第5話 冷たい方程式

 殺すつもりなんてなかった。本当に、そんなつもりはなかったのだ。

 けれど、あいつの姿を見た瞬間、あいつの言葉を耳にした瞬間、世界が赤くなり、自分が殺意だけの存在になった。「自分はこいつを殺すために生まれてきたのだ」という確信が自分を貫いた。ただ呼吸をするように、そうする以外にないように、あいつの頭部を握り潰していた。即死だった。砕けた頭蓋の隙間から潰れた眼球がはみ出し、脳漿混じりの鮮血が自分の顔にかかった。ぐちゃぐちゃのゼリーじみたピンク色の脳みそが地べたに落ちてあちこちに飛散した。頭の上半分を失い、舌を槍のごとく突き出しながら、あいつは後ろに倒れた。

 トゥースはそのとき、生まれて初めて人間を殺した。

 トゥースが死神と呼ばれるようになった日のことだ。

 

「!」

 人間の体裁すら整えていない絶叫をあげながら、メイリアはベッドから跳ね起きた。

 窓からカーテン越しにわずかに陽光が差し込み、昼の訪れをほのめかせている。そこは自室であった。みっつ並んだ一番端の自分のベッドに、メイリアは寝そべっていた。

 メイリアは自分の肩を抱きながら全身に冷や汗をかき、歯の根を震わせて、目尻から涙をこぼした。息をするたびに心臓が肋骨を内側からノックしている。

 また、あの悪夢だ。

 落ち着くにつれて、ようやくメイリアは現状を把握しつつあった。いまのは、夢だ。もう何度見たことか。頭蓋骨を握り潰したときの固いものが砕ける感触も、生暖かい血混じりの内臓が手のひらから腕へと伝っていく感触も、あの女の言葉も、何度も何度も味わわされている。引きずり転生してから、メイリアになってから見ることがなくなったというのに、どうしてまた……。

 ……あれ。どうして自分はここにいるんだ、とメイリアが周囲を見渡していると、部屋のドアが音を立てて開き、水桶とタオルを抱えたリズが入室してきた。父親似でふんわりした面差しのメイリアとは異なる凛々しい顔立ちを見て、きれいなひとだな、といまさらながらにメイリアは思う。リズの瞳は黒く潤いがあって、リズ自身の芯の強さや内面の美しさがそのまま表れているかのようだった。

「メイリア、大丈夫? いまの悲鳴は……」

「ご、ごめんなさい。なんでもないの、ママ」

「なんでもないって声じゃなかったでしょ。大丈夫? あなた、豊饒祭で倒れてから丸一日眠りっぱなしだったのよ。ああ、かわいそうに。ワイバーンに襲われたことがよっぽどショックだったのね」

 そういってリズは水桶に浸したタオルを絞ってからメイリアのひたいに載せる。ひんやりと冷たい感触が気持ちいい。ママの手はどうしてこんなに温かくて安心できるのだろう。いやなことをすべて忘れさせてくれるような気がする。

 リズはメイリアを落ち着かせようと、彼女の手に触れながらしっかりと目を見つめてささやく。

「なにも怖がらなくていいのよ、怪物は強いひとがやっつけてくれたから。今日はゆっくりおやすみなさいな」

 強い人。

 死神トゥース。

 メイリアはのどから引きつった声を発して口元を手で覆った。

 そうだ、トゥース。丘の上の教会で彼女と、かつての自分自身と再会したのだ。あれは夢でも幻でもなかった。ここは過去の世界で。10年後には死神トゥースは討伐されて、『疫病風』がこの大陸中に……。


       ──どうしたの? いまさら、なにをショックを受けているの?

       ──これは、わたくし自身が望んで決断したことでしょう? どいつもこいつも死んでしまえ、と。こんな世界なんて大嫌いだ、と。わたくしは、ずっとずっとずっと、そう思って生きていたじゃない。

       ──自分には絶対に手に入らない幸福な家庭というものをすべてぶち壊すのがわたくしの望みだったでしょう?

       ──おめでとう、元死神さん。わたくしの願いはようやく叶うのよ。


「違う……違う、違う、違う。こんなつもりじゃ……こんなことになるなんて。ああ、なんてこと……わたくしは、なんてことを……」


       ──じゃあ、どんなつもりだったの? こうなるとわかっていて、わたくしは自分自身に呪いをかけたんじゃない。

       ──トゥースは、メイリアの家族が苦しんで死んでいく姿を見てどんな顔をするでしょうね? 彼女の心の色を見れば、おおよそ想像がつくわよね?

       ──あの教会の一件だって、わたくしは本当は、あの子供たちを……。

       ──さあ、悲願の成就を喜びましょう。わたくしは、世界の終わりを喜ぶべきなのよ。喜びなさいよ。 喜 べ よ 。


「ああああ。ああああああ」

「ちょっ……メイリア? メイリア!?」

 急に顔面を蒼白にして頭を掻きむしり始めた娘を落ち着かせるべく、リズは彼女の肩に手を伸ばした。

「ひっ!?」

 ただそれだけで、メイリアは過剰なほどの反応を示した。はっきりとした恐怖の感情を瞳に宿らせて、両手で頭部をかばって背中を丸めたのだ。そんな娘の仕草に、リズは愕然として伸ばしかけた手を凍りつかせた。

 過呼吸を起こしながらメイリアは、そんな母親の顔を見て、

「も、申し訳ありま……無理……違うんです、こんなつもりじゃ……お許しください、お許しください」

 嫌われた、と思った。

 メイリアは要領を得ない言葉を並べ立てながらベッドから転げ落ちるようにして、靴を履く余裕すらないまま寝室から飛び出して階段を駆け下りていく。

 リズの声を背中に浴びながらメイリアは馬小屋に飛び込み、エバンス自慢の飼馬に駆け寄った。まだ8歳の彼女では、体高が1.5マートルもある飼馬ツチケムリに跨るためには彼に屈んでもらわないとならない。普段はエバンスやリズが馬の首元を優しく撫でてあげると両足を曲げてくれるのだが、メイリアではギリギリ首にまで手が届かなかった。

