第三章 呪術士見習いメイリア 8歳
第4話 虹実祭
ゼンリョー王国の南に広がる大規模な果樹園が収穫期を迎え、色とりどりの果実を実らせることから
収穫した作物や、狩猟で仕留めたケモノや家畜たちの肉、それらを煮込み焼きあげた料理の数々を広場にずらりと並べ、数年前から寝かせたワインで酒宴を開いたり、楽器の演奏や歌舞団の公演などがおこなわれる。メイリアの村は大量の小麦を挽き、スターリンゴや月梨などの果物を加えて大釜で焼いて果物パイを作り、デザートとしてそれらを配る係を担当している。小さな子供たちはその甘い匂いに誘われて、瞳を輝かせながら広場を駆け回っていた。
メイリアは8歳になっていた。この数年で彼女は少し身長が伸びており、毎日の健康的な生活が好影響をもたらしたらしく、身体つきも骨や筋肉に健やかな発達の傾向が見られた。
瞳とおなじ色の黒髪を青いリボンで束ねた彼女の出で立ちは、この祝祭にふさわしい小綺麗なブラウスとスカートの組みあわせだ。靴もちゃんと足のサイズに合わせた新しいものに替えてある。エミディオやトトラもおなじようにおめかしをして、メイリアと並んで手を繋ぎながらおおはしゃぎしていた。
メイリアも、年甲斐もなくこの
エバンスの畑の収穫物は市場を介してアルトコロニーの各家庭や学校、食堂などへと配給される。毎年の豊饒祭で消費される料理をまかなうにも十分な生産量をほこり、収穫された中麦やスターリンゴなどの果物が山積みにされて広場へと運ばれていく様子を見ながら、メイリアは「自分の仕事が人々のおなかを満たしているんだ」と誇らしい気持ちになっていた。汗にまみれて収穫の作業をしているエバンスの姿も、メイリアはしっかりと目に焼きつけていた。
収穫祭の開催を告げる鐘の音が鳴り響くと、人々は一斉に広場へと繰り出した。普段はあまりお目にかかれない料理の数々に子供たちは大喜びし、大人たちも酒宴で羽を伸ばせるこの機会を心待ちにしていたようだ。毎年恒例の
メイリアの両親は収穫物を配る係を担当しているため、広場のあちこちで歓声を上げる子供たちや大人たちのあいだを忙しく駆けまわっていた。収穫祭は農家にとっての書き入れ時なので、リズも生後1年になる赤ちゃんを背負っておおわらわで店番をしている(母親のおなかにいた妹は無事に生まれ、セルンと名付けられた)。ふたりとも多忙なので「弟たちの面倒を見てあげてちょうだい」とリズからお願いされ、メイリアはエミディオとトトラの手を引いてパーティ会場と化した大通りを練り歩いているのであった。
道端の大釜から立ち昇る湯気と小麦の焼ける香りが辺りに漂っていて食欲をそそられる。焼きたてのパンに肉汁たっぷりのローストビーフを挟んだサンドイッチを買い食いし、次に味わうのは秋の味覚の代表格である果物パイだ。果樹園で採れたばかりの新鮮な果実と穀物粉を混ぜあわせた生地の中に甘く煮たリンゴがたっぷりと入っていて、口に入れるとさっくりとしたパイ生地の感触とともにシャキッとした歯ごたえも楽しめる逸品である。エミディオもトトラも大喜びでパイにかぶりつき、口の周りをべたべたにして笑っていた。
「お姉ちゃん、あっちあっち」
と、トトラに手を引かれて紛れ込んだ広場はサーカスで大賑わいだった。楽団の演奏や歌舞団の歌唱などが披露され、人々は炉端のテーブルに腰掛けながら思い思いの料理を口にしつつ酒杯を傾けている。
メイリアはエミディオやトトラと一緒にブドウジュースの入ったコップを手にして、踊り子たちが舞い踊る様子を見物していた。派手な衣装に身を包み、楽器を奏でる若者たちが軽快にステップを踏んでいる様子は見ていて飽きない。サーカス団には魔物使い《テイマー》もいるらしく、変幻自在に形状を変える青色スライムが様々な芸を披露していた。身体を伸縮させて宙返りをしたり、分裂して二つに分かれたり、蝶の姿になって羽ばたいてみせたりするたび広場にどよめきが起こる。スライムは低級モンスターとしては比較的ポピュラーな存在であり、体内に取り込んだ水や苔、虫などを分解して養分に変える性質を持つ。凶暴な種族でなければ基本的に無害であり、農業においては虫除けを兼ねた土壌改良剤として飼育されることがある。エバンスの畑の土がふかふかなのもスライムの功績が大きい。
