第8話 たったひとつの冴えたやりかた

 空を覆い尽くすほどの大きさの広葉樹の根本をくり抜くようにして、その二階建ての屋敷は佇んでいた。

 エルフの住居を彷彿とさせるその建築物へと歩み寄ったメイリアを迎えてくれたのは、樹木を囲むようにして群生している青白い花が発する甘い芳香であった。巨木の幹には食用キノコが鈴なりに垂れ下がっており、よくみると傘に反射した陽光が虹色のきらめきを発散させていた。幻想的な森のなか、魔女の屋敷はその荘厳な外見もあいまって、まるでおとぎ話のなかに迷い込んでしまったかのような印象をメイリアに抱かせた。

 クレードルに付き従う形で玄関の扉をくぐると、薬草ハーブと鉱物を煮詰めた馴染みのある爽やかな匂いが鼻腔を通り抜けていった。小道の花壇にも咲いていたカボン草やベラドンナ等々のさまざまな種類の薬草や花々が、すり鉢や乳鉢でゴリゴリと根を砕かれて粉にされている香りだ。錬金術師やくがくはかせであるハニィ・スカイハイツは、それらの薬効成分を抽出してポーションや粉末薬、丸薬などを調合して、それをクライアントへ渡したり市販したり、あるいは自ら服用したりしている。玄関から入ってすぐの広間には、そんな魔女の作業場と生活空間がいっしょになったような空間が広がっていた。

 メイリアは応接間へと通された。応接間の壁際の棚には本が整然と並んでおり、石造りの暖炉には橙色の炎が揺らめいている。部屋の中央に鎮座するローテーブルを囲むようにして、アンティーク調のソファーが対面式に置かれている。

 メイリアがソファーに腰を掛けて両手の指を組んでいると、やがてドアの外から小さな足音が近づいてきた。が、木製のドアは開かれないまま、緊張に身体を固くするメイリアの耳に可憐な少女の声が響いた。

「トゥース? あなた、本当にトゥースなの?」

「……。はい」

「ほんっっとうにトゥースなの?」

「……は、はい。本当にトゥースです」

「本当にトゥースだったら、次の質問に答えられるはずよ。あたしがあなたに初めて名前をつけたときのセリフをいってみなさい」

「はい? ……え、ええっと、たしか。〝奴隷番号023というのかい? けったいな名だねぇ。ゼロ、トゥー、スリーか。いまからあんたの名前はトゥースだよ。いいかい、トゥースだ。わかったら返事をするんだ、トゥース〟……でしたっけ」

「ああ、トゥースだわ。久しぶり、元気してたぁ?」

 木製のドアが爽快に開き、満面の笑みを浮かべた黒衣の魔女ハニィ・スカイハイツが姿を現した。外見的には14歳くらいだろうが、彼女の実年齢はそろそろ300歳に差し掛かるはずだ。ストレートの金色の髪を腰まで伸ばし、透き通るほどに白い肌の持ち主で、ぱっちりと開かれた瞳は淡い翠色をしている。高めの鼻や薄い唇、細面の輪郭などはどこかメイド服の少年の面影があり、魔女というより妖精を思わせる可愛らしい少女だった。瞳には間違いなく知性の輝きが閃いているにもかかわらず、口元に張りついた締まりのないにやけた笑いが、その幻想性を台無しにしていた。無地の漆黒ワンピースを着こなした魔女の身長はクレードルよりやや高い。どこにでもありそうな革製の靴を履いているあたり、おしゃれには頓着がないのかもしれない。首からぶら下げた地味な金属ネックレスだけが、彼女が唯一身につけたアクセサリらしかった。

 魔女ハニィはかつての弟子の対面のソファーにどっかりと腰を降ろしつつ、こぶしを握りしめて視線を落としたままのメイリアへと、まるで旧知の友人に語りかけるような気さくな口調で語りかけてきた。

「クゥから話はきいたわよ、ずいぶんと可愛らしい姿になっちゃってまぁ。で、トゥース……じゃなかった、いまはメイリアだっけ。10年ぶりよねぇ、お互いにいろいろといいたいことがあるでしょうけど、まずはわだかまりをスッキリさせるために、あなたののどまで出かかっている言葉をいってちょうだいな」

