第3話『異世界は踊る、されど進まず #1』

 人里から少し離れた森の中。空はまだ暗く、日が昇るにはまだ数時間はある夜更け。

 暗がりに紛れて走る影が一つ。更にその影を追うように複数の影が群れを成していた。


「はあっ、はあっ。……このままじゃ追い付かれる」


 装束の損傷や装飾具の乱れなどは著しく、あらわになった白い腕には対照的なほど鮮やかな深紅の血が滴っている。

 怪我をした箇所を手で抑えながら、尚も少女は走り続ける。

 

「みんなともはぐれちゃったし、どうすれば……」

 

 自分を追ってきているがいかに凶悪な存在であるかを知っているが故に、少女は決して立ち止まることはない。

 

「せめてどこか広いところに出られたら……」

 

 周囲は視界が悪く、迎え撃とうにも分が悪い。このような場所で追いつかれてしまってはそれらに囲まれて、一瞬のうちに命は露となって消えてしまうだろう。


「きゃっ!?」

 

 道なき道を走り続けること数分。少女はにぶつかり、その勢いで少し開けた地面へと転がり出た。

 

「いったぁ……。もう、何なの」

 

 辺りを見回し周囲の状況を確認する。

 暗がりではっきりとは見えないものの、多少動き回れるほどの広さがある空間であることが認識できた。

 

「よし、これだけの広さがあれば……」


「あの」


「だ、誰!?」


 突如聞こえてきたその声に、少女は驚愕のあまり臨戦態勢を取る。それから僅かに遅れるように何かが地面に倒れる音がした。

 少女は視線を向けた先に、同じくらいの年頃の少年が地面に尻もちをついているのが見えた。


「いった……。急に大きな声を出さないでくれ」


「ご、ごめんなさい! 急に声を掛けられたからびっくりしちゃって」


 少女は恐る恐る少年に歩み寄る。

 少年は腰のあたりをさすりながら苦痛の声を漏らしていた。


「君は誰? こんなところで何してるの?」


「いや、俺にもよく分からないんだ。気が付いたらここに居て」

 

「立てる?」


 少女は少年へと手を伸ばす。先ほどまで怪我を抑えていたことを忘れており、手のひらに血が付いたまま少年の手を握ってしまった。


「あぁ、ありがとう。って、血? どこか怪我しているのか?」


「あ、ごめんなさい! さっき走ってるときに、ちょっと怪我しちゃって。そんなに大した傷じゃないから大丈夫」


 少年はポケットからハンカチを取り出し、血が流れている少女の腕に当てる。


「そうは言っても、そのままにはしておけないだろう。ひとまずこれを」


「ありがとう。君、優しいんだね」


 少女は少年からハンカチを受け取るとそのまま傷口を抑える。


「君は怪我とかしてない?」

 

「さっき尻もち着いたおかげで尻が少し痛いくらいかな」


「あら、それはごめんなさい。ふふっ」


 二人は他愛のない掛け合いをしていたが、少女の態度が急変する。


「まずい、もう追ってきた。ここは危険だから早く逃げましょ!」


「危険? 熊か猪にでも追われているのか?」


「何言ってるの、よ! それに一匹や二匹じゃない、群れに襲われてるの!」


 少年は少女の言っていることが分からないという表情を浮かべる。


「追いつかれる前に早く逃げないと! 君も走って!」


 少女は急いでハンカチをポケットに入れると、少年の手を取って走り出す。

 少年が驚いたのはその速さだった。木々の間を風が通り抜けるように少女は走った。そして少女に手を握られている少年もまた、風になったように体が軽い。


「なんだこの速さは!? いったい何がどうなって……」


 かつて生身では感じたことが無い速さで周囲の景色が過ぎ去っていく。


「やっぱりさっきのところで迎え撃った方が良かったかな。でも、誰かを守りながら戦うのは……」


 少女は走りながら独り言を呟いている。


「そうだ! あなたは何のソフィアを持ってるの?」


「ソフィア? なんだそれは?」


「あなた私をからかってるの? ソフィアも持たずにこの森に入ったってわけじゃないでしょ?」


 風に声がかき消されないように必死で喋る二人。やがて先ほどと同じように少し開けたところに出た。


「よし、ここなら」


 少女は辺りを見回し、準備運動を始める。


「ねぇあなた、ソフィア持ってるんでしょ? 何の魔法が使えるの?」


「さっきも聞いたがそのソフィアと言うのは何だ? それに魔法? 何の話をしているのか説明してくれ」


「あなたまだそんなこと言うつもり? 魔物が追ってきてるって言ったじゃない。二人で戦えば少しでも勝てる可能性が増えるでしょ? お願い、協力して?」


 少女は真剣な眼差しで少年を見る。

 少年は少女が冗談を言っているようには見えず、だからこそ余計に困惑した。


「協力も何も、俺には君が言っていることが分からないんだ。ソフィア? 魔物? 何かのゲームの話か?」


「げぇむ? 私が言ってるのは……」


 話を遮るように木々の間から何かが飛んできた。それは少女の頭上を後方からかすめるように飛来すると、一緒に居た少年の額を貫いた。

 少年は額から大量の血を流し、その場に崩れ落ちる。


「さっきからお前何べちゃくちゃ喋ってんだよ! 獲物が逃げなきゃ狩りは楽しくないだろぉ!?」


 木々の間の暗闇から黒いローブを着た男が現れ、周囲には黒いオオカミのような群れを従えている。


「ひどい……。あなた、なんてことするの!?」


「はぁ!? なんでお前が怒ってんだよ!! 俺がどれだけここで待ってたと思ってんだ!! やっと来たと思ったらべちゃくちゃ喋りやがって。お前は狩られるだけのただの獲物だろうがよぉ!!!」


「……いったい何が目的なの? あなたは誰? どうしてこんな酷いことするの!?」


「あー、ごちゃごちゃうるせぇな! お前はただ逃げ回って俺に殺されてればいいんだよ!」


 先ほどまで一緒に走っていた少年はもう動かなくなっている。少女は巻き込んでしまった少年への申し訳なさと、自身を取り囲む魔物への恐怖で体が震えていた。


「俺は血を見るのが最高に好きなんだ。さぁ、もっとその顔を苦痛で歪ませてくれよおおお!!」


 その雄叫びのような声と共に魔物が一斉に飛び掛かる。少女は魔物の群れを迎え撃ちながら少しずつ後退する。


「……ごめんなさい」


 少女は、今はもう動かない少年に向かってそう呟くと、魔物に抵抗しながら森の奥へと姿を消していった。


「そうだ、それでいい。逃げて逃げて逃げ回って、それが何の意味もないことを知って絶望した時、俺がその命を刈り取ってやるよおおお!!」


 狂気に歪む男は愉悦に浸るように辺りを見回すと、視界の一端に転がっている少年の姿が映る。


「大体こいつは何だったんだ? こいつのせいでせっかくのお楽しみが台無しだ。……まぁいいか。さぁ、次はどんな表情を見せてくれるのかなぁ。ひひっ」


 男は少女を追うようにゆっくりと森の奥へと消えていく。

 やがて朝日が差し込む頃、森には静けさが戻っていた。それは、この森から命あるものが消えたことを物語っているようだった。

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