そんなぷにぷにの生物を眺めていたメイリアの胸に、ふとノスタルジックな感傷が訪れた。
彼女は魔女の弟子時代にスライムの少女と寝食をともにしたことがある。
師匠ハニィの娘、ララバイ。天真爛漫で無垢な人柄をした彼女はハニィの実の娘のひとりでありながら、その肉体は不定形生物スライムであり、文字を知らないトゥースの教師役でもあった。本を用いて手取り足取り、言葉と知識を与えてくれた。世にも珍しい黒色スライムの心優しい少女は、いまも元気でいるだろうか。魔女さまから破門されていなければ挨拶にいきたいのだけれど。
いまは、あれからどのくらいの時間が経っているのだろう。
小さな青色スライムが愛らしく身体をくねらせる様子を眺めながら、メイリアは弟たちと肩を寄せ合ってブドウジュースを味わうのだった。
──────
弟妹を連れて一渡り遊び歩き、木彫り細工のパズルや子供向けの木琴などのお土産を購入したころには太陽も西の空に傾き始めていた。山間から射す斜陽がメイリアの頬を朱色に染めている。南の海から吹きつける風も涼しさを増し、彼女の長い黒髪をなびかせていった。
垂れ気味の目尻を細めつつ、メイリアは収穫祭の会場となっている広場を見渡した。そろそろ夕餉の時間が訪れそうなこともあってか、帰路につく家族連れもいれば、祭りはこれからが本番だとばかりに酒宴の準備にとりかかる大人たちもいた。広場中央の大釜ではヒツジ肉と根菜をふんだんに使った煮込み料理がぐつぐつと煮え立ち香ばしい匂いを漂わせている。お金を払わなくても、だれにでも一杯だけ振る舞われるらしい。
せっかくだし自分も帰宅前に彼らの相伴に預かろうか、とメイリアが露店の列に並ぼうとしたタイミングで、彼女の肩を大きな手が優しく包んだ。振り返ると、心地よさそうな疲労をほほに浮かべたエバンスがたたずんでいた。
「メイリア、その列にはパパが並んでおくから、すまないがスターアップルパイの配達を頼まれてくれないか? ちょっと疲れてしまって、あの坂を登るのはきついんだ。すでに代金はもらっているから、おまえはこれを教会のひとに渡してくれるだけでいい」
そういってエバンスが指し示した方向には小高い丘があり、その頂には教会を思わせる漆喰づくりの建築物がそびえ立っていた。スターアップルパイは中麦の生地にスターリンゴとカスタードクリームを巻いて焼いたお菓子で、収穫祭の時期にぴったりなデザートだ。孤児院を兼ねているその教会では、毎年このアップルパイが子供たちに振る舞われているらしい。
快諾したメイリアは、どこかそわそわと浮ついた様子のエバンスから小さなリュックを受け取ると、さして遠くない丘を目指して小走りに駆け出そうとした、そのときだった。
「おおおっイルドさまだぁッ! イルドさまが見えたぞぉぉッ!」
男性たちの歓声や拍手が鳴り響いたためそちらを見ると、
実年齢は500歳ともいわれている彼女の見た目は16歳そこそこのうら若き乙女で、肉食獣の毛皮を剥いでこしらえたらしい胸当てとパンツを着用し、そのしなやかで健康的な筋肉の宿った腹筋や手脚を惜しげもなく観衆のもとに晒している。芽吹いたばかりの若葉を思わせる緑色の長い髪は腰まで届く見事なストレート。普段からご機嫌らしいことがうかがえる笑いジワが刻まれた口元。高い鼻や整った輪郭、高めの身長など美人の条件がひととおり揃っているが、人間であればふたつあるはずの眼がひとつしかないのが、彼女が
魔女イルドは並み居る民衆に向かってビアジョッキを掲げながら上機嫌に叫んだ。
「みんなーっ。働いたあとに食う飯はうめぇかーっ」
