第25話 茶飲み友達
午前中に家事を終わらせ、バーでの手伝いが始まる夕方までの時間に散歩をするのが椿の日課だ。
当然、ぬいぐるみ姿の牛鬼も共にいる。
他愛のない話をしながら歩き続け、踏み入ったことのない路地を見つければ、そちらへ行ってみる。そうして小さな公園を見つけたり、神社を見つけて、お参りしてみたり。牛鬼が興味を持った食べ物を買い食いすることだってある。
「お嬢ちゃん」
散歩の帰り道、キミばあさんが営む煙草屋の前を通りかかると呼び止められることは、度々あった。
「こんにちは、キミさん」
「こんにちは。ちょっといらっしゃい」
手招きされ、店の中へ入る。
店の奥には茶の間があり、客のいない時間、キミは大抵そこで茶を飲みながらテレビを見ているらしい。そのお茶に誘われることも、日課となりつつある。
「ぬか漬け持っていくかい? 人参がいい塩梅で漬かっているよ」
「お! 人参のぬか漬け、ええなぁ。ぬか漬けの中で、いっちゃん好きや!」
「……いつも頂いてばかりで、すみません」
答えを待たずに御勝手へ向かってしまったキミの背中を視線で追いつつ、途中で挟まれた牛鬼の喜びの声を微笑で受け止め、椿は頭を下げる。
キミが漬けたぬか漬けを持って帰ると政弥も喜ぶことを知っているため、こういう時にはありがたく受け取るようにしている。
「あんた、柿は好きかい?」
「好きや!」
「……好きです」
お勝手から聞こえた声に真っ先に応えたのは、またしても牛鬼で。苦笑を浮かべつつも椿は、キミへ答えを返した。
「お客さんから頂いたんだけどねぇ、一人じゃ食べきれないのよ」
そう言いながらキミが持ってきたのは、お盆に乗せた柿と果物ナイフ。当然のようにお茶の支度を始め、椿もそれを手伝う。
近所の誰それさんが何をした。あそこのお孫さんが今年受験で大変なんだとか、お隣のご夫婦が昨夜喧嘩をしていたらしくて騒々しかっただとか……キミと話しをするようになってから、椿は段々、この界隈の事情に明るくなってきている。
キミとお茶をする間、牛鬼は存在感を消す。
ここで出される茶や菓子に手を付けるのは椿だけで、牛鬼は大人しく椿の隣に座しているだけ。
ただ、椿がいらぬ遠慮をしようとするときには、無邪気なふりをして口を開くのだ。
最初の頃、キミから出された菓子をいつもやるように牛鬼へ分け与えようと椿はしたのだが、牛鬼は首を横に振って食べなかった。
「政弥と渚の前でならええけど、普通の人間に疑念を与える必要はないやろ」
帰り道、食べなかった理由を問うた椿に、牛鬼はそう答えた。それ以降、キミの前では、牛鬼に食べ物を分け与える行為を止めている。
これまで、キミのような存在は椿の周りにいなかった。
椿に興味を持たない他人か、鶴子と晋平しかいなかった。
だから、牛鬼と何かを分け合うのは椿にとって当然で、誰かに見咎められる心配をする必要すらなかったのだ。
それは、少しずつ椿を取り巻く環境が変わっている証拠で、いい変化なのだろう。
キミとのお茶の途中で客や近所の人間が来たりして、椿も会話に巻き込まれる。
世間話をして、コンビニ袋に詰められた土産を持ち、家路につく。
渡された物が、今回のようにぬか漬けやキミが作り過ぎてしまった煮物だったりすると何らかの器に入れられるため、次の日、洗ったそれとお礼の手土産を持って、キミの元へ顔を出す。
そしてまたお茶をして、世間話をするのだ。
日課を終えて家に戻ると政弥が起きていて、洗濯物を取り込んでから夕飯の支度に取り掛かる。
その間、政弥とも会話する。
散歩の途中で見つけたものや、キミから聞いた話について。途中で渚がやってくれば、家の中は、更に賑やかになる。
「うし様……?」
そうやって過ごしていると時々、牛鬼の存在感が希薄になっていることに、椿は気付く。
散歩中や渚の店で働いているときには常にそばにいてくれる牛鬼は、政弥の家の中では、椿から離れていることが多くなった。
姿を探せば毎回、彼はぬいぐるみの姿で窓辺に腰掛けている。穏やかな表情で、椿を見守っている。
「どうした、椿?」
そばにいないことに不安を感じた椿に気付くと牛鬼は、静かな声で問い掛ける。
「ううん。うし様、そこ好きだね」
「せやなぁ。ここは、この部屋が見渡しやすい」
鶴子と晋平が生きていて、まだあの家があった頃。牛鬼が庭の社から、いつでも家の中を見守っていたことを椿は思い出す。
その頃は、椿から話し掛けない限り、彼から声を掛けてくるということはなかったのだ。
鶴子がこの世を去って、椿が彼の