 思い詰めた表情のまま俯いていたメイリアは、魔女ハニィとうまく視線をあわせられないまま、うまく舌を動かせずにいた。

「…………。あ、あ……その。な、なんとお詫びをすればいいのか、言葉がうまくみつからなくて……ハニィさまのご忠告に従い、あの街へいかなければ、あんなことには……」

「そうじゃないでしょ。〝申し訳ありませんでした〟って、たったそれだけでいいのよ」

「は、はい……ハニィさま。申し訳ありませんでした」

「うん、許す………………ヌヒヒヒヒ。よっしゃあああ、ようやくわだかまりを解消できたわ! いや、あなたの事情はお茶会で話題になったからだいたい知ってるけど、こうして謝りにきてくれたなら水に流しましょう」

 深刻な空気をまとっているメイリアとは裏腹に、ハニィはいきなりソファーから立ち上がるなりガッツポーズをとってみせた。メイリアが呆気にとられるなか、応接間のドアのそばで静かに佇んでいたクレードルが、かすかにため息をついてみせた。

「母さんは、きみがクゴズミ街で一騒動を起こして行方をくらませてから、しばらくきみのことを心配して気をもんでいたんですよ。ララもけっこう落ち込んでいたので、ぼくとしてもいろいろ思うところがあるんですが……まあ、母さんがいいなら、よしとします」

「……ご心配をおかけして申し訳ありませんでした。あの、ララバイさまは……」

「あの子? たぶん泉の底で昼寝でもしてるんじゃないかしら。そのうち帰ってくるだろうから、挨拶はそのときになさい。ところでトゥー……メイリア? あなたまで引きずり転生したとは驚いたわ。いつどこで、どんなふうに死んだのよ」

「……はい。ワルダー帝国のとある砦で、10年後に討手の剣にたおれるはずです」

「は? たおれるはずって、なに」

「そのことについて、相談させていただきたいことがあります」

 メイリアは居住まいを正しつつ、自分の身に降りかかった出来事をかいつまんで説明した。いまから10年後に死ぬトゥースが時間を越えてメイリアとして転生したこと。トゥースは死の間際に『疫病風』を撒き散らすため、決して死なせてはならないこと。本当は自分のケツは自分で拭くつもりだったが、恥ずかしながら呪力が弱まっているためトゥースの生命を守るために助力が欲しいこと。トゥースは自殺も考慮しているため、彼女に生きる希望を与えなければならないことなど、メイリアはなるべく作為を交えずありのままに話した。

 始めは鼻歌交じりに余裕綽々でハーブティを飲んでいたハニィ・スカイハイツだったが、『疫病風』の発動条件と感染システム、致死率、その凶悪性について話が及ぶにつれて眉をひそめ、頭を抱えてしまった。

「バカなの……? どうしてそんな非人道的で最低最悪の呪術を開発して、あまつさえ自分の身体にかけられるの? どれだけ憎んでたら、そんなありえないマネができんのよ……」

「……。あのころのわたくしはこの世界が心底から大嫌いで、いっそなくなってしまえばいいとさえ思っておりました。どいつもこいつも殺してやりたいというどす黒い気持ちが、あの呪術の付与を成功させたんです」

「いえ、そっちの話じゃなくって……はあ、しかし、とんでもない拡大自殺もあったもんだわ。無関係の人間を自分の不幸に巻き込んで地獄へ引きずり落としていくんだから。まさにジョーカーね」

「? ジョーカー……ですか」

「そ。あたしの前世の世界にそんな言葉があったの。無敵の人ともいうんだけど。失うもののない人間がヤケクソになってたくさんのひとを巻き添えにして社会に牙を剥くっていうことがあったの。犯人はたいてい子供や障害者や女性を狙ってて、場所も学校とか病院とかだったかしらねぇ。結局、どこの世界でも人間の心は似たようなものってことかしら。ともかく」

 ハニィは大仰にソファーにもたれかかり、天井を仰ぎ見ながら可憐な声でいった。

「『疫病風』をどうにかしないことには、この大陸はおしまいね。いろいろ考えることは多いけど、まずはウイルス流出にそなえて『疫病風』のワクチンを大陸のひとたちに摂取させないと。製造するのに2~3年、ワクチン普及にも2年ほどかかるだろうから、タイムリミットの10年後までには間に合う……かな。ま、ウイルス流出は最悪の事態ってことでいったん置いといて。この状況における最善の解決策はなんでしょう? はい、メイリアさんどうぞ」

