第5話 逃れられない運命
想定通り会社から出たのは日を跨いだ後。
やっぱりあの栄養ドリンクを飲んでおけばと後悔するほど身体は疲れているが、企画は順調に進んだ。なにより会議中に出した俺の案を上司に褒めてもらえたのが最高に気持ち良かった。
まあ、その高揚したテンションのまま残業して企画の資料作成をしたせいでこんな時間になっちゃったわけなんだが……。
ただそれでも終電に間に合うのがこの会社の良いところだ。五分もかからず駅に着くことができる。
早く家に帰って美那子のおかえりと美久の寝顔に癒されたい。それから作り置きしてくれている夕食を食べて身体を労おう。
そう考えると駅に向かう足取りが軽くなる。
でも、改札口がはっきりと見えてきたところでその足が止まった。
「嘘だろ……」
なぜなら先の脇道から菊浦さんと見知らぬ男が出てきたからだ。
俺の知らない私服姿、白のカーディガンにショートコートを重ねて寒くなってきたこの時期にお似合いだ。ロングのスカートも父親にある身としては肌の露出が少なくて安心できる……ってのは置いといて、どうしてここにいる?
いやまあ、今日がもしヘルプであのコンビニにいたとしたらこの周辺に住んでいるんだろうから夜に彼氏といる姿を見つけてもおかしな話じゃない。そのはずなのに、いろいろと重なりすぎて怖いんだよ!
「またね! ばいばい!」
どうやらここでお別れらしい。彼氏くんの姿が出てきた脇道の方に消えていく。そうして歩き始めた菊浦さんの行く先にあるのは駅。
つまりは俺と同じ方面の電車に乗ることになる。
この駅は改札からホームに繋がる階段はひとつしかない。その先で電車を待っていたら俺に気付くかもしれない。
どうする? 幸い今はまだ一方的に認識している状況だ。それに駅も二駅程度。時間にして一時間もかからない。
なにも確定した情報はないのに恐怖心だけが募り、逃げる選択肢を最優先に行動してしまう。
なるべく音を出さぬよう一歩会社側に近付く。徐々に菊浦さんとの距離は離れていく。
「そうだ、美那子に連絡しておこう」
この直線の道路から姿を消すために路地に向かいながら、視線をスマホに落とす。
『今日、言ってた以上に帰り遅くなるから、無理して起きないで寝ててね』
返事が来るまでニュースを確認したり、スポーツ情報を見たり、スマホを触って待つ。
数分後、通知音と共に流れてきた。
『これで起きた。すぐ寝る。今日もお疲れ様』
やっちゃったけど、まあ心配ないかな。
ひとまずはこの路地を抜けて大通りから家に――
「流川さん♪」
――え? どうして?
「どうしたんですか? そんな信じられないことに直面したみたいな顔して」
心臓が一瞬止まったかと思った。だってそうだろ? ほんの数分前まで駅に向かってたはずじゃないか。
どんな理屈を並べてもこっちに来る理由なんてないのに。
「もしかして、今、私のこと考えてます?」
その言葉に唾を飲みこんだ。これまで残されていた恐怖の否定を全て壊す一言だから。
合わせられた深い笑みがよりその力を爆発させる。
「当ててみましょうか? 流川さんが言いたいことを」
一歩路地に入ってくる。それにつられて俺も一歩路地のなかに戻されていく。
「どうして君がここにいるんだ、駅に向かっていたのに……でしょ」
「き、気付いていたのか?」
「あんな熱い視線向けられちゃったら誰でも感じちゃいますよ。絶対に私を逃さないって気持ちがこもってましたから。
でも悲しいなぁ。私、まだ悪いことなにもしてないのに避けるみたいな態度取られちゃって」
そりゃそうだろ。どういう感情で菊浦さんが動いているのかわからないけど、こんな偶然が重なり合ったらなんでも疑いたくなる。
「まあでも、流川さんももう分かってると思いますけど、ここまで来たら私も隠す気なんてないので」
「な、なにを隠しているっていうんだい?」
「なにって、私が流川さんのことが好きだってことですよ。なんとなくそんな気がしてたでしょ? 自分でいうのはあまり気分の良いものじゃないですけど、ストーカーしてるんじゃないかって思ってたでしょ?」
ダメだ、足が動かない。
菊浦さんを守ったときにいたオッサンなんかとは比べものにならない恐怖。こんなことが現実に起こり得るのかという得体のしれない恐怖。
「あっ、ひとつ言っておきますけど、ここどの監視カメラにも映らない痴漢の穴場スポットなんですよ。だから、今私が叫んだらどうなるかわかりますよね?」
「なんのつもりだ?」
「声、震えちゃって可愛いですね。あのときの頼りがいのある流川さんとは大違い。ああそうだ、ついでにもうひとつ教えてあげましょうか。さっき一緒にいた男の人があと二分もすればここに来ちゃうんです」
タイムリミットの通知のつもりか。ただそれが分かったところでなんて言えばいい。
好きだからと言われてじゃあ、付き合おうかと言える立場でないことは彼女もわかっているはずだ。
「愛人」
そんな俺の浅い考えを真っ向から否定する言葉と真っ直ぐな視線に息が詰まる。
「なにも悪いことじゃないですよ。若い女の子の初めての恋心にすこし付き合ってくれればいいんです。それを拒絶するためにせっかく積み上げてきた会社の信頼も、家族からの信頼も失いたくないでしょ?」
なんて身勝手な言い分だ。そう言ってやりたいが、逃げ道は既に閉ざされた。これ以上一歩でも退けば、彼女の悲鳴が眠る街を起こしてしまう。
「……一週間だ」
「なにがです?」
「一週間だけ恋人ごっこをしよう。それでもう俺や大事な家族から離れてくれないか?」
「んー……」
頼む、納得してくれ。頼む!
「仕方ないなぁ」
求めた返事に反応し、彼女に視線を向けようとした一瞬だった。
柔らかく潤いのある若い唇が触れる。それから優しいせっけんのような香りが鼻を抜けた。
そして最後に聞こえてきたのはカメラのシャッター音。
眼を見開き、伸ばされた彼女の手が持つスマホの画面を確認すれば歳の差カップルの思い出がそこに留められている。
多くの感情によって身体が縛られた俺から離れていく温もり。
「ふふっ、今日からよろしくお願いしますね、理久さん」
頬を赤らめ、喜色の笑みを見せるまるで純粋な彼女を見て俺は察した。
既に俺は彼女が張った糸に身体を絡めとられていた獲物なんだと。
短編「ある日、コンビニ店員の女子大生を守ったら……」 木種 @Hs_willy
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