第24話 願いと想い
――お前のせい! お前が私の子を喰ったのよ! この、鬼! 鬼の子!
恐ろしい形相をして、母と呼ぶべき女は椿を痛めつけた。
だが、その女が自分を産んだわけではないのだと、物心が付いたときには理解していた。
彼女を「椿」と名付けた女が産みの親で、その女が愛人と呼ばれる存在だということも、周りの大人たちから聞かされ知っていた。
そして椿はずっと、自分は鬼から生まれた鬼の子なのだと思っていた。
父は椿に無関心だった。
そばに寄れば眉間にしわが寄ることから疎まれていると理解して、近寄らないようにしていた。
痛いのも疎まれるのも嫌だったから、なるべく母屋にいないよう気を付けて、薄暗い蔵の中が、幼い椿の居場所だった。そこで誰にも探されることなく、一日中、文字を目で追う日々を過ごした。
食事は、腹が減ったときにこっそり台所へ入り、盗んで食べた。多く食べれば気付かれ殴られるから、最低限の量にしていた。
どうやら椿は後継ぎらしく、そのために生かされ、教育も受けた。
椿が喰い殺してしまったから、当主である父の血を継ぐ子供は、椿しかいないらしかった。
――椿だなんて、本当に嫌な名前。霜月家に対する当てつけね。私の子は、あの女のせいで死に、私は子を生せない体になった。あの女が生んだ子がまんまと霜月の家を手に入れるなんて、許せない。
耳に、記憶に、焼き付くほどに、聞かされた。
――ねぇ、知ってる?
その時、女はいつも醜悪な顔をしていた。
――あなたの名前と同じ花。とぉっても醜く散るのよ。切り落とされた首のように、ぼとりと地面に落ちて庭を汚すの。ふふふふっ、よく考えたら、あなたにぴったりかもしれないわ。醜い鬼の子にはね!
椿を産んだ母は、どうやら椿を父に売ったらしい。
正妻の孕んだ子が死産で、更には子を産めない体になり、家を維持するため椿は、霜月家へと連れて来られたのだ。
文字が読めるようになってから、鬼という存在について調べた。だから、鬼がどんな姿をしているのかも知っていた。
――他人の家に勝手に入るのは、いけないことだ。
本物の鬼に出会ったとき、椿の胸を満たしたのは恐れではなく、喜びだった。
その頃には学校に通っていて、薄暗い蔵の中だけが椿の居場所ではなくなっていたが、学校でも椿は異質な存在で、他の子供どころか教師すら、椿と関わろうとはせず。
いつでもどこでも、彼女は独りだった。
田舎の狭い地域で、椿のいる霜月の家が与える影響は大きかったのだ。
愛妾の子は、どこに行っても疎まれた。
――ツバキの花も綺麗よ? あの木、綺麗な花が咲くの。よかったら見にきてちょうだい。
――また来い。話をしよう。
鶴子の家が唯一の、温かな場所だった。
晋平と鶴子がこの世を去り、あの家とツバキの木がなくなるまでは、産まれてから初めての幸福な時間を椿は過ごせていた。
「さみしい。嫌だ。置いて行くなら、どうか私を――」
切実に、願った。
「たべて」
彼の一部になりたかった。
孤独に戻るのは嫌だった。
生きている意味もわからない。生きたいと望んだことすら、なかったのだから。
「椿」
醜く散ると聞いていた花。だが、その様が美しいのだと、鶴子が教えてくれた花。
地面を埋め尽くす深紅の上に座り込んだ彼女を呼ぶ彼の声は、深い悲しみを帯びていた。
「そのような悲しい願いを、儂に叶えさせないでくれ」
小さな社の前、再びヒトの姿をとった彼が、涙を零し続ける椿の前へと膝を付いた。
優しい手が、彼女の髪を撫でる。
「でも、うし様……私はもう、独りは嫌だよ」
「お前を喰うてしまえば、儂も独りになる」
「この家がなくなって、この木も社もなくなっちゃえば、うし様は消えちゃうんでしょう?」
「そうだな」
「それなら連れていってよ」
返ってきたのは無言で。彼の手は、椿の髪から離れていく。
温もりを追い、椿は彼の着物の胸元を両手で掴む。
見上げた先の青年は、涙を零さず、泣いていた。