「屈めっ」

 いつものように、使役する動物に下知を飛ばす要領で下級呪術を用いたつもりだった。敬語を混ぜない命令口調で、ほんのわずかに相手に対して情念を込めて命じる。なにひとつ手順は間違っていない。

 なのに、穏やかな気質の栗毛の中型馬は愛くるしい瞳でメイリアを見下ろすばかりで、その膝を曲げようとはしてくれなかった。メイリアの呪術は、微塵も効果を発揮している様子がない。教会を襲撃したワイバーンが彼女の命令にまったく耳を貸さなかったように、ツチケムリも少女の言葉の意味すら理解している様子がなかった。

「な……んで。なんでっ」

 元死神の少女は混乱の極みにあった。中型魔獣のワイバーンならまだしも、これはただの荷運び用の馬だ。彼女が魔女さまのもとで免許皆伝のお墨付きをもらってからというもの、こんなことはいままでなかったのに。呪力が弱まった? まさかもう使えなくなってしまったのか。あれほど血の滲む思いで勉強して修行を積んだのに。慌ただしく近づく足音。リズがメイリアを探している。早くここから遠ざからないと追いつかれる。子供の足じゃ逃げきれない。事情をきかれる。リズ相手には隠し通せない。家族にウソはつきたくない。なにもかもバレてしまう。そうなったら終わりだ、自分の悪行を知られたら……。


《ツチケムリ、お願いだから、わたくしを乗せて走れ!》


 メイリアが泣き声でそう命じると、ツチケムリはふと首をかしげたのち、少女がまたがりやすいように両膝を屈めてくれた。拍子抜けするくらいにあっさりと。

 ためらう余裕などなかった。メイリアは鞍すら装着させないままツチケムリに飛び乗り、蹄が土をえぐる音を響かせて太陽の下へと駆け出した。背後からメイリアを呼ぶリズの声が響いているが、怖くて振り返ることなどできるはずもない。ありえないとはわかっていても、振り返ったリズの肌に黒い斑点が万が一にでも浮かんでいたら──と想像するだけで気が狂いそうだった。

 黒髪の少女を乗せたツチケムリは群生したドテカボチャで橙色に染まった畑のあぜ道を迷いなく突き進んでいく。空は突き抜けるように青く、まばらに浮かんでいる白い雲が東へと流れていく。途中、血相を変えたメイリアを何事かと呼び止める村人たちとすれ違ったが、彼らの肌を見ることが怖くてメイリアは顔を上げることすらできなかった。

 どうしよう、どうしよう──そればかりを考えながらあてもなく村の外へと飛び出したまではよかったものの、早駆けをさせたせいでツチケムリの息があがってしまっていた。苦しげに喘ぐ愛馬の様子を見て、不意にメイリアの胸に絶望と罪悪感以外の感情が芽吹いてきた。どうにかしなくちゃ、という想い。ツチケムリが苦しがっている。どうにかしなくちゃ。

「もう走るな。ゆっくりと止まれ」

 メイリアは下級呪術を使用したつもりであったが、ツチケムリは主人の声など知ったことじゃないとばかりに足を交差させ続ける。呪術が効いていないのか──いや、効き続けているのだ。メイリアを乗せて走れ、という命令を遵守しているだけだ。

 幾分か心の余裕を取り戻していたメイリアは、今度は慌てることなく大声を張り上げた。もしかしたら──という推測が、すでに彼女のなかで確立していた。命令をきくときと、きかないときの違いはなんだったか。呪術の基本を思い出す。


《ツチケムリ、もう走らなくていい! ゆっくりと止まれ!》


 栗毛の馬は、幼い主人のその言葉にようやく反応を示した。彼はおもむろに速度を落とすと、メイリアを乗せたまま路端にへたり込んでしまった。

 黒髪の少女は愛馬から降りてそのかたわらに膝をつき、長い首を震える手で撫でてやった。やはりそうだ。名前とともに呪術をかけることで、ようやくメイリアの言葉に耳を傾ける。呪術には、対象の名前を呼ぶことで使用者の呪力を数倍にも膨れ上がらせる効果がある。

 メイリアは自分の肩を抱いて身震いした。

 やっぱり、呪力が弱くなっている。

 なくなったわけではない。しかし、ターゲットの名前とともに術を使用しないとならないほどにまで力が衰えてしまっているようだ。だからワイバーンもメイリアの呪術にかからなかったのだろう。弱まった呪力ではあれだけの大型サイズのモンスターを意のままにできるはずがない。

「どうして……転生したせい? いえ、違う。去年のオオガミの群れに対しては問題なく使えていたはず……あるいは普段から使っていないせいで腕が錆びついているとか……」

 ツチケムリの頭を撫でながら思案にふけるメイリアであったが、栗色の毛並みを触っているあいだにようやく冷静さを取り戻すとともに、気恥ずかしさが胸に去来してきた。

 ママの前であんなに取り乱すなんて。

 死神だったときは、ここまで狼狽したことはなかった。あのころは、いつ死んでもいい、と思って行動していた。むしろ、早く死にたい、殺してくれとすら願っていたようにすら思う。そうすることで世界に対する復讐を早く成し遂げられたから。自暴自棄に等しい心境だったからこそ、パニックに陥らなかったのだろうか──逆にいうと。

 逆にいうと、いまの自分は生きたがっているんだろうな、と思う。

 いまの幸福な生活を失うことが怖い。優しい人々に死を振りまいてしまうことが恐ろしい。自分自身の人間性がここまで変質するなんて、思いもしなかった。

 リズには醜態を晒してしまったことを、のちほどお詫びをしなければならない。呪力が弱まってしまっている原因も取り除かなければならないだろうが、いずれにせよ、まずは情報が欲しかった。いまが本当に10年前の世界なのか。もしそうなら、タイムリミットまで10年の余地があるということになる。まずは、トゥースの死までの正確な日時を知る必要があった。