知ってはいるが、常にそばにいて二人きりの時を過ごした後では、何だかひどく、心許なくなる。
「最近、遠いね」
窓辺にいる牛鬼へ歩み寄り、椿はぽつり、不満をこぼす。
だが彼は「そぉか?」なんて言って、とぼけるだけ。
「うし様」
「なんや?」
「独りに、しないでね」
「信じろ。ワイは、これでも神やからな。願い信じれば、叶えてやる」
その答えは椿が欲しかったものとは少し違っているような気がしたが、それがどのように違うのかを椿自身、理解出来ていなかった。
*
夜の帳が下り、渚の店が賑わう時間。
そこで働く椿も忙しくなり、牛鬼がそばにいないことを気にしないだろうタイミングで、政弥と渚は、こっそり視線を交わした。
牛鬼の姿を視認出来る政弥が素早く黒毛牛のぬいぐるみの頭を鷲掴み、こっそり裏口から店を出る。
渚は椿の注意を引き付けて、いつもどおり仕事をこなすことで、牛鬼の不在を椿の目から隠す役を担った。
政弥に攫われた牛鬼はというと、騒ぐでも抵抗するでもなく、頭を鷲掴まれた状態で脱力している。
「きゃー、鬼さらいが出よったわぁ。んん? 神さらいか?」
くだらないことをのたまう牛鬼をギロリと一瞥し、無言で階段を上がった政弥は、自室の鍵を開けて中に入った。
電気を付け、黒革のソファへ腰掛けてから黒毛牛のぬいぐるみをローテーブルの上に下ろし、鋭い視線で睨み付ける。
「おい、お前。何フェードアウトしようとしてんだ」
政弥の言葉に、牛鬼はわざとらしく首を傾げた。
「ふえーどなんたら言われたって、ようわからん。日本語で話してくれんかねぇ」
舌打ちの後で違う言い回しを考え、言い直す。
「お前、徐々に消えようとしてるだろ? 椿の前から」
ここ最近の牛鬼の変化に、政弥も気が付いていた。そんな牛鬼と椿の様子を渚に相談して、こうして本人に直接問い質すことになったのだ。
政弥の視線の先では、穏やかな瞳をした黒毛牛のぬいぐるみが口を開く。
「それの、何があかんのや」
「あいつを独りにしないんじゃなかったのか?」
「椿を孤独にするつもりはない。それに、既にあの娘は独りやないやろ? いつまでもワイに縋ってる状況のほうが、椿のためにならん」
「また、鬼になるとかいう話か?」
こくり、ぬいぐるみの首が縦に動いた直後、姿がぶれた。
目が霞んだのかと考え、政弥は己の目を擦る。
目を開けたときには、かわいらしいぬいぐるみはそこになく、一匹の鬼が姿を現していた。
蜘蛛の体に、鬼の顔。二本の角と鋭い牙を持ったその鬼は、人間と同じ大きさをしている。
「ぬいぐるみの姿は、椿の笑顔のため。その姿が危機感を薄めてしまっておるのなら、本来の姿で言葉を交わすのが良いだろう」
聞き覚えのある声が、その鬼の口から発せられた。
椿と牛鬼に出会ったばかりの頃、インターネットで調べて出てきた牛鬼という存在の姿絵と同じ鬼が、政弥の目の前にいる。
「儂は、人を喰う鬼じゃ。人間の友人ができ、頼まれ家の守り神となっただけ。儂の本性は鬼じゃから、祟りやすい」
「……椿に、何らかの祟りがあるってことか?」
答えず、鬼は目を伏せた。
「あの娘、儂に何を願ったと思う?」
質問で返され、政弥は沈黙する。
独りにしないでと願ったことは想像がつくが、鬼の様子から、それ以外の願いなのだろうと察したからだ。
「椿は鬼に為りたがっておる。儂と同じ存在に為れば、永遠に共にあれると考えたのだ。……愚かな娘だ」
「……人間が、どうやって鬼になるんだ?」
「手っ取り早い方法は、儂を殺すことじゃ。さすれば、殺した人間が次の牛鬼と為る」
「それじゃぁ、椿の望みは叶わないじゃねぇか」
そうだなと言って、鬼は笑う。
牙を覗かせた悲しげな笑み。恐ろしい形相の鬼なのに、政弥には、彼が泣きだしてしまいそうに見えた。
「椿の願いを利用して、儂は人間を二人殺めた。そのせいで椿は鬼に近付き、繰り返せば、鬼と為る。それが、祟りと呼ぶべき願いの代償」
「繰り返せばって、そうそう他人を殺さないとなんねぇ状況には、ならないんじゃないか?」
他人の死を望む状況というのは、特殊なことだ。
いくら嫌な人間でも、馬が合わない人間でも、殺したいと望むくらいなら関係を断てばいい。それが叶わない状況も往々にしてあるが、人間は、それを理性で押しとどめる。
そこまで考えて、「あぁ、なるほど」と、政弥は納得してしまった。
