第7話 死神の目覚め

 その日、メイリアは夕方になっても帰宅してこなかった。

 燃える陽が西の山間へと顔を隠し、肌寒い風が紫色の空に吹き渡る時刻。みっつの青白い月が大地を銀色に照らし、星の光がまたたくころになってもまだ、ホーランド家の自慢の長女が連絡もなく家へ戻ってこないことなど初めてのことだった。

 エバンスは村の家々を駆けずり回って娘の行方を尋ねてまわった。が、どの家庭でも首を横に振られるばかりだった。

 リズも気が気ではなかったものの、子供たちの面倒を見なければならなかったため、居ても立っても居られない心境のまま自宅のテーブルを両手のひらを組んで待機していた。

 いままでこんなことはなかった。門限は必ず守る娘だったし、よしんばなんらかの事情で帰宅時間が遅くなるときも事前に一報を入れてくれた。なんらかの事件に巻き込まれたのか。まさか魔獣に襲われでもしていやしないだろうか。不吉な予感ばかりがリズの脳裏をよぎっていく。

 子供たちに食事を取らせたあと、時間が過ぎるのを待つばかりのリズの耳に、玄関のドアをノックする軽い音が響いた。エバンスもメイリアも、いつもノックなどしないで家に入ってくる。リズは急ぎ足で玄関へ駆け寄り、ドアを開いた。

 玄関先に、メイリアと同い年くらいの少年が佇んでいた。平民服に身を包んで、ブラウンの短髪を清潔に整えた、目立たない顔立ちのその男の子は、血相を変えて玄関のドアを開いたリズの姿を見るなり、かしこまった様子で挨拶をしてきた。

「こ、こんばんは、メイリアちゃんのお母さんですか。オレ、イスキっていいます。じつは、彼女から手紙を預かってて……お父さんかお母さんに渡すように頼まれてたんです。本当は明日の朝に渡してほしいって頼まれていたんですけど、お父さんとお母さんが探してるっていう話が教会にまで伝わってきて、きっと心配してるんじゃないかと思って……」

 おずおずとした口調でそう述べながら、イスキ少年は丁寧に折りたたまれた封筒をリズに手渡してきた。

「あ、あなたは……」

 メイリアはどこにいるのか。教会で遊んでいるのか、イスキは居場所を知っているのか……などなど、たずねたいことは山のようにあったが、それらの言葉を飲み込んでリズは震える手で封筒を紐解いた。

 図書館で配布されているごわごわとしたあまり質のよくない紙に、丁寧な筆跡でこう書かれていた。


『パパとママへ。

 どうしてもしなければならないことがあるため、お別れをしなければならなくなりました。もう会えることはないと思いますので、どうか探さないでください。

 エミディオとトトラには、お姉ちゃんは遠いところで元気に勉強している、とお伝えください。

 今日までわたくしを大切に育ててくださり本当にありがとうございました。メイリアは幸せでした』


 リズの頭から血の気が引いていく嫌な感触がした。

 意味が、わからない……いや、内容そのものは、理解できる。家出だ。メイリアが、家出した。けれどどうして? 内容からして我が家に不満があるのではないらしいのだが。二度と会わないとはどういうことなのだ。しなければならないこととはなんだ。どうして8歳児がこんなきれいで難しい文字を書けるのか。

 軽いめまいを覚えながら、リズは木板の床にひざをついてイスキと視線の高さをあわせ、彼の両肩を掴んだ。

「なにこれ……なんなの、これ。ねえ、イスキくん、これはいったいどういう意味なの。メイリアはどこにいるの」

 リズが意識していたより、ずっと強い力で握りしめてしまったらしい。イスキが特徴のないその顔を痛々しげに歪めた。

「あ……ご、ごめんなさい」

「い、いえ……メイリアちゃん、恩人に謝りにいくっていってました。ずっと前にお世話になったひとだって」

「……恩人?」

「ハニィ・スカイハイツさまです。色欲の魔女の」

 その名前を耳にしたリズは氷の手で心臓を鷲掴みにされた感触に襲われた。

 ハニィ・スカイハイツ。色欲どスケベの魔女の名を冠する、この大陸における七大魔女の一角として有名な人物であった。彼女は錬金術に関して世界最強クラスの知識を携えており、あらゆる疾病や外傷を癒やす奇跡の薬を生成できるSランクの魔女である。が、同時に厄介な人格破綻者としても悪名を轟かせており、彼女はもっぱら、その奇跡の力を個人的な知識欲や性的な興味を満たすことのみに費やしているという。彼女のいたずらのせいで、何人の人生が捻じ曲げられることとなったか、数しれないという話を、チューリツ共和国出身のリズは耳にしたことがある。