「……トゥースが生きているあいだに、彼女の肉体から『疫病風』を解呪することです」

「正解。じゃあ次、どうすれば『疫病風』を解呪できる?」

「トゥースとおなじか、上回る力を持つ法術士の力を借りれば、呪術を無力化できるはずです」

「いいわね。ほかにも、パッと思いつくだけでもうひとつあるわ。それは強欲がっぽがぽの魔女メルフェンから遺産アーティファクトを借りること。この大陸のみならず、世界のあちこちを渡り歩いて宝探しをしている彼女なら、トゥースの呪力に匹敵しうる法力を発現できる超古代文明のオーバーテクノロジーとか、あるいはそれに準ずるようなアイテムを所持している可能性が、まあ、ゼロではないってところね。ただ、法術士についても遺産アーティファクトについても可能性が極めて低いってことが難点なのよねぇ。なにしろ死神トゥースの呪力を打ち破るのは聖女シエルでも五分五分だったっていう話だし、ましてやそんな高みにまで到達した法術士自体、シエル以降この大陸には存在しないし。あと10年で都合よく聖女が現れるなんて確率、Qカップのおっぱいの持ち主を見つけるくらい低いしねぇ。あと、解呪専用の遺産アーティファクトなんてものをメルフェンが発掘して所有している可能性もほぼないと思うわ。なんだかんだで彼女、コレクターらしく発掘品を自慢気に見せびらかすのが趣味なんだけど、そんな遺産アーティファクトを発掘したなんて話はとんと耳に入ってこないのよね」

 ハニィが金髪をかきあげつつカップのハーブティをすべて飲み干したタイミングで、それまで押し黙ってドアのそばで佇んでいたクレードルがおかわりを注ぎつつ、口を割って入ってきた。

「対象を永久に封印してしまう遺産アーティファクトなら所有している可能性がありますね。むかし、魔王と呼ばれる存在がこの世界に厄災をもたらしていたときに、高名な技術者がひとつの箱を作り上げたとか。どんな生物であってもそのなかへと閉じ込め、半永久的に封印してしまう遺産アーティファクトの伝説なら耳にしたことがあります。もっとも、そんなとんでもない代物を強欲がっぽがぽの魔女さまが所有しているかどうかは怪しいですし、ましてや母さんに貸してくださるかは疑問ですが」

「この大陸の危機だって打ち明ければ貸してくれるでしょ。たしかにあたしと彼女はあんまり仲がよくないけどさ、この際そんなこと気にしてられないし」

「ぼくは気にしますけれどね。遺産アーティファクトの貸与をするに当たり、トゥースの拡大自殺について説明しないわけにはいきませんし、そうなると魔女裁判のときのように〝どうしてこんな怪物を育てた〟と、母さんの責任を追求されるのは明白です。ヘタをすれば母さんも責任を取らされて、この大陸を追われてしまうかもしれないじゃないですか」

「しかたないでしょ、保身を考えてる場合じゃないし」

「ほかにも」

 クレードルの殺気にも近い鋭利な眼差しが、メイリアを突き刺してくる。

「きみはどうして『疫病風』の発動を食い止めたいんですか? この大陸に不幸を撒き散らしたくて、そんなおぞましい呪術を開発して、付与に成功したんでしょう。どういった事情から心変わりしたんですか。捨て鉢で世界をメチャクチャにしようとしておいて、今度はそれを阻止しようと手のひらを返すなんて」

「……。それは……」

「そもそもですね。そんなとんでもない無差別殺人を巻き起こす呪術を発動させたら、ぼくらにまで被害が及ぶとは考えなかったんですか。母さんやララまで巻き添えにして……恩知らずにもほどがあるとは思いませんか」

「そこでストップ、クゥ。その償いを取るために、この子は一番手軽で確実な解決法をこれから提案しようとしてるんだから。そうよね、メイリア」

 メイリアの胸中を見透かすような師匠の言葉が、メイリアに奇妙な安らぎを与えてくれた。弟子が責任を取りやすいように、水を向けてくれたのだと察した。

「……トゥースは、死なせずにおくだけで十分です。彼女の肉体は、使いすぎた呪術の穢れの副作用により、切っても焼いても死なない無力なイモムシへと変態メタモルフォーゼして永遠に生きながらえることとなりますので。死にさえしなければ、『疫病風』は決して発動しません」

