第20話 注意の効果

「悪い。冗談が過ぎたな」


 真っ青になって顔を強張らせた椿に、政弥は謝る。

 繋がっていた二人の手は、どちらからともなく離され、ココアも椿の腕の中から地面へと下ろされた。


「いえ、すみません。なんでもないんです」


 笑おうとして、椿は失敗した。

 強張っている己の表情を自覚して、唇を噛む。


「座るか?」


 ふるふる横に振られた小さな頭を見て、政弥は己の迂闊さを悔いた。これでまた、椿との間に距離が空いてしまうかもしれない。


「――椿」


 微妙な雰囲気が漂う二人のもとに届いたのは、牛鬼の声。

 ぱっと顔を上げた椿は、駆け寄ってくる牛鬼の姿を認めてほっとしたようだ。強張りが、微かに解けた。


「うし様」


 伸ばされた椿の手をそっと握り、青年の姿をした牛鬼は椿に寄り添い、背を撫でる。


「どうした?」

「えぇっと……」

「悪い。俺の悪ふざけで怯えさせたみたいだ」


 言葉に詰まった椿の代わりに政弥が告げると、牛鬼は政弥を見上げ、穏やかに笑った。


「そんな顔をするな、政弥。すまなかったな」


 あまりにも優しい微笑を向けられ、政弥はぐっと黙り込む。ここは牛鬼に任せるのが得策だと判断して、政弥は二人を見守ることにした。


「離れて悪かったなぁ」

「ううん。ちょっと、失敗した」

「ほぉか。んな怯えんでも大丈夫。怖いもんは、もうおらん」

「うん……」


 繋いでいないほうの手で椿の頭を撫でてから、流れるような動作で、牛鬼が椿の白い頬を包み込む。蒼白になり、冷たくなってしまった頬を温めるように触れながら、牛鬼は優しく笑う。

 牛鬼を見上げ、椿も淡く、微笑んだ。


「うしくん! いきなり走り出して、どうしたの?」

「お兄ちゃん足速いね!」


 渚と大貴がのんびり追い付いて、大貴は無邪気に笑っている。渚は、それぞれの表情をさっと見てから、問うように政弥へ視線を向けた。


「いやなぁ、政弥のやつが、かわいい椿に不埒な真似しとんのが目に入ってな。奪還したとこや」

「なぁるほどね! 椿ちゃん、怖かったでしょ? 大丈夫?」


 政弥はデカいし顔が怖いからねと言って微笑む渚と、深く頷き同意する牛鬼。二人のおかげで場の空気が和らいだ。

 牛鬼と手を繋いでいる椿も、強張りはすっかり解けたようだ。


「あの……政弥さん、ごめんなさい。お友達、解消ですか?」


 不安げに問われ、政弥は、ゆるゆる首を振って苦い笑みを浮かべる。


「謝るのは俺のほうだ。お前が嫌じゃなければ、解消なんてしない」

「よかった……」


 椿が浮かべたのは、心底ほっとした笑み。牛鬼のおかげで、どうやら、ぎくしゃくせずに済むようだ。

 これまでは、こういったからかいを椿にすると、すかさず牛鬼からの制裁が入った。それで気付くことが出来なかったが、もしかしたら椿には、なんらかのトラウマがあるのかもしれない。

 だからこそ牛鬼は、荷物持ちが必要なとき以外はぬいぐるみの姿なのだろうと考えれば、納得出来る気がした。


「えぇっと……仲直り、です」


 おずおずと差し出された椿の手。

 思わず政弥は牛鬼の顔を見て、視線で確認してしまった。

 大丈夫だというふうに笑われて、恐る恐る小さな手を握る。


「政弥さんも、大丈夫」


 ほっとしたような椿の呟きに、政弥も安堵した。怯えられるのは、つらい。


「で? 何があったんだよ」


 政弥と椿が喧嘩していたと思ったのだろう、心配した大貴がココアを抱き上げ、椿を慰めている。牛鬼は未だ椿に寄り添っていて、仲良く話している三人を眺めつつ、渚が政弥の隣へ並んだ。


