第12話 古い家の庭
分厚い本を両手で抱えてランドセルを背負った少女が、とぼとぼ道を行く。当てなく歩く彼女は、ふと顔を上げ、一軒の古い家に目を向けた。
視界の隅で、何かが動いたような気がしたのだ。猫だろうか? 猫ならいいなと考えた少女は、こっそり庭を覗き込む。
素朴で、愛情込めて手入れがされた庭。
一際目を引くのは一本の木で、その根元には、木造の小さな神社のような物がある。彼女はどうしてもそれが気になって、家主に見つからないだろうかとビクつきながらも、ゆっくり近付いた。
小さな神社の前に屈み、首を傾げながら中を覗く。
覗いたことで、黄色を帯びた飴色の大きな瞳が更に大きく、零れんばかりに見開かれた。
中には鬼が一匹いて、小さな侵入者を見つめ返していたのだ。
「……こ、こんにち、は」
それは、奇妙な姿をしていた。
蜘蛛のようで、だけれど二本の角と鋭い牙を持つ鬼の顔がついているために、これは鬼だと少女は思う。
「他人の家に勝手に入るのは、いけないことだ」
深みのある不思議な声に窘められ、少女は素直に謝罪を口にした。
「こ、ここ、は……おにさんの、お家?」
問いかけの答えを得る前に、少女の背後に、人の気配。
びっくりして振り返った少女は、白髪混じりの髪を緩く一本に編んだお婆さんと出会った。
「あらあら、かわいいお嬢ちゃん。
「うし、おにさま?」
「そうよ。これは
「おに、さんが?」
「そう。鬼さんが神様」
ふふふと、お婆さんは笑う。穏やかで、柔らかい笑い声。
少女の隣にしゃがんで目線を合わせ、お婆さんは優しい瞳を少女へ向けた。
「むかぁしね、このお家のご先祖様が
「ずぅっと?」
「そう。ずぅっと。……ねぇ、お嬢ちゃん、お饅頭は好きかしら? たくさん買い過ぎちゃったの。一緒に食べてくれる?」
少女は迷ったが、もう一度お願いされ、躊躇いながらも頷いた。
縁側に招かれ、温かな茶と饅頭が差し出されて、少女は恐々、お婆さんを見上げる。本当に食べていいのだろうかと窺う少女に、お婆さんは笑みを浮かべたまま頷いて見せた。
小さな手が恐る恐る伸ばされて、饅頭を掴む。隣にいるお婆さんをちらちら気にしながら少女は饅頭を口に運び、一口齧ると、琥珀色の瞳が輝いた。
「あまい……」
お婆さんは、優しく笑って少女を見ている。
はたと気が付いて、少女は饅頭を半分に割ってから、庭へと駆け出した。
「うし……さま、おまんじゅう、好き?」
鬼は怖いものというイメージがあって、少女は神様に鬼と呼びかけるのを躊躇った。
「……好きだ」
「食べよ? 一緒に」
饅頭を好きだと言った神様がお社から出てこようとしないため、少女は振り向いて、お婆さんに問いかける。
「ここ、開けても、いい? おまんじゅう、好きだって」
お婆さんは目を瞬いたが、すぐに頷いてくれた。
少女は社の扉をそっと開いて、半分にした饅頭を差し出す。じっと待つ少女の視線の先で、それは渋々という面持ちで社から出てきて、饅頭を齧った。
「あまいの、おいしいね?」
「……そうだな」
少女の掌に置かれた饅頭が減っていく様を、お婆さんは目を丸くして眺めている。それに気付かず、少女は饅頭を食べ終え、立ち上がった。
「お嬢ちゃんには、
お婆さんの問いかけに、少女はきょとんとする。
「みえないの?」
「そうねぇ……悲しいことに、私には視えないの。あら大変、
お婆さんは、お茶を淹れるために家の中へ引っ込んだ。お婆さんの背中を見送った後、少女は足下に目を向けて、屈む。
「みえないんだって。いるのにね? わたしと一緒」
少女は表情が乏しかった。初対面の人間の前で緊張しているにしても子供らしくなく、笑わない。
そして彼女は小さく、不自然に細い。
「儂には、お主が視える」
「わたしも、うしさまがみえるよ」
「……名は?」
「つばき。お花の名前」
「なんだ。この木が、それだ」
「そうなの?」
「あぁ。これはツバキの木。儂は
「そうなの? なら私も、根っこから産まれた?」
「椿は人間なのだから、違うだろう」
「そうなの?」
「そうだ」
首を傾げる少女に、頷く牛鬼。
お婆さんに呼ばれ、少女は牛鬼の身体を両手で掬い上げて駆け出した。
「みえない?」
確かめるように少女に聞かれ、お婆さんは残念そうに頷く。
「神様は、人の目には視えないの。だけれど視えるお嬢ちゃんは、特別ね」
「特別?」
「えぇ。特別」
「特別は、変わってる? 変な子?」
不安げに瞳を揺らす少女の頬に手を伸ばし、お婆さんは、慈しむような笑みを浮かべた。
「綺麗な色のお目々ね。特別は、素晴らしいことだわ。
だけどと、お婆さんは付け足す。
「ずるいって思う人もいるだろうから、これはお婆ちゃんと、二人の秘密にしましょうか」
「ひみつ……いいよ」
少女が小指を差し出して、お婆さんは小さな小指に自分の小指を絡めた。
ゆびきりげんまんの、約束。
「わたし、つばき。おばあちゃんのお名前は?」
「鶴子っていうの」
「ツルは、きれい」
「ツバキの花も綺麗よ。あの木、綺麗な花が咲くの。よかったら見にいらっしゃい」
ランドセルを背負い直し、本を両手で抱えた少女は、お婆さんを見上げる。
また来てねと言われ、お婆さんのそばにいる牛鬼にも、目を向けてみる。
「また来い。話をしよう」
「うん! またね」
またね。自分の発した言葉がこそばゆくて嬉しくて、頬が緩んでしまったことを感じたら、恥ずかしくて。少女は唇に力を込めて、堪える。
駆け出して、止まって、何度も振り返る。
少女の姿が見えなくなるまで、お婆さんと牛鬼は見送ってくれた。
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