第28話 痴情の縺れと邪気祓い2

 そこは何の変哲もないマンションの一室だった。

 依頼人が呼び鈴を鳴らすとすぐに、室内から足音が聞こえた。

 政弥はごくりと唾を飲み込み、依頼人の肩にあった女性の手へと視線を向けるが――消えている。

 ぞくりと、腹の底から寒気を感じた。


「こんばんは」


 中から顔を出したのは、かわいらしい女性だった。

 一夜の過ちなんてものには縁が無さそうな、清らかな雰囲気の持ち主だ。

 だが、その女性から漂う妙な気配を、政弥は感じた。どうやら依頼人は気付いていないらしく、緊張した様子ではあるが、普通に会話している。彼が纏う緊張感には己を呪った相手に対する恐怖が含まれているだけで、相手が死者だとは、微塵も思っていないだろう。


「そちらの方々は?」


 女性の視線が向けられて、政弥の顔は強張った。

 死者と関わることには慣れていない。だが彼女を死者だと言うのは牛鬼だけで、生きている可能性もあるのではないか。そう考えてしまうほどに、彼女は普通の人間に見える。


「俺達だけじゃ話し合いにならないだろう? だから、知り合いに来てもらったんだ」

「そうなの。どうぞ、入って」


 深く追及されることもなく、部屋の中へと招かれた。揉めている男と、知らない男が二人。警戒心が、薄過ぎる。

 家主と同じく、中もいたって普通だ。一人暮らしらしいが、整頓されている。

 ふと気付けば、依頼人が纏っている悪臭が強くなった気がした。

 というよりも、根源が、ここだ。


「もう、二人きりでは会ってくれないのね」


 悲しそうに告げた女性は、部屋の真ん中まで進んでから振り向いた。


「君と体の関係は持ったが、合意の上だっただろう」

「私、初めてだったの」

「謝罪はする。だが、俺は君を愛していない」

「私があなたを好きだって、知っていたでしょう?」

「俺の気持ちが君にないことも、承知の上だったんじゃないのか」


 彼女は綺麗に、とても綺麗に笑う。


「わかってた。わかっていたから、せめて……体だけでも繋がりたかったの」


 微笑みながら、ぽろぽろ、ぽろぽろ、涙を零す。


「でも繋がってみれば虚しくて、あなたが手に入らない事実があっただけ。だから私――」


 女の声が一段低くなり、不穏が滲み出す。

 同時に、室内の温度が下がったような感覚がした。


「呪ったの。ネットで、そういう噂のある場所を探して、百回お参りして。気付いたら私……あなたのそばにいた。それで気付いたわ。私、何てバカなことをしたんだろうって。あなたなんて、命を懸けて呪うほどの相手じゃなかった。なのに私、死んじゃって……生きているあなたが恨めしくて、連れて行こうって、決めたの」

「お、おい、何を言って……」


 伸ばされた女の手。

 その手の爪には、依頼人の肩にあった手と同じ柄のネイルアートが施されていた。

 咄嗟に政弥は、女と依頼人の間へ体を滑り込ませる。

 これまでも、依頼の中に男女間のトラブルはあったが、死んでしまった女性が相手の案件は初めてだ。話は通じるものなのだろうかと逡巡していた政弥へと、政弥の介入で驚き一瞬止まっていた女の手が伸ばされる。


「邪魔するなら、あなたも一緒に行きましょう? 私、さみしいの」


 触れたと思った直後、女の手が、何かに弾かれた。

 一歩後退った女の目には涙が溜まっていく。

 弾かれた右手が痛いのか、左手で庇いながら呆然としているようだ。


「人間ってのは、難儀な生き物やなぁ」


 のんびりとした声が、緊迫した空気に割り入った。

 それまで存在感を消していた牛鬼が、散歩するような動作で歩き、女のすぐそばに立つ。


「あんた、自分が呪いのせいで死んだ自覚は、あるんやな?」


 女の首がのろのろと縦に動き、女の返答を見て取った牛鬼は苦笑を浮かべた。


「願った先が的確過ぎたんや。もし何の力もないもんに願っとれば、あんたは死なんかった。バカバカしいことしたなぁ、なんて後悔して、そんでも生きて前に進むんも出来たんやろうけどな。何に願ったんかは知らんけど、質の悪いもんに願ったなぁ? どっかの神さんにしとけば、あんたの恨みは、こんなふうに増幅されずに浄化されて終わったろうに」


