第15話 馴染みつつある日常
日が暮れる頃に、渚がやってくる。
同じくらいの時間帯には政弥も起き出してきて、三人と牛鬼で、仕事前に夕飯を食べることが習慣になりつつあった。
「椿、行きたい場所はあるか?」
味噌汁の椀を持った政弥から唐突に問われ、椿は首を傾げる。
「明日カメリアは定休日。俺も依頼は入ってないんだ。毎日、渋谷ばかりは飽きるだろう」
「そう言っていただけるのは嬉しいですけど、お疲れじゃないですか? 先週は、お洋服を買ってもらいましたし……」
政弥と渚に連れられて買い物したときのことを思い出し、椿は眉根を寄せた。
あの時も唐突だった。
渚が昼ご飯を食べに訪れて、食後に連れ出されたのだ。年頃の娘が毎日、同じパーカーとジーンズばかり着ているのは有り得ないと言われ、それならば自分で買うと告げた椿の言い分は通らなかった。
牛鬼も、やけに楽しそうに椿に着せたい服について口出しをしていて、なんだかんだで椿も楽しんだ。着飾ることに興味はないが、政弥と渚の心遣いが嬉しかった。
「本を読むのもいいけどな。遊ぶ経験も、したほうがいい」
「そうそう。まだ若いんだからさ。勉強も自分でしてるんでしょう? 偉いと思うけど、息抜きも大事だよ」
朝起きたら掃除と洗濯、食事の支度に、食材の買い出し。散歩は牛鬼と共に毎日行っているが、夕方からカメリアでの手伝いがあるため電車には乗らない。空いた時間は本を読み、参考書を使って勉強したりもしている。
椿には、特にその生活に不満はない。
むしろ満足していて、遊び方も、よくわからなかった。
「生きていればいいってもんやない。ワイは、椿の笑顔が好きやで」
椿は軽く唇を噛む。胸がちくりと痛んだ。だけれど、痛みが熱へと変わる。じわり心に広がった熱さに、椿は睫毛を伏せた。
「遊び方が、わからないんです。ずっと本ばかり読んできました。行きたい場所も、わからない。……行くなら、うし様が行きたい場所がいい」
毎日、牛鬼の社の隣で本を読んでいた。鶴子や晋平と話をして、お茶を飲んだり、食事の支度や庭の草むしりなどの手伝いもした。
だが、同じ年頃の子供と遊んだことはない。
「ほんならなぁ、ワイは、浅草に行きたい」
前に鶴子の家のテレビで見たカキ氷が、ずっと食べたかったのだと牛鬼は笑った。
「椿がそれでいいなら、明日は浅草だ」
「はい。楽しみ……です」
椿の意思を確認する政弥の言葉に答えたとき、椿の口元が、じわり緩んだ。頬は淡く染まり、伏せられた睫毛が震えて微かな色気が漏れ出す。
椿が浮かべたはにかみの表情に、政弥と渚は目を見張り、牛鬼は穏やかに目を細めた。
「椿ちゃん、かぁわいい。楽しみだね?」
食事を終え、薄黄色のソフトボックスから煙草を取り出して咥えた渚が小首を傾げる。
椿はこくりと頷き、食事の後片付けをしようと立ち上がった。
食器が立てる音、煙草の香り、政弥の通訳を挟んでの渚と牛鬼の会話。馴染みつつある夕方の光景の中に、台所から小さな鼻唄が交じり込んだ。
「椿は、よっぽど楽しみみたいや」
笑みが滲んだ牛鬼の言葉に、政弥はそうだなと答える。
牛鬼以外、椿の鼻唄を聞くのは初めてのことだ。
喜ばれると連れて行く側も嬉しいもので、牛鬼から椿の好みを聞きながら、明日行く場所を男三人で相談したのだった。
***
渋谷から地下鉄で一本。
常人には視えない黒毛牛のぬいぐるみを頭に乗せた少女は、年上の男二人に挟まれて浅草へと降り立った。
ダメージジーンズにサマーニット姿の長身の男と、チノパンにシャツ、シルバーフレーム眼鏡を掛けた大人の男。そして上品なボーダーワンピースをまとった少女との関係性は、何も知らない人間からは、見えてこない。
「平日なのに人がたくさんです……」
肩から斜めがけにしたショルダーバッグの紐を両手で握り、椿は目を丸くした。そんな彼女の背に手を当て、さりげなくエスコートするのは渚だ。
「観光地だからね。逸れないように、手を繋ぐ?」
