第3話 ふかいな事務所
背の高い政弥を追い掛けるには、椿は走らなければならなかった。ちらり振り向いた政弥がそれに気が付き、歩調を緩める。牛鬼は椿の腕の中でぬいぐるみらしく抱えられ、椿も政弥も黙って歩く。
話をしていた宮下公園を出て明治通りを原宿方面へと進み、途中で歩道橋を渡ってから大通りを離れて路地に入る。
人通りのなくなった、車が一台通るのがやっとというくらいの狭い道を少し歩き、政弥は三階建てのビルへと入った。
入ってすぐの階段を上り、三階に一つだけあるドアの鍵を開けて椿を招き入れる。
扉を潜った椿と牛鬼は、すぐに鼻をおさえて顔をしかめた。
「あー……わりぃ。掃除は苦手なんだ」
そこは、事務所のような場所だった。
部屋の真ん中には三人掛けの黒革ソファが二つ、アンティークの木のテーブルを挟んで向かい合わせで置かれている。重量感がある木のテーブルの上には、物が散乱していた。灰皿に溜まった煙草の吸い殻、新聞、雑誌。
だが、そこはまだ片付いているほうだった。室内をぐるり見回して、椿は悪臭の根源を発見する。
「これ……」
「あー……料理は出来ない」
そこは、台所であるはずの場所。シンクの中には、カップラーメンや弁当の器が積み重なっている。コンロにはヤカンが一つ。お湯を沸かせるスペースだけが開けられていて、残りはゴミで埋れていた。
「……寝る場所は?」
椿の言葉に、政弥は一つのドアを開ける。
「洗濯は?」
「…………気が向いた時に」
政弥が開けたのは寝室に続くドアだったのだが、中はぐちゃぐちゃ。汚れ物と綺麗な服がごちゃ混ぜになって、床やベッドの上に散らばっていた。
ベッドの上には服に混じって、毛布が丸まっているのが見える。
「すまん。片付ける」
「おぅ、片付けやがれ。こんなきったない場所に椿を住ませるなんて、ありえへん。野宿といい勝負かもしれんのぉ」
「うし様、しーっ」
焦った椿に口を塞がれ、牛鬼は強制的に黙らされた。
政弥は怒るでもなく、後頭部をガリガリ掻いて室内を見回している。しかめられた顔は不機嫌で怒っているようにも見えるが、椿には彼が、途方に暮れているように見えた。
「あの……やって良ければ私、やります」
「助かる」
即答された言葉に、椿は小さく微笑んだ。
日が暮れるまで、椿は寝床を確保するために事務所内を動き回った。政弥は椿の指示に従って動き、牛鬼は椿の頭の上で寛いでいるだけだった。
そうして、なんとかベッドを発掘し、ソファの片方に一人分の寝床を作り、悪臭の原因はゴミ袋に詰めて追い出した。
空気の入れ替えで喚起をしながら一息つくと、政弥の腹が盛大に鳴る。
「腹、減ったな」
「……はい」
「買い物、行くか」
「はい」
政弥の家に、調理器具はヤカンしかない。
二人は戸締りをして家を出る。近所のコンビニへ入り、政弥が椿の分まで支払ってくれた。
「あの、住処さえ提供していただければ、食事はなんとかします」
「金は? あるのか?」
こくんと頷いた椿を見た政弥は、ふーんと呟いただけで、それ以上は聞かなかった。
部屋に戻ると無言で食事を取り、食べ終わると、政弥は煙草を取り出す。黒いボックスから一本抜き取って咥えたところで、思い出したように椿へ目を向けた。
「気にしないでください」
「そうか。嫌だったら、言え」
「はい」
銀色のジッポを手に取り火を付けると、オイルライターの独特な香りが鼻をくすぐった。政弥の吸う煙草の葉は、酸っぱい香りと、少しだけウィスキーの香りがする。
ゆっくり煙を吸い込んで、味わい、息を吐く。
政弥が燻らせる紫煙を眺めている椿と牛鬼に、政弥は目を向けた。
「ルールを決めるか」
静かな空間に、煙と共に吐き出された言葉。
椿は真っ直ぐ政弥の視線を受け止めてから、首を傾げる。
「ルールですか?」
綺麗になった灰皿に灰を落とし、政弥が頷く。
「飼うだなんだは置いといて、住処は提供してやる。その代償、お前は何を払える?」
「……夜のお相手を」
「いらねぇよ。小便臭いガキには勃たない」
ゆったり煙草を味わう政弥の視線の先で、椿は青白い顔をしている。瞳をゆらゆら揺らし、膝の上の牛鬼を抱く手に力を込めた。
牛鬼は身動ぎせず、口も開かない。ただ公園のときと同様、じっと、政弥を瞳に映している。
「金はあると言ったな? 未成年だから、保護者がいないと部屋は借りられなかったんだろう? 正規のバイトも難しいな」
無言の肯定。
政弥は椿の表情を観察しながら、言葉を続けた。
「月二万。光熱費込みで、ここに住ませてやる。食事は自分でなんとかしろ。男の連れ込みと、ドラッグはどんな物でも禁止だ。見つけたら追い出す。あとは俺に迷惑掛けない範囲で、好きにしろ」
椿は口を開けて、ぽかんとしている。そんな彼女を見上げてから、牛鬼が再び政弥へ目を向けた。
「ワイも一緒で二万か?」
「あ? ……そうだな。ぬいぐるみだろう?」
「違うわ! 祟り殺すぞ小童が!」
「へー、ならお前、金はあるのか?」
「ワイはかわいいぬいぐるみでっせ!」
二本の蹄を顎の下に付けて、牛鬼は上目遣いで目をパチパチさせる。その姿は完全に、かわいいぬいぐるみだ。
「あのっ」
二人の軽いノリのやり取りに、椿が声を上げて割り込んだ。
「その条件で、構いません。毎月ちゃんと払います。ご迷惑もお掛けしないように頑張ります! だから、あの……ありがとうございますっ」
深く頭を下げた椿の旋毛を見ながら、政弥は灰皿に煙草を押し付けて火を消した。そして微かに、だが優しく、目を細める。
「おぅ。これから同居人だな。よろしく頼む」
「はい! うし様共々、お世話になります!」
こうして、牛と少女と大男の、奇妙な共同生活が始まった。
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