最高だーっ、という男どもの合いの手が間髪入れずに津波となって押し寄せる。ああ、これだったのね──とメイリアはいつものエバンスとの儀式を思い出した。
イルドは大きな眼をにんまりと細めつつ、
「働いたあとに飲む酒はうめぇかーっ」
「最高だーっ」
「二日酔いは怖くねぇかーっ」
「どんとこーいっ」
「ん! 元気があってよか! 元気があればなんでもできるったい! じゃ、今季もおつかれさーん、かんぱーい!」
緑髪の魔女がジョッキを傾けると同時に労働者たちの酒宴が始まった。
イルドがこの広場に現れたのは信徒たちへの巡礼という意味もあるのだろうが、おそらく一番の理由はこのバイキングに参加するためだろう。彼女はとにかく美味しい料理と酒が好きで、祭りの時期には必ずこうして顔を見せにやってくるのだ。
イルドはさっそく手近なテーブルから料理をかっさらっては胃袋に収めている。ビールの樽をひとりで空にし、芋酒とワインを交互にあおりつつローストビーフやソーセージに舌鼓を打っている様子はまさに暴食だ。それらを頬張りながら単眼の魔女は、
「うまかうまか、バリうまかばい。これもいけるの。作ったんはだれったい? あんたか、もう最高ばいあんた。こっちのワインは何年ものかの? うまか、うますぎるったい。天才の仕事ばい」
などと料理人たちに向かって褒め殺しの言葉を投げ掛けている。そんなイルドに料理人たちや給仕たちはくすぐったそうにしながらもまんざらでもなさそうな笑みを浮かべていた。魔女イルドが大食らいでグルメなのは有名な話なので、バイキングの主催者側もあらかじめ多めに料理を準備していたのだろう。テーブルから料理が消えるよりも補充されるスピードのほうが速いので次から次へと新しい料理が運び込まれてくるし、そのどれもこれもが美味しいものばかりだ。ときおり、
「んっ。これは、アレだの。こういう焼き加減もあるっちゃか。あたしには考えつかんかったっちゃん」
と、うまい以外の感想が出てくることがあり、その反応に料理人たちが、
「なにかお気づきでしょうか?」
「ん。こんサンドイッチに挟んどるタマタマネギばってん、火を通すタイミングと火加減を……」
「なるほど、イルドさまはそのような工夫をなされるのですか。わたくしどもはまずタレに浸す段階で……」
と、料理人たちとのあいだで料理談義が盛りあがり始める。イルドの食に対する探究心や好奇心は留まるところを知らず、その知識欲を満たすために各地を放浪することも多いという。魔女でありながら世俗にまみれて暮らし、無害かつ大地に恩恵をもたらす彼女の姿はこの国の庶民の理想像とされており、多くの人々から好意的に受け入れられているのだった。
メイリアはどんちゃん騒ぎをする大人たちを尻目に、果樹の合間を縫うように続く石畳の坂道を登り、丘の上の教会へと急いだ。
刈り取られ忘れた赤い果実が甘い芳香を放つ小高い丘を登りつめた先に、その漆喰造りの教会はあった。赤く染まりつつある空を背景に、
ドアが開くと、メイリアと同じ歳くらいの男の子がそっと姿を現した。眉の上で切りそろえた清潔な印象を与える栗色の髪と瞳。人混みに紛れたらすぐに見失ってしまいそうな、これといった特徴のない目立たない顔立ち。背格好はメイリアよりわずかに高くて肌は陽に焼けた小麦色をしている。どこか怯えたような、それでいて物怖じしないまっすぐな視線がメイリアのそれと交わった。
あの木登りをしていた少年だ、とメイリアは察した。あれから彼と関わる機会がなかったのでそのままだったが、彼を見ていると不思議な胸のざわめきを覚えるのはなぜだろう。
「ホープスター教会さまですね。父から申しつけられてアップルパイをお届けにあがりました」
同級生を相手に敬語を使ってくる少女相手にも、少年は怪訝な眼差しを向けることなく応対してくる。彼は嬉しそうにはにかみながら、
「ありがとうね! おおいみんな、アップルパイが届いたぞーっ」
