第3章 新たな出会いと不穏な陰

第31話 穴だらけの青年

 柔らかな暖色の明かりで照らされた店内。

 会話の邪魔はしないが、席の離れた他人同士の声が混じり合わない程度に調節された音量のBGM。

 常連客たちが各々好きな酒を楽しみ、若い女性店員が時折、客からの雑談に応じて静かな笑みを浮かべる。

 縁無し眼鏡を掛けたこの店のオーナーがグラスを磨くすぐ脇では、客からは見えないカウンターの内側に置かれたロックグラスがひとりでに傾き、グラスを満たしていたはずの酒が減る。

 ドアが開き、新たな客が入店した。

 短い黒髪をワックスで整えた青年で、黒革のジャケットを着ており、下唇には銀色のピアスが光る。耳にも無数のピアスが刺さっていた。

 初めてこの店へと訪れたはずの青年は、迷いのない動作でカウンター席へと腰掛けた。オーナーの目の前に座り、だが視線は、オーナーの脇に置かれたロックグラスに注がれている。


「いらっしゃいませ。ご注文は?」


 声を掛けられたことで初めて目の前にいるオーナーの存在に気付いたというふうに、青年は視線を上げた。


「下戸なんです。俺」


 酒を提供する店では不釣り合いとも思える台詞が吐かれたが、オーナーは表情を変えずに提案する。


「ノンアルコールカクテルもご用意出来ますよ」

「よくわからないので、お任せしてもいいですかね」

「かしこまりました」


 その後オーナーは、青年の好みをヒアリングしてからカクテルを作った。


「パイナップルとオレンジのモクテルでございます」


 目の前に置かれた、きめ細やかな泡が乗った爽やかな黄色の飲み物を見つめ、青年は首を傾げる。


「もくてる?」

「はい。イギリス発祥のノンアルコールカクテルです。モクテルには、カクテルを真似たものという意味があるんですよ。柑橘系がお好きとのことでしたので、オレンジジュースをベースに辛口のジンジャエールで割っています。甘過ぎるということもないかと」


 へえと呟きながら青年は、グラスに口を付けた。一口含み、元々大きい二重の目を更に大きくした彼は、どうやらこの飲み物が気に入ったようだ。

 ちょうどその時、若い女性店員がカウンターの中へと戻ってきた。

 客からの注文をオーナーに伝え、ふと視線を下ろした彼女は、微かに首を傾げる。彼女の視線の先には水滴のついたロックグラスが一つ。グラスの半分ほどまで減った酒は、それ以上減ることはなく、氷がすっかり解けてしまっていた。


「ねぇ、それ」


 無数のピアスを付けた青年が、女性店員に話しかける。


「君の?」


 咄嗟に彼女は、首を横に振った。


「いえ。私、お酒は」


 お酒は飲めません、そう続けようとした声を青年が遮る。


「グラスじゃなくて、グラスの横の黒いやつ。君のほうは視えてるんだよね? 眼鏡の男の人は視えてないみたいだけど……知っては、いるのかな?」


 青年の首が、微かに横へと傾けられた。

 答えを返せないでいる女性店員から外された青年の視線が、ロックグラスの脇に落とされる。

 彼の黒い双眸には確かに、それらしいポーズのまま固まっている黒毛牛のぬいぐるみが一体、映っていた――――。



   ***



 台風は確かな爪痕を残し、秋の深まりを更に強めた。

 外に出ればひやりとした空気が鼻先を撫で、台風が来る直前まであった夏の気配は消し去られてしまっている。

 店先のアスファルトにこびりついた落ち葉を掃きながら、渚はなんとはなしに、扉の両脇に植えられているツバキの木へと視線を向ける。

 膨れた実が弾けるのは、そろそろだろうか。

 台風で落ちてしまわなかったことに、ほっとした。椿が、実が弾けて落ちたら種を集めるのだと言って楽しみにしていたから。

 同時に台風の夜の出来事が頭を掠め、祖父のことを考える。

 このビルは、元は祖父の持ち物で、ツバキの木を植えたのも渚の祖父だ。彼は、この木に魔除けの効果があるということを知っていたのだろうか。


「渚」


 軽やかな鈴の音とともに開いた扉から出て来たのは、図体のでかい幼馴染。


「お袋が帰ってきたらしいから、行ってくる」


 この男とも、長い付き合いになった。

 最初に出会った頃の彼は、渚より身長が低かった。抜かされたのは確か……彼が高校に入ってからだったか、それともその前だっただろうか。


「うしくんと、椿ちゃんは?」


 彼と出会ったきっかけも、祖父だった。渚の人生において祖父の存在は、なくては語れないほどに大きなものだ。


「変化なし。不自然なくらいにな。互いに昨夜の話を避けてるように見える」

「うしくんとは、話した?」

「いや。椿がべったり抱き付いてて、機会がない」

「そっかぁ」


 昨夜、見たもの。聞いたこと。

 渚は考えながら、言葉を続ける。


「椿ちゃんは、うしくんさえいればいいって言ってたけど……うしくんのほうは、ずっと一緒にいる気はないんだよな?」

「いる気はないっていうよりも、それは良くないって考えてるみたいだ」

「でも椿ちゃんは、鬼になってでも、うしくんといたいんだろ?」

「牛鬼を失わない方法がそれしかないなら、それを選ぶんだろうな」

「そんでうしくんは、今の、ヒトのままの椿ちゃんを守りたいって言うんだよな」

「あぁ」

「……節子さんが何か、知ってるといいな」

「もしお袋が知らなくても、知ってそうな知り合いを紹介してもらえるよう、頼んでみる」


 実家へと向かう政弥の背中を、渚は黙って見送った。


 店先の掃除を終えた渚が店内へ戻ると、そこには黒髪の青年が立っていた。

 パーカーにジーンズ姿という、どこにでも居そうな見た目をした青年は目を閉じており、渚に気付く素振りは見せない。気付いていないということはないはずだから、声をかけずに様子を窺うことを選ぶ。