「鶴子の最後の願いは、お主の幸福だった。儂自身が望むのも、椿の幸せだ」
「独りで、どうやって幸せになればいいの?」
椿の幸せは、ここにあった。ここにしかなかった。
「うし様、消えないで。そばにいて。私を独りにしないで」
目の前の温もりに縋り付き、涙で濡れた頬を、着物の胸へとすり寄せる。
「椿」
再度、名を呼ばれ、でも続く言葉が恐ろしくて、椿は彼の胸元に顔を押し付けたまま、首を左右に激しく振った。
「独りにしないでっ」
繰り返した、願い。
「わかった。その願い、叶えよう」
驚き見上げた先で、彼は微笑む。
「椿、主がこの木の代わりとなれ」
「……どういうこと?」
このまま止まらないのではないかと思うほどに零れ続けていた涙は止まり、濡れた椿の頬を、彼の右手が撫でた。
「椿が儂の依り憑く場所となれば、まだ、共にいられる」
「それは、どうやってなるの?」
「血を捧げれば良い。だが、儂はお主に傷を付けるのは嫌じゃ」
「痛いの、平気だよ?」
「儂が嫌なのだ」
椿の体に絶えず傷があることは、牛鬼も鶴子も晋平も、気付いていた。だが救い出す方法を見出せず、霜月の家から彼女を可能な限り遠ざけることしか出来なかった。鶴子も晋平も、霜月の家を恐ろしいとは思わなかったが、霜月の家の人間には金と力があり、更には、ずる賢かった。
「要は体液の交換が為されれば良いのだ。口、吸うて良いか?」
「え?」
「口吸いじゃ」
「それって、何?」
「他の言い方を知らぬ。嫌か?」
「うし様がすることで、嫌なことなんてないよ」
「わかった」
顔が近付いたと思ったら、唇が重なっていた。
驚きで見開いた椿の瞳を、至近距離で、暗赤色の瞳が見つめている。
視線を絡めたまま、普段と変わらぬ声で唇を開くよう命じられ、椿は素直に従った。
心臓が、壊れそうなほどに脈打っている。
温かな舌が差し込まれ、椿のそれに絡みつき、吸い付かれた。
口吸いとはキスのことかと理解した椿の喉を、優しい熱が滑り落ちて行く。
不思議なその熱が、じわり全身へと広がったのを感じたときには、唇が離れていた。
「うし様」
不思議なことに、先ほどまでの絶望的な悲しみが霧散している。
「なんだ?」
冷たい悲しみの代わりに胸を満たしたのは、焦げそうなほどに、熱い感情。
「キスっていうんだよ。今の」
「あぁ、ようやっと理解できた。鶴子と椿がテレビを見ながら騒いでいたな? 儂はてっきり魚の話をしているのだと思うておった」
「だからあの時、お魚が食べたいって言ったの?」
彼の頭が、小さく縦に振られた。
「……これで、うし様は消えない?」
「お前が生きている限りは」
「なら、ずっと一緒だね」
そうだなという答えは返ってこなかったが、気にならなかった。
その日から、彼らは離れず、共にある。
***
雨が降るごとに気温が下がり、いつの間にか、夏はすっかり遠退いた。
大型の台風が一つ過ぎ去った後の晴れたある日、政弥の部屋では、窓を開け放ち家具の移動が行われていた。大きな家具の移動は政弥と渚の二人が力を合わせ、椿は隠れていた部分に溜まった埃を掃除して回る。牛鬼はぬいぐるみの姿で窓辺に腰掛け、動き回る三人を眺めていた。
「おい牛鬼。お前、人の姿になって手伝う気はないのか?」
「応援する気はあるで!」
頭に白いタオルを巻いた政弥に手伝うよう頼まれても、牛鬼には手伝おうという気は皆無のようだ。
西舘家の家庭問題に巻き込まれて以降も、牛鬼が人の姿で過ごしたのは、あの時限り。椿の買い物の荷物持ちをするとき以外は、ぬいぐるみ姿で生活するという日常に戻っていた。
「てかさぁ、うしくんって一応、神様なんでしょう? こういう雑用を手伝わせようって考えるマサがおかしいんじゃないか?」
夏らしさが遠退いたとはいえ、この日の気温は高い。額の汗を拭いながら渚が苦笑を浮かべれば、政弥は眉間にしわを寄せる。
「神様っぽくなくて、その設定を忘れてた」
「設定とか言ってるし。罰当たりじゃないか?」
「罰当たりな小童は、ワイが直々に祟ってやろかー」