茶髪の少年の号令によって、孤児院の奥から騒々しい足音が響き、子供たちがわらわらと玄関ホールに集まってきた。上は14歳から下は3歳まで、様々な顔ぶれに取り囲まれたメイリアがしどろもどろになりながらリュックから金色のパイを取り出すと、それだけで黄色い歓声が礼拝堂に反響するのだった。パイにはちょっとした装飾が施されており、魔女イルドの特徴である大きなひとつ目が焼き印されていた。
わいわいと大賑わいになる礼拝堂を微笑ましく見守るメイリアに、茶髪の少年が声をかけてきた。
「よかったらメイリアちゃんも食べていかない? すごく大きなパイだし、ここまで運んできてくれたお礼もしたいから」
「ありがとうございます。えっと……」
言いよどむメイリアに少年が苦笑しつつ、
「ああ、オレの名前、知らないよね。いつもみんなに覚えてもらえないんだよ、目立たないやつだなーって。オレの名前は……」
空を切り裂く翼音と、大地を震わせる咆哮が夕焼けの空から轟いたのはそのときであった。耳にしたものの心臓を凍てつかせる叫びによって、パイに手を伸ばそうとしていた子供たちのはしゃぐ声が一瞬で静まった。
メイリアが振り返ると、薄暮に染まりかけている茜色の空にいつつを超える巨大な黒い影が、翼を広げて旋回しているのが見えた。ワイバーンの群れだ。
ワイバーンは人間の住む領域と魔大陸を隔てる山脈地帯に生息する中型の翼竜で、トカゲによく似た頭部を持ち鋭い爪や牙で獲物を引き裂き、その強靭な顎で骨ごと噛み砕く獰猛さで知られている。緑色の鱗に全身を覆われており、体長は成体で10マートルほどもある。やつらは人間も獲物とみなしているため冒険者やハンターにとって討伐対象の魔物のひとつだが、硬質な鱗は並の剣や槍では傷ひとつつけることができないため、熟練の冒険者たちでも油断をすれば返り討ちに遭うこともある。
ワイバーンの群れは旋回しながら徐々に高度を落としつつ、アルトコロニーへの距離を縮めてきていた。
どうしてワイバーンが──と、メイリアはいまさら驚きはしない。ゼンリョー王国は国民性こそ争いを好まない鷹揚かつお人好しな人々が多く、地下資源も豊富で肥沃な土壌と清らかな水に恵まれているうえ、侵略国家であるワルダー帝国との国境線に接していないため戦争に巻き込まれる恐れもほぼない。が、人間同士でのいざこざこそないものの、魔大陸に隣接しているため、モンスターによるこの手の被害はしょっちゅうなのだ。秩序が保たれているとはいえ、必ずしも人々が安全に暮らしているわけではない、という現実をこの数年でメイリアは知った。
不安げな様子の子供たちを背中に、さてどうするか、と彼女は逡巡する。幸運か不運か、今日は虹実祭のためたくさんの民衆が集まってきている。あの空を飛ぶ巨大トカゲたちがその人々に襲いかかったら、何人の被害が出るかわかったものではない──のだが、人が多いということは、実績のある冒険者やハンターたちも大勢いるということだ。メイリアの呪術をかければ魔物たちを無血撤退させることは簡単だろうが、彼女の声が届く範囲まで近寄るのはどうしてもリスクを負う。ここは冒険者たちに任せておくべきだろうか。
どぉん、と。
今度は地響きとともに大地が振動した。轟音は街の外から響いた。アルトコロニーを取り囲む堅牢な防壁の外、野原の片隅から呆れるほど巨大な茶色い蔓──いや、根っこらしきものがにょっきりと生えてきた。巨大な根は大蛇のごとくのたくりながら、驚くべき速度でぐんぐんと成長してその先端が空へと伸びていき、ワイバーンの群れに突っ込んでいく。土や石をバラバラと落とし土煙を巻き上げながら根っこがワイバーンの一匹に絡みつき、ぐねりと太幹をくねらせると投球の要領で緑鱗の巨体を勢いよく野原に叩きつけた。ふたたび地鳴り。その一撃が首をへし折ったらしく、緑鱗の巨大トカゲは黄金色の草むらに倒れ伏したまま無様に痙攣していた。
魔女イルドさまだ、とメイリアは察した。