 唐突に、青年が右足を一度、大きく踏み鳴らした。

 続いて何かを吹き払うように、細く長く、息を吐き出す。


 渚は黙って、それを見守った。

 彼のその動作にはきっと意味があって、邪魔してはいけないものだと思ったからだ。


 一連の動作を終えた青年の瞼が静かに持ち上げられ、窓から差し込む日の光を受けた瞳が、赤く輝く。

 入口に立ったままの渚と目が合うと彼は、にかりと人好きのする笑みを浮かべた。


「そろそろ昼飯が出来る言うから、呼びに来た。政弥は用があるから外で食うんやて」

「マサとは、さっき会ったよ。うしくんが呼びに来てくれるなんて珍しいね」


 珍しいというよりも、初めてだ。

 渚が牛鬼の姿を見て、直接言葉を交わせる機会は、とても少ない。


「まぁな。実は、呼びに来た言うんは椿のそばを離れる口実でな。ここに残った邪気を払わなあかんかったから。昨夜は椿から離れるわけにはいかんかったし、今がチャンスやってん」

「邪気って、昨夜の女の人の残り香……的なやつ?」

「そんなようなもんや」


 肯定しながら牛鬼がカウンターそばのハイチェアへ浅く腰掛けたのを見て、束の間の機会を与えられたのだと察した渚は、会話を続ける。


「あれってやっぱり、マサの仕事を手伝ったせいだよね?」


 渚の視線の先、緩く腕を組んだ牛鬼が苦く笑った。


「長いこと生きとってもなぁ、ほとんど引きこもってたから。先の予測が甘かったんやな。あぁいう存在は、自分の得にならんことはしないもんやから。まさか乗り込んで来るなんて思うとらんかったわ」


 掃除道具を足元へ立て掛けて、渚は牛鬼の隣に腰掛ける。


「あの女の人が言ってたのって、本当なの?」

「どのことや?」

「人間が鬼になるとか、うしくんの番になるとかってやつ」


 渚の静かな問い掛けに、牛鬼はしばし、口を噤む。

 迷うように視線を伏せた後、紅い瞳が渚へと向けられた。


「よっぽどのことがなけりゃ、ヒトは、鬼には為らん」


 苦虫を噛み潰したような表情だった。


「椿ちゃんは、為れちゃうんだよね?」

「……あの娘は産まれたときから近かった。育った環境もあかん。よっぽどなことも、あったなぁ」

「うしくんの番になるのは、鬼に為るのとは違うの?」

「それはなぁ、もーっと、悪いねん」


 腰掛けたままで、牛鬼が椅子を、くるくる回す。

 遊んでいるように見えるが、浮かべている表情はどことなく暗い。

 あまり答えたくない話題だったのか、牛鬼が次の言葉を発するまで少しだけ間が開いた。


「ほんまもんの神とは、違うからな」


 椅子を回転させるのをやめて、牛鬼が再び口を開く。


「ヒトの娘を番にした時点でワイは、完全に堕ちるんやないかな」

「おちる……?」


 カウンターへ頬杖をつき、黒髪の青年は棚に収納されている酒瓶へと視線を向けた。だけど恐らく、その瞳は目の前の景色を映してはいないのだろう。どこか遠くを見ているような表情が、青年の顔に浮かんでいる。


「神格を失うねん」


 今日は晴れかと聞かれて、晴れていると返すような声音で、牛鬼は応えた。


「神様じゃ、なくなるってこと?」

「ただ鬼に戻るだけならええんやけどな。たぶんなぁ、鬼よりも、もぉっと悪いもんになんねん。そんなんに、椿を付き合わせたくはないなぁ」


 椿が大切だから。だからこそ牛鬼には、椿の元を去る選択肢しかないのだろう。


「それが、神堕ちってやつ?」


 そうだと、牛鬼は応えた。


「ワイの存在は危ういんや。簡単に、堕ちてまう。堕ちた後で己が何をしでかすかも、わからん」


 手に入れたいものが、人間であることを捨てた先にあるというのはいけない。それは元から望んではいけないものだ。

 それは、渚にもわかる。


「じゃあ逆にさ、うしくんが人間になる方法って、ないのかな?」

「んなもん、ないわ」

「本当に? 探してみた?」


 渚に向けられた、牛鬼の笑み。それには見覚えがあった。

 病院の、ベッドの上。

 己の死を受け入れてしまった祖父が渚に向けたのと、同じ表情。


「こうして人のふりならできるけどな。……ワイがずっとそばにおったら、椿は着実に、鬼に近付く。そんなん、嫌や」


 いつでも幸せそうに笑っていてほしい。

 できれば、泣かないでほしい。

 普通の幸福というのを手に入れることが難しいのは知っている。だけど、それでも椿には普通に、人間らしく、幸せになってほしい。

 そのためなら己は、いくらでも犠牲になる。

 胸に抱えていた想いを静かに吐露してから、牛鬼は立ち上がった。

 牛鬼の言葉を黙って聞いていた渚は、バックルームに繋がるドアへと向かう後ろ姿を見ながら、気付いた。

 昨夜、牛鬼が遮った言葉。




――貴方、その娘を




「……愛してるんだ」




 重苦しい痛みが、渚の胸を刺した。

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