 その一言が、クレードルののどから毒づきを奪ったらしい。彼は「……そうですか」とだけ述べて、ふたりのティーカップを下げてキッチンへと引っ込んでいった。

 魔女ハニィは彼女らしくもなく鹿爪らしい面持ちで弟子を見つめつつ、肩をすくめてみせた。

「あるいはトゥースを生かしたまま捕獲して、四方にまったく陸のない、呪術が確実に届かないほどの大海原のど真ん中で生命を奪うっていう手段もあるにはあるけど、確実性が低すぎて賭けとしては危険すぎるのよねぇ、あなた勘も耳もいいし……あとひとつだけ、万事うまくいく思いつきがないことはないんだけど、成功する可能性があまりに低くてねぇ、提案すると虚しくなりそうでさ。だから、もっとも確実な、トゥースがイモムシになって永久に死なずにいてもらうっていう手を取らざるを得ないの」

「……覚悟のうえで参りました。わたくしの罪を償えるのでしたら、なんでもいたします」

「わかった。実はね、トゥースを死から守るのは、それほど難しいことじゃないの。要は、死神討伐隊をトゥースに近づけなければいいんでしょ? それなら……まあ、『疫病風』のことは話さなくちゃならないからあたしはいろいろ泥を被ることになるけど、傲慢メスガキの魔女ステラリスならワルダー帝国の上層部にも顔が利くから死神討伐隊の派遣を白紙にできるだろうし、万一それがうまくいかなくても、あたしの子供たちを討伐隊に紛れ込ませればトゥースの暗殺を99%阻止できる。あとは……えっと、イスキくんだっけ? 彼をトゥースと接触して恋心を打ち明けさせて自殺を食い止めれば万事解決よ……あなた以外はね」

 ハニィが、その小顔を乗り出してメイリアの瞳を覗き込んできつつ言葉を続けた。ピンクの舌の先が下唇を舐める。いつも底の知れない笑みを浮かべているハニィだが、いまばかりは珍しく表情が重い。

「最後の確認よ。〝お願いします〟と一言いってくれれば、あたしもほぞを固めるわ。すぐにステラと連絡を取り、いまの手はずを実行します。ただしおそらくその瞬間に、未来でのトゥースの死はなかったことになり、未来が書き換わる。つまり、あなたはメイリアに転生できなくなり、永遠にイモムシになる……いいのね?」

 おちゃらけた性格をしているものの、こと人間の生命がかかわると、エロ魔女は途端に冷徹な一面を覗かせる。

 ここで〝お願いします〟と口にすれば、メイリアの恩師は躊躇なく目的を果たすだろう。それでいい。自分のような薄汚れた罪人が、今日まで温かな家庭でぬくぬくと生きてこられたことが、そもそも分不相応だったのだ。ただ、ひとつだけ気がかりなことがあった。

「……もしも、トゥースが生き永らえたとしたら、メイリアは……この身体は、どうなりますか」

「前例がないから推察になるけど、最初から生まれなかったことになるか、あるいは即座に魂が抜けて死体になるか……いえ、たぶん〝お願いします〟といった瞬間に歴史が書き換わって、トゥースではない真っ白な魂がメイリアとして生まれてくることになるかしらね」

「そう、ですか」

 メイリアの胸に喪失感にも似た安堵が満たされていく。そうか。自分の魂が転生できなくても、この器には別の魂が宿ってメイリアとして生き続けていくことになるのか。それなら──。

 家族が悲しむことはないな。メイリアは、こぶしを握りしめたまま唇を開こうとして、しかし、のどまで出かかっているその言葉を発することができず、呼吸を乱す。その言葉を口にしたら、自分の転生はキャンセルされて、あの砦でひとりイモムシとなったまま永遠の時間を過ごすことになる。おそらくパパやママ、エミディオやトトラ、セルンと過ごした記憶もなくしたうえで。

 あと少し、あと数秒だけ、みんなとの思い出を噛み締めていたい──そんな往生際の悪さが、メイリアののどを引きつらせていた。そんな弟子の未練がましさを眺めるハニィの唇の端が徐々に吊り上がっていき、両手の指を小刻みに動かし始めた。苛立ちというよりも、なにかに興奮しているような仕草である。

