第5話 諭吉さん五人

 窓から差し込む明るい光の中、黒革のソファにちょこんと座り、椿は寝室のドアを眺めながら困っていた。


「あいつは朝方帰ってきよったから、まだまだ寝とるんやないか」


 ソファの端に畳まれた毛布の上で偉そうに座っている牛鬼の言葉に、椿は小さく唸る。


「聞かないで勝手に調理器具を揃えたら、やっぱり……怒られるよね?」

「椿が気になる言うんなら、叩き起こすか?」

「だめ。そっちのほうが迷惑だよ」

「ワイはコンビニの飯は、もう嫌や。うまい飯食わせてぇな」


 ぐぅと二人の腹が鳴る。

 牛鬼に縋り付かれながら、椿はよしと呟き、腹を決めた。


「事後承諾で、怒られたらごめんなさいしよう。政弥さんの分も、作ったら食べてくれるかな?」

「食うんやないか? 椿の飯は鶴子仕込みで最高やからな!」


 ぴょんと飛んだ牛鬼が肩に乗ってから、椿は財布の入ったポシェットを手にして立ち上がる。机に置いておいた鍵も持ち、玄関へと向かった。


     *


 微かな物音と、鼻を擽る香りに覚醒を促された。

 枕元に置いた時計がわりのスマホを手に取り、時間を確認する。十三時二十分。じゅうぶん眠ったなと、ぼんやりする頭を掻きながら体を起こす。

 ベッドから出て寝室のドアを開けると、懐かしい実家の香りが、濃くなった。


「おはようございます。ちょうど出来るので、一緒にいかがですか?」


 台所から顔を出したのは、昨日と同じデニムと薄手のパーカーの上から白黒の牛柄エプロンを纏った椿で、エプロンなんてこの家にあったかと、政弥は内心、首を捻る。

 部屋に漂うのは出汁と味噌の香りと、魚が焼ける香ばしい匂い。香りに誘われて台所を覗くと、この家には無かったはずの調理器具や食器、調味料などが並んでいた。


「午前中、買い物に行って一式揃えてしまったんですが……もしご迷惑なら、捨てます」

「いや、いい。……金は?」

「大丈夫です。自分が欲しくて買った物なので。それより……」


 お玉片手に頬を染めた椿がちらり、政弥へ視線を向けてから、すぐに逸らす。


「あの……何か羽織っていただけますか?」

「あぁ。すまん」


 夏だし一人暮らしだからと、寝る時の政弥はいつも下着一枚だ。今は椿がいるため、かろうじてスウェットを履いていた。だが上半身は筋肉質な体を晒したままだ。割れた腹筋、厚い胸板。ちらちら気にしつつも、椿は顔を逸らしている。耳まで染まった初々しい反応に、政弥は少しだけ、楽しくなる。


「男の裸、見たことないのか?」


 意地の悪い笑みを浮かべて椿に一歩近付くと、後頭部に重たい一撃を食らわされた。それは牛鬼の飛び蹴りで、ぬいぐるみで軽い体のくせに、まるで成人男子のような力強さがあった。


「どうやらワイに呪い殺されたいようやのぉ?」

「うし様、暴力反対」


 思いのほか強い打撃に政弥は蹲り、見上げた先では牛鬼が、椿の腕の中でじたじた暴れている。

 少女の細い腕に抑えられて抜け出せない、小さな体。だけれど後頭部を襲ったあの蹴りから、か弱いふりのパフォーマンスなのではないかと政弥は疑う。


「着替えてくる。俺も飯、食いたい」

「はい。用意しておきます」


 これ以上、痛い思いをするのはごめんだと、政弥は寝室へと戻る。

 いつもは静かな家の中が、柔らかな騒々しさに包まれている。とりあえず拾いものは幻ではなかったなと実感して、政弥は頬を緩めた。

 ダメージジーンズにタイトなTシャツを身に付けてから部屋を出ると、昨日まで散らかっていたローテーブルの上に、朝食が三人分並んでいた。白米、味噌汁、焼き魚に納豆。薬味がのった冷奴に、おひたしと、だし巻き卵まである。


「政弥さんがどのくらい召し上がるかわからなかったので、たくさん作ってしまいました」


 炊飯器など無かったはずなのに米はどうやって炊いたのか、炊飯器も買ったのだろうかと頭の中で考えていた政弥を伺うように、椿が見上げてきた。

 その視線を受け止めて、政弥は目元を緩める。


「うまそうだ」

「嫌いな物は無いですか? よかったら食事は、私が作ります」

「なんでも食える。和食が好きだ」

「わかりました」


 控えめに微笑む椿は、かわいらしい。

 揃って手を合わせ、朝食というにも昼食というにも遅い食事を口に運んだ。

 椿の作った食事は絶品だった。

 出汁も自分で取ったらしく、優しく柔らかな味がする。まるで田舎の祖母の作る物のようだなと心の中で感想を零しながら、政弥は白米と味噌汁を三度おかわりした。

 牛鬼も器用に箸を使いつつ男らしい食べっぷりをしており、二人の様子を見た椿は、うれしそうに笑った。


「これ、家賃です」


 食後の一服にと煙草を咥えた政弥に、椿が財布から取り出した諭吉を二枚、差し出してくる。


「食費と、バイト代だ」


 一度受け取り、政弥はそのまま椿に金を渡す。

 ぱちくり目を瞬かせて、椿は、金と政弥の顔を交互に見ている。


「これだけうまい飯の対価には安いか? 出来れば部屋の掃除と洗濯もしてくれると助かる。全て込みで、毎月五万にするか。俺は仕事によって起きる時間も出掛ける時間も不規則だが、その都度、伝えるようにする」


 政弥は自分の財布から諭吉を三枚抜き取り、合わせて五万を椿に押し付ける。

 金を押し付けられた椿は何か言おうと口を開き、だが言葉が見つからずに、政弥の顔を見つめ続けた。


「一緒に暮らしてるガキに、その年で変な仕事に手を出されても寝覚めが悪い。親の遺産か何か知らんが、大事に取っておけ」


 手の中の金を握り締め、か細い声で「はい」と返事をした椿は、詰まる喉でそれ以上の言葉を紡げず、深々と頭を下げることで感謝の気持ちを表現した。

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