第9話 BARカメリア
ダークブラウンを基調とした店内。
カウンター席が店の半分を占め、黒革張りの椅子には、座り心地のいいクッションが入っている。残り半分の空間には四人用のボックス席が二組、少し距離を開けて配置されている。
店の外装はシンプルで、重厚な木の扉の上で両サイドからライトに照らされた看板が一つ。
看板に書かれた店名は
「うしくん、君にぴったりのお酒があるよ。飲んでみる?」
仕事用に身なりを整えた渚がバーカウンターに置いたのは、淡い草色に染まった酒の入った瓶。牛鬼がどこにいるのか視えていない彼は、とりあえず椿に向けて、酒のラベルを見せてみる。
「なんや、これ?」
牛鬼は椿の頭の上。
カウンター内で渚に向き合って、椿は牛鬼の言葉を渚に伝えた。
「ズブロッカっていう、ポーランドのお酒。桜餅の香りがするんだよ。それにほら、バイソンって牛でしょう?」
ラベルに描かれた動物の絵を指して、渚はにっこり笑う。
「中に草が入ってるでしょう? これ、バイソングラスっていうの」
「へー、草が入ってんのかぁ」
「そう。この草で香り付けされたウォッカ。強いけど、和風の香りがするから好きかもよ」
「え? あの……うし様の声、聞こえたんですか?」
「聞こえないけど、なんとなく。反応を予想してみた。当たってた?」
笑みを浮かべている渚の言葉に、椿は驚いた表情のまま、こくんと頷く。
牛鬼が飲んでみたいと告げたためにそれを伝えると、渚は瓶ごと冷凍庫でキンキンに冷やしてあったそれを、ストレートでグラスに注いでカウンターに置いた。
「もし濃かったら氷入れるか、カクテルを作ってあげるから、言ってね?」
「おぅ! ありがとう」
椿の頭の上から飛び降りて、牛鬼は酒の入ったグラスの前に座る。両手でグラスを抱えて香りを嗅ぎ、一口飲んでみた。
「ほぉ、結構クるな。あーでも、ホンマ桜餅や。うまい!」
「おいしいって。気に入ったみたいです」
「それはよかった。でも度数高いから、あんまりグビグビ行くと大変だよ」
店はまだ開店前。牛鬼はのんびり酒を楽しみ、椿は渚から仕事を教わる。
カウンター内には二口コンロがあるのだが、調理で使うことは、ほとんどないらしい。
ここは酒を楽しむ店。つまみは簡単な物しか置いていない。
「椿ちゃんは、まだ飲んだらダメだから、どの酒にどんなつまみが合うのかを実際に試すわけにはいかないけどさ。例えば、うしくんが今飲んでるそれ、チョコレートが合います」
ことりと、グラスの横にチョコレートが乗った皿を渚が置いた。牛鬼は迷わず手を伸ばし、チョコレートを食べてから酒を口に含んでみる。
「おー! ホンマやぁ!」
「うし様、喜んでます」
「でしょう? あとは酸味のある物。黒パンと合わせると、もう最高」
黒パンはうちには置いてないけどねと告げた渚は、ピクルスを牛鬼の前に置く。
「ほぉほぉ、これもまた中々」
ピクルスを齧って酒を飲み、鼻を抜ける甘い香りと酸味の相性に、牛鬼は唸った。
「酒によって合う物、合わない物があるから、うしくんやお客さんを見ながら覚えたらいいよ。お客さんから合うつまみを聞かれることもあると思うけど、困ったら聞いてね? まぁ、そんな広くないから、俺は大抵すぐ横にいると思うけどね」
椿が働くのは十時まで。店は朝三時まで開いてはいるが、未成年のため閉め作業までは、いさせられない。
「ここ、一人で切り盛りされてるんですか?」
手を動かしながら椿が疑問を口にすると、渚は小さく笑みを浮かべる。
「元々はマサと二人で始めたんだけどね。あいつ、もう一つの仕事が忙しくなっちゃったから。今はそっちがメインで、空いてるときには手伝ってもらってる」
「政弥さんのお仕事って……?」
「あぁ、聞いてない? トラブル解消屋」
聞き慣れない職業に、椿は首を傾げた。
渚は椿の反応を見て、楽しそうに笑っている。