「……ハ、ハニィ・スカイハイツ? 恩人って……意味が、わからな……あのかたは隣国のチューリツ共和国にいて、メイリアが彼女に会ったことなんて、会う機会なんて一度もあるはずが……」

 メイリアと色欲どスケベの魔女と、いったいなんの因果があるというのだ。わかるのは、話にきく伝説のエロ魔女とメイリアを引き合わせたら、愛する娘がどんな目にあわされるか知れたことではない、ということだ。

 木板の床にへたり込むリズの耳に、宵闇のなかから男性のよく通る声が馬の蹄とともに響いた。

「リズ。ダメだ、メイリアはどこの家にも……あれ、その少年は?」

 ポーチの明かりに照らされて、愛馬ツチケムリに跨ったエバンスが姿を現した。わりかし肉付きのいい彼の顔には、娘の安否を憂うあまりか、疲労の色が濃く浮かんでいた。

 リズは弾かれたように立ち上がると、

「エバンス。子供たちをお願い」

 といい捨てるなり、入れ替わりにツチケムリへと跨って銀色の月明かりが照らす夜の世界へと駆けだした。彼女の背中に引っ掛けたポーチのなかで、路銀と短剣ナイフの鞘とつかが揺れ動いてぶつかりあう音が遠ざかっていった。


 ──────


『どなたもどうかおはいりください。けっしてご遠慮えんりょはいりません。ことにナイスバディなかたや処女しょじょ童貞どうていのかたは大歓迎だいかんげいいたします。お客様きゃくさまがた、ここで武器ぶき巻物スクロール魔法石まほうせきなどをおいていってください》

 エロイカの森の入り口に立てかけられたその看板に目を向けたメイリアは、ここはなにも変わっていないな、と黒い瞳を細めた。

 メイリアの計算では、トゥースがハニィ・スカイハイツの師事を終えてからおよそ10年ほどが経過している。つまり時間軸で考えると、メイリアは10年ぶりに師匠と再会することとなるのだった。

 やや肌寒い風が吹き渡る秋の空は果てがないように錯覚するほど青く、小さなちぎれた雲がほんわかと浮かんでいる。大地の草花はいよいよ実りのときを迎えており、森のなかにはそこはかとなく、熟した果実の甘い香りが漂っている気がした。広葉樹の葉は季節の変化を察して鮮やかな黄色へと衣替えを始めており、上を見れば赤や紫に色づいた葉と黄色く色づいた葉が重なりあって、太陽の光をところどころで遮っていた。秋の木々の合間から覗く空の色はどこか寂しげに見えた。

 厚着をしてきてよかったな、とメイリアは思う。木綿のシャツとロングスカート、そのうえから外套を羽織った彼女は、路銀として持ってきたお小遣いをすべて運賃代わりに助手席へ置いてから地面へと降り立った。ここまで連れてきてもらったモブントという男性には、アルトコロニーからこの森まで馬車で送ってもらう過程で10日ほどお世話になった。

「なあ、メイリアちゃん。本当におまえさんをここへ置いていっていいのかい」

 森のなかから響いてくるフクロウの鳴き声に耳を澄ませながら、モブントがたずねてきた。

「はい。ここまでありがとうございました」

「……いったい、ここになんのようだい。お嬢さんは知ってるかわからんが、ここはだなぁ」

「存じております。お気遣い痛み入ります」

 メイリアは軽く頭を下げて行商人の男に感謝の意を示した。

 この男性がハニィ・スカイハイツの悪評を懸念しているであろうことは容易に想像ができた。なにしろ、これからメイリアが会おうとしているエロ魔女は、こと性的な興味を満たすためであればあらゆる手段をいとわず、夜の生活を盛り上げるための薬やら、人体に悪影響のない範囲で性感をいじるための寄生虫などを開発しては、自らや依頼人の身体で試しているのだから。トゥースが彼女の毒牙にかからなかったのは、彼女の体中に残った古傷や、使い物にならなくなった生殖器がエロ魔女の興を削いだからにほかならない。さもなければ、おそらくトゥースもそれなりに身体を開発されていただろう。もっとも、ハニィ・スカイハイツは互いの合意のないエッチをたいそうに嫌うらしいので、トゥースが本気で拒んだらなにもされなかっただろうが。