「こんな些細なことで祟るなんて、器の小せぇ神様だな」
「ワイは祟りやすい神さんやて言うたやろ。敬え。したら許したる」
「生憎、信仰心は持ち合わせてないんでね」
窓辺でちょこんと座ったままの牛鬼と言い合いをしつつ、政弥は手を動かす。
渚は聞くことの出来ない牛鬼の発言を政弥の台詞から想像し、全てが聞こえている椿は、ハラハラした様子で二人を見守っていた。
そんな彼らは今、椿の部屋を作っている最中。
家具を動かして空いた場所へ、簡単ではあるが仕切りを取り付け、そこへ折り畳み式のベッドやカラーボックスを運び入れて個室を作る。椿本人はソファで十分だと主張したのだが、いつまでも女の子をそんな環境で寝かせておくわけにはいかないと渚に説得され、政弥も渚に同意したため、実行に移された。
元々スーツケース一つしかなかった椿の持ち物だが、渚と政弥が何かと理由を付けて買い与えるために物が増え、置き場にも困り始めていたところではあった。
「結構いい感じじゃないか?」
「そうだな。あとは椿の持ち物を収めれば完成だ」
男二人が満足そうに、完成した簡易個室を眺め、大きなスーツケースを運び込む。
荷解きを手伝うかという政弥からの提案は、椿が遠慮がちに断った。
「私の、部屋」
一歩踏み入り、感慨深げに落とされた言葉。それを耳にした男二人は顔を見合わせ、穏やかな笑みを浮かべる。
「あの、お二人には本当に与えられてばかりで……どうやってお礼をしたらいいのか」
個室の入口で振り向いた椿へ歩み寄り、政弥が彼女の頭の上に、ぽんと手を置いた。
「お前は十分過ぎるほどに頑張ってる。……荷物、片付けてこい」
くしゃくしゃと髪を乱され、椿の表情が綻ぶ。近頃は、政弥と渚に対して笑顔を見せることも増えてきた。
新しく与えられた自室で椿は、渚と政弥から買ってもらった服を棚に収めていく。元からスーツケースに入っていた持ち物は、本が二冊とタオルのみ。着替えは、最初に着ていたパーカーとジーンズしか持っていなかった。
重たいスーツケースの中身は出されることなく、そのままベッドの下へと押し込まれる。
「よかったなぁ、椿」
牛鬼がいつの間にかベッドの上にいて、コミカルな動作で椿に飛び付き、彼女の体を上っていく。肩まで辿り着くと前足を伸ばし、柔らかな黒髪を撫でた。
「自分の部屋なんて、初めて」
「せやなぁ」
「いい人に出会えたのは、うし様のおかげかな」
「それは、ちゃうなぁ」
意味を問うために向けた視線の先、黒毛牛のぬいぐるみはニカリと口を開き、笑顔を作る。
「鶴子の、願いのおかげや」
季節は巡る。
BARカメリアの入口の両脇に植えられたツバキの木には緑色の実が膨らみ始め、種落とす日を待っている。
あの庭の木とは違うが、同じ、ツバキの木。ここのツバキは、どんな花を咲かせるのだろうか。
唯一の温もりの場所を失ってから一年も経たず、彼女を取り巻く環境は、大きく変わった。
失い、打ちのめされ、踏み出して。
彼女と同じ年頃の少女たちが過ごしているような一般的で平凡なものとは程遠い生活だが、平凡でないことなど、彼女にとっては今更だった。
実母には金で売られ、鬼の子と蔑まれ、生きてきた。
そんな彼女が今笑えているのは、彼女と同じ名を持つ木が巡り合わせてくれた、出会いのおかげ。
奇しくも、この場所にもツバキの木がある。
「願いがなければ、儂はお前に……何もしてやれない」
牛鬼が零した嘆きを拾うものは、いなかった。
ちょうどその時、椿は渚に呼ばれ、仕切りの向こう側へ返事をした。その声に、微かな嘆きの声は掻き消されてしまったからだ。
届かなくても構わないと思いながら発されたためにとても小さく、答えなど求めていない自嘲の言葉。
暗赤色の瞳が映す、鬼に魅入られた少女。
彼女の幸せを誰よりも望んでいるのは――鬼自身。
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