第29話 秋の日に1

 煙草に火を付け、深く吸う。

 開けた窓の外へ白い煙を吐き出して、心地いい秋風を顔に感じた。

 冬が、まだ遠くに感じる小春日和。

 窓辺に腰掛ける政弥の目の前では、黒毛牛のぬいぐるみが足を投げ出すようにして窓の桟に座り、外の景色を眺めている。

 台所では、椿が昼食の後片付けをする柔らかな物音。

 すっかり馴染んだ日常の光景に穏やかな眠気を感じつつ、食後の一服を楽しむ。

 厄介な仕事が片付いたのは、昨夜の出来事。

 明方近くまで酒を飲んでいた政弥と牛鬼のために、今日の昼食は消化のいい雑炊で、椿はなんて出来た娘なのだろうかと、政弥は感慨深いものを感じた。

 彼女のためにも、明日には帰ってくるだろう母を訪ねて実家へ行かなければならない。

 そこまで考えて、政弥は目の前にいる黒毛牛のぬいぐるみへと視線をやる。愛嬌のあるそのぬいぐるみは、昨夜は青年の姿で共にいた。

 神と、人間と、鬼。

 その違いとは一体、何なのか。

 目の前の存在を見ていると、その概念に疑問を感じるようになってくる。


「なぁ、牛鬼」


 声を掛けると向けられる、暗赤色の瞳。


「お前、名前はないのか?」


 牛鬼というのは個体の名ではないはずで。椿のいう「うしおに様」というのも、彼の名ではないのだろう。

 個体を識別するための名は、ないのだろうか。

 かなり長い時を生きている彼に、誰かが名を与えたことはないのだろうか。そもそも彼はどのようにして、この世に生を受けたのか。


「おもろいことを言うなぁ」


 黒毛牛のぬいぐるみは、そのような質問は初めて受けたというような顔を政弥に向けた。


「ワイは牛鬼と呼ばれる妖怪で、荒神こうじんとなった、元鬼や。それ以外の何者でもあらへん」

「……俺は人間で、西舘政弥って名前の、日本人の男だ」

「せやなぁ」


 幼子からの「どうして?」攻撃を受けた大人のような雰囲気をにじませ、黒毛牛のぬいぐるみは、淡々と事実を語る。


「ワイは牛鬼で、うしおに様で、椿からはうし様と呼ばれる存在や。それ以外の呼び方なんて必要ない。ぬいぐるみとでも、牛とでも、これまでどおり牛鬼とでも、好きに呼べばええんとちゃうのん?」


 どうせその内、遠くない未来に消えるのだから――そんな心の声が、聞こえたような気がした。

 胃の辺りに、不快な想いが滞る。

 だが、政弥が何かを言ったとしても、彼の意志を変えられる気はしない。だからこそ政弥と渚は、もっと彼について知らなければならないと思っている。

 そのために今、色々と調べているところなのだから。


「なぁ。お前って、どうやって産まれたんだ?」


 妖怪も、鬼も、神と呼ばれる存在だって、これまで政弥の身近にいたことはない。

 人間のように女の腹から産まれるわけではないのだろうと推測することは出来るのだが、どのようにして、この世に生を受けるのかを政弥は知らない。

 政弥の発した質問に、牛鬼は記憶を辿るような仕草をしてから口を開いた。


「産まれたわけやない。ワイは牛鬼に、為ったんや。ツバキの木の根の化身とかいうやつが、ワイや」

「それって、元々お前は、ツバキの木だったってことか?」


 そういえば少し前、椿がそのようなことを言っていたなと思い出す。


「そうや。長い時を生きたツバキの木の根はな、たまぁに、ワイみたいな牛鬼に為るんやで」


 世の中は、まだまだ知らないことで溢れている。

 吸うことを忘れたまま短くなってしまった煙草を揉み消して、政弥は深く長い息を吐き出した。

 牛鬼はというと、飽きたのか座っていた窓の桟から飛び降りて、台所から顔を出した椿の元へ向かって駆けていく。


「うし様」


 彼を呼ぶ彼女の声を聞いた途端、頭を抱えたい気分になる。

 気付いてしまうとこんなにも、椿は牛鬼を求めている。

 政弥が知っている物語では、人ならざるものと人間の女の恋愛で幸せな結末を迎えるものはないように思える。だけど知らないだけで、この広い世界のどこかには存在するのかもしれない。その可能性を見つけたいと、政弥は思うのだ。

 今日は小春日和。

 だけれど、それは嵐の前の静けさと呼ばれる一時の平穏で、スマートフォンで見た天気予報では、台風が訪れるのだと告げていた。



     ***



 今年は例年に比べれば少ないとニュースで騒いでいたが、数日前に太平洋上で発生した台風が日本を縦断中で、店の外では雨風が吹き荒れている。

 観測史上最大級の台風であると前日から注意喚起されていた影響で、都内の各線が夕方にはほとんど運転を取りやめてしまい、常に人で溢れている渋谷の街も、さすがに閑散としてしまった。