 それでも色欲どスケベの魔女たるハニィの助力を請いにくるものが後を絶たないのは、それだけハニィの腕が確かだという証左でもあった。

「なあ、よかったら、森の途中まででよければ、馬車で送ってやろうか」

「……お気遣いは大変ありがたいですが、あなたはこれ以上、色欲どスケベの魔女にかかわらないほうがいいと思います。故郷で、あなたの帰りを待っている婚約者さんがいらっしゃるのでしょう?」

「いや、そうだけどよ」

「ハニィ・スカイハイツさまの食指に引っかかったら大変なことになりますよ。なかには肛門で太根を噛みちぎれる体質にされてしまった男性もいるとのことですし。そんな身体になってしまったら、婚約者さんに顔向けできないのではありませんか」

 モブントは白紙のごとき顔面から血の気を引かせたものの、

「……い、いや。オレとしちゃ、こんなところに女の子をひとりで置き去りにするほうが、ソノタにあわせる顔がなくなっちまう。ほら、乗りな……っつっても、スカイハイツさまの屋敷まではさすがにムリだから、途中までだぞ」

 運転席に座りながら黒髪の少女へと手を伸ばしてくる男性を見上げながら、メイリアは胸に温かな気持ちが満ちていくのを感じていた。第一印象こそ杓子定規で面倒事を嫌う男性だと感じていたが、仲良くなってみれば義理に厚い面もあるこの男性に対して、いつのまにかメイリアは好感を持っていた。

 だからこそ、彼に降りかかる可能性のあるあらゆる不幸を排除してあげたかった。


《モブント。わたくしを放って次の目的地へ向かえ》


「わかった。元気でな、短いあいだだが楽しかったよ」

 小さな呪術士の命令を受けた行商人は、それ以上は食い下がることなく馬を操って帰路を辿っていった。ほろ馬車が見えなくなるまで遠ざかるのを確認してから、メイリアはエロイカの森へと足を踏み出した。

 近所のアルルの森があらゆる植物たちが生存競争に勝ち残るべく生い茂っている『混沌』だとするなら、このエロイカの森は魔女の管理が行き届いた『調和』と評されるだろうか。

 森を真っ直ぐに突っ切るようにして魔女の屋敷へと続いている小道から少し視線を外してみれば、金色の木漏れ日を浴びて秋風に身体を揺らす色とりどりの背の低い草花たちが視界いっぱいに広がり、森全体が大きな衣装を身にまとっているかのような幻想的な風景を作っていた。これらの花や草はみな錬金術のための素材となるそうで、魔女の子供たちによって栽培、管理されているのだという。むやみに踏んだりしないように──と、あのころのトゥースは注意されたものだった。

 見上げれば、赤と黄色の葉で空を覆った広葉樹のこずえの隙間には透き通るような空が顔を覗かせており、東から西へと伝播するように葉が揺れ動くさまから風に流れすら目に見えるようだった。メイリアの鼻をくすぐるほのかな甘い香りは、木々の枝から垂れ下がるシダが分泌している蜜液から発せられているもので、地表に落ち続けたその蜜液が数年かけて卵状に固まり、貴重な調味料になるのだという話だ。魔女の娘であるララバイが、その甘味をたいそう気に入っていたのをメイリアは覚えている。

 魔女の屋敷への道半ばにして、メイリアの胸に小さな懸念が湧き上がる。自分のような他所者よそものが彼女を訪ねてくる場合、たいていまず魔女の子供のだれかと接触することになる。色欲どスケベの魔女の人間性や知名度が原因で、この森ではときおり彼女を討ち取ろうという功名心に駆られた人間による襲撃があるのだ。この森の入り口に『武器を置いてこい』という警告があるのも、そのリスク排除のためだったりする。そのため、依頼人がいきなり魔女本人と面会できることはなく、子供たちと面接をしてその人物が危険がないか、ウソをついていないかなどを見定められることになる。