「警察を頼れないような厄介事が舞い込んで来るの。仲間内で頼られてるうちに、なんか、仕事になっちゃったんだよね」
渚の言葉に、椿は納得した。そういう仕事をしている人間だからこそ、政弥はあっさり、椿を受け入れてくれたのかもしれない。
「まぁ最近は、便利屋みたいになってんだけどね。依頼料をちゃんと払ってくれて、あいつに出来ることなら結構、何でもやってる」
殺しとかヤバイこと以外だけどねと渚が付け足すのを聞いて、椿は目を伏せ、睫毛を震わせた。その表情は、微かに強張っている。
「んな顔すんな椿。しゃんとせぇ」
酒を飲み干した牛鬼の言葉に、椿は小さく頷いた。
店を開ける時間になると、牛鬼は椿の頭の上にうつ伏せで張り付く。グラスが浮き食べ物が宙に消える様子など、客に見せられないからだ。
牛鬼が飲み食いした後の皿とグラスは片付けられ、店内には控えめなBGMが流される。
開店してすぐは客足は疎らだったが、少し経つと、食事の後の二軒目として訪れる恋人達や仕事終わりのサラリーマンなどの来店があり、店内は静かな賑わいを見せた。
椿は渚の手伝いとして、空いたグラスなどの片付けをして過ごす。
酒の甘い匂いと、誰かが吸う煙草の香り。囁くような話し声が店内を満たし、椿の頭の上では、牛鬼が無言で人間たちを観察していた。
「なぎくん。セイさんは、何時に戻るのかしら?」
椿の仕事が、そろそろ終わるくらいの時間。来店した一人の女性がカウンター席に座り、豊かな睫毛に縁取られた瞳を誰もいない端の席へと向けた。色気のある香りを纏う艶っぽい見た目をした女の言葉に、渚は微笑んで答える。
「久しぶりに来てくれたと思ったら、あいつに用事?」
「あら、なぎくんにも会いたかったのよ?」
「それはどうも。キールロワイヤル?」
「えぇ、お願い」
カクテルを作る渚の手元を眺めていた女は、ふいに椿へと目を向け、首を傾げた。
「かわいらしいお嬢さんね?」
「あいつの拾いもの。今日から手伝ってもらうことになったんだ」
「男は若い子が好きなものだけれど、セイさんもだったのね」
「そういうのじゃないよ」
「ふふっ。……私のことも拾ってくれないかしら」
「スミレさんほどの女が落ちていたら、男はみんな欲しがるだろうね。でも、簡単には拾わせないくせに」
「そうねぇ。安売りはしてないわ」
シャンパングラスに注がれた紫色の宝石のような酒。カウンターに置かれたそれを、女は手に取り、口を付ける。
「椿ちゃんには、これ。今日はもうあがっていいよ。また明日もよろしくね」
お疲れさまという言葉と共に渚から渡されたのは、オレンジのグラデーションが綺麗な飲み物。ストローの隣には、くし切りのオレンジが添えられている。
「シンデレラなんて、意味深ね?」
「勘繰らないでよ。彼女、炭酸は苦手みたいだから飲みやすいかなってだけさ」
渚にそっと背を押され、椿はバックルームへと向かった。だけれど、はたと思い至って、振り返る。
「渚さん、お食事は?」
「俺? 夜は食べないんだ」
「そうですか……」
両手で持ったグラスを見て呟いた椿の耳元に、渚がすっと唇を寄せた。
「もしかして作ってくれるの? 椿ちゃんの手作り、食べたいなぁ」
ガツン!と音がしたと思ったら、渚が大きく仰け反っていた。視線を上げて確認すると、どうやら牛鬼が渚を殴り付けたらしいと椿は理解する。
「もしかして俺、うしくんから天罰くらった?」
「すみませんっ」
「すごいボディガードが付いてるね」
くすくす楽しそうに笑って、渚は店内へと戻っていってしまった。
詳しく食事のことは聞けなかったが、食べたいとは言っていたために作ることを決めて、椿はストローを咥える。
初めて飲んだノンアルコールカクテルは、甘酸っぱい、爽やかな味がした。
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