 なにか、手があるはずだ。最悪の結末を回避する方法が。

 ツチケムリの呼吸が整って危なげなく身体を起こした。メイリアは彼の胸元を撫でながら、愛馬へと告げた。

「わたくしたちの家へ帰って馬小屋で休め……ああ」

 メイリアは咳払いをして、


《ツチケムリ。わたくしたちの家へ帰って馬小屋で休め》


 耳をパタパタと揺らしながらゆったりとした歩調で復路をたどるツチケムリを見届けて、メイリアはひっつかんでいた靴を履き直してから貿易都市アルトコロニーへと向かった。



 ──────



 虹実祭こうみさいという大規模で大賑わいの催事が執り行われたばかりであるというのに、日をまたいだ平日昼間の図書館はすでに静謐な空気に満たされていた。街路はいまだ先日の名残りで職人たちが騒がしいものの、一方変わって図書館内は分厚い専門書を抱えた書生や勉強熱心な学生たちの姿がまばらにあるだけで、みな粛々と机に向きあっている。

 メイリアはそんな図書館の閲覧室の椅子に座り、歴史書のページをめくり続けていた。そんな彼女へと、利用客の何人かがちらちらと視線を送ってきている。難しい本を読んでいる幼女が物珍しいのだろうか。

 いまがいつなのか。トゥースの死亡は何年後なのか。それを調査するのすら一筋縄ではいかなかった。なにしろトゥースとして生きていたころは、自分を取り巻く社会情勢など知ったことではなかったから、当時が王国歴にして何年だったのかすら覚えていないのだ。

 必死で頭を回転させて記憶を呼び起こそうとする。なにか、なにかなかったか、手がかりになる情報は……。

 そうだ。イスキが参加していたという第12次死神討伐隊。メイリアの記憶では、たしかワルダー帝国の連中は年に一度のペースで討伐隊を結成してトゥースに差し向けていた。

 別の棚から持ってきたワルダー帝国に関する分厚い書籍を紐解くと「今年もまもなく第3次死神討伐隊が送り込まれる予定である。死神の居所はようとして知れないが、これ以上の犠牲者を出さないために──」と記されていた。

 メイリアの胸にわずかながら安堵が戻ってくる。単純計算になるが、今年の討伐隊が第3次だとすると、第12次討伐隊までまだ10年の猶予があることはほぼ確定だろう。トゥースが殺された季節は雪が降る直前の冬だったから、正確にいうと10年と3ヶ月ほどか。

 ただ──とメイリアはここで思考の迷路にハマった。

 それがわかったとして、どうすれば彼女の死を食い止められるのだろうか。

 トゥースは死神討伐隊の紫髪の剣士に殺される。それが大前提だ。

 最善手としては第12次死神討伐隊そのものを解体させて、あのアルタイルという紫髪の剣士とトゥースを接触させないことだろうと思う。そうすれば少なくともトゥースが彼に殺される恐れはなくなる。あるいはアルタイルという剣士を事前に探し出して事情を話し、死神を殺さないように説得するのもありかもしれない。思ったより光明はありそうに感じる。手段はあとで講じるとして、この様子なら絶望にうなだれるのは早計かもしれない。

 ただ、ここで話をややこしくするのが『トゥースが自殺をする可能性』についてだ。

 彼女はあの日、イスキと出会って生命を救ったことに対する礼をされるまで、自ら生命を断つべきか迷っていたのだ。そして「こんな自分でもだれかから感謝をされることもあるのか」と温かい気持ちになり、自殺の計画を頓挫させた。だからトゥースを死なせないため、イスキには討伐隊の件とは別にしてトゥースに礼をいってもらわないとならないだろう。

 まとめると、


 ①・剣士アルタイルとトゥースを接触させない。可能であれば討伐隊を解散させてトゥースとイスキの安全を確保する。

 ②・イスキにトゥースへ感謝の意を述べさせる。


 以上の2点が10年後までにメイリアがやらねばならないタスクのようだ。目標は懸念していたよりもずっとシンプルらしい。

 メイリアは霧のなかを彷徨っていたような思考が晴れていく気がした。剣士アルタイルという人物との交渉も普通の人間であれば無理難題かもしれないが、呪術を用いればなんとかなるだろう。もちろん、目的を果たすためには呪力が弱体化したままというわけにはいかない。原因を特定して障害を排除するなり、修行をやり直すなりして元の力を取り戻さなくてはなるまい。ともかく、トゥースを死なせさえしなければ、疫病風は発動せずに……。

 ちょっと待て。

 メイリアは冷たい手で背中を撫でられたような悪寒に襲われた。

「……死なせさえ、しなければ? でも、死ななかったら、その場合……」

 トゥースが自殺や暗殺から生き延びたとして。そのあと呪いによって穢れきった彼女の肉体は、人間の形を失ってしまうのだ。そして、無力で不老不死のイモムシとなる。この世界の終わりがくるまで、絶対に、死ねない身体になるのだ。

 その場合──メイリアはどうなる?

 いまのメイリアのなかには、未来で死亡した死神トゥースの魂が転生して宿っているのだ。

 トゥースが不老不死のイモムシになると、彼女は二度と死ねない身体になる。死なないと、トゥースはメイリアに転生できない。つまり、メイリアへの転生そのものがなかったことになってしまうのではないか。

 そうなったら、どうなる? メイリアは、生まれてこないことになるのか? これまでの家族との生活は? 思い出はどうなる? エバンスもリズも、エミディオやトトラまで、メイリアのことを忘れて……いや、最初からいなかったものとなってしまうのか?