 その面接官をどの子供が担当するか──というのが、他所者にとってひとつの関門となるのだった。心優しいスライム娘のララバイであればどんなクライアントであっても半ば顔パスで通されるが、ひとをからかうのが大好きなバンシー少女のピーカブゥであれば、メイリアが元死神だと知られたら下手をすれば攻撃さえされかねない。なかには、ここは子供がきてはいけない場所ですよ、と律儀かつ杓子定規にメイリアを追い返そうとするであろう少年も──。

「こんにちは。この森になにかごようですか、お嬢さん。ここは子供がきてはいけない場所ですよ」

 メイリアの背後から、静かで落ち着いた子供の声が響いた。

 肝を潰されてメイリアが振り返ると、そこには白と黒を基調とした清潔なメイド服を身にまとった少年が森の風景に溶け込むようにして佇んでいた。外見の年齢は12歳くらいだろうか。陽光を浴びて美しく輝く短めの銀髪には、メイドの特徴であるカチューシャをつけてはいないようだ。細く鋭い紅色の瞳、高く整った鼻、そして引き締まった唇は彼に凛々しい印象を与える一方で、冷徹な表情をたたえているせいでどこか酷薄そうな雰囲気を漂わせてもいる。背筋を伸ばして立つ彼のスカートの内側から覗いているふさふさとした毛並みの銀色の尻尾は、オオガミのそれを彷彿とさせた。

 中性的な顔立ちとその衣服のせいで女性と間違えられがちだが、メイリアは彼が男性であることを知っていた。容姿こそまだ思春期に入ったばかりの少年であるが、中身は数十年の歳月を重ねた人外の怪物であることも。魔女の息子のひとり、クレードル。なにより義理を重んじる性格で、優秀かつ有能な彼は魔女の身の回りの世話役の仕事をそつなくこなすものの、いまいち融通が利かない相手だという印象をメイリアは彼に対して覚えている。「子供は帰れ」という言葉も彼なりの思いやりであると同時に、滅多なことではその意見を曲げないであろうことも予想できた。

 面接官として最良の相手ではないものの、最悪というわけでもない──というのがメイリアの印象だった。

 もしも眼の前の無力そうな少女が、かつてトゥースと呼ばれた不肖の弟子の生まれ変わりであると彼に知られたら、どんな反応を返すだろうか。時間的に考えれば、トゥースがクゴズミ街で大量虐殺というテロ行為をやらかしてから10年が経過している。つまり、すでにトゥースは彼の母親のメンツを潰したうえで世界のあちこちを放浪している時期なのだ。

 裏切り者の恩知らずをこの少年が許す姿を、メイリアには想像できなかった。

 しかし、かといって適当なウソをついてはぐらかすような不誠実なマネなど、いまのメイリアには考えるべくもなかった。クソ真面目同士、本音をぶつけあうほかない。

 メイリアは踏み固められた土道に片膝をつき、腹の上で両手の指を重ねてみせた。

「お久しぶりです、クレードルさま。わたくしはトゥースです。こんな姿になってしまいましたが、かつてハニィさまからご師事をいただいた呪術士のトゥースです」

 メイド服の少年は怪訝そうに眉をひそめた。

「トゥース……? ぼくが知っているかぎり、トゥースという人物にはひとりしか覚えがありません。けれど、あなたの臭いはそれとはまったく異なります。どれほど体臭を偽ろうとも、姿形を変えようとも、処女か非処女かの臭いばかりは偽れません。それをぼくが間違えるはずがない。絶対の自信があります」

 そういえば──とメイリアは思い出す。この少年は武器や敵意の有無、純潔か否かまでを、その対象の体臭から判断できるのだった。なんでも、とてつもなく鼻が効くとの話らしい。それは、神狼と魔女の間の子である彼の特異体質によるものとのことだが──。

 そうか、いまの自分は処女なのか、とメイリアはふと胸を締めつけられる感傷に浸った。

「ハニィさまとおなじく引きずり転生をいたしました。いまのわたくしの名はメイリア・ホーランドと申します。これが、わたくしの前世がトゥースであったという証拠になりますでしょうか」

 そういうとメイリアは外套の裾をめくり上げ、右手のアザを外気にさらけ出した。『023』という忌まわしい数字がべったりと張り付いた少女の肌を、クレードルはその紅い瞳を細めて探るように眺めてから、やがて小さくため息を吐き出した。

