第21話 内緒のお話

 店を閉めた後、三人は渚の部屋に上がった。

 政弥が言っていた頂き物の日本酒はよく冷えた状態で、つまみは買い置きの乾き物。

 乾杯してから、それぞれ酒を煽って舌鼓を打つ。


「椿ちゃんが寝てるときならさ、こうして一緒に酒飲めるの?」


 飲めるならまた飲もうと誘う渚の前で、牛鬼は顔をしかめて悩む様子を見せた。


「椿から離れたら、何かあるのか?」


 悩んでいる牛鬼に政弥が問うと、牛鬼は口をへの字に曲げて唸る。


「独りにすると、寂しがる」


 がぶりと一口酒を飲み、牛鬼はスルメイカを手に取って齧る。齧りながら、今日は大貴とココアがいるから特別だと告げた。


「うしくんってさ、どうしてそんなに椿ちゃんを大事にしてるの?」


 ずっと聞きたかった質問。椿を介さないと牛鬼との会話が出来ない渚は、今がチャンスだと口にする。

 牛鬼は目を伏せて酒を一口飲み、スルメイカを咥えて、ぽつり零すように答えた。


「長いこと話し相手もおらんかったワイに、やっと現れた視える人間や。大切にしたくなるのは当然やないか?」


 正確な年月など忘れてしまうほどの、途方もない期間。初めの頃は、友人がいた。その後もぽつぽつと、視える人間はあの家に産まれていた。

 けれどいつしか、誰も牛鬼を認識しなくなっていた。


「視えないだけならまだしも信仰心も薄れて、消滅を待つだけとなった身。鶴子が見つけてくれて持ち直し、椿のお陰で、力も戻った」


 だから椿を失えば消えるしかないのだと言う牛鬼に、政弥と渚は酒を飲みながら沈黙する。


「だがなぁ、本来なら消えゆくこの身。あの子のそばには、ずっとはおれん」


 穏やかに、笑みさえ浮かべて牛鬼は告げた。政弥と渚を順に瞳に映し、言葉を続ける。


「政弥、お前は優しくて面倒見がいい。渚も情に厚いみたいや。だから頼めんか? ワイが消えても、椿を守ってくれんか」


 頼むと頭を下げられ、政弥も渚も言葉が見つからない。

 だが、政弥は牛鬼の言葉を噛み締めると、腹が立った。腹立ちのままに黒髪の頭を叩けば、牛鬼は目を真ん丸くして言葉を失っている。


「ふざけんな。守るなら、最後まで守れ」


 途中で投げ出すなど残酷だという政弥の言葉を聞いた牛鬼は殴り返すでもなく、悲しそうな笑みを浮かべた。


「最後まで守れるなら、そうする。神だと祀られていたが、儂の本質は化物。壊すことでしか守れんし、ヒトじゃない儂は、人間社会で生きる術を持たない」

「壊すって、別に今は何も壊してないじゃねぇか。椿はお前がいるからこそ、自分を保っているように見える」

「だからこそ危ういのだ。元々鬼に近かったあの娘が縋る相手が、化物の儂しかいないという現状を何とかしなければならぬ。でなければ、いずれ椿は鬼になる」


 いつの間にか、室内を重たい空気が満たしていた。

 普段の妙な関西弁ではない牛鬼の口調が、彼が真剣なのだと表している。

 牛鬼と、会話したいと望んだ。

 接する内に、椿のことも既に、身内のように感じている。

 椿と牛鬼の過去には何かがある。何となくだが、政弥も渚も、それは感じていた。二人が抱えているものを軽くするため、力になりたいとも思っている。


「……鬼になるって、どういうこと?」


 政弥と牛鬼のやり取りを黙って聞いていた渚が、話の先を促した。


「お前が、椿を鬼に変えるのか?」


 重ねて政弥も問う。同時に、視ることしか出来ない自分に何が出来るのかにも、思考を巡らせた。


「儂は、椿の瞳を穢した」


 黄色を帯びた飴色。それが本来の椿の瞳の色で、今のように赤が混ざってしまったのは己のせいなのだと、牛鬼は苦しげに告げる。


「儂は祟りやすい神。あの娘の幸福を誰より望もうと、儂がそれを与えてやることは叶わない。だからこそ、人であるお主らに頼みたい。人としての、人らしい幸せを、椿に教えてやってほしいのだ。……儂が消えても、あの娘が笑って生きていけるように」