 大きく胸に息を吸い込んだメイリアが、師匠を真正面から見据えて、

「……お願いし「取込み中失礼します。どうしてもいますぐに母さんに会いたいという来客が見えました」」

 少女の言葉をぶった切って、メイド服の少年が応接間のドアを大きく開いた。

 魔女と呪術士の視線の先に、息を切らした黒髪の女性リズが佇んでいた。自宅から国境を越え、このエロイカの森まで数百キロという距離を愛馬ツチケムリに乗って駆け抜けてきた彼女の身体は汗だくで、スカートの裾や胸元がやや乱れている。後ろでまとめたポニーテールの黒髪はほつれ、凛々しい面立ちには焦燥感がにじみ出ていた。

 母の姿に目を奪われたメイリアは、思わずソファーから腰を浮かしていた。

「メッ、メイリア、やっぱりここに……ああ、魔女さま。わたしは……」

「ま、落ち着きなさいな。さ、娘さんの隣に座って。クゥ、お茶の追加をお願い」

 急な来客の訪れに際して、伝説の魔女は機嫌を損ねる様子もなくリズに着席をうながした。さきほどからハニィの口元に、なにかを面白がるようなニヤニヤとした笑いが張りついていることにメイリアは気づいていない。

 愛娘の隣に腰を降ろしたリズは、ローテーブルの上に置かれたティーカップへ落としていた視線を持ち上げて、張り詰めた胸の内を絞り出すようにして言葉を口にした。

「あの……わたし、この娘の母親でリズ・ホーランドと申します。娘の友人から、娘があなたさまの元へ向かったという話をきき、いてもたってもいられず……」

 といいつつ、彼女は持参したメイリアの置き手紙をハニィへと差し出した。それに目を通した魔女は、

「ちょっとメイリア、あなた親御さんに詳しい事情を説明せずにここへきたの? ないわー、そりゃないわー」

「あの……詳しい事情とは、なんでしょう。おうかがいしてもよろしいでしょうか」

「この娘ね、いまは反省してるみたいだけど、あたしの弟子の生まれ変わりで大量殺人鬼なの。んで、前世のやらかしのせいでこれからたくさんのひとが死んじゃうんだけど、責任を取ってひとりで生贄になってそれを食い止めようとしてるわけ」

 メイリアが止めるいとまもなかった。もっとも隠したかったことを、もっとも知られなくないひとにあっさりとバラされてしまったメイリアは、もはや母親の顔を見ることすらできなかった。

 リズはハニィからの説明を受けてもなお取り乱すことなく、口元を固く結んだまま押し黙っていた。

 ハニィはおかわりのハーブティに口をつけつつ、

「ほらメイリア。あなた、お母さんになんか、いうことがあるんじゃないの? 手紙じゃなくって、ちゃんと自分の口からさぁ」

 メイリアはうつむいたまま震える拳をきつく握りしめて、喪失感を伴った奇妙な安堵を覚えていた。束縛から解放されたような心地のまま、メイリアは実母の顔を見上げた。

「わたくしのようなものが生まれてしまい、本当に申し訳ありませんでした。どうか、メイリアは生まれてこなかったものとお考えください」

 そういって頭を下げた瞬間、メイリアは家族と食事をとっているとき、ときおり自分の胸に去来する正体不明の息苦しさや居心地の悪さの正体をようやく悟った。

 本来であれば清らかで真っ白な魂が宿るはずだったこの身体に、たくさんのひとを殺めてしまった女の心が宿ってしまったせいで、普通の子供をひとり育てる機会を奪ってしまったという罪悪感。自分のような穢れた存在がこんな温かな家庭で幸福を享受する資格があるのかという後ろめたさ。その負の感情に押し出されるように、自然と謝罪の言葉が溢れたのだ。そんなメイリアの詫びをきいてハニィは「違うでしょ~、そうじゃないでしょ~」と自分のひたいに手を置いてやれやれと首を振った。

 リズの全身から、目に見えぬ激しい情念の気配が迸ったのをメイリアは感じた。憤怒か、嫌悪か。メイリアが反射的に自分の身体を腕でかばった瞬間、メイリアの細い身体は温かく豊かな母の胸元に抱きすくめられていた。