「なるほど、転生をしたなら肉体はまったくの別人になっているのだから体臭が変化していても不思議ではありませんね。ところで、いまさらどの面を下げてここへきたんですか。きみがしでかしたことで、母さんの顔にどれほど泥を塗ったか理解していないわけじゃないですよね。10年前の魔女のお茶会で配布された報告書には、ぼくも目を通しました。ぼくは純血の人間である母さんとは違って、きみがテロで何百人、何千人をその手にかけようとどうでもいいと思っています。けれど『子供と妊婦だけは殺すな』という母さんの忠告を蔑ろにしたのは感心しませんね。申し開きがあればききますが、慎重に言葉を選んでください。妹のピーカブゥほどではありませんが、ぼくもきみに対してはそれなりに怒っていますので。なぜ、あんなマネを?」

 いつのまにかそばへと寄ってきていたクレードルの細い指が、メイリアののどをそっと撫でてくる。慈しみを帯びた仕草であるが、彼の尖った爪がまばたきをする暇もなく彼女の首を断ち切る力があることを、メイリアは知っていた。ここで返答を誤れば、自分の首が飛ぶであろうことも。トゥースが人並み外れた体力と俊敏性を身につけられたのも、この怪物の少年から手ほどきを受けたおかげなのだから。

 自分の生命が髪一本ほどの細い糸で支えられていることを意識しながら、それでもいまのメイリアに死の恐怖はなかった。

「…………。殺すつもりはありませんでした。本当に、そんなつもりはありませんでした。けれど、あの女の姿を見たとたん、あの女の言葉を耳にした瞬間、世界が赤くなって……」


 ──────

 

 トゥースが故郷のクゴズミ街へとたどり着いたのは、ハニィから免許皆伝のお墨付きをもらい、エロイカの森を出立してから1ヶ月後のことであった。

 このときのために、トゥースは呪術士としてあらゆる研鑽を積んできた。人間として最底辺の奴隷という立場から這い上がるために。自分が舐めてきた辛酸を、奴隷主人たちにも味わわせるために。

 子供と妊婦だけは絶対に殺すな。

 憎悪と怨恨だけの存在となっていたトゥースは、それでも畏敬する師匠の言葉だけは必ず守ろうと思っていた。奴隷主人■■■■・■■■■■。自在に使えるようになった呪術を用いてあのクソ野郎を散々にいたぶり、尊厳を破壊して、生まれてきたことを後悔させるつもりではあった。

 が、あの男を奴隷として扱き使ってやるつもりであったものの、数年ほどで解放してやる予定だったのだ。

 ひとを殺したら後戻りできなくなる──という師匠の忠告を真摯に受け止めていたトゥースは、この復讐が終わったら、だれも自分を知らないところで静かに余生を送りたいと思いながら、死んだ目をして馬車馬のごとく働く奴隷たちと、下品な笑い声をあげながら昼間からテラスで酒を飲む男たちを尻目に街道を歩いていった。埃っぽく、緑の少ない枯れた街。荒れ地を縫い合わせるように敷かれた道の外側にはところどころに穴があいていて、そこからは腐った雑草の臭いが漂い、そこへ顔を突っ込んだ痩せ細った家畜たちが草を食んでいる。トゥースは、要件を済ませたら一秒でも早くこの街から立ち去りたいと思っていた。

 目的地である奴隷主人の家は郊外にあった。見覚えのある建築物が視界に映ったあたりで、トゥースの耳に女性たちが歓談する華やかな声が響いてきた。聞き覚えのある、思い出したくもない女の声。女性たちは奴隷主人の家の庭でたむろしているらしかった。

 庭の様子を遠目に眺めると、そこには数人の主婦に囲まれた、かつてトゥースに嗜虐的な仕打ちをした奴隷主人の愛人がいた。彼女らは昼下がりの庭で小洒落た椅子に腰を掛けながら談話し──愛人の膨れた腹を愛でていたのである。

 カールのかかったブラウンの髪を肩で切りそろえた、爬虫類を彷彿とさせる顔立ちの愛人は、うっとりとした表情で自らの腹部を撫でながらこううそぶいた──「この子は世界の宝よ」と。

 愛人のそんな姿を見て、言葉を耳にしたトゥースの全身に嫌な感触の熱が滲み出し、肌があわ立った。

 この女はなにをいっているんだ。

 赤ちゃんが世界の宝だというなら、どうしてわたくしからその宝物を手に入れる機会を永遠に奪ったりしたんだ。

 それともこいつは、奴隷の赤ちゃんなど世界の宝でもなんでもないというつもりか?