 何処までも優しい声。叱っているわけではなく、ただただ苦く笑って、牛鬼は告げた。バカなことをしたなと。

 優しい声を掛けられた女は立っている力を失い、泣き崩れた。


「し、死にたくなんてなかった。まだ、生きていたかった……」


 だけどと、女は続ける。

 あの時の自分は、彼への恨みしか頭になかったのだと。自分がこれだけ傷付いたのに、彼が何の痛手も受けずに過ごしているのが許せなかった。

 体を繋げれば情が湧くかもしれないなんて淡い期待を抱いて、でも、それは叶わなくて。それだけ彼が好きで。好きだったからこそ、憎らしくなってしまった。死ねばいいのにと思った。


「あんたを生き返らす力なんてないけどな、悪いもん取り除いて、次へ進む手助けなら出来る。どうする? あんたは、どうしたい? そこの男殺して呪いを完成させるか、悪いもん祓って成仏するか、選びぃ」


 牛鬼の視線は、ちらりと、政弥の背後で腰を抜かしている男へと向けられた。

 その視線に気付いた男の顔面が、蒼白になる。


「あ、あの……」


 男の言いたいことを理解して、政弥も彼のほうへ視線だけで振り向いた。

 依頼人は彼だ。

 彼は、それを主張したかったのだろう。助けてくれと、瞳が訴えている。

 政弥は、そこまで長い付き合いではないが、牛鬼の性格を知っている。

 元が人食い鬼だろうと、本性が恐ろしい見た目をしていようと、政弥は、牛鬼を悪いやつだとは思っていない。だから、信じて大丈夫だろうという思いを込め、依頼人に対して頷いて見せた。


「――ただし、な」


 政弥と依頼人の無言のやり取りには気付いていて、無視しているのだろう。牛鬼は言葉を続ける。


「まだ、あんたの呪いは完成してない。先に、あんたは自分の命を対価にしただけの状況や。あの男を殺して呪いを完成させてしまえば、あんたの魂は願った先のもんに取り込まれて、醜悪なもんに変わる。そうなったらもう、助けてやれんようになる」

「醜悪……」


 呟いた女の言葉に反応して、彼女の背後から、どろりと何かが染み出すように姿を現した。

 匂いが更に強くなり、政弥は鼻と口を覆った。

 吐き気をもよおすほどの、ひどい匂い。

 匂いの根源は彼女を捕らえるように絡みつき、ぶくぶくと膨れていく。それには、いくつもの顔があった。


「ひ、ひぃぃっ」


 背後から聞こえた悲鳴で、依頼人にも、それが見えていることがわかった。わかったが、政弥だって、こんなものを見るのは初めてだ。ここまで禍々しいものには、初めて出会った。