「注意を促すつもりが、思いの外、効果てきめんで気まずくなった」


 あらましを話すと、渚は苦笑する。


「椿ちゃん、男になんかされたことがあるのかもね」

「かもな。気付いてたのか?」

「んー……なんとなく? そうなのかなぁ、くらい。俺、何回かうしくんの制裁食らっててさ。ヤキモチかなとも思ったんだけど、なんか違うよね?」


 政弥は、椿と牛鬼と共に暮らしてはいるが、二人と行動する時間は渚のほうが長い。しかも渚は女性との距離感が近いタイプで、制裁を食らう機会も多かった。

 だがその制裁は、ある時とない時があるのだ。


「なんつぅか、エスコートは許されるけど色気出すとダメっぽい。椿ちゃんは、いつも申し訳無さそうにするだけだから、よくわかんなかったんだけどさ。それって、うしくんがくっついてる安心感からだったのかもな」


 ココアと一緒に駆け回っている大貴。それを見守る椿と牛鬼。寄り添う二人の手は繋がっていて、牛鬼の温もりに、椿が縋り付いているようにも見えた。


「二人、いつもあんな感じ?」

「いや。いつもはぬいぐるみの牛鬼が椿の頭にへばり付いてる」

「なぁんか、不思議な二人」

「そうだな。だけど牛鬼はどうやら、椿を守る存在みたいだ」


 ぬいぐるみの姿よりも、人間の姿のときのほうが、表情の変化がわかりやすい。いつもは視ることも、直接言葉を交わすことも出来ない渚でも、今の牛鬼となら椿を介さず会話が出来る。

 これまで見えなかったものが見えるいい機会。政弥と渚の頭の中には、そんな共通の考えが浮かんでいた。


     *


 明かりを落とした部屋の中。寝室では大貴とココアが寝息を立て、ソファでは椿が夢の中。椿の両手は、黒髪の青年の左手を掴んでいる。

 青年の姿をした牛鬼は、椿の眠るソファの前の床に腰を下ろし、右手で彼女の髪を撫でていた。

 椿が完全に寝入ったことを確認すると、捕まっている手を静かに抜き取る。最後に椿の頬を撫でてから牛鬼は、物音一つ立てず、玄関から出ていった。

 牛鬼が向かったのは、一階だった。

 椿が渚から預かっている鍵で裏口を開けて、中へ入り、施錠する。

 今日は大貴がいるからと、椿の仕事は休みになった。政弥も大貴が眠るまでは三階にいたが、眠った後は、手伝いでカメリアに降りている。


「あれ? うしくん、どうしたの?」


 バックルームから店内に入ると、真っ先に渚が気付いた。

 にかっと人好きのする笑顔を浮かべ、牛鬼はカウンターの端の席へ腰を下ろす。


「政弥に酒を奢られに来てやったんや」


 人間の姿のままでいる対価だと、カウンター内にいる政弥を牛鬼が指差せば、政弥はすぐに頷いた。


「何がいい?」

「日本酒つこうたやつ」


 週五日、ここで働く椿の頭の上にいる牛鬼は、椿と共にカクテルについても詳しくなってきている。試飲はいつも牛鬼の仕事。ビールも気に入ったが、どうせなら何か作ってもらったほうがいいだろうと考え、そう頼んだ。


「これは飲んだことあるか? サケティーニ・オンザロック」


 政弥が牛鬼の前に置いたのはロックグラス。透き通った酒と氷に、青梅が彩りを添えている。


「本当はオリーブを使うんだが、うちのは青梅だ」


 政弥の声を聞きながらグラスを傾け、牛鬼は満足そうに目を細めた。どうやら気に入ったらしい。

 店内に客はまばら。終電に合わせて客が去り、ピークが過ぎた時間帯。

 政弥と渚は牛鬼の前へ集まり、つまみと二杯目のカクテルをカウンターに置いた。


「なんや? 二人して」


 カランと涼やかな音を立てて、一杯目の酒を飲み干した牛鬼は首を傾げる。


「俺は、うしくんと直接話せる機会って滅多にないしさ、あとで一緒に飲まない?」

「貰い物のうまい日本酒がある」

「椿が起きるまでなら、構わん。ワイも、二人に話したいことがあるしな」


 牛鬼の同意を得た渚と政弥は、片付けが早く終わるよう協力しながら仕事をこなす。

 バーカウンターの端で一人静かに酒を傾けながら、牛鬼は二人を眺めていた。

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