第33話 隔たる溝

 カタカタ音を立てる換気扇。

 くつくつと鍋が煮立っている。

 白い湯気が、もうもうと湧き上がる。


 台所に椿が、ぼうっと立っていた。


 思考を支配するのは昨夜の出来事。

 彼の表情。彼の言葉。最近の、彼の行動。


 全てが繋がって、泣きたい気持ちを堪えるため、口の中で舌を噛む。

 微かな痛みが、無意味に泣く行為へと逃げたくなる思考を繋ぎ止めた。


 椿が欲しいのは、人間ではないが、椿にとっては唯一無二の存在だけだ。


 持ち上げた右手で己の唇を撫でる。

 椿も彼の唯一になったはずで。

 繋ぎ止められたのだと思っていた。

 怖いものを壊して、逃げて。

 あとは彼と堕ちていく。

 彼がいない未来なんて、いらなかった。


「しっぱいしたかもしれない」


 言葉がするりと、滑り落ちる。


 だがその失敗は、彼が椿を守ったことでもたらされたのだろうことも、理解していた。


「おぉ? めっちゃ煮立っとるやん!」


 賑やかな声と共に、空気が揺らぐ。

 鍋から湧き立つ湯気が揺れて、伸びてきた人間の手が火を止めた。


「どないしたん? 具合、悪いんか? 椿?」


 目の前に現れたのは、柘榴の果実色の瞳を持った、青年の顔。彼が浮かべているのは、椿の体調を案じる表情。

 椿は無言で青年の手を取って、手のひらを己の額に押し当てる。


「んー? 熱は、ないなぁ」


 そのまま手首を握り続けていては訝しまれることがわかっているから、椿は手の力を緩めた。

 当然のように青年の手は、椿から離れていく。

 まるで彼の思考と同調しているかのようなその動作が、ひどく嫌だった。


「ちょっと、ぼーっとしちゃった」


 言い訳のような言葉を吐きながら、椿は彼に、両手を伸ばす。

 この姿のときに抱きつけば距離を取られてしまうから、パーカーの裾を、きゅっとつかむ。子供っぽい動作だ。だけど、だからこそ、彼は優しく微笑んでくれる。


「お味噌汁、ごめんね。私が飲む」


 穏やかな彼の瞳を見ていたら、また泣きたくなった。


「ええって。気にすんな」


 味噌汁を煮立たせてしまったことで椿が落ち込んだと考えたのだろう。青年の右手がぽんと、椿の頭に乗せられた。


「テイキアツとかいうのんで、人間は具合が悪ぅなるんやろ?」

「この前、キミさんのお家で流れてた、テレビの情報だね」

「人間は大変じゃのう」

「今日は、晴れてる」

「そやな。元気なんやったら、いい天気やし、あとで散歩でもするか」

「人間のうし様と? デート?」

「たまにはそれも、ええかもな」

「行く!」


 牛鬼は簡単に、椿の気持ちを浮上させる。

 だが、椿を突き落とすのもまた、彼なのだ。


「渚さんは?」


 牛鬼が人間に化けた理由は、視えない渚を呼びに行ったからだった。


「いるよ。お邪魔してる」


 台所へ、渚がひょいと顔を出す。


「すみません。お味噌汁を沸かしてしまって」

「全然、俺は大丈夫。手伝うよ」

「ありがとうございます」


 普段どおり何でもないような顔をして、食卓を整えた。


「デートするならさ、髪の毛、かわいくしてあげようか」


 配膳を手伝いながらの、渚からの提案。

 適当に結った己の髪に触れてから、椿は頷いた。お願いしますと告げれば、服を変えることも提案される。


「片付けは、俺とうしくんでやっておくからさ」

「おう! 任せときぃ」


 素直に従って、食事の後で、いつものジーンズとパーカーからワンピースに着替えた。政弥と渚からプレゼントされた服だ。

 渚の手により髪の毛が結われ、色付きリップが手渡される。


「似合うと思うんだ」


 渚の笑顔を間近で見て、また、泣きたい気持ちになる。

 己の望みはわかっている。だが、どう動くべきかが、わからない。

 想定以上に世話になってしまっている渚と政弥に迷惑をかけるのは、嫌だった。そう思考することが牛鬼の思惑どおりの展開だとは気付かないまま椿は、手の中の色付きリップを唇に塗る。

 渚に見送られて外へ出て、当然のように手をつなぎ、見慣れてきた町中を歩いた。

 他愛のない言葉を交わして、互いの本心は、隠したまま。


「うし様」


 どうしたらいいかが、わからない。


「独りにしないでね」


 だから椿は、同じ言葉を繰り返す。


「椿を寂しくは、させんよ」


 その言葉はきっと、嘘じゃない。ただ単純に、彼が思い描く椿の未来には、彼自身の存在が含まれていないだけだ。


「うし様」


 椿が生きている限り、牛鬼は消えないと言った。


「……なんや?」


 ずっと一緒だと、信じていたのに。


「うそつき」


 不安はずっと燻り続けてはいたが、信じていた。信じたかった。信じないと、立っていられなかった。

 失った悲しみが馴染み、立て続けて起こった出来事への動揺も落ち着いた今、やっと椿は、牛鬼と己の間に隔たる溝を認識した。

 同時に改めて、思う。

 牛鬼が消えてしまった世界に未練など、欠片もないと。


「椿……」


 何かを言おうとした声を遮って、椿はパーカーをまとった青年の胴へと抱きつく。

 己の体を押し付けて、人間ではないのに質量も体温もある存在を全身で感じる。


「大好きだよ、うし様」


 初めて、違う言葉を吐いた。

 触れてる場所からダイレクトに、牛鬼の動揺が伝わってくる。


「好き」


 泣きたくなるようなこの感情を表す言葉が、見つからない。兄や父、家族に向く感情が当てはまるのか、正しいものを椿は知らないから、本当は判断がつかない。

 友情に、恋や愛、執着や依存。

 言葉としては、知っている。


「私は、うし様が、大好き」


 声に出すのなら、この言葉が近いのではないかと思った。


 昨夜は動かなかった両手が持ち上がり、椿の背中へと回される。

 気付けば息が止まるほどの力で抱きしめられて、一瞬後で、椿はほうと、息を吐く。

 頭のてっぺんからつま先までを満たすこれが幸福だとは、知っていた。ツバキの木があった、あの家で教えてもらったから、知っている。


「椿」


 か細い声で名前を呼んだきり、それ以降、牛鬼は何も言わない。

 痛みを感じるほどの抱擁はすぐに解かれて、どちらからともなく手をつなぎ、歩きだす。

 普段どおり何でもない話を振れば牛鬼の表情は安堵で緩み、二人の間にたゆたう空気は、いつものものへと戻っていった。

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