   ***



 朝、目が覚めると、いつも不安になる。

 腕の中の温もり、柔らかさ。それがないことに気が付いて、椿は焦って目を開ける。


「起きたか? 椿」


 低く、深みのある声。

 視線を上げれば青年の姿をした牛鬼の顔があって、ほっと胸を撫で下ろした。


「うし様……」

「ん? どうした?」

「ううん。おはよう。……ずっと座ってて、体痛くない?」


 問えば牛鬼は、優しく穏やかな笑みを浮かべる。


「大丈夫。椿の寝顔を見とった」


 ぬいぐるみ姿の彼からは、言われ慣れている言葉。だけど人間の姿をした状態で言われると、なんともむず痒く、椿の顔には、じわり朱がのぼる。

 胸に渦巻く言い知れぬ不安。

 彼の笑みを見て広がる、甘酸っぱさ。

 椿は己の心を持て余し、ソファの上で起き上がると、寝癖のついた髪を必死に撫でつけた。


「椿は寝起きも綺麗やで」


 ヒトの姿はいけないと、椿は思う。ぬいぐるみ姿の彼からならば笑って流せる言葉でも、いちいち甘く響くのだ。


「うし様」


 触れたい。触れられたい。

 ヒトの姿をした彼に、そんなことは言えず。椿は赤い顔で、潤んだ瞳を伏せて言葉を飲み込んだ。


「どうした? 具合、悪いんか?」


 額に触れる掌。額から首筋へと滑り、椿の体調を心配する彼の温もり。

 心臓が、痛い。

 体が甘さで痺れてしまう。


「だ、大丈夫。ご飯、作るね」

「椿は頑張り屋さんやから、無理したらあかんで」


 大丈夫。再度繰り返してから立ち上がる。

 そばに。もっと、近付きたいのに……ヒトの姿の牛鬼は、その姿のときのほうが抱き締められたいと望む椿の心に気付かず、頑なに距離を保つ。

 だが椿自身も、己の心がわからない。

 家族の温もりを知らない故の憧れ。友人を得られなかった自分に与えられた、共に笑い合い心を満たしてくれる存在。家族であり、友人。だからこそ大切なのだと、椿は考えている。


「この姿なら手伝えるな」


 牛鬼が追い掛けてきて、珍しく手伝いを申し出た。


「ぬいぐるみだとやっぱり、動きづらい?」

「いや、どんな姿でも自分の体やから問題ない。でも細かいことは、ヒトの姿のほうがやりやすい」


 台所で並び、二人で朝食の支度をする。

 いつも一緒にいるが牛鬼はぬいぐるみの姿で、椿の頭の上にいるだけ。

 常とは違う朝に、少し緊張してしまう。


「やっぱり、男の姿は怖いか?」


 緊張による強張りを、牛鬼は恐怖と受け取ったようだ。心配そうに窺われ、椿は慌てて否定する。


「うし様だから、大丈夫。それに、もう平気」

「ほぉか」

「うん。……政弥さんと渚さんのおかげかな?」

「そぉかもな」

「でも、ぬいぐるみのうし様も好き」

「大貴が帰ったら、戻る」

「…………うん」


 ぬいぐるみの姿ならば、常に抱き締めていられる。温もりを感じるほど、そばにいてくれる。

 だけれど少し、戻ってしまうのが残念だなと感じた。そんなことを思うのは何故だろうと、椿は、牛鬼の横顔をこっそり見上げてみる。


「んー? どぉかしたか?」


 すぐに気付かれ、紅玉のような瞳が、椿を捕らえた。


「……うし様、包丁使うの、上手」

「お、そぉか? いっつも椿の手元を見てるからなぁ」


 目が細められ、口元には笑みが浮かぶ。穏やかなこの微笑は、ぬいぐるみの姿のときには見られない。

 だからだと、椿は得心がいった。

 牛鬼のこの笑顔は、椿の心を温かくする。これが見られなくなるのが、自分は残念なのだ。


「おはよ! お姉ちゃん、お兄ちゃん」


 背後から掛けられた元気な声に振り向けば、大貴が笑顔で立っていた。その足下にはココアがいて、パタパタ尻尾を振っている。

 椿と牛鬼の朝食は、いつも七時過ぎ。政弥は昼を過ぎないと起きてこないのだが、どうやら大貴とココアに起こされたようだ。眠そうな様子で眉間にしわを寄せ、大貴に手を引かれた政弥は、椿と牛鬼をぼんやり眺めていた。


「おはようございます。コーヒー、淹れましょうか?」

「……頼む。熱いのがいい」


 大きな欠伸をして頭をぼりぼり掻きながら政弥がソファへ向かい、大貴はココアの餌の用意を始めた。


「それ、うまいんか?」


 牛鬼が興味を惹かれ、大貴の手元を覗き込む。


「ココアはおいしそうに食べてるよ」

「どんな味がするんや?」

「わかんない。犬のご飯だもん」

「うまいかわからん物を食わせとんのか」

「だって、味見なんて出来ないじゃん」


 食べてみろ、嫌だよという会話を繰り広げ、最終的に牛鬼がひょいとドッグフードを摘まんで、自分の口に入れた。


「……まずい」

「本当に食べるなんて、お兄ちゃんすごいね」


 ガリガリ噛んで飲み込んで、顔をしかめた牛鬼は台所に行って口を濯ぐ。真似をしようとした大貴は、政弥に止められていた。


「椿ぃ、なんか口直しくれぇ」

「うし様、ココアのご飯、奪ったらダメだよ」


 苦笑を浮かべながらも椿は冷蔵庫からチョコレートを取り出して、牛鬼の口の中へと放り込んでやる。

 そうこうするうちに湯が沸いて、椿が淹れたコーヒーを、牛鬼が政弥のもとへ運んだ。


「いてっ」


 コーヒーを手渡した牛鬼の額を、政弥の指が弾く。

 牛鬼が額を摩りながら見下ろした先にある政弥の顔は眠そうで、どこと無く、不貞腐れている。


「存外、子供やなぁ」


 仕方ないなと笑った牛鬼の視線の先で、政弥はふんと鼻を鳴らした。


「消えるなんて、許さないからな」


 ぼそり落とされた政弥の言葉。牛鬼は目を細め、どこまでも優しく笑う。


「まだ、大丈夫やって」


 囁くような牛鬼の答え。

 台所へと戻っていく牛鬼の背を睨むように見ながら、政弥は熱いコーヒーをすすった。

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