第30話 秋の日に2

 店を閉める前に屋外の様子を確認しようと、渚が入口へと向かった。

 ドアを少し開けただけで雨が吹き込み、ドアマットを濡らす。


「大丈夫ですか?」


 渚が誰かに話し掛けた声に、政弥と牛鬼が顔を向け、椿もそちらへ振り返る。


「入れてくれるかしら」


 遅れて聞こえた女の声に、真っ先に反応したのは牛鬼で――


「どう――」「あかん! 招き入れんな!」


 どうぞと言おうとした渚の言葉を遮った常とは違う牛鬼の声に、全員が驚いた。

 牛鬼の制止の声より早く、客人を通すため一歩引いて入口を開けていた渚の横を、赤いレインコートを着た女がするり通り抜ける。

 暴風雨で折れてしまったのか最初から持っていなかったのかはわからないが、女は傘を持っておらず、真っ赤なレインコートを伝って落ちた滴が床を汚した。

 被っていたフードを下ろした女は、街中ですれ違ったとしても特に印象が残ることのない平凡な顔立ちをしている。

 だが、政弥は気付いてしまった。

 これは、やばい奴だと。

 この女が発する異様な空気を感じてはいないようだが、政弥と牛鬼の表情を見た渚が怪訝そうに様子を窺っている。


「せっかく見つけたのに、このお店、ツバキの木の境界があるんだもの。私みたいな存在は招いてもらわないと入れないじゃない? どうしようかしらって、考えていたところだったの」


