第10話 でぇと

 政弥の部屋の台所で椿が食事の支度をしていると、玄関のドアが開く音がした。

 鍋の火を弱めて、出迎えに向かう。


「おかえり、なさい」

「……あぁ。美味そうな匂いだな」

「今、召し上がりますか?」

「シャワー浴びる。その後、食ってもいいか?」

「はい」


 言葉を交わし、椿は料理を仕上げるために台所へ戻る。政弥は一旦、寝室に向かい、着替えを手にしてバスルームへと消えた。

 テーブルの上に食事を並べ終わる頃、バスルームから出てきた政弥は、きちんとした身なりになっていた。ネイビーのシャツにグレーのツーピース。緩やかなくせ毛の髪は纏めて一本に束ねられている。

 ネクタイとジャケットはまだ身に付けず、ソファの背もたれに掛けられた。


「お出掛けですか?」

「飯食ったら出る。帰りはわからないから、寝るときは戸締りを忘れるなよ」


 少し急いで、だが美味そうに食事を平らげると、政弥はネクタイを絞めてジャケットを羽織る。


「それ」


 呟いた政弥が目を向けたのは、テーブルの端で盆の上に乗っている、ラップがかけられた食事。


「渚さんにです。夜は食べないと仰っていたので、朝ごはんにしてくださればと思って」


 椿の答えに、政弥は目を細めた。


「きっと喜ぶ。この時間は下に行くな。酔っ払いが増えるから、お前は危ない。俺が持って行く」

「では、お願いします」

「あぁ。明日は、俺の飯は気にしなくていい。適当に済ませる」

「わかりました。……いってらっしゃい」


 盆を持った政弥を追い掛けて椿が見送りをすると、政弥は優しい瞳で椿を見下ろし、ぽんと軽く頭を撫でる。もう一度「戸締りを忘れるな」と念押ししてから、政弥は再び出掛けて行った。

 椿から預かった渚用の食事をバックルームの冷蔵庫に入れてから、政弥は店内へ続くドアを潜る。

 政弥に気付いて振り向いた渚に食事のことを伝えると、渚は嬉しそうに笑っていた。


「こんばんわ、セイさん」


 紅の引かれた唇が弧を描き、カウンターに頬杖を付いた女が政弥に微笑みかける。


「どうも。相変わらず、お綺麗で」

「あら、まだそう言ってもらえるのね? セイさんが若い子の飼い主になったって聞いたわ」


 女の冗談めかした言葉に、口端を吊り上げて政弥は笑った。


「ちょっと面倒見ることになっただけですよ。スミレさんが来てるって聞いたんで、急いで戻ったんですが」


 カウンター越しの会話。言外に何かあったのかと尋ねた政弥に答えず、女は笑みを浮かべたまま長い睫毛を伏せる。


「そうねぇ……。久しぶりに、セイさんのカイピリーニャが飲みたくて」


 綺麗に彩られた女の爪が、空になったシャンパングラスを弾いた。

 政弥はそのグラスを下げ、女の要望に応えて酒の用意をする。彼女好みの度数と甘さで作った、ライムがグラスの中を彩る酒を女の前に置いた。


「うちの子に、おいたしてる坊やがいてね」


 酒を味わいながら、女が囁くように言葉を紡ぐ。


「どこぞのチンピラらしくて……自分のバックにはヤクザがついてるんだって、しきりに言うんですって。それも、平馬へいまと縁が深いとかなんとか」


 綺麗な笑みを浮かべる女の視線を受け止め、政弥は嗤う。


「へぇ。そいつは怖い」

「でしょう? ストーカーみたいなんだけど、警察に相談は……ねぇ?」

「そうですね」


 女が傾けたグラスが涼しげな音を立てた。

 二人から離れた場所では、渚が別の客の相手をしている笑い声が、店内の空気を柔らかく揺らしている。


「一緒に来てくださる?」

「えぇ。喜んで」


 頷き、政弥は渚に視線を送る。それを受けて頷いた渚に見送られ、支払いを済ませた女と連れ立った政弥は、夜の街へと消えた。


 ***


 日が高く昇ってから帰ってきた政弥は、酒と女の香りがした。

 元々がタレ目だというのに、眠たそうに目元を蕩けさせた政弥は、帰ってすぐシャワーを使い、スウェットズボンだけ履いた半裸の状態で寝室へと消えた。

 彼の大きな背中を見送って、セイさんというのは政弥のあだ名だろうかと、椿はぼんやり考える。それと同時に、政弥のスーツに移っていた香りが、昨夜カメリアに来ていたスミレという名の客と同じものだと気が付いて、椿は大人の世界を垣間見てしまったような、恥ずかしく居た堪れない気分になった。