 リズはメイリアをきつく胸に抱いたまま、押し殺した声でいった。

「この子はいつもこうなんです。頭を撫でようとしたり、抱きしめようとすると反射的に身体をかばうんです。わたしは保育所で働いていて、仕事柄たくさんの子供たちを見てきました。このクセのある子は親から虐待されているケースが多いんです。けれど夫は決してそんなひとではないし、わたしもまったく心当たりがなくて……それにこの腕の数字。わたしはこの国の出身ですから、隣国のワルダー帝国に侵略された人々がどのような扱いを受けているのかを知っております。奴隷に身をやつしたひとが、腕に数字を刻まれることもです。この子は……わたしたちを選んで、わたしたちの子供として生まれてきてくれたんです。たとえこの子にどんな事情があったとしても、必ず幸せにしてみせると誓ったんです」

 リズの両腕に込められる力が強まっていく。

「この子が普通の子じゃないということは察していました。けれど、そんなことは関係ありません。いつもいい子でいてくれて、不思議な力で夫や息子たちを救ってくれて……ですから、この子は、わたしと夫が守らなくてはならないんです。お願いします、ハニィ・スカイハイツさま。メイリアが犠牲にならなければならないというのでしたら、代わりにわたしがなります。我が子を救うためなら、親はなんでもできるものなんです」

 母親の胸のなかで決死の訴えをきくメイリアのほほに、大粒の涙が伝い滴った。申し訳なさと悔しさと、そして言葉にできないほどの感謝の想いが胸のなかで渦巻いて、メイリアはただ唇を噛み締めることしかできなかった。ありがとう。ごめんなさい──そう、言葉にすることすらできなかった。

「……ん? 奥さん、あなたいま、なんでもできるっていったわよねぇ」

 ハニィは桃色の舌で唇を舐め回しながら、手のひらを上へ向けつつ指をわきわきと動かしてみせた。メイリアは、それが獲物をからかう際の師匠のクセであることを知っていた。

「あ、あの、師匠……」

「しゃらっぷメイリア。ねえお母さん、なんでもできるっていったけど、本当になんでもできちゃう? あたし、メチャクチャ可能性は低いけど、あなたの娘さんが犠牲にならずに済む方法に心当たりがあるのよ。あたしのサポートがあればどうにかできるかもしれないけど、タダで教えるのはねぇ。ご存知かもしれないけど、あたしの信条は等価交換。叶える願いと対等なだけの対価を、あなたに支払っていただきます。よろしいかしら?」

「……。どうかお願いいたします。娘のためでしたら、どんなことでも……」

「ふむふむほう。なら、条件がいくつかあるの。ひとつ、あなたの旦那さんをあたしに抱かせてちょうだいな。そして、あなたは、旦那さんがあたしのうえで乱れるさまをその目に焼きつけなくちゃならないわ。なぁに、娘さんを救うためだもの。安いものでしょう?」

 なにをバカな、とメイリアは思うものの、師匠が黙れといった以上、口出しはできない。ハニィ・スカイハイツは錬金術をたしなむ伝説の魔女でありながら、エロ魔女というその二つ名が示すとおり、とかく性的な好奇心を満たすためであればあらゆる労力を惜しまず、ひとの都合を考えない面がある。いまも、その生来のいたずら心が鎌首をもたげているのだろう。

 リズが総身を固くして押し黙った。メイリアを抱きかかえるその指が強張っているのが、メイリアの柔らかな肌を通じて伝わってくる。リズが薄い唇を開きかけて、のどから言葉を絞り出す。

「……はい。メイリアを救うためでしたら。夫はわたし以外の女を抱くことを拒絶するでしょうが、わたしが夫を説き伏せてみせます」

「ほほう、いいわねぇ。じゃ、条件のふたつめ。あたしのガーデンに魔物オークの庭師がひとりいるんだけど、あなた、緑肌グリーンスキンの子を産んでもらえるかしら?」

「ああもう、師匠っ」

「しゃら~~っぷ。さあ、どうする? 妊娠、出産のための期間は一年と見積もって、そのあいだ衣食住はこちらで準備してあげる。あなたの家族には、あなたが一年ほど戻れないことを伝えておきましょう。その腰骨の拡張具合からするに4人ほど出産経験があるみたいだし、ひとりくらい人外の赤ちゃんを産んでみるのもいい人生経験になるって思わない?」