「……そんな、そんなことって……」

 メイリアは冷や汗をかきながら、必死で頭を回転させた。


 ①・トゥースが死亡した場合。疫病風が発動トリガーされ、この大陸の半数の人々が死ぬ。

 ②・トゥースが生存した場合。トゥースは不老不死のイモムシとなり、メイリアとして転生することもなくなり、ひとりで永遠のときを孤独に過ごす。メイリアはホーランド家に生まれなかったことになる。

 ③・トゥースが■■した場合。■■が■■になり、だれひとり犠牲にならずにすむ。トゥースはメイリアへと転生し、いまの幸福な生活が変わらず続いていく。


「さん……その3。なにか、なにかないの? なにか抜け道は……なにかこう、もっと普通の、まともな未来は……みんなと一緒にいられる日常は……」

 メイリアは考えて、考えて、死にものぐるいで思考を巡らせる。

 たとえばトゥースの身体に染みついた呪術の穢れをなんらかの手段で浄化してイモムシにならないようにするのはどうだろう──いや、不可能だ。呪術において肉体に付着する穢れとは、紅茶にミルクを混ぜるようなもので、いったん穢れにまみれてしまえば決して取り除くことはできない。それこそが呪術が諸刃の剣と呼ばれ、一般の魔術師から忌避される所以ゆえんなのだ。その反動が恐ろしくて負担のかからない下級呪術しか使えないいまのメイリアとは異なり、なにもかもどうでもよかったあのころのトゥースには、そんな報いなど知ったことではなかったが。

 ならば、イモムシになってからトゥースの穢れを祓えば──これもありえない。魔物化したあとでも穢れは穢れ。浄化などできないだろうし、そこまできたら殺害することすら不可能になるだろう。イモムシになった時点でトゥースは……メイリアは、終わりだ。

 さもなければ、『疫病風』そのものを解呪ディスペルしてしまうというのはどうか。

 『疫病風』はたしかに最強の呪術ではあるが、裏を返せば穢れとは異なるただの魔術の一端に過ぎない。呪術は専門の治療士か聖術士、さもなければ祝福士であれば解呪ディスペルして無力化することが可能だ。

 トゥースの体内に根付いた『疫病風』そのものの無力化。これは、ありだと思う。理論上は不可能ではない。そのあとでならトゥースが死亡したとしても世界にはなんの影響もなく、メイリアにも転生ができるだろう……けれど。

「死神トゥースの……全盛期のわたくしの最強の呪術を、いったいだれが解呪ディスペルできる……?」

 あのころのトゥースは、呪術に関しては疑う余地なく世界最強だった。世界にただひとりの、俗にいうSランクの呪術師。だからこそ『死神』という称号をつけられたのだ。そんなトゥースの最強呪術を解呪ディスペルできる人物がもしもいるとするならば、それは世界最強の治療士や聖術士、または祝福士くらいしか思いつかない。けれど、そんな人物がおいそれと見つかるだろうか。トゥースが死神という称号を冠したのも世界的に見れば80年ぶりの出来事だというくらいなのだから。たしか最強の魔術師のひとりである怠惰ぐうたらの魔女ノアさまでさえ、あらゆる魔術や法術をほぼマスターしてはいるものの、そのどれもが器用貧乏のごとくSランクには届いていないはずだ。

「あ……ちょっと待って。魔女さまのひとりに、たしかものすごい祝福士のかたがいらっしゃったような……」

 なんだったっけ。メイリアが村を襲ったオオガミを追い払ったときに、だれかがその名を口にしていたはずだ。

 憤怒ぷんすかの魔女シエル・クローバーハート。たしか、そんな名前だった。

 メイリアは偉人に関する書籍を手にとってページをめくっていく。


憤怒ぷんすかの魔女シエル・クローバーハート。Sランクの祝福士。世界でただひとり『聖女』の称号を冠している。

 祝福士とはケガや病気、毒による身体の不調を法術によって治癒できる治療士と、不死者アンデッドの魂を屍から解き放ち、呪いや祟りといった災厄から人々を守り導くことができる聖術士の両方の資格を修めた総合職を意味する。

 シエルはそのなかでも頂点に君臨するSランクであり、あらゆる呪いや祟りを解呪ディスペルするだけでなく、肉体の保護や再生、果ては死者の蘇生まで実現可能とする祝福士としての限界突破者と呼ばれている。その法術の腕前はまさに聖女と呼ばれるにふさわしいものであり、呪いや祟りといったものの解呪ディスペルに関してはシエルに比肩する者は世界でひとりもいないとされている。特にチューリツ共和国とワルダー帝国における過去の戦争においては5000人を超える負傷者を各地で治癒して回っていたという逸話が──』


「このひとだ。7大魔女の一角……このひとなら」

 メイリアの胸にかすかな希望の灯火が灯るとともに、聖女シエルとかつての自分の生き様があまりに対称的であることに皮肉を感じずにはいられなかった。復讐を果たすために大陸中を放浪し、気持ち悪いと感じた連中を手当たり次第に殺害していた死神が、世界中の人々に手を差し伸べていた聖女に救われるのか。

 さらにページをめくっていく。


『ただし聖女シエルは大変に気分屋であり、彼女の機嫌を損ねると相手が女子供老人問わずビンタが飛んだという。彼女いわく「この世のあらゆる理不尽が嫌いなだけです」と述べていたらしい。シエルがなにをもって理不尽だと感じるのか、彼女自身、うまく言語化できないという。なお、戦場で瀕死の重傷を負ったワルダー帝国兵をシエルが治癒術によって生命を助けたとき、その兵士はシエルに感謝するどころか「敵国の治療士は皆殺しだ」と罵声を浴びせて斬りかかってきた。シエルはそんな彼に容赦のないビンタをお見舞いし、二度と硬いものを食べられない身体にしたというエピソードがある』

 

 ……なんかすごい聖女さまだな、とメイリアは思う。けれど、このくらい豪胆な人柄でないと聖女という地位にまで昇りつめられないのかもしれない。

 それで、肝心の居場所はどこなのだろう。憤怒ぷんすかの魔女シエル・クローバーハートは、いまどこに……。

 