目の前に差し出された掌をちらりと見て、椿は首を横に振る。バッグの紐を握る両手には、更に力がこもった。
「お前は携帯持ってないから、逸れたら面倒だ。ちゃんとついて来いよ」
「はい」
気合を入れて頷いた椿なのだが、少し歩くと、すぐに政弥の大きな手にバッグの紐を掴まれることとなる。
先週の買い物ではしっかりついて来ていたからと、政弥と渚は油断していた。
椿は、あちらこちらに目を奪われ、行き交う人にぶつかり、進めなくなったのだ。
「……いつも、散歩はこんなか?」
「いえ。渋谷は怖い街だと思って、真っ直ぐ前を見て歩いています」
「それが正解だ。でもまぁ、キョロキョロしたいなら、服の裾でも掴んどけ」
「……はい」
これも気を許し始めている証拠かもしれないなと苦く笑った政弥の服を、椿は遠慮がちに握る。
渚と政弥は並んで歩き、牛鬼は椿の頭の上で興味津々の様子で周りを眺めている。椿が何かに気を取られると政弥の服の裾が引っ張られるために、政弥は足を止めて振り返る。
「気になるのあるなら、見に行くよ?」
「いえ。なんだか雰囲気が、楽しいです」
政弥と共に振り向いた渚の提案に、椿は首を横に振る。どうやら、キョロキョロしているのが楽しいようだ。
のんびり歩いて雷門を潜り、浅草寺の境内を周ってから、カキ氷の店へと辿り着いた。
「メロンパン! メロンパンも食いたい!」
カキ氷と共に売っていたメロンパンに牛鬼が瞳を輝かせ、カキ氷は三つ、メロンパンを二つ購入して分け合って食べる。
「食いしん坊はうしくんなんだろうけど、なんだか、まるで椿ちゃんが食いしん坊みたいだね」
片手にメロンパン。もう片方の手には宇治金時のカキ氷を持った椿の姿。渚の目には、どんどん減って行く食べ物しか視えない。
「小さいぬいぐるみのくせに、よくそんなに入るな」
自分のカキ氷をスプーンで口に運びながら政弥は、カキ氷とメロンパンを交互に食べている牛鬼を眺めた。一度、青年の姿を見ているために、ぬいぐるみは何らかの理由で取っている仮の姿なのだろうなと、政弥は思っている。
「なんでお前、ぬいぐるみなんだ?」
ふと思ったことを口にしてみた政弥を一瞥してから、牛鬼は蹄の両手で持ったカキ氷の器を傾けて、中身を全て飲み干した。
「ぬいぐるみになってたほうが、椿が喜ぶ思ぉてな」
「……嬉しいか?」
「はい。可愛いです」
食べ物がなくなり空いた両手で牛鬼の柔らかな体を抱き締め、椿は微笑む。その表情を見て、ぬいぐるみの姿は椿の好みなのだとわかった。
「そういえばさ、うしくんって神様なんだろ? マサと椿ちゃん、浅草寺の神様は視えなかったの?」
ふと疑問に思ったらしい渚の言葉に、政弥と椿は首を傾げる。二人とも、特にそれらしいものは視なかったのだ。
「神ってのは、そんな簡単に視えるもんやない。二人にワイが視えるんわ、なんかの縁があるんやろ」
「俺とお前に、どんな縁があるんだ?」
牛鬼との縁など、政弥には思い浮かばない。
子供の頃から霊感は強く、幽霊はよく視てきたが、神様や妖怪なんてものは、これまで視えたことはなかった。
「マサ、丑年じゃん?」
牛鬼の言葉を椿に通訳してもらった渚が、人差し指を立てた。
政弥は、そんな馬鹿なと眉をしかめる。丑年であることが縁ならば、牛鬼を視える人間は、世の中に溢れているはずだ。
「はずれではないな。政弥は、それに加えて感度がええからやないか?」
「なら、椿は?」
「椿はもっと、縁が深い」
椿の膝の上、真っ黒な牛のぬいぐるみが陰のある、どこか悲しそうな笑みを浮かべる。
唯一その笑みを目にした政弥は意味を問うように、じっと暗赤色の瞳を見つめた。
だが、前を通りかかった散歩中の犬が牛鬼に怯えて吠えたてたせいで話が中断されてしまい、場所を移したりなんだするうちに、話題は移り変わってしまったのだった。
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