「あの娘自身が、鬼と為ることを望んでおるのじゃ。人間としての己に未練がないことが危うい。だからこそ儂は、人間である主らに託すのだ。人間らしい温もりを、人と人との関わりを、椿に教えてやってくれ。繋がりは鎖となり、あの娘を人の身に縛るだろう。その時、儂がそばにいてはならんのじゃ。あの娘にとって、あまりにも、儂の存在が大きくなり過ぎた」
理性を凌駕するほどに大切なもの。そのためならきっと、椿は躊躇わない。理性も良心も何もかもを蹴飛ばして、彼女は己の望みに手を伸ばすのだろう。
大切な彼を、失わないために。
「でもよ……椿にとってあんたは、何を捨てても手離したくない大切なもんなんだろ? そんなあんたを失えば、あいつは壊れるんじゃないか?」
椿の生い立ちについては、牛鬼から聞いて知っている。牛鬼が二人の人間を殺したという話は初めて聞いたが、殺した相手については何となく、察しがついた。
その事についても詳しく追及したいところではあるが、政弥の中で優先すべきは過去ではなく、現在と未来のこと。
己の懐に入れた相手が破滅へ向かおうとしているのなら、何とか手を差し伸べて食い止めたいと考えるのが、政弥という人間だ。
「儂しかいないのが悪因じゃ。あの娘はこれから様々な人と出会い、関係を築き、心を育まねばならない。友人を見つけ、大切だと思える多くの人間を見つけ、儂以外の生きる理由を見つけること。それが、儂では叶えられない、儂自身の願いなのだ」
だからこそ、未来の彼女の隣に己がいてはいけない。人間性を捨てる理由がそばにいてはいけないのだと、牛鬼は語った。
「儂も、主らに願いの代償を払わねばならんが、何が良いか」
「……お前が消えなくてもいい、他の方法」
「古いものは消えゆく。それが自然の摂理。すまんが、話はここまでじゃ。――あの娘が泣く」
「泣くって、何があったんだ?」
泣くような何が椿の身に起こったのか。問い質す前に、鬼の姿は黒髪の青年へと変わっていた。
青年が開けたドアの向こうから、彼を呼ぶ少女の声が微かに聞こえて、得心がいく。
「うし様……! うし様っ」
迷子になった幼子の泣き声に、よく似ていた。
階段を駆け下りてきた牛鬼の姿に気が付くと、溜まっていた涙が零れ落ち、嗚咽を漏らしながら椿は彼に飛び付く。
「い、いないからっ……も、もしかしたら、消え、ちゃったんじゃ……ないかって」
「すまんかったなぁ。ちぃっとばかし、男同士の話があったもんでな」
「そ、れなら、一言、なっにか」
「悪かった。次からは、そうする」
「う、しさまっ」
「なんや?」
「お願いだから……置いていかないで」
大切なものに触れるような仕草で彼女の背をさすり、愛しげに髪を撫で、黒髪の青年は泣きじゃくる少女を宥める。
政弥はゆっくりと階段を下りながら、二人の様子を眺めていた。
「勝手に牛鬼を借りて、悪かったな」
二人のそばを通り抜けるとき、泣き止みそうにない椿の頭に手を置き謝った。
気付いたら泣くかもしれないとは考えていたが、こんなに早く気が付くとは思っていなかったのだ。
一体どれほど、少女にとって牛鬼の存在が大切なものなのか……想像してみても、政弥にはわからない。ただ察することが出来るのは、今の彼女が牛鬼を失えば、壊れてしまうだろう事実だけ。
「ごめん。俺のほうは、任務失敗だ」
店とバックヤードを繋ぐ入口で、苦笑を浮かべた渚が政弥を待っていた。
牛鬼の不在に気が付いた彼女の動揺は激しく、渚の声は、彼女に届かなかったらしい。
「うし様がいないんです」と一言告げて、彼女は店を飛び出してしまった。
仕事中ならというのは大人の考えで、彼女にとっての牛鬼の存在の大きさを見誤ったことが、二人の敗因なのだろう。
「話しはできた?」
渚に問われ、政弥は首を縦に振る。
「とりあえず、あいつの考えは理解出来た」
だが納得はしないと続けた。
もしかしたら他に方法があるかもしれない。探さずに諦めることはしたくないと政弥は思っている。
何故なら、こんなにも、あの二人は互いを求めている。
大切に想い合っている。
失う未来しかないなんて、そんな事、納得出来るはずがないのだ。
生まれたからには足掻く。足掻いて生きるのが人間というものだろう。生まれることを望んだわけでもなく、死ぬことを望むわけでもない。
それなら、とことん足掻こうと昔から決めている。
「神とか妖怪だとかに詳しい奴、いねぇかな」
「探してみるよ。店のお客さんにも聞いてみる」
「俺も、心辺り当たってみるわ」
言葉を交わす二人の視線の先では黒髪の青年が、泣いていた少女を笑顔に変えていた。
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