 さきほどよりも逡巡しゅんじゅんの時間は長かった。瞳を伏せたままのリズの目尻に涙が浮かび、その雫が静かに滴り落ちる。その顔に浮かぶのは屈辱の歯噛みか、それとも観念か。リズの返答が長引くほどに、エロ魔女に口元に悪趣味な笑みが広がっていく。

 自分が魔女から弄ばれているということを自覚しながらも、無力な自分にはほかにどうすることもできない──という気持ちを押し殺すようにして、哀れな母親は震える声を発した。

「…………構いません。ただ、どうか夫には内密にしていただきたく存じます」

「それをききたかった!」

 ハニィは自分の胴体を抱きしめて身体をくねらせながら、アヘアヘと笑い出した。

「いやぁ~~、たまんないわ。娘を救うために自らの身を投げ出す母親。その献身性や自己犠牲精神もさることながら、あたしの無茶振りに即答するんじゃなくって、夫を裏切る罪悪感とか、夫を取られる嫉妬心で後足しりあしを踏んじゃう、その葛藤の時間こそが最高のご褒美なのよ。うんうん、いいものも見せてもらいました。まあ、奥さんとの駆け引きを楽しませてもらったし、多少はおまけしてあげ」

「取込み中にたびたびすみません。どうしてもいますぐ母さんに会いたいという別の客人が見えました」

 ハニィの言葉を遮るようにして応接間のドアが開かれて、赤ちゃんを背負ったガタイのいい農夫が飛び込んできた。妻と娘の安否を気遣い、村の衆に畑の世話と馬車のレンタルを頼み込んで脇目も振らずにエロイカの森を目指してきたエバンスは、『妻子のためなら死ねる』と書かれたひたいのハチマキを床に擦りつけながら、唖然とする一同へ向かって懇願した。

「メイリアの父、エバンスと申します。事情は御子息からうかがいました。ハニィ・スカイハイツさま、メイリアが犠牲にならなければならないのでしたら、代わりにオレがなります。我が子を救うためなら、親はなんでもできるものです」

「…………。あー、それはさっき、奥さんからきいたんだけど……まあいいわ。エバンスさん、せっかくだからあなたも巻き込んじゃいましょうか。なんでもできるっていったけど、条件はみっつ。あなたには、リズがあたしの息子と交わる姿を観察してもらうことになるけど、できる?」

「無論です、娘を救うためでしたら。オレの妻も了承してくれるでしょう」

 即答だった。ハニィ・スカイハイツの端正な眉がピクリとひくつき、指先でソファーの背もたれをリズミカルに叩き始める。

「……。じゃああなた、奥さんの見ている前であたしを抱くことはできる?」

「ご希望とありましたら、40秒でたせてごらんにいれます」

 ハニィはひたいに手を当てて、イライラと頭をかきながら、

「最後の質問。〝怪物オークに掘られろ〟っていったら?」

「そうおっしゃると思い、ここへくるあいだに入念にケツを洗っておきました」

「即答するんじゃなぁぁぁぁいッ!」

 爆発したハニィが並びのいい歯をむき出した。

「ああああああもうっ、これだからゼンリョー国民は! あたしがやりたいのは駆け引きで、あたしが見たいのは葛藤なのに! あなたたちゼンリョー王国民はなんでそんなに毒気がないのッ!」

「母さん、そのあたりで悋気りんきをお収めください。子供もいることですし」

 ドアのそばで待機しているクレードルの横をすり抜けて、エミディオとトトラがリズとメイリアの元へと駆け寄り、泣きじゃくりながら母親に抱きついた。ふたりをかたく抱きしめて、リズは涙声で詫びの言葉を口にした。

「エバンス! ど、どうしてこの子たちまで連れてきたのっ! 申し訳ありません魔女さま、どうかご無礼をお許しください」

「いやいや、別に取って食ったりはしないわよ……ともかく、話がややこしくなってきたからメイリア以外のかたは客人用の宿舎のほうで休んでもらいましょ。メイリアの身柄の安全を保証するにあたって、あなたたち夫婦には別途、あたしからしてもらいたいことを追って教えるから」