 BARカメリアもその煽りを受け、通常どおり開店してみたものの、閑古鳥が鳴いている。

 手持無沙汰の椿は店主である渚の許可を得て、普段出来ない細かい部分の掃除に精を出し、店の隅のカウンター席では、これまた仕事のない政弥が琥珀色の液体の入ったグラスを傾けている。

 その隣では黒髪の青年がロックグラスを片手で揺らしながら、静かな声で渚と政弥と言葉を交わしていた。何か理由がない限り、常人の目には視えない黒毛牛のぬいぐるみ姿をしている彼がヒト型をとっているのは、客が来なくて暇だと、渚が頼んだが故だった。


「マサとは、いつも話してる。電車が動いてないうえに、この天気じゃお客さんも来ないだろうし、うしくんがお客さんになってよ。サクラってやつ。仕事ってことにして、奢るからさ」


 普段から牛鬼が飲む酒は、なんだかんだと理由を付けて渚の奢りではあるのだが、大の酒好きである牛鬼は、その言葉に釣られて青年の姿となったのだ。

 自分には視えないが、そこに存在している牛鬼に、渚はいつも試飲だとか作り過ぎて余っただとか店の守り神へのお供えだとかと言って、酒を出す。

 牛鬼は、無駄にしてはいけないからと、その酒を飲んでいる。

 その事を知っている椿がバイト代から牛鬼の酒代を出すと言っても、渚はそれを断る。

 酒屋やコンビニで牛鬼用の酒を買おうにも、未成年である椿が購入することは出来ないのだ。政弥としては、椿と共に買いに行ってやってもいいと思っているのだが、渚と牛鬼の交流の機会を奪ってしまう気にはなれずに黙しているというのが現状だ。


「かーっ。堂々と飲む酒っちゅうのは旨いのぉ」


 軽やかな音を立ててグラスの酒を飲み干した牛鬼は、機嫌良く笑っている。


「うしくん、次は何を飲む?」


 渚は、ヒトの姿をした牛鬼との交流を気に入っているようだ。

 誰に対しても面倒見のいいように見える渚だが、実はかなりドライな性格をしており、常連の客とも一定の距離を保っている。そんな渚が、椿と牛鬼に対して親身になっているのは、政弥が連れてきたからという以外にも、彼ら自身に惹かれているからなのかもしれない。


「渚の作るカクテルっちゅうんも最高に旨いんやけど、これが気に入ってもうた」

「栗焼酎、好きなんじゃないかと思ったんだよね。これは愛媛で作られた酒なんだよ。今みたいにストレートもいいけど、お湯割りにすると、香りも風味も増すんだ」

「ほぉ。なら次は、お湯割りがえぇなぁ」


 輝くような笑顔を浮かべた牛鬼は見た目どおり、普通の青年のようだ。


「椿ちゃんも掃除はいいから、こっちにおいで。いっそのこと、今日はもう閉めちゃおうかなぁ」


 外で吹き荒れる雨風の音が、店内に流れるBGMを掻き消そうとしている。

 窓越しで見た通りには、人っ子一人歩いていない。


「手を抜くことだって必要だぞ」


 客がいなくとも給料が発生しているからと渋る椿を、政弥が呼ぶ。

 政弥と渚は、なんだかんだと理由を付けて椿を甘やかす。けれど、椿は素直に甘えてはくれない。

 未成年なのに保護者のいない椿は現状、誰かの庇護下にいなければ生活することができず、そのために政弥と渚を利用しているのだと考えていて、それを気にしているようなのだ。

 政弥も渚も何となく勘付いていることではあるが、生きるためなら何だってする覚悟を、椿はしていた。

 渋谷駅で政弥に会ったあの時の椿は、今のように穏やかな日々を過ごせるだなんて、欠片も考えていなかったのだから。


「――椿」


 この声を失わないためなら何だって、椿は出来る。


「口、開けてみぃ」


 黒髪の青年に手招きされてそばへ寄ると、掛けられた言葉。


 躊躇うことなく開いた口に放り込まれた、甘い塊。


「あんずの実。好きやろ?」


 もごもご咀嚼しながら首を縦に振る椿と、満足そうに微笑む青年。

 そんな二人を眺めて渚と政弥は、「敵わない」と思う。

 たとえ、それが共に過ごした年月の差なのだとしても、縮まることはないのではないかというのが、渚と政弥の共通の見解だった。


 一歩外に出れば、危険な暴風雨。


 だけどシェルターのようなここには、静かな空気が流れている。

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