「女の恨みつらみが積もって、どろどろに絡み合っとる。始まりが何人だったのかは知らんけどなぁ、あの男を殺せば、あんたもそれの一部になるやろうな」

「私も、一部に……?」

「決めるのは、あんたや」


 彼女に纏わりつく怨念たちの口からは、怨嗟の声が漏れ続けている。

 ぎょろぎょろ動いていた目玉の内の一つが政弥の背後にいる依頼人に気付き、全ての視線が一斉にそちらを向いて、どろどろが男へ向かって伸びていく。

 まるで、男の命を寄越せと言うように。


「私」


 小さな声は、震えていた。


「私、あの人を――殺したくありません」


 愛していると、女は泣いた。

 殺したいほどに、愛していたのだと。


「こんなにつらくて苦しい感情に、永遠に囚われるのなんて嫌です。でも私、呪いの解き方なんて知りません!」


 女の叫びを受け、牛鬼の口角が上がる。


「――願え。したらワイが、何とかしたる」


 女へ向かって牛鬼の右手が伸ばされて、彼女は縋るように、その手を取ろうと両手を伸ばした。


「解き方をご存知ならどうか、呪いを解いてください。彼を死なせないで」

「お前自身は、どうなりたい?」

「囚われたく、ないです」


 牛鬼が手を取った瞬間、女の体へ纏わり付いていたどろどろが霧散していく。


「――その願い、聞き入れよう」


 よろけた体を受け止めて、牛鬼は女の肩を、右と左を順に二回ずつ手の平で叩いた。

 ゆっくり息を吐き出せという指示に従い、彼女は深く吸った息を吐き出していく。

 吐かれた息には黒い靄が混ざっていて、最後まで吐ききると、それも空気へ溶けて、消えた。

 同時に、彼女の姿も、薄れていく。


「おい、牛鬼」


 政弥の声で振り向いて、牛鬼は大丈夫だと頷いた。


「まだ死んでから、そないに日は経ってないみたいやからな。体のそばへ行ったんや」

「成仏、出来るのか?」


 縦に動いた黒髪の頭を見て、政弥は、緊張で詰めていた息を吐き出した。

 依頼人の男へ振り向くと、彼の周りに纏わり付いていたどす黒い靄も消えたようだ。


「彼女……死んだんですか?」


 震えた声での問いに、政弥は頷く。それを見た依頼人は、途端に激しく震えだした。


「ほ、本当は、ストーカーなんかじゃ、なかったんです。好意を寄せられているのは知っていたから、それを利用して、一夜の欲望の捌け口に使っただけで……そ、それでまさか、死ぬなんて」


 見下ろした男の顔は真っ白だ。掛ける言葉を見つけられず、政弥は黙り込む。


「これで依頼は完了やろ? なら早く帰ろう。ここに長居は良くないで。不法侵入いうのんとちゃうか?」


 牛鬼の言葉で気が付いて、改めて政弥は部屋の中を見渡した。

 悪臭が消えたこと以外、室内は入って来たときと変わった様子はない。まるで家主はまだ生きていて、すぐにでも玄関を開けて帰って来そうだ。


「そないに時間が経ってない言うたやろ? 遺族も、そんなにすぐ整理なんて出来ひんのやろ」

「……鍵は?」

「霊がみんな、何も出来んわけやない。彼女が開けたんや。どうせ彼女を抱いたのも、この部屋やったんやろ。せやから彼女はここで、その男を殺したかったのかもしれんな」


 哀れなほどに震え続ける依頼人に肩を貸し、政弥は牛鬼の後に続いて部屋を出た。

 ドアを閉めた牛鬼が手を翳すと、かちゃりと音が鳴り、鍵が閉まったようだ。


「そんなことも出来るのか」

「なんや、やってみたら出来たな」

「便利だな、お前」


 マンションのエントランスを潜り外へ出ると、そこには変わらぬ日常の風景。

 だけどまだ、日常へ戻れた感覚は遠い。

 どうやらそう感じたのは政弥だけではなかったようで、か細い声が、政弥と牛鬼に掛けられた。


「あ、あの……朝まで一緒に、飲みませんか?」


 あんな経験をすることなんて、普通はない。

 乱れた心を何とか立て直そうとしているのだろう依頼人の申し出に、政弥は少しの間、悩む。政弥だって動揺しているのだ。体にあの匂いがまとわり付いているような気がして、早く身を清めたいとも思う。


「彼女の供養のためやっちゅうんなら、ワイが付き合おうたる」


 依頼人に答えたのは牛鬼だった。

 支えていた政弥から離れた男は自分の力で何とか立ち、項垂れるようにして、首肯する。


「ぜひ。よろしくお願いします」


 彼の心の内は、政弥にはわからない。何故なら政弥には、自分のせいで人を死なせてしまったという経験がないからだ。


「その前に、一本、電話を掛けてきてもいいでしょうか?」


 了承の返事をすると、男はすぐに携帯電話を取り出して、政弥たちから離れた場所で電話を掛けた。

 それを眺めながら、政弥は大きく息を吐き出してみる。ひどく、疲れた。


「お前に来てもらってなかったらと思うと、ぞっとする」


 ぽつり漏らした政弥を見上げ、牛鬼がいつもどおりのお気楽な笑みを浮かべる。


「ちぃとばかしヤバい気配がしたからな。ついて来て正解やったわ」


 無性に頭を撫でてやりたくなって、政弥は迷わず実行に移した。ぐりぐりと頭を撫でられながら、怒るでもなく、牛鬼は笑っている。


「酒、奢る」

「おぅ! おおきに!」


 依頼人は、どうやら彼女との共通の友人へ電話を掛けていたらしい。その電話で彼女の死が確定したようで、彼の顔は更に白さを増していたが、それは呪いのせいではなく己の行為の結果に対しての反応だろう。

 その夜、彼は政弥と牛鬼と共にBARカメリアへ赴き、亡くなった女性の話をしながら、静かに酒を酌み交わした。

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