 クレードルから追い出されるに等しい形で、メイリアを除くホーランド一家は屋外へと連れていかれた。

 気恥ずかしさと、そこはかとない嬉しさで顔を赤らめているメイリアへと、ハニィがため息をつきつついった。

「メイリア、あなたがどうして『疫病風』の発動を食い止めたいのかわかったわ。あと、あなたの呪力が弱まっている原因も把握できた。いまのあなた、殺したいほど憎んだり恨んだりしているやつがひとりもいないでしょ。呪術士にとって怨嗟の深さこそが力の源だから、ああいうひとたちに囲まれて、温かく優しい世界にぬくぬくと包まれたあなたじゃ、そりゃ呪術も使えなくなっていくわけだわ」

 それはメイリアも薄々勘づいていた。そもそも呪術とは人間の情念を原動力とする、他人を意図的に支配したり不幸をもたらすための魔術である。呪術が禁忌の魔術として一般的な魔術学校で指南されていないのは、使用者の肉体に取り除けない穢れを付着させるためだけでなく、そもそもそれだけの憎悪や怨嗟といった情念を維持できるほどのポテンシャルを持つ不幸な人間が少ないためである。そういう意味で、トゥースは天性の才を持っていたのだ。

 そんな彼女が温かな家庭で健やかな愛情に包まれ、彼女を傷つける存在も皆無で、なに不自由なくものを食べ、暖かく眠り、学ぶ場所もあり、友達もいる環境に置かれればどうなるか。他者を憎んだり恨んだりする機会などあるはずもない。だからこそ、憎悪という燃料の注がれなくなった黒い情念の炎が弱々しくなっているのは自明の理だった。

 いまのメイリアでは、呪術を使いこなすのは難しい。

 かといって、憎悪や殺意にまみれたあの感情を取り戻したいかといわれたら、それはノーだ。あんなおぞましい、悲しいまでに冷たい感情は、だれも体験してはいけないものだといまならわかるから。

 閉じられた窓の外から透明な虫のとフクロウの歌声が染み入ってくる。陽光は橙色へと色を変え、燃える夕日は空の青を湖水のように染めあげながら地平へと沈んでいく。まもなく今日という日が閉じようとしている森のなか、窓から差し込む黄昏に満たされた応接間で、メイリアは師匠の目をまっすぐに見据えていった。

「あの、ハニィさま。さきほど母におっしゃっていた、わたくしが犠牲にならずに済む心当たりというのは?」

「シンプルな話よ。タイミリミットのギリギリまで他の魔女たちには内密で、奇跡の芽を育てるだけ。ホントは傲慢メスガキの魔女ステラリスと協力体制を取ってトゥースの死を全力で防ぐのが大陸崩壊のリスク回避としてはベストなんだけど、それを取り下げるの。あたしだって死神を育てた責任を取らされて首をくくらされたくはないし」

「……その奇跡の芽、というのは?」

「ふたつあるわ。ひとつは強欲がっぽがぽの魔女メルフェンが、世界のどこかで解呪のアーティファクトを発見するのを後援すること。ただこれは本当に砂漠で落とした針を探すくらい難しい話だから、まず期待はできない。本命はもうひとつのほう」

「と、いいますと」

「新しい聖女を育てるのよ。幸い、憤怒ぷんすかの魔女であるシエル・クローバーハートを育てたひとなら知ってるから、そのひとに協力してもらいましょ。ただし聖女級の法術を扱うには、それこそ世界中の人間を救いたい癒やしたいって心から願えるほど常識外れな情念の持ち主でないとムリだから、どうしても才能がモノをいうのよねぇ」

「……才能」

「そ、才能。けどまあひとり、あたしには心当たりがあるの。世界中のひとをぶち殺したい、世界をメチャクチャにしたいって心底から願って実行しちゃうほど常識外れな情念の持ち主に。ま、方向性は違うけど情念は情念。その並外れた心の力を正しい方向に導ければ、千にひとつ……いや、百にひとつくらいは可能性があるでしょ」

「……え。あ、あの……?」

 ハニィは人差し指をメイリアの鼻先に突きつけつつ、高らかに命じてきた。

「すっとぼけてんじゃないわよ。あなたが聖女になるんだよ!」

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死神《ジョーカー》だったわたくしへ たいらひろし @tairahiroshi

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