 牛鬼は素早く、椿を己の背に隠した。

 まっすぐ牛鬼のもとへ足を進める女の唇が、弧を描く。


「近付くことは許さん」


 低く這うような牛鬼の声で、女の歩みが止まった。

 まるでそこに壁があるかのように、女は一歩も動かなくなる。


「安心して? 浄化なんてされたくもないから、何にもする気はないわ。ただ、私の獲物を奪った相手を見に来たの」


 足元に出来る水溜まりを気にする様子もなく、レインコートを脱ごうともしない。

 女と対峙する牛鬼は険しい表情を崩さず、政弥も渚も椿も、状況が掴めないまま女と牛鬼の様子を窺っている。

 女が客ではないらしいことを察した渚が、いつでも追い出せるようにと入口のドアを開けた状態でいるため、店内には雨風が吹き込んでいた。


「おいしそうな娘だこと。貴方の獲物? それともつがいにするのかしら」


 真意の見えない笑みを浮かべた女の黒く濁った瞳が、牛鬼越しに椿へ向けられる。

 女の視線から隠そうとする牛鬼の動きを無視して、椿が牛鬼の背後から顔を覗かせた。


「私、番になれるんですか?」


 対峙している女以外で唯一、牛鬼の表情を窺うことの出来る位置に立っていた渚は、女を睨む牛鬼の恐ろしい形相を目撃してしまった。

 椿へ向ける穏やかな瞳や、自分たちと会話するときの笑顔しか知らなかったために、彼が鬼と呼ばれる存在なのだということを実感したのは、初めてだ。


「人間が神に為るのは難しいかもしれないけれど、鬼になら、為れるわ。だって私は、人間から鬼に為ったのだもの」


 牛鬼の鋭い視線に怯むことなく、片手の指先で口元を隠し、女は嗤う。


「愛しい男がいたの。彼は私を裏切り、別の女を選んだ。私、彼と一つになりたくて。――たべたの」


 女が浮かべた恍惚の表情を椿と牛鬼の背中越しに目にして、政弥は腹の底から這い上がる不快感で身震いした。

 つい先日解決したばかりの兄からの頼まれごとに、この赤いレインコートの女が関わっているだろうことが、女の発言から察せられる。

 だから、理解した。

 これは自分が招いてしまった厄介ごとだと。

 だが人間である自分が、鬼だと名乗る女に対して何が出来るのだろうと考えた政弥は、ある事を思い出して、ジーンズのポケットを探った。

 手に当たった感触。

 それは、牛鬼から渡されたツバキの葉だった。神と呼ばれる存在からもらったそれを捨てることは躊躇われ、何となく身に付けていたものだ。

 だが、使い方がわからない。

 この葉を女へ投げつけてみたら、効果があるものなのだろうか。


 政弥が思案している間も、女の言葉は止まらない。


「私を捕まえようと、殺そうとしてくる男たちも、食べたわ」


 女の濁った瞳は、過去へと向けられている。


「だけど、ある日封じられて。気付いたら、男共への報復を願う女が私のもとへ来るようになっていた」


 政弥は、ポケットから取り出したツバキの葉を握って、拳を作った。

 女性への暴力は気が引けるが、力づくで追い出してみるかと、椅子から立ち上がろうとする。


「私は、願った女と共に、男を食べた」


 ふいに牛鬼が振り返り、暗赤色の瞳が政弥を映した。

 視線が政弥に「動くな」と命じる。

 まるで金縛りにあったかのように、体の動きが止まった。


「みぃんな、私の中で一つになった」


 だけどと告げて、それまで過去を見ていた女の瞳が、牛鬼を映す。

 その時には、牛鬼は女のほうへ顔を向けていた。


「この前、食べ損ねたのは……貴方に邪魔をされたから」


 牛鬼の左腕は、椿が前へ出ないよう止めている。

 椿は牛鬼の左腕の服を掴んだ状態で、黒髪の青年の横顔を見上げていた。椿の顔に恐怖はなく、そこにあるのは彼への信頼と、微かな期待。


「これまでも力を持った人間が干渉してくることはあったし、そんな時には返り討ちにしてやったのだけど」


 女は一歩も動かず、口だけが滑らかに、言葉を吐き出し続けている。


「貴方みたいな存在に邪魔されたのは初めてだったから、興味が湧いて、会いに来たの。だって、神は基本、人間に手を貸さないものでしょう?」


 ついと、女の濁った瞳が牛鬼と椿、二人を映す。


「でも来てみてわかったわ。貴方、その娘を――」

「黙れ」


 冷静に、命じる声。


「よく回る舌だと感心していたが、いい加減、煩わしい」


 普段とは違う声音と口調。

 静かな声だというのに、びりりとした緊張感が室内を満たす。


「あの時は、ただ祓うだけにしてやったが。甘かったというのなら、いっそ喰うてやろうか」


 黒髪の青年の体が、膨れ上がる。


「あら、いいの? 貴方みたいな存在には、制約が色々とあるのでしょう?」


 青年の姿が崩れる直前でとどまり、牛鬼の暗赤色の瞳が、不気味な笑みを浮かべる女から椿へと向けられた。

 彼の瞳の中にある感情は複雑で。確かなのは、牛鬼が椿を案じているという事実。


「お前のような存在が近くにいるだけで穢される。ならば、いっそ」

「浄化されるのも嫌だし、神堕ちとなった貴方に喰われるのも、ごめんだわ。稀有な存在を確かめる目的は果たしたことだし……帰るわね」


 あっさりと牛鬼に背を向けた女は、渚が開けたままでいたドアへ向かって歩いていく。

 渚の前を通り過ぎ、ドアの外へ足を踏み出す直前、顔だけで振り向いた女の視線が、椿へと向けられた。


「なんだかとても……妬ましいわね」


 嵐の中へ足を踏み出した女の姿は、風に掻き消されるようにして見えなくなる。

 女の姿が見えなくなったことを見届けてすぐ、渚がドアを閉めて、嵐の音は遠退いた。


 一拍おいて、渚と政弥が詰めていた息を吐き出す。


「今の何? 長年マサと一緒にいるけど、初めて見ちゃった感じ?」


 気付けば金縛りは解け、体の主導権は政弥へと戻っていた。


「いや……幽霊では、ないんじゃないか?」


 答えを求めて向けられた二対の視線。

 受け止めた黒髪の青年は、吐息をこぼす。


「あれは幽霊とはちゃう。だけど鬼とも少し違う存在や。魔、言うんが正しいか」


 説明しながら振り向いて、持ち上げた右手で、椿の肩に触れる。

 だが、暗赤色の瞳が最初に映したのは、政弥だった。


「ああいうのに関わったらあかん。認識されるだけで、祟られかねんからな」


 政弥がしようとしたことをわかっている様子の牛鬼から告げられた言葉。

 政弥は、牛鬼に守られたのだと理解した。


「うし様」


 声に反応して、暗赤色の瞳が椿へと向けられる。

 そのまま流れるような動作で右手が白い頬に触れ、牛鬼は椿の瞳を覗き込んだ。

 まるで、何かを確認しているようだ。


「うし様。私、うし様のつがいになれるの?」


 椿が、首を傾げて問いかける。

 たった今起こったことへの疑問を口から溢れさせようとしていた男たちは、期待が込められた少女の声で口を噤み、成り行きを見守ることを選んだ。

 三人の注目を浴びた牛鬼は一瞬迷うように瞳を伏せ、ゆっくり、静かに、返答する。


「鶴子が願ったのは椿の幸福で、ヒトのまま、椿が笑っていることなんやで」


 泣き出してしまいそうな笑みを浮かべた牛鬼。

 椿は、頬にある彼の手に触れる。


「神堕ちって、なぁに?」

「……椿がそれを知る必要はない」


 あの女が再び姿を見せることはないだろう。この店は入口にあるツバキの木が境界を作っているため、先ほどのように家主が招き入れない限りは、魔が入って来ることは出来ないから安心していいと、牛鬼は渚と政弥に告げた。


「うし様」


 話を終わらせようとしていた牛鬼を再び呼んだ、椿の声。

 納得していない表情をしている椿を見下ろして、珍しく、牛鬼が固い声でぴしゃりと告げる。


「儂は椿を絶対に喰わんし、鬼にもせんからな」


 まっすぐに絡んだ視線。

 互いしか映していない、暗赤色と、赤の混じった琥珀色。


「確かに私は、あの時そう願ったけど……うし様さえいてくれるなら、それで、いいんだよ」


 一歩分の距離を詰め、椿の両手が黒髪の青年を抱き締めた。

 失うことを恐れながら、細い両腕が牛鬼を包む。


「椿……」


 その先に続く言葉はきっと、「幸せになってくれ」だと、政弥と渚は思った。


 牛鬼の両手は、体の横で力を失ったまま。

 痛々しい沈黙が、店内を満たしていた。

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