『享年90歳』


 え。


『ゼンリョー王国歴495年(いまから5年前)に、チューリツ共和国の自宅にてたくさんの人々に見守られながら息を引き取る。彼女の遺体は暴食はらぺこの魔女イルド・ハーヴェスターの大樹の根本に埋葬された。その後、聖女の称号を冠するほどの力量を持つSランクの治療士、聖術士、祝福士は、いまなお世界のどこにもいない』

 

「そんな……」

 メイリアは指の震えを抑えることができなかった。

 憤怒ぷんすかの魔女シエルは、すでに死んでいるらしい。それに、彼女の力量に届くほどの祝福士は、もう世界のどこにもいないという。

「な、なんで、どうして……せっかく光明が見えてきたと思ったのに。疫病風さえ解呪ディスペルしてしまえば、すべて解決できるのに……ああ、せめてトゥースの呪力がSランクにまで届いていなければ、まだ望みはあったのに」


       ──それだけわたくしの、この世界への憎悪が強かったんだもの。しょうがないじゃない。

       ──わたくし自身、体験してきたでしょう? あの痛みと苦しみしかなかった地獄の日々を。死んだほうがマシだという屈辱の仕打ちを。あれは夢でもなんでもない、現実のことだった。

       ──トゥースのあの胸の炎の色を見たでしょう? あれほどの憎悪を宿すことができるなんてね。もう一度きくけれど、人間なんてみんな死んでしまえというトゥースの願いは、本当に間違っているものなの? 本当に人間たちを救う価値があるのかしら? 思い出してみなさいよ、生まれ故郷の街の連中の顔を。

       ──だれもあのころのわたくしを救ってくれなかったじゃない。聖女と持て囃されている魔女シエルでさえ、トゥースの元へはきてくれなかった。きっと彼女は、救う価値のないひとを救ってはくれないひとだったのよ。だからトゥースも、故郷の街の連中も放っておかれた。


「うるさいっ。黙ってて、考えがまとならないっ」

 自習室のテーブル椅子に座り、イライラと頭をかきながらメイリアは底冷えするような声を発した。

「ハニィさまは……お師匠さまは、わたくしの面倒を見てくださったでしょっ。あのかたのご息女のララバイさまだって、あまりお話したことはないけれどオルゴールさまだってそう。ちょっと怖かったけどクレードルさまも……優しいかたはいたのよ、それに気づかなかっただけで……そのことに気づくだけの余裕がなかっただけでっ」


       ──なにをいってるの。魔女ハニィさまは無償でわたくしに手を貸したわけじゃないでしょ? 最初は対価としてわたくしの身体を求めてきたじゃない。まあ、トゥースの身体の古傷を見て興を削がれ、なにもなさらなかったけれど。

       ──もしトゥースがまともな女の機能を残していたら、対価次第でどんな願いでも叶えてくれる色欲どスケベの魔女さまの性的な玩具に身をやつしていたでしょうね。

       ──それでもハニィさまがトゥースを拾ってくださったのは、捨て犬に餌をやるようなものだったのではないかしら。あのかたがトゥースを救ったのは正義感や善意からじゃない。ただの哀れみよ。


「いい加減にしてっ。あのかたは恩人なの……ハニィさまがいなければ、トゥースはあの崖から転落した馬車のなかで世界を呪ったまま無力に、意味もなく死んでいた。あのかたは、わたくしを救ってくださった。無力でみじめなわたくしに力を授けてくださったんだから」

 

       ──救わないほうが正解だったんじゃないかしら? だって、その結果が疫病風でしょう? 聖女さまがわたくしを放っておいた理由もわかるわ。だってわたくしには救われるだけの価値なんてないんだもの……元死神さん。

       ──ねえ、もう諦めたら? なにもかも放り出して、残された貴重な10年を素知らぬ顔で家族と過ごしましょうよ。なにがあってもわたくしが悪いんじゃない。悪いのは、トゥースの身体と心と尊厳を踏みにじってきた、この世界なんだもの。

       ──トゥースの望みを叶えてあげましょうよ。あなた、トゥースが可哀想だと思わないの? どうして世界から救ってもらえなかったトゥースの最後の願いを叶えてあげちゃいけないの? 

       ──お願い。わたくしの仇を……。


「……もうやめてぇぇぇ……」

 メイリアはテーブルに突っ伏して、頭を掻きむしった。指先に力を込めすぎて、根本から抜けた黒髪がはらはらと机に落ちていく。

 もういやだ。わたくしはもう死神じゃないのに、もう幸せな人生を送っているのに、どうしてこいつが頭から出ていかないんだ。もうわたくしを解放して。自分がそんな最低でおぞましい発想ができる人間なんだと自覚させないで……。

「……ねえ、大丈夫? メイリアちゃん、だよね。どこか痛むの? 大人のひと、呼んでこようか?」

 すぐそばで子供の声が静かに響いた。メイリアがぐしゃぐしゃな顔を上げると、そこにはイスキが佇んでいた。平民服に身を包み、なにかの書籍を右手に抱えて心配そうな眼差しを級友へと向けている。

 メイリアの胸に羞恥の念が浮上した。みっともない姿を見られてしまった。

「あ、ああ……ええ。だ、大丈夫、です。ちょっとその……少し、取り乱しただけなので」

「でも、なんていうか、“だれか助けて”って顔をしてるよ?」

「…………。あの、イスキさまはどうしてここに?」

 メイリアの言葉を受けて、イスキ少年は眉を下げてはにかんだような、それでいて申し訳なさそうな特徴的な笑みを浮かべた。

「なにそれ。さま、なんて呼ばないでよ。なんかくすぐったい」

「あ、う……イスキ、くん、は、どうして図書館に? 今日は学校があるはずなのに」

「ワイバーンがまたくるかもしれないからって今日は休校になったんだけど、メイリアちゃん、知らずにここへきたの? 図書館へはね、ノアさまにききたいことがあってきたんだ。ここ、ノアさまの別荘のひとつだから、今日はいるかなって思って」