が、捕獲がうまくいったのはそこまでで、残るワイバーンたちは根っこを警戒して旋回速度を高めて回避に徹しだした。どうしても小回りの効かない根っこは巨大トカゲを捕らえきれずに空振りし、そのたびに根っこを鞭のようにしならせて地面をえぐっている。さらに2本、3本と根っこが地面から姿を現すも、ワイバーンはその間隙を縫うようにして宙を滑空し、速度をあげて外壁の内側へと突っ込んでこようとしたその頭に稲妻に似た真っ白い光線が突き刺さり、トカゲの首から上が蒸発した。
光のビームは街の図書館から発せられていた。メイリアが目を凝らすと、図書館の屋上に設えられたテラスにネグリジェを身にまとった12歳くらいの少女がたたずんでいるのが見えた。彼女は腰まで届く真っ白い髪を風になびかせながら宙に浮かびあがり、空へ向けてまっすぐに手袋に指を突き出して呪文らしきものを詠唱している。瞬間、指先から細く鋭い稲光が発せられたかと思うと、的確にワイバーンの頭部を消し炭にし、あるいは指先をすっと薙いで光線を動かし、首を断ち切っていく。遠目のためはっきりと判別できないが、彼女の容姿が教会の扉の像に似ているのがわかった。最強格の幽霊魔術士にして
魔女ノアはさらに2発、3発と光線を放ちワイバーンの群れを撃ち落としていき、制御を失った緑鱗の巨体がキリモミ状態で街へと墜落していく。が、魔女イルドが根を先回りさせてそれを空中でキャッチし、落下被害を防いでいく。息のあったコンビネーション。ふたりは非常に懇意にしているとは耳にしていたが、まさに阿吽の呼吸といった見事な連携であった。この様子であれば、街への被害は皆無のまま事態は収束へ向かうだろう。メイリアの背後から「すげぇ……」という子供たちの呆気にとられた声がきこえてくる。
メイリアは。
自分の胸のなかで心臓が激しく鼓動しているのを感じていた。精神が高揚し、手のひらに汗が滲んでいく。
本当にすごい、と彼女は素直に感嘆していた。ワイバーンすら圧倒できるほどの武力や魔力はもちろん、民衆のために惜しみなくその力を行使する魔女イルドとノアの器の大きさ。民草から多大な人望を集めて当然だ。言葉すら交わしたことのない幽霊と単眼の魔女に、メイリアは憧れすら感じていた。
彼女らこそ
……もし、自分も。
メイリアは我知らず、自分のこぶしを握りしめる。ほんの少しだけ、将来の夢というものが見えてきた気がした。
もしこの呪術を正しく使えたなら、人々のためにこの力を捧げられたなら、わたくしもあのひとたちみたいに……。
──なれないわよ。というか、ならなかったじゃない。
──わたくしは
──自分が何人殺したか覚えてる? 自分がだれを手にかけたか覚えてる? わたくしが妊婦の生命まで奪った殺人鬼だと知ったら、イルドさまもノアさまもわたくしを許しておくと思う?
──なんなら、パパやママに本当のことを話してみなさいよ。ふたりともどれほどわたくしに失望するか……。
ああああああ。
不意に視界が歪み、吐き気に襲われたメイリアは頭を掻きむしりたい衝動に駆られた。うるさい、うるさいっ、出てくるんじゃない。わたくしはもう死神じゃないんだ。頭のなかから出ていけ。わたくしは……。
近くで風切り音が鳴った気がした。項垂れていた頭を上げると、夕景に浮かんでいたトカゲの緑色の影がどんどん大きくなっているのが見えた。こっちに突っ込んでくる。翼をはためかせている、まだ死んでいない個体がどんどん距離を縮めてくる、建物の死角になって魔女ノアの光線が届かないのか、巨大な根っこのカバーも間に合わない、唸り声が間近に、
「こっち!」
メイリアは栗色の髪の少年から強い力で右腕を掴まれ、礼拝堂の奥へと強引に引っ張り込まれた。
直後、轟音とともに礼拝堂の扉が砕け散り、土煙と木片をまき散らしながらワイバーンの首から上が礼拝堂内部にまで滑り込んできた。衝撃で天井の一部が崩落し、瓦礫や木くずが降り注いでくる。子供たちの悲鳴。いつのまにかやってきていた修道女の背後に隠れ、みな震えている。
