第4話 最初の夜

 寝床は結局、政弥が寝室のベッド、椿がソファになった。

 政弥は椿にベッドを譲ろうとしたのだが、体の大きい政弥では、どう見てもソファは厳しい。椿がそう主張して、政弥自身もそう思ったために、寝床はそれで落ち着いた。


「仕事行く。戸締り、ちゃんとしろよ」


 合鍵を椿に手渡すと、政弥は玄関へと向かう。

 見送るため椿は広い背中を追い掛けて帰りの時間を聞いたが、わからないから寝ていろと言われて素直に頷いた。


「ずっと野宿だったんだろう? 風呂入って、ゆっくり寝ろ」

「はい。あの……お仕事、頑張ってください」

「あぁ。おやすみ」

「おやすみ、なさい……」


 閉まるドアを見届けて、政弥が外から鍵をかける音を聞いた。

 ほっと息を吐いて、椿はソファへと戻る。


「いい奴に当たったみたいやな?」

「うん。……優しい人で、よかった」


 ソファの背もたれから顔を覗かせた牛鬼に微笑みかけ、椿は、机の上のゴミを片付け始めた。


「とりあえず今日は、もう寝たらどうや? 疲れたやろ?」

「うん。疲れたぁ……。でもシャワー浴びたい」

「体清めて、ゆっくり休もうな」


 こくり頷いた椿はスーツケースの中からタオルを取り出し、牛鬼を抱き上げてバスルームへと向かった。



     *



 部屋を出た政弥は一階まで降り、一階のドアの鍵を開けて中へと入る。そこはバックルームになっていて、狭い部屋を抜けて店に出た。


「マサ。遅かったな」


 オレンジ色の薄明かりが灯された店内に、ずらり並ぶ酒。酒の並ぶ棚を背にしてグラスを磨いていた男が顔を上げ、バーカウンターの中から政弥に声をかける。


「依頼、そんなに厄介だったのか?」


 短い黒髪を後ろに撫でつけ縁なし眼鏡を掛けたその男は、政弥の古くからの友人で、井口渚という。

 渚は政弥の表情から疲労を読み取ったらしく、苦笑を浮かべながら、政弥の好きな酒を用意してくれた。

 客のいないバーの店内で、政弥は定位置であるバーカウンターの端の席に座り、酒を口に含む。口腔に広がる、まろやかな苦味と甘み。鼻に抜ける香りを楽しんで、酒を喉に通してから、口を開いた。


「依頼のほうは、すぐに終わった」

「なら、どうした?」


 淡い明かりに照らされる店内に溶けるような、低く落ち着いた声音。

 渚が付けているダークレッドのネクタイを睨むように見ながら、政弥はまた一口、酒を飲む。


「帰りに拾いものをした。だけど朝には、幻みたいに消えてるかもしれない。だから明日、確かめてから話す」

「また幽霊とか?」

「そんなようなものだ」

「うへぇ……悪霊は拾ってくんなよ?」


 チリンと軽やかな音が鳴り、店のドアが開いた。

 来客を知らせる音で二人は口を噤み、渚は微笑みを浮かべて客を迎える。政弥は黙って存在感を消し、バーの景色に溶け込んだ。

 これも仕事の一つ。

 悪質な客に対応するのも、政弥の仕事。そして、人伝に噂を聞いてやって来るかもしれない依頼主を、このバーで待つのだ。

 

 政弥が部屋に戻ったのは、日がのぼり始めた頃だった。

 鍵を開けて薄暗い室内に入り、聞こえた寝息に、ほっとする。起こさないよう静かに歩き、寝室に向かいながら、なんとはなしにソファの上に目を向けて、背筋を冷たい何かに撫でられたような心地がした。

 薄暗がりに浮かぶ、暗赤色の瞳。

 まるで椿を守るようにそばへと張り付いた牛鬼が、政弥の動きを追っていた。

 見た目はかわいらしいぬいぐるみ。なのに、その瞳は冷たく凍っているようで、こういう瞳を、政弥は知っている。


――人殺しと同じ目をしてやがる。妖怪……いや、悪魔みてぇだな。なんにしろ、こいつは神だなんてありがたいもんじゃねぇだろ。


 心の中で感想を吐いて、政弥は着替えを持ってバスルームに入る。熱いシャワーを浴びて、髪の水気を拭いながら出てきた政弥をまだ、赤黒い瞳が追い掛けていた。

 好きなだけ見ればいいと、政弥は気にせず寝室へ向かう。

 綺麗に片付けられた室内。整えられたベッド。どさりと倒れ込んで目を閉じた政弥は眠ろうとして、邪魔者の気配に瞼を持ち上げる。


「何の用だ?」


 俺は眠いんだと不機嫌さを滲ませた声で尋ねると、政弥について部屋に入ってきていたらしき牛鬼が、枕元に仁王立ちした状態で口を開いた。


「椿への親切、感謝する。だが椿に何かしたら、儂は主を食い殺す」


 昼間の気安い気配は、どこにもない。静かに告げられた脅しの言葉に政弥は短く、あぁと返す。


「主が何もしなければ儂も何もせん。人間の社会では、儂はあの子を守ってやれんのだ。どうか、宜しく頼む」


 脅しの後の、懇願。

 政弥が同意すると、牛鬼の気配が和らいだ。

 ベッドから飛び降りて、器用にドアのノブを回して部屋を出ていく黒いぬいぐるみの姿を目で追って、政弥は思う。脅しているときでも牛鬼が椿の名を呼ぶ声は、優しかった。あれの大切な宝物に手出ししなければ問題無いだろう。

 そう判断して目を閉じ、やってきた眠りの気配に身を任せた。

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