第2章 家それぞれ

第17話 家庭の問題

 じわり煙草の火が動く。

 カチン、カチンとジッポライターの蓋を開け閉めしながら、政弥は白い煙を吐き出した。

 政弥が腰掛けるソファの向かいには、犬を抱えた少年が一人。

 少年の年は十。犬は白いマルチーズで、名前はココア。綿あめのような犬だというのに何故ココアと名付けたのだろうかと、政弥は関係のないことを考えてみる。

 また深く煙を吸い込んで、吐き出す。

 煙と共に消えたりしないだろうかなどと、くだらないことを思って、幻のようには消えてくれない少年へと視線を向けた。


「で? 家出か」


 問えば少年は、憮然とした表情で否定する。


「違う。捨ててやったんだ、あんな家」

「だから、家出だろう」

「ち、違うもんっ」


 涙目で犬に縋り付く少年。

 政弥は白い息を吐き出し、頭を抱えた。


大貴たいき。話してくれないとわからない。何があった」


 溜息混じりの政弥の問い掛けで、少年の目には涙がせり上がる。


「ま、まさ兄は知ってたの?」


 溢れそうなほどに涙を溜めた瞳が向けられ、政弥は再び大きな溜息を吐きたくなった。少年が次に紡ぐだろう言葉が、予想出来てしまったのだ。


「まさ兄も、そうなの? 暴力団なの? おと、お父さんも、おじいちゃんも悪いやつだって、だから遊ばないって、学校の子に言われたんだっ」

「あー……兄貴には、聞いたのか?」

「お父さん、あんまり帰って来ないもん」

「まぁ、そうか。佳乃よしのさんは何て?」

「お母さんには聞けない」

「どうして?」

「だって、きっと笑うもん。困った顔で笑う。あの顔、嫌いだ」


 きゅうっと抱き締められても、犬は大人しくしている。少年は、ふわふわした犬の毛に顔を埋め、すすり泣きを始めてしまった。


「まさ兄、教えてよぉっ。僕、まさ兄しか頼れないんだ」

「……いつもそばにいる、おじさんたちは?」

「撒いた。誤魔化して、教えてくれなかったし」

「お前、よく一人でここまで来られたな」

「うん。なぎくんに電話したの」

「……渚はどうした?」

「下にいるって」

「逃げやがったな、あいつ」


 舌打ちしてから、煙草を灰皿に押し付けて火を消す。

 いつかこんな日が来るだろうとは予想していた。だがまさか、父親どころか母親も素通りして、犬と大荷物を抱えて自分のもとへ転がり込んで来るとは思わなかった。


「もし俺もそうだって言ったら、お前はどうする?」


 少年は答えない。


「俺からも逃げて、お前は、どこに行くんだ?」

「っ、でもまさ兄、刺青ないよ! だから違うよね? なぎくんも普通の人でしょう?」


 平日の午前中。本来なら大貴たいきは学校へ行っているはずの時間だ。政弥も、いつもなら、まだベッドで眠っている時間。熟睡しているところを、この甥っ子に揺り起こされたのだ。

 普段は真面目で聞き分けのいい大貴が、大事な愛犬と大荷物を抱えてやって来た。ここは叔父として甥っ子に向き合ってやるしかないかと腹を決め、政弥は真剣な表情で少年を見つめる。

 だが政弥が言葉を発する前に、大貴たいきの腕の中にいたココアがピクリと何かに反応して、激しく吠え始めた。


「なんやうるさいなぁ。ワイは犬と相性悪いんやけど、何でおるん?」


 牛鬼と椿が、午前中の散歩と買い物から戻ってきたらしい。

 牛鬼は青年の姿で、右手にはエコバック。左手は椿の手と繋がっている。


「お茶、淹れますね」


 椿はパタパタと台所へ向かい、青年の姿をした牛鬼は赤く光る瞳をココアへと向けた。


「おい犬、黙らんと喰うぞ」


 キャインと高く鳴いたかと思うと犬は震えだし、驚いている大貴の脇腹に顔を埋めて隠れた。静かになったことに満足した様子で牛鬼は、エコバックを持ったまま椿のいる台所へ向かう。

 その背を政弥は、うんざりとした表情で見送った。


「大貴、お前はいいけど、ココアはうちに泊まるの嫌がるかもな」

「あのお兄ちゃんとお姉ちゃんは、誰?」

「二人とも、ここに住んでる」

「まさ兄のお友達?」

「まぁ……そんなようなものだ」


 こうなると牛鬼には、大貴が帰るまでヒトの姿でいてもらったほうが説明が楽だろう。家の問題に加えて妖怪だなんだの話になれば、大貴は混乱してしまうかもしれない。

 牛鬼が了承してくれればいいんだがと考えながら、政弥は大貴に待っているよう告げてから、台所へ向かった。


「オレンジジュースとリンゴジュース、どっちが好きかな?」

「もしかしたら牛乳かもしれんなぁ。牛乳飲むと背ぇ伸びるんやろ?」

「小学生みたいだもんね。ワンちゃんも牛乳かな?」

「犬には水やないか?」

「そうなの?」

「知らんけど」


 オレンジジュースとリンゴジュースのパックを見比べる椿。

 牛乳のパックを差し出す牛鬼。

 そんな二人の背後に立って、政弥は苦笑を浮かべる。


「大貴はリンゴジュースのほうが好きだ。犬には水にしてくれ。牛乳は腹壊す」

「わかりました。政弥さんは緑茶と麦茶、どちらがいいですか?」

「冷たい緑茶」

「わかりました。すぐに用意しますね」


 牛乳パックを見つめ、次に政弥を見上げてから、牛鬼がコップに牛乳を注いだ。それをそのまま、一息で飲み干す。


「……お前の背は、牛乳でどうにかなるのか?」


 化けているのだから身長なんて思いのままではないのかと思って発した政弥の言葉に、牛鬼はカラカラと楽しそうに笑った。


「なんとなぁく。気分や」


 人間の姿をした牛鬼の身長は、渚より少し低いくらい。政弥と並ぶと印象が薄まるが、渚の身長は百七十八センチある。牛鬼は百七十五あるかないかぐらいだろうかと目測してみて、こんな事を考えるために台所へ来たわけではないなと、政弥は現実逃避をやめた。


「牛鬼、頼みがある」


 青年の姿で腕を組んだ牛鬼に、政弥は自分の甥っ子のことを話した。

 彼の抱える問題もそうだが、若い女と二人で暮らしていると実家に思われてしまうのは面倒だ。だから甥っ子が滞在する間はヒトの姿でいてくれないか。政弥の頼みを聞いた牛鬼は、ふむと呟き、顎を撫でる。


「椿、どないする?」


 共に話を聞いていた椿へと、牛鬼が視線を向ける。それにつられるように、椿を見た政弥。

 二人分の視線を受け止めた椿は、こくりと頷いた。


「ええやろ。ただし願いとして受け入れる。タダより高いもんはないって言うやん?」

「わかった。いくらだ?」

「金やなくて、酒がえぇなぁ」


 にかっと笑った牛鬼に酒を奢る約束を交わして、政弥はソファへと戻った。

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