線に真っ向から対峙していた。

「聞かれちゃあ仕方ないね、うん、つきあってるよ。私と安永君。悪いけど、邪魔しないでよね」

きゃーっ、うそーっ、ほんとーっ、信じられないーっ、と一段と甲高い歓声が上がる。

その様子を、恵ははらはらして見ていたが、そこは女子の道に長けた知世である。恵たちが見ている前で、猛獣を飼いならすかのような手さばきで見事に取り巻き立ちをなだめた後は、何食わぬ顔で試合観戦に戻ったのだった。

視線の先ではバレーが行われている。

右へ左へと飛び交うボールを追いながら、知世はぽつりと言った。

「恵、やっぱ久能元、効くわ」


時を前後して、実は未来にも葵にも彼氏ができていたことを知ったのは、十二月に入ってからのことだった。

「もう、私だけ知らなかったのって、どうなの」

情報を最も遅く明かされた恵は、一人ぷりぷりと怒っていた。

「まぁまぁ。みんな、事故のことを心配してくれていたのかもしれないし」

隣を歩く矢田部がそう言ってくれる。

季節は既に秋を過ぎて冬に入っている。今年の冬は暖冬らしく、十二月に入って間もないとはいえ、いまだ小雪ひとつ降るのを見ていない。

「そういえばさ、矢田部、ずっと聞けなかったことがあるんだけど」

「何?」

言い出しにくそうにする恵を、矢田部の笑顔がそっと後押しする。

「事故の時、見た?」

隣を歩いている恵にも、矢田部の表情が一瞬にして曇ったのが分かった。

「やっぱ、いい。何も聞かなかったことにして」

矢田部がもしそれをを見ていたとしたら――。

そう想像するだけでおそろしいことであった。

「――見たよ」

見たよ。その言葉が、恵の頭の中で反復する。

ああ、やはり。

やはり矢田部は見ていたのだ。

「どうして言ってくれなかったの」

「言ったところで、どうしようもないだろう」

「それはそうだけど、でも」

でも、それでも言ってほしかった。

彼氏彼女なんだから――。

しかし、なぜだか最後までその台詞を吐くのはためらわれた。

なぜだかは分からない。

ただ、彼氏彼女だからという理由だけで、すべてをさらけ出してほしくないという思いが、恵にはあった。なぜそう思うのかは分からないが、互いに自立した大人としてつきあいたいという思いがそういった態度にさせているのかもしれなかった。

「大丈夫?」

「うん、実は、大丈夫じゃなくって、毎晩悪夢を見るようになってから、精神科に通うようになってる」

精神科――。その響きは、およそ矢田部にはふさわしくなかった。精神科なんていうところは、誰か、精神的に弱い人がお世話になるところだと思っていた。

なのに。

「ふうん」

この日、恵は、はじめて矢田部と目も合わさずに別れた。

実は二人の落としたスマホを見た登校中の生徒によって、久能元の待ち受けは幸運を呼ぶ画像として噂になっていることも知らずに。

そして、まさにその画像を、友人である知世が四方八方の知り合いにばらまいていることなど露も知らずに。

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