 メイリアの背中に戦慄が走った。怠惰ぐうたらの魔女ノアさまが、この図書館にいらっしゃるのか。そういえば先日のワイバーン騒動のとき、彼女は図書館のテラスに姿を見せてワイバーンを撃退していた。この図書館が彼女の所有物だなんて初耳もいいところだ。ときどき足を運んでいたというのに、まったく気づかなかった。

「でね、昨日オレたちを助けてくれた腕に『023』ってあった白髪の女のひとがだれなのかって、ノアさまにきいてみたんだ。そしたらね、あのひとがトゥースっていう名前だって教えてくれたんだよ。色欲どスケベの魔女ハニィ・スカイハイツの弟子だったんだって! オレたち、すごいひとに助けてもらったんだよ」

「えっ!? ノアさま、トゥースのことをご存知だったの……?」

 ……それは、まずいかもしれない。魔女ノアさまに死神トゥースの存在を知られているのなら。殺人鬼を、正義の魔女が放っておいてくださるだろうか。

「ね、ねえ。ノアさまは、トゥースについて、なにかおっしゃっていましたか?」

「うん。オレたちを助けたのがトゥースさんだって知ったら“彼女を放っておこうというシエルさまの判断はやっぱり正しかった”って嬉しそうにいってたよ」

「…………。は?」

 メイリアは、自分の顔から血の気が引いていくのを感じた。

 聖女シエルさまが、トゥースを放っておこうと判断した?

「なに、それ……。放っておいてよかったって、つまり……」

 救わなくてよかった、ということ? ──という思考がメイリアの脳を汚染していく。

 まだ子供だったトゥースがあれほどの地獄を味わっていたというのに、聖女シエルは救わずに放置すべきだと判断した? どうして? トゥースに救う価値がなかったということか? 奴隷だったから? どうして。どうして。あれだけ不幸な目にあっていた子供に救われる価値がなかったなら、救う価値のある人間ってなんなんだ?

 聖女シエルと魔女ノアに対してぼんやりと抱いていた憧れや尊敬の念が色褪せていくのを、メイリアは感じていた。

「でね。オレ、トゥースさんについて詳しく調べてみようと思ってたんだ。あのひとがどこにいるのか知りたくってさ」

「……え? ど、どうして、ですか」

「そんなの決まってるじゃない。お礼をいいたいんだ。だってあのひと、オレたちの生命を救ってくれたんだよ? なのにオレ、ありがとうって伝えることができなかったから……だから、何年かかってでも、必ず探し出して」

「ダメッ!!」

 引きつった声で叫ぶ黒髪の少女を、イスキは呆然と見つめ返した。

「な、なんで急に怒るの? なんで、トゥースさんにありがとうっていうのがダメなのさ」

「そ、そんなの……」

 トゥースを追い続けていると、あなたがあの紫髪の剣士に殺されてしまうから。

「と、とにかくっ。あの女に関わっちゃダメなんですっ」

「……だから、なんでさ。イヤだよ。オレは絶対に、あのひとに会うつもりなんだ。たとえ世界のどこにいたって……」

「ダメなものはダメなんです! あの女はイスキくんが思っているようなひとじゃないんですよっ。あ、でもお礼をいってもらわないと……うう、ややこしい」

「なんでそんなこというのさ! オレにはわかるんだ、あのひとは優しいひとだって! メイリアちゃんだって、あのひとのことを知ってるはずがないじゃないか、昨日初めて会ったんだろッ? オレは、絶対に、あの天使さまに、お礼をいいにいくッ!」

「天使さまってなに!? ……ああもう、こっちにきてくださいッ」

 メイリアはイスキの腕を掴むと図書館の外へと連れ出した。利用者たちの迷惑にならないための配慮でもあるが、これ以上の踏み込んだ会話はどうしても人目を避けなければならなかった。少なくともここのテラスにいるであろう魔女ノアにまで声が届かないところへ移動しなければ。「“救いを求める子供を見捨てる”という判断は正しかった」と主張するひとを信用する気には、いまのメイリアには到底なれなかった。

 図書館の裏手には小さな庭園がある。低木に囲まれた木陰に、ベンチがふたつと丸テーブルがひとつ置かれただけの質素なスペースだ。天気のいい日は読書好きな市民たちがここでお茶を飲みながら談笑を楽しむ憩いの場となっている。折よく、今日は人影はないようだった。

 メイリアはその庭園にまでイスキを連れてくると、周囲を警戒するように見渡してからため息をついた。10年後の青年イスキがトゥースと接触するまでに把握していた情報を思い返して「ここまでなら話してもいいだろう」という線引きを慎重に見極めつつ語りかけていく。

「あのですね。あの女は死神と呼ばれていて、この大陸でたくさんのひとを殺している悪いひとなんです。たしかに彼女はわたくしたちを助けてくれましたが、いつもそうしているわけではなくて、あれはたまたまといいますか、気まぐれといいますか……とにかく、なるべく近づかないほうがいいひとなんですよ。イスキくん、きいていますか?」

 栗色の髪の少年の様子がどうもおかしい。奇妙な熱を帯びた眼差しをメイリアの右腕へと注いでいる。

 そこでようやくメイリアは、自分がいまだ寝巻き姿であることに気がついた。あまりに大慌てで家を飛び出してきたものだから、靴以外になにも身支度を整えてこなかったのを失念していた。だから図書館の利用客たちが、彼女のほうへ好奇の視線を送ってきていたのだろう。