 時折、本をめくる乾いた音がするだけの、静かな室内。

 牛鬼が窓辺から眺めている空は、高く眩しい。

 本から顔を上げた椿は小さな体越しに青い空を見て、膝の上で開いた本を、そっと撫でる。


「うし様、お散歩行く?」


 椿の視線の先で、振り向いた彼の顔が嬉しそうに輝いた。頷く牛鬼の笑顔を見て、椿の頬も自然と緩む。

 政弥が目を覚ましたときに心配しないよう置き手紙を残し、椿はポシェットを肩にかけ、頭には牛鬼を乗せて散歩へと繰り出した。

 乾いた空気に、眩しい陽射し。汗ばむような陽気だけれど、椿の服装は毎日変わらず薄手の長袖パーカー。普通なら汗をかいてしまいそうな格好だが、当の本人は汗もかかずに涼しげだ。


「こぉんなに人がおんのに、この状態のワイが視えたのは、あいつだけなんやなぁ……」


 牛鬼が落とした呟きで、椿は視線を上に向ける。だけれど頭上にいる彼の姿を捉えることは出来ず、手を伸ばして、柔らかな体を撫でた。


「こんなに忙しそうにしていたら、気付けないんだね」

「そやなぁ」

「私は視えて、よかったよ」

「そぉかぁ」

「うん」


 通り過ぎて行く人々。

 こんなに人がたくさんいるというのに、椿と牛鬼は二人きり。

 だけれど独りでは、ない。


「なぁ椿ぃ?」

「なぁに?」

「これまではなぁ、余裕が無かったから言えんかったんやけどなぁ」

「うん」


 椿の上から飛び降りて、牛鬼が姿を変える。音もなく、椿の前には黒髪の青年が現れた。何処にでも溶け込めてしまえそうな、平凡な見た目の青年。だが瞳だけが、光の加減で、赤く光る。


「でぇとゆうん、してみんか? 鶴子がゆうとった、手ぇ繋いで、うまいもん食うやつ」


 目の前に差し出された掌を椿はきょとんと見つめ、一瞬後に、破顔する。


「うし様は、おいしい物が好きだね?」


 軽やかな笑い声を立て、椿は彼の手に己の手を重ねた。まるで仲のいい兄妹のように、二人は並んで歩き出す。


「人間喰うよりも、人間が作ったもんのがうまい」

「一番好きなのは?」

「酒やなぁ。次は鶴子の料理」

「……私のご飯は?」

「三番目や」


 即答された言葉に、椿は唇を尖らせた。その様子を邪気の無い笑顔で眺め、人の姿に化けた牛鬼は続ける。


「せやけど鶴子はもうおらん。酒は飲みもんやから、食いもんで言うたら椿の飯が一番好きや」


 唇を尖らせて拗ねていた椿は、すぐに嬉しそうに顔を綻ばせた。繋いだ手をぶんぶん振って、どうやら機嫌は回復したようだ。


「今夜は、うし様の好きな物を作るね。何がいい?」

「ぬか漬け」

「それは、無理かなぁ」

「なんでやっ」

「だって、ぬか床がないよ。また一から作らないと。それに、政弥さんのお家だから、作っていいか聞かないとだよ」

「えー……ほんなら味噌汁」

「毎回、作ってるよ?」

「せやな、好きだから嬉しい」

「なら味噌汁は毎日、忘れないようにするね」

「おぅ! 頼むわ」


 行き交う人々の中、楽しげに言葉を交わす二人の姿は馴染んで溶け込み、まるでかわいらしい恋人同士のようでもある。

 それは、牛鬼がやってみたかったというデートの正しい状態と言える姿になっていた。

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