 ──そんな強すぎる衝動にめまいを起こす彼女の心に、初めて『あいつ』の声が響いたのだ。

 

       ──どうしてわたくしはこんなに惨めなのに、どうしてあの女はこんなに幸せそうなの? こんなことが許されていいの?

       ──こいつを放っておいたら、また別の奴隷がわたくしとおなじ目にあわされるかもしれないわよ。どうせこんなやつの性根なんて、多少痛めつけたところで変わりはしない。こんなやつ、永久に反省なんてしない。

       ──ほら、この女の胸に灯る光を見てごらんなさいよ。なんておぞましくて救いがたい色なのかしらね。あの男とそっくりな、身の毛もよだつ気色の悪い色。こんなやつが産み落とす生命だって、きっとろくなものじゃないわ。

       ──わたくしには、こいつを殺す権利がある。だってこいつはわたくしの人生をめちゃめちゃにしたんだもの。尊厳を踏みにじったんだもの。幸福を奪ったのだもの。この害虫を殺してスッキリしましょうよ。

       ──わたくしは、こいつを殺すために生まれてきたんだから。

 

 それらの声がトゥースの思考をどす黒く染めあげて、彼女を殺意だけの存在へと塗り替えた。

 トゥースはなにも考えないまま奴隷主人の家の庭へと侵入するなり、呑気にティーカップを口につけていた愛人の顔面を鷲掴みにした。茶飲み友達の小さな悲鳴が庭の空気を切り裂き、周囲にいた女性陣が後ずさりをするなか、トゥースは掴んだ愛人の顔をそのまま地面へと叩きつけ、地面に倒れた愛人の胸を何度も何度も踏みつけた。トゥースが体重を乗せるたびに「ぎはっ。ぶえっ」と人間らしくもないうめき声があがる。ボロ切れのように地面に寝そべる愛人は、自分を痛めつけている相手がかつて虐待した奴隷であることを知ってか知らずか、胸の前で震える手を合わせて懇願してきた。

「……お願い。おなかに、赤ちゃんがいるの。生命だけは」

 その一言が、トゥースの最後の忍耐の紐をブッツリと引きちぎった。

「被害者ぶるんじゃありません、被害者ぶらないでくださいなんで被害者ぶるんですか。どうしてわたくしはこんなに惨めなのに、どうしてあなたはそんなに幸せそうなんですか。死んでください」

 怨嗟の言葉を吐き捨てて、トゥースは愛人の顔を鷲掴みにしたままの右手の指に全力で力を込めた。指の骨と関節が軋む音が手のひらから腕へと伝わるのと同時に、爪と指先が愛人の顔の皮膚にめり込んでいき、女のまぶたと鼻の穴から鮮血が垂れ落ちていく。

「た……たひゅけ……」

 愛人のひしゃげた唇から漏れたその言葉は、頭蓋骨が粉砕するメシャゴキという音にかき消された。愛人の顔は陥没し、眼窩は潰れて眼球が飛び出し、顔の穴という穴から血や汁を垂れ流しながら、愛人は脳幹を粉砕されるまでのほんの一瞬で死へと至る痛みを味わうことになった。踏み潰されたカボチャのごとく愛人の頭部が砕け散るなか、トゥースは肩で息をしながら目の前のクソ女を殺した高揚と快感が身体中に駆け巡っていくのを感じていた。こんな気持ちよさがこの世にあるのかとすら思った。

 そんな高揚は、5秒も持たなかった。

 まずは血の匂いだった。嗅覚から忍び込んでくる気持ちの悪い生臭さによって唐突に吐き気を催した。そして視線を下へと降ろしていき、そのとき初めて、愛人の膨らんだ腹部に宿る『もうひとつの光』に気づいた。

 それは、この世界の美を詰め込んだような、不純物をなにひとつ内包していない、神聖な、あまりにも純粋な光だった。

 トゥースがそんな光を見たのは初めてだった。醜悪な現実にまみれたトゥースにとってそれはあまりにも眩しくて、直視することすら躊躇ためらわれるほど神々しいものだった。

 トゥースは、その光から目が離せなかった。まったく穢れていない生命。この世の理不尽を知らず、ひとの業に染まっていない清らかな存在──そんなこの世界の宝に、トゥースは心を奪われていた。魔女さまから授けていただいた生命の光を見極める力がトゥースに垣間見せる、美の結晶がそこにあった。こんなに美しいものが、この世界にあったなんて。