 そんな彼女の右腕の裾が伸びて、露出された肩口から『023』のアザが顔を覗かせていた。イスキが視線を注いでいるのは奴隷番号の名残りであった。

 しまった、といまさら袖を整えてアザを隠そうとするメイリアへと、イスキが当然の疑問を口にしてきた。

「……メイリアちゃん、それ。トゥースさんの肩にもあった、よね。なんでおなじマークが、きみの肩にもあるの」

「いえ、あの、これは……」

「もしかして……もしかして、きみも天使さま? オレ、思ったんだ。そのアザは天使さまの印なんじゃないかって。きっと天国で神さまに仕えている天使たちの肩にはナンバーが……」

「ああああ、もうッ」

 またその勘違いか、とメイリアはさすがに辟易した気分になった。どうしよう。ごまかすことはどうとでもできるし、場合によっては呪術で記憶を改竄させることもできるが……。

 いや。ちゃんと話そう。

 この少年は、世界のどこにいるかもわからない恩人を10年もかけて探し出して礼をいってくれたのだ。そんな彼に不誠実なウソや隠しごとをしたくはなかった。

 彼の人生の目的のひとつが、生命の恩人に感謝の意を伝えることだというなら、ここでそれを叶えてあげるのもいいかもしれない。もしそれでトゥースへの執着を薄れさせてくれるのであれば、あの紫髪の剣士と出会う機会を奪わせて、彼の生命を救うことを確定させられるのではないだろうか。

 大きくため息をついてから、

「イスキくん。わたくしが、あの女性……トゥース本人だっていったら、笑いますか?」

 眉を持ち上げる少年へと、メイリアはこれまでの事情をかいつまんで伝えた。10年後の未来から過去の世界へメイリアとして転生したことも、その未来でイスキがトゥースをかばって死んでしまったことも。この右腕のナンバーがその証拠であることも、自分の前世は元奴隷であり天使などではないということも。だから彼女に憧れる必要などないことなど、『疫病風』に関する情報を除いてメイリアはなるべく誠実に教えた。

「イスキくんの感謝の気持ちは十分わたくしに伝わっています。ですから、もう彼女とコンタクトを取る必要はないんです。死神と関わって、あなたが生命を落としてしまったら、とても悲しい……あの、イスキくん? イスキくん、きいていますか?」

 栗色の髪の少年の様子が明らかにおかしかった。秋の風にさらされて冷えていたほほを紅潮させて、その瞳には狂おしいほどの熱情を宿している。心なしか呼吸も荒くしているようだった。彼の胸に灯る穏やかさと誠実さを表す黄緑色の心の光に、ゆっくりと桃色の色彩が混じっていく。「天使さまが……オレの前でパジャマを着て……」とうわ言を呟く少年の肩をメイリアが揺さぶると、ようやく彼は正気に戻ったらしかった。

「あの、わたくしのいうことを信じていただけましたか? にわかに信じてはいただけないかもしれませんが」

「あ。し、信じる。うん、信じるよ。だってさ……さっき、きみが図書館で頭を掻いていたとき、トゥースさんとそっくりな顔をしてたもん。“だれか助けて”っていってるような顔。似てるなって思ったんだ」

 その一言が、メイリアの虚を突いた。

 あれが「だれか助けて」と訴えている顔に見えたのか。だってあれは……あのとき彼女が考えていたことは。

 いえるはずがない。

 言葉に詰まる彼女へ、イスキがどこかうずうずとした様子でたずねてきた。

「それで、さっきはどうしたのさ。なにか、困っていることがあるんじゃない? もし、助けてほしいことがあるなら、オレ、力になるよ」

「……ありがとう。とても嬉しいです。けれど、イスキくんにできることは、いまはありません」

「そんなこといわないでよっ。オレ、なんでもするからさ。メイリアちゃんの助けになりたいんだよっ」

 ずい、と顔を近づけてイスキが力説してきた。迷いのない眼差しが、苦悩するメイリアに正体不明の罪悪感を抱かせる。彼にできることがあるとすれば、10年後、トゥースが自殺しないよう彼女に感謝を伝えることくらいだ。が、それを子供のイスキに告げるのは酷な話だし、彼を利用するようで気が咎めた。

「気持ちは嬉しいのですが、あなたはまだ子供です。いつか、大きくなったとき、わたくしの力になっていただけたら、それで十分ですよ」

 あなたでは役不足だ、とメイリアが暗に諭すと、強引なアプローチをしてしまったことが少しきまり悪くなったのか、彼はうなだれた。

「……だったら、オレ以外にほかに相談に乗ってくれるひとがいないの? なんか、いまのメイリアちゃん、ほっとけないんだよ。きみのお父さんやお母さんにも話せないこと? イルドさまやノアさまにも?」

「……パパやママには絶対に秘密にしないといけないことなんです。わたくしが死神だったなんて、知られたくない。イルドさまは豊穣の精霊ですから解呪に関しては畑違いでしょうし」

 トゥースを放置した聖女シエル──そんな彼女に賛同するノアさまの力は、できれば借りたくない。

 ただ。

「ひとり……ひとり、心当たりがあります。わたくしの恩人と呼べる偉大な魔女さま。色欲どスケベの魔女ハニィ・スカイハイツさま」

「あ、そっか。きみがトゥースさんだったとき、ハニィさまの弟子だったんだっけ」

「けれど……」

 メイリアは重々しくため息をついた。

「わたくしは、あのかたの顔に泥を塗りました。あのかたの期待を裏切った。あのかたからいただいた忠告に背いたんです。いまさら彼女に相談なんてできるはずがありません。あのかたを、これ以上失望させたくないんです」

「いいじゃない。そんなの関係ないよ」

「いえ、ですから」

「泥がどうとかとか裏切ったとか、よくわかんないけどさ。そのひとに相談すれば大丈夫になるって、メイリアちゃんも思ってるでしょ? ハニィさまの名前を出したとき、メイリアちゃん、顔を上げて前を見たもん」

「…………」

「なにがあったか知らないけどさ、ケンカをしたなら謝ればいいんじゃない? 修道女さまだっていってるよ、悪いことをしたらちゃんと謝らなくちゃダメって」

 ……メイリアは。

 裏表のない無垢な少年のアドバイスに、返す言葉を持たないまま彼の胸元の光を見つめた。わずかな桃色の混じった黄緑色の心。メイリアには、そんな彼の子供らしい純朴な言葉が福音のように届いた。