教会の入り口が狭いためワイバーンは胴体まで潜り込めないらしく、鋭い歯を鳴らしながら振り子のごとく長い首を振ってくるものの、礼拝堂までは侵入されない。けれどその強靭な爬虫類の身体を、漆喰の壁がいつまで食い止めてくれるか。すでにヒビが入り始めている。怪物の緑色の頭がすぐ目の前に……。
この距離なら声が届くじゃないか。
メイリアはようやく我に返った。平和ボケしていたのか。いまなら呪術がかけ放題なのだ。けれど、ここで呪術を使ったらワイバーンを退けた手段を街のひとたちにどう言い繕えばいいのだ。壁のヒビが大きくなる。迷っている場合じゃない。
メイリアは口を開きながら、ほんの僅かに自分の胸が高揚していることを自覚していた。恨みも憎しみも込めぬよう、初級呪術を舌に乗せていく。
自分の力で子供たちの生命を救えたなら──少しは、前世の償いができるだろうか。
「我々への害意をなくせ。ゆっくりと後ずされ」
ワイバーンがさらに足踏みし、壁をへしゃげながら大口を開けて首を伸ばしてきた。ギラついた歯がメイリアを捉えようとする。ついに壁が半壊し、トカゲの上半身が礼拝堂にまで侵入してきた。
メイリアがギリギリで身体をひねって噛みつきをかわせたのは、ワイバーンの瞳から微塵も殺意の光が消えていなかったのを見抜いていたためだ。あ、まずいと思った瞬間、反射的に後方に飛び退っていたのが幸いした。
「うそ、なんで……」
たたらを踏みながら、メイリアは動揺していた。
初級呪術が効かなかった。身体の大きな相手だからか? 同じくらいの大きさのペトルーシュカには問題なく効いたのに。いや、なにか根本的に違う。呪術が言葉に乗らなかったような……。
「くるなっ怪物。こっちくるなよぉっ」
と、泣き声をあげてメイリアをかばうようにして割って入ってきたのは茶髪の少年であった。彼は少女と爬虫類型の魔物のあいだに立って両腕を広げながら、嗚咽混じりに頭を横に振っている。本当は自分も修道女の背後に隠れたいだろうに、足をすくませながらメイリアを守ろうとしていた。
──メイリアは、その姿を見て腹をくくった。
もう呪力を小出しにしている場合じゃない。身体に穢れは蓄積するが、ここでこの少年を死なせたら絶対に後悔する。中級……いや、上級呪術を使おう。即死させないと、これ以上暴れられたら教会が持たない。エバンスとリズの顔が脳裏をよぎり、イモムシになった自分の姿が視界をかすめる。
メイリアは身体を震えを意識しないように息を吸い込み、可能なかぎり憎悪を込めた口調で、
《動くな。心臓を止めろ》
耳にしたものの肌を凍てつかせるような抑揚のない女性の声が、ワイバーンの背後からきこえた。
緑鱗の大トカゲは断末魔をあげる暇もなく、唐突に白目をむいて不自然に硬直した。動きたくても動けないという様相で呼吸を荒らげたままその身体が傾ぎだし、礼拝堂の床に横倒しになり痙攣し始める。牙だらけの口から泡を吹き、巨大なモンスターは絶命した。わずか20秒ほどの出来事だった。
唖然としたまま、メイリアは微動だにできなかった。
自分じゃない。
いまのは、中級呪術だ。いまの
扉を破壊されて大口を開けた玄関ホールから、みすぼらしい格好をしたひとりの女性が、すいと姿を現した。年齢は30代なかばくらいだろうか。艶を失った白髪を胸元まで伸ばしている。美しいと評されるべき顔立ちをしているものの、真一文字に結ばれた唇や痩せたほほ、落ちくぼんだ目元が彼女に不健康で不吉な印象を与えていた。体格もやせ細っており、彼女が纏っているぼろ布のようなローブではその貧相さを隠しきれていない。彼女はその細い両手と両脚の肌を晒しており、腕や太腿のあちこちに刃物による古傷らしき痕跡が残っている。なかでも右腕に、ひときわ目を引く『023』と読める赤黒い刻印があった。彼女は、この世に楽しいことなどなにもない、といわんばかりの昏い眼差しで、礼拝堂にいる修道女や子供たちを睥睨している。
死神トゥースがそこにいた。
「…………」
え。
……え?
メイリアは、完全に思考停止に陥った。え、なにこれ。夢? 現実感が色褪せる。なんで、わたくしが、目の前にいるのだ。いや、わたくしは、ここにいる。メイリア。メイリア・ホーランドだ。死神じゃ、ない。わたくしは、もう死神じゃ……。
待て、待て。落ち着け。メイリアは必死で思考を整える。だれだ。これは、だれだ? トゥースのはずがない。だって、トゥースは死んだのだ。死んだから、転生したから、わたくしがここに……。
メイリアの視線が、みすぼらしい白髪の女性の胸元へと、ぎこちなく落とされていく。大きめの乳房。下着はつけていないらしい。彼女の胸に宿る光。生木を燃やした炎のごとく激しく火花を散らしている。攻撃性と狂気が融合した、 そ の 心 の 色 は。
──ああ、気持ち悪い。
猛烈な吐き気に襲われたメイリアは、その場に胃の中身をぶちまけた。教会の床にスターアップルパイとサンドイッチが交じった吐瀉物が広がり、胃液が口から糸を引きながら滴り落ちる。のど元からひり上がってくる刺激的な酸っぱさを感じながら、メイリアは焦点の定まらない瞳を謎の女性へ向けられないまま、ひたすらえづくことしかできない。よじれた嘔気と涙で視界が曇っていく。
いやだ。怖い。直視したくない。ウソだ。あんなのいやだ。自分があんな……あんな……。
──オレがまだ8歳のころだったから、10年前か。あなたはそのころ、ゼンリョー王国のとある教会を訪れたことがあるはずです。孤児院も兼ねているホープスター教会という小さな建物なんですけど、覚えてませんか。
まったくの唐突に。
メイリアの脳に稲妻が走った。前世での死の直前、イスキという青年と交わした会話が脳内で再生される。
──教会の入り口を破壊したワイバーンを、あなたはあっけなく倒してみせた。あの怪物に食われるはずだったオレたちの生命を、あなたは救ってくれたんだ。
そうだ。思い出した。
わたくしは、前世で、トゥースだったころに、ここへきたことがある。
ゼンリョー王国を放浪していたときだ。おなかが空いていて、食べられそうな野草を探していたとき、ワイバーンの襲撃を受けていた教会の子供たちを、助けたのだ。
メイリアは、ボロボロな衣服をまとった女性の右手に視線を移した。食用の野草、ルッコラショとスズメノエンドウが、彼女の手に握られている。間違いない、あの事件のときに摘んでいた野草だ。
……ああ、まさか。
メイリアは思い至る。
どうして死神トゥースが生きてここにいるのか。前世で体験したことが、なぜ繰り返されているのか。そして、いまが、いつなのか。
引きずり転生。師匠ハニィは異世界から転生してきたという。転生した魂が空間を超えるのなら、時間を超えることもできるのではないか。
死神トゥースの魂は、18年という時間を遡り、メイリアとして転生したのではないか。いま、メイリアがいるのは、過去の世界なのではないか。
「……天使さま……?」
愕然とするメイリアのそばで少年の声が響いた。
メイリアを背中にかばうブラウンの髪の少年の様子がおかしい。彼は熱を帯びた眼差しで白髪の女性を見つめ、なにかを請うように唇を震わせている。興奮のためか、ほほが紅潮すらしているようだった。
憧れにも似た感情を瞳に宿すその少年の面影を、メイリアは知っていた。ああ、どうしていままで気づかなかったのか。
「……イスキさま?」
「……え? オレの名前……」
黒髪の少女のつぶやきに、イスキと呼ばれた茶髪の少年が振り返る。十人並みという表現がぴったりの目立たない顔立ち。物静かな雰囲気。生きていた。生きている。前世でトゥースを守ろうとしてくれた、感謝の念を伝えるためだけに生命をかけてくれた優しい青年が、生きてメイリアの前にいる。そうだ、いまがトゥースの死から10年前なのだとしたら、まだイスキは死んでいないのだ。
そんなふたりの少年少女を、白髪の女性は冷めた眼差しで一瞥してから視線を、泣きじゃくっている子供たちと彼らを抱いて震えている修道女へ、それから床に落ちているアップルパイへと移していく。
トゥースの胸の光から発せられる攻撃性の火花が勢いよく跳ね上がった。彼女は眉根を歪ませて、歯を剥き出しにし、負の感情をはっきりと表情に出して口を開いた。
……メイリアの全身に鳥肌が立つ。目の前の女性がなにをいおうとしているのか、メイリアは知っていた。絶対にききたくない、その言葉。
死神が、吐き捨てるように。
「どうしてわたくしは……」
──どうしてわたくしは……。
──どうしてあなたたちは……。
ああああああああ。