 その光が、静かに、ゆっくりと──。


 ──────


「……消えていったんです。わたくしの目の前で、生命の光が、静かに、ゆっくりと。自分のせいで、儚くて何者にも代えがたい美しい光が、小さくなって、消えていったんです。そのときの光景を、いまも、夢に見るんです」

 過去の罪の半分を語り終えたメイリアの声に抑揚はなく、視線は乾いた地面に落とされている。目の前の神狼の少年がどんな表情で自分を見つめているのかを知るのが怖かった。

「ハニィさまが正しかった。あの街へはいくべきではなかったんです。わたくしはどうしようもなく愚かで救いようのないクズなんだと、その消えゆく光を見つめながら、心底から思い知りました」

 そのあとのことは、思い出したくもない。硬質な鎧の足音とともにトゥースを取り囲んだ衛兵たちが、口々に彼女を罵ってきたのだ。「奴隷の分際で、飼い主に牙を向いたのか」「クソムシが。殺せ、捕らえるまでもない」「妊婦を手にかけるクズめ。地獄へ堕ちろ」と。

 その叫びが、不安定だった彼女の精神状態にとどめを刺した。

 衛兵たちとトゥースの、害虫を見るような互いの視線が交錯した。ふたたび、あの声が頭に鳴り響いた。


       ──こいつら、なんなのかしらね? わたくしの気持ちなど、なにも知らないくせに。

       ──わたくしとおなじ立場の人間がどれだけ踏みにじられ、どれほど苦しめられているか、少し考えればわかるはずなのに。まるで理解しようともしない。同情してくれない。

       ──どうしてわたくしはこんなに惨めなのに、こいつらは大手を振って生きていられるのかしらね。

       ──堕としてしまいましょう。わたくしとおなじところまで……。


 衛兵たちの槍がトゥースへと突き刺さるよりも早く、おぞましい怨嗟とともに彼女の口から呪術が諳んじられたのだった──《子供と妊婦と奴隷以外の人間を殺して回れ》と。

 ──そんな過去の恥と悔恨のすべてを抑揚のない声で語り終えたメイリアは、ほんの少しだけ胸のつかえが下りた心地になった。もしかしたら、自分はだれかに懺悔をきいてもらいたかったのかもしれない、といまになって思う。

 メイド服の少年は眉ひとつ動かさずにかつての大量虐殺者を見つめていた。彼の細い指は彼女の首にかかったまま、力が強まりも弱まりもしない。ただ一言、こういった。

「トゥース……いえ、いまはメイリアでしたっけ。きみは自分が10年前、魔女裁判にかけられたことも知らないでしょう。この大陸の七大魔女が一同に介して、テロ行為を働いたきみの処遇を話しあったんです。粛清するか、放置するか。きみが生きていられたのは、母さんとそのご友人がきみの粛清に反対したからなんですよ。特に聖女シエルさまはきみの粛清にひとりで異を唱えられましたし、賢者ノアさまは当日のきみの行動を深掘りして調査なさり、結果として放置することに投票したそうです。彼女らに感謝するんですね」

「……。え、シエルさまとノアさまが? じゃあ、イスキくんがいってた、放っておいてよかったっていうのは……」

 クレードル少年が細い指をメイリアの首から外して小さくため息をつき、どこまでも冷徹な眼差しをメイリアへと向けたまま肩をすくめてみせた。

「きみのことですから、転生したあとにまでここへこようと思ったのは、母さんに謝りたいとかそんな理由じゃないですか。相手から拒絶される可能性も考慮せず、自分の気持ちのままに。ぼくにはきみの行動が無計画で幼稚にしか見えませんね」

「……返す言葉もありません」

「まあ、ケジメをつけようというその気構えは、ぼくも嫌いではありません。ともかく、母さんとの面会は許可します。そこから先は、ぼくの知ったことではありませんけれどね。あとは母さん次第です」

 そういうとクレードルはメイリアの横を通り過ぎて、可憐な花でいっぱいの小道へと踏み出していった。この道は、トゥースの師匠である魔女ハニィの屋敷へと続いている。

 銀髪の少年の背中を追いかけるメイリアは、彼の歩幅がやけに狭まっていることにすぐ気づいた。もしかして肉体年齢8歳のメイリアと歩調をあわせてくれているのだろうか。

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