 そうか……そうだ。

 わたくしは、まだ謝っていなかった。

 怖くて怖くてたまらなかった。「生まれ故郷へは帰るな」という師匠の言葉に耳を貸さずに帰郷して、その結果が街の住人の半数を手にかけた血の惨劇だ。「子供と妊婦だけは絶対に殺すな」という厳命を破ったあの瞬間、10年ものあいだ世話になった師匠には、もう二度と会わせる顔がないと悟った。自分がどれほど彼女やご息女たちから軽蔑されるか、察するに余りあったから。

 けれど。だからこそ、謝らなくてはならなかったんだ。

 罰を受けなくちゃいけない。自分が蒔いた種だからこそ、自分の口からすべてを明るみにして、不幸の芽を摘み取らなくてはならない。それにふさわしいひとは、わたくしを断罪できるひとは、あのかたをおいてほかにいないだろう。

 たぶん、わたくしはあのかたに殺される。さもなければ10年後のタイムリミットまで魔法薬の人体実験の被験者にされたり、怪物かなにかの苗床にされるかもしれない。それでもいいと思う。この大陸の人々を救えるなら。家族を守れるなら。

 メイリアはひとつ吐息を漏らすと、イスキ少年をまっすぐに見据えた。

「ありがとうございます、イスキくん。後日、パパとママに届けてもらいたいものがあるのですが、頼まれていただけますか?」


 ──────


 その男性はチューリツ共和国の民芸品を露店で販売するため、ゼンリョー王国の虹実祭に参加していた。年に4度開催される祭りでももっとも盛況と呼ばれるだけあり、彼が持ち寄った土産物は飛ぶように売れた。カラフルな織物や布製品、人形のような工芸品などは少年少女に好まれ、年配層には編んだ動物の置物などが人気であった。おかげでだいぶ懐が潤ったし、豊穣の精霊イルドを迎えるために拵えたというごちそうにも相伴をありつけた。

 その日は宿を取って一夜明け、翌日もゴロゴロ朝寝坊していたらあっという間に日が天高く登っていた。名残惜しいがそろそろ帰路を辿る準備をしなければならない。

 男性がヒゲの生えたほほを撫でつつ、日持ちする美味しい保存食を荷馬車に積んで御者席に腰を降ろしたとき、ふと足元から可憐な声が響いた。

「失礼いたします。おうかがいしたいのですが、こちらの馬車はチューリツ共和国へ向かいますか?」

 長い黒髪を腰まで伸ばした少女が馬のそばに立っていた。年齢は8歳くらいだろうか。やや垂れ気味の目尻や細めの眉のラインが特徴的で、どこか大人びた引き締まった口元は可憐というよりは美しいという印象を観るものに与えている。衣服は質素で庶民的な茶色のチュニックと無地のスカートで、使い込んでいるらしい革靴を履いている。背負っているバッグの大きさはどこか遠出でもするつもりなのかと予想させた。

 少女からの不躾な質問に、根が真面目な男性はとくに身構えることもなく返事をした。

「え、ああ。これから国へ帰るところだよ。どうしたんだい、お嬢さん。オレはただの行商人だけど、なんか用か」

「図々しいお願いで申し訳ありません。わたくしをチューリツ共和国まで乗せてはいただけませんでしょうか」

 本当に図々しい要求だった。男性は驚きの表情を浮かべた。

「ちょいちょい、なにいってるの。お父さんとお母さんはどうしたんだい。えっと、なんだ? 観光か家出か? どっちにしても、おまえさんみたいな子供を勝手に連れていくわけにはいかないよ」

「そこをなんとか、お願いできませんでしょうか」

「いやいや、ムリムリ。っていうか、おまえさん、どこの子だい? おじさん、そろそろいかなくちゃいけないから」

 面倒事はゴメンだ、とばかりに軽く手を振る男性の横顔に、少女はそっと頭を下げつつ、

「そうですか、お時間をいただいて申し訳ありません。あの、よろしければお名前を教えていただけませんでしょうか」

「ん? モブントだが」

 少女の薄い唇から漏れたのは、大人の女性を思わせるしとやかな響きを持った声音だった。


《モブント、わたくしを馬車に乗せろ》


「いいぜッ! オレの隣はお嬢さん専用のスペースだ、いつでも乗りなッ」

 親指を立てつつ少女を抱えあげて、モブント・ストラキエ26歳独身は颯爽と荷馬車を走らせた。

 メイリアは「ありがとうございます」と小さく礼をいいつつ、馬車のほろで日差しを遮りながら大きく息を吸って吐き出した。がたごとと荷馬車に揺られながら目をつむった。

 目指す場所は隣国。チューリツ共和国の国境沿いにあるエロイカの森。トゥースの師匠である色欲どスケベの魔女ハニィ・スカイハイツの屋敷がある場所だ。あのかたはよくも悪くも魔女ノアやイルドのように善意や正義で動くことはない。善悪にとらわれず、どんな相手でも、どんな願いだって叶えてくれる。必要なのは相応の対価と覚悟だけだ。

 メイリアは何度も何度も考えた。生まれてここまで頭を使ったことがないくらいに。

 どうしても、トゥースを救う方法が思いつかなかった。もう聖女がこの世界にいない以上『疫病風』が撒き散らされるか、さもなければトゥースがイモムシとなるか、その二択しかない。単独行動ではどうしても不安があったため、協力者がほしかった。絶対に約束を違えない、信用のおけるひとの協力があれば、きっとうまくいくだろう。

 家族には対面での別れのあいさつをせずにきた。さよならをいったら、決心が鈍ってしまいそうな気がしたから。

 メイリアは、イモムシとして永遠の生を送る心の準備を始めていた。

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