第3話 ~メイリア 7歳~

 人間はたとえそこがどんな環境であっても、一年も暮らせばよくも悪くも慣れてしまうものだとメイリアは身をもって知っている。奴隷主人に殴られ凌辱されるのも心を殺せば耐えられたし、世界をひとりで放浪していたときも孤独を友にできた。

 メイリアはいま、自分がこの平和な環境によい方向へ慣れようとしているのだと自覚していた。

 初夏。7歳になった彼女は父親手製のオーバーオールに身を包んで、肌にうっすらと汗を滲ませながら畑の草むしりに勤しんでいた。父親のエバンスは普段から土作りに余念がないのだろう、掘れば必ずミミズが顔を覗かせるふかふかな土壌は、どんな種類の野菜や穀物の種を撒いても元気な芽が出てくるであろうことを予感させるものだった。

 本格的な夏の到来を匂わせる分厚い白い雲が南からの海風に乗って青空に悠然と泳ぎながらメイリアを見下ろしている。水と日光に恵まれた豊かな土からは逞しい穀物や野菜たちが育まれていて、トンモコロシに太豆、キャベシにカヴ、トメイトウといったおなじみの収穫物のほか、春先には小さな芽を芽吹かせるばかりだったキャラットがにょっきりと赤い根っこを覗かせていたりもして、その生命力の強さには目を見張るものがある。

 草むしりの合間、のどの乾きを覚えたメイリアが真っ赤に熟れたトメイトウをひとつ失敬してかじってみる。糖度は十分、ほのかに甘酸っぱくて、噛んだあと舌に残るそのまろやかな旨みと独特の香りがなんともいえない。今日は土曜日。初等学校が休みのため、メイリアはエバンスの畑仕事の手伝いを申し出て、草むしりの作業を請け負っていた。子供の腕力でどこまで役に立てるかと心配していたものの、どうやったらこんなに柔らかくなるのかというほど土がふかふかなため、根っこごと草を引き抜くのもさして苦労はしなかった。引き抜いたあとは野菜たちの根本にワラを敷いて、直射日光から土の表面を守り、水気が飛ぶのを防いでいく。こうした地道な作業の果てに、商業街道の露店に並ぶ瑞々しい野菜は育まれているのだなとメイリアは実感するのだった。

 と、たくさんの蹄が土を踏み固める音がゆっくりと近づいてくる気配がしたのでメイリアが顔を上げると、白い毛皮に覆われた中型の草食獣ヒツジがあぜ道を横切るところだった。首にはピンク色の首輪を装着されていることから、どうやら近所のベイオードの家畜らしいことがわかる。家畜小屋から牧草地へと移動しているところなのだろう。

「おお、メイリアちゃん。お父さんのお手伝いかい」

 柔らかな男性の声に振り向くと、口元に豊かなヒゲをたたえた恰幅のいい初老の男性がヒツジとともに歩いていた。ヒツジ飼いのベイオードおじさん。いつも鐘のついた杖を持ち歩き、身体中からケモノの臭いを発しているひとだ。

 メイリアは土埃にまみれた手を胸の前でそっと重ねつつ、

「はい。おじさまもお変わりなくお元気なようでなによりです」

「ははは、相変わらずお姫さまみたいな喋りかたをするねぇ。そろそろ暑くなってくるから体調には気をつけるんだよ」

 当たり障りのないあいさつを交わしているうち、メイリアはヒツジたちのなかにとびきり小さくて元気に歩いている子供がいることに気がついた。少女の視線を辿ったおじさんは、

「ああ、このあいだ生まれたばかりなんだよ。よかったら撫でてみるかい」

「えっ」

 よろしいのですか、と言葉を続けるよりも先に、子ヒツジがメイリアの元へと駆け寄ってきた。つぶらな瞳をした子ヒツジはメイリアの足元にすり寄ってきて、彼女がそっと頭を撫でてやると気持ちよさそうに目を細めてくる。

 メイリアはむずむずする気持ちを押さえきれず、しゃがみ込んで子ヒツジを抱きしめた。ふかふかな毛並みに顔をうずめると太陽の匂いがして心地よい気分になる。子ヒツジもメイリアの抱擁が嬉しいのか、小さな前足をぱたぱたと動かして喜びを表現していた。

「この子の名前をおききしてもよろしいでしょうか?」

「ああ、名前はないんだ。この子だけじゃなく、うちの家畜にはみんな名前がないんだよ。お別れするときにつらくなるからね。その代わり、こうしておそろいのピンク色の首輪をつけてあるんだ」