不意にメイリアは耳を塞いで顔を突っ伏したくなり、それでも過去の自分のおぞましさから目を逸らせない。それ以上いわないで。これ以上、自分自身に失望させないで。お願いだから……。
「メイリアァァァァッ」
と、遠くから若い男性の叫びが近づいてくるのがきこえた。エバンスの声。教会へとおつかいに出した娘を心配してきてくれたのだろう。坂を駆け上がってくる愛する父の気配を、メイリアはここまで頼もしく感じたことはなかった。歪みかけていた日常が、狂いつつあった景色が色を取り戻していくような気がした。
騒がしい来訪者の登場により、死神トゥースは子供たちへの興味を削がれたらしかった。これ以上の面倒ごとを嫌ったのだろう。彼女は泣きじゃくる少年少女らから視線を逸らし、礼拝堂に背を向けて、甘い香りを放つ果樹園へと姿を消していった。
過去の自分の背中が夕暮れの闇に溶け込んで見えなくなるまで、メイリアは、なにもできなかった。ただ、このイカれた状況に混乱して呆然とことの推移を見守ることしかできなかった。ただ思考停止して、これは夢じゃないかと現実逃避しかけたまま、震えていることしか。純粋に怖かった。声の届く範囲にいるだけで避け得ない死をもたらす存在がそばにいることが、わずか1秒後に自分の死が確定しているかもしれない状況が、自分にそれほどの力があるのだといまさらになって身をもって思い知らされたメイリアは、自分が腰を抜かしていることすら意識できないまま、這うようにしてエバンスのそばまで歩み寄った。
「メイリア……ああ、怖かったろう。もう大丈夫だぞ、悪い魔物は魔女さまたちがやっつけてくれたから……あ」
愛娘を優しく、しかし力強く抱きしめるエバンスは、そこが孤児院であることを悟り、すぐにメイリアを抱えて坂を降り始めた。親のいない子供たちの前で親子の抱擁を見せてはならないと思ったのだろう。
父親の温かい胸に抱かれながら、ようやくメイリアは呼吸のペースを整えられつつあった。よかった。どうなるかと思ったけれど、あの様子なら死人もケガ人も出ていないはずだ。トゥースは放っておけばいい。そもそも彼女はめったにゼンリョー王国へはこないのだ。二度と会うこともあるまい。
「大丈夫だ、もう大丈夫だからな」とエバンスから頭を撫でられながら、メイリアの胸にかすかに希望が芽生え始めていた。
10年前……いまが、10年前の世界。まだイスキさまは死んではいない。生きている。いまなら取り返しがつくかも。彼を死なせずに済むかもしれない。彼を見舞った悲劇は、トゥースに感謝の気持ちと自分の恋心を伝えるため、10年後にあの砦まで赴いてしまったことが原因で起きるのだ。ならばそれをやめさせれば、イスキはあの紫髪の剣士に殺されずに済む。わたくしのせいで犠牲にならずにすむのだ。
父親の背中越しに栗色の少年の姿が遠ざかっていく。「オレ、まだあのひとにありがとうって、いってない……」とつぶやいている。彼の信念は固いだろうが、なんとしても説き伏せてみせる。ああ、もしかしたら自分は、あの少年を救うためにこの時間軸に転生したのかもしれない。メイリアの目尻が涙でにじむ。本当によかった。トゥースと関わらなければ、死神討伐隊なんかに参加しなければ、彼は10年後も死なずに、
死神討伐隊。
メイリアの呼吸が止まる。横隔膜がまともに機能しなくなり、目の焦点があわなくなる。いやな記憶が、メイリアの精神を蝕んでいく。
そうだ。10年後、死神トゥースのもとへ、あの討伐隊がやってくるのだ。トゥースは、あの異様に強かった紫髪の剣士にのどを掻っ捌されて殺される。それは、イスキがいようといまいと関係ない、穢れのせいで弱っていたトゥースがあの剣士に勝てるとは微塵も思えない。トゥースは、確実に死ぬだろう。
そして……そして。
死に際のトゥースの視界にはっきりと映った、剣士の首筋に浮かぶ黒い斑点。あらゆる人間たちに死を運ぶ呪術『疫病風』にかかった証。あれは見間違いなんかじゃなかった。
そうだ。トゥースは、死んだら『疫病風』を撒き散らすのだ。潜伏期間が一週間、ひとからひとへと感染していき、大陸で暮らす人間の半分を苦悶のうちに殺し、生き長らえた人々にも後遺症をもたらす最強最悪の呪術。
ずっと勘違いしていた──『疫病風』は失敗したのだと。だから世界が平穏なままなのだと。違った。まだ
10年後、トゥースの死によって、この大陸の人々に最悪の不幸が訪れる。メイリアだけじゃない、エバンスもリズも、エミディオもトトラもセルンも、イスキだって死ぬか、さもなければなんらかの身体的障害を背負って生きていくことになるだろう。
メイリアのせいで。
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