 おじさんは屈託なく笑いながら、ヒツジの背中を優しく撫でていた。

 名前があると別れがつらくなる、という概念はメイリアにもよく理解できる。子ヒツジに顔を舐められながら、かつての眷属ペトルーシュカに思いを馳せるのであった。


 メイリアは2時間ほど畑で草むしりをしたあと、家の裏の井戸から桶で水をくみあげ、指先をタオルに浸して土を拭っていく。泥まみれになった小さな裸足から泥が洗い流されて、小鹿のような足先が光の粒を弾く。水の冷たさが運動後の身体に心地よい。

 ふとメイリアはまじまじと自分の指を見つめた。かつてのシワだらけの肌からは考えられないほど若々しくみずみずしい肌の弾力。長時間の草むしりのあとでも疲労が溜まっていない身体。子供の肉体とは、こうも素晴らしいものだったのか。細くて、短く、それでいて傷ひとつない手。なるべく傷つけたり、汚したりしたくないな、と思う。けれど反面、家族を養うために一生懸命に働いてごわごわになった父や母の手を美しいと思う自分もいるのだ。

 いったい自分はこれからどんな人生を送っていくのだろう、とメイリアは考えることがある。

 かつて復讐鬼だったトゥースは、ターゲットである奴隷主人を探し出して散々にいたぶってから殺すことだけを目的にして、その道中で気持ち悪いと感じた人間たちを殺しながら放浪することを生きがいにしてきた。

 もちろんあのころの屈辱をメイリアは忘れたわけではない。あの男をこの手で苦しめられなかったことは、いまの彼女にとって心残りですらある。

 ただ、またおなじ人生を送るのかといわれると、まっぴらごめんであった。

「復讐なんてやめて新しい人生を生きたほうがいいわよ。せっかくの人生、楽しまなくてどうするの」と、かつての師匠である魔女ハニィの言葉を思い出す。あのころは圧倒的な憎悪に駆られて彼女の言葉に耳を傾けなかったが、いまならその意味がわかる気がする。

 ただ。

 いまの自分には、なにもやりたいことがないのだ。

 呪いの反動によってイモムシになると悟ったトゥースは、空っぽだった。なにをしてもやる気が出ず、刻々と迫るタイミリミットに怯えながら砦に引きこもってしまっていた。彼女から復讐という生きる動機を奪った瞬間、ろくに歩くこともできない抜け殻になってしまったのだ。

 いまのメイリアも、なかば、その状態を引きずっている。

 思いつく限りの将来の夢といえば、家族みんなと健康で平穏に過ごしていくことくらいだ──まさしく引きずり転生だな、とメイリアは自嘲する。

 と、メイリアに続いて井戸端で身体中の泥を洗い落としていたエバンスが鼻歌交じりにメイリアへ声をかけてきた。

「さあ、お昼ごはんの時間だぞぉ。メイリア、働いたあとに食う飯はうまいかどうか、パパにきいてくれ」

「へ? あ、ええっと……パパ、働いたあとに食べるお食事は美味しいですか」

「ああ、うまいぞ、ママのごはんは最高だっ。メイリアもお腹いっぱい食べて、どんどん大きくなりなさい」

 白い歯を見せながらエバンスは小躍りしつつ玄関ポーチへと向かっていった。いまのは朝の作業を終えたときの儀式のようなものだ。メイリアは我知らず苦笑を漏らしながら彼のあとに続いた。

 玄関ドアを開くと美味しそうな香りがリビングに充満していた。エバンスたちの帰宅にあわせてリズが食事の準備を整えていたのだろう。エミディオとトトラもメイリアに続いて屋内へと駆け込んできた。

 リズはキッチンに立ってフライパンを揺らし、オーブンで肉を焼いているようだ。食欲をそそる香りの正体は、厚切りの牛肉にガジャイモやカヴなどの根菜をたっぷり添えて塩バターを塗ったマルトン風ステーキ、新鮮なキャベシとミニトメイトウと薄切りハムを2枚のパンで挟んだサンドである。昼間からずいぶんと豪勢な献立であるが、これも約束された豊作を祝っての前祝いであった。夜は改めてリズがメイリアとともに太豆をふんだんに使ったスープを作る約束をしていた。

 料理をたっぷり盛りつけた皿を両手に振り返ったリズは、ずいぶんと大きなおなかを抱えていた。現在妊娠8ヶ月目で、あと2ヶ月もすれば新しい家族が増える予定である。

 メイリアは、そんなリズの姿をなるべく視界に入れないようにしてテーブルについた。家族全員がそろい、いつもの祈りを捧げてから料理を口につけていく。

「うまいっ。うますぎるっ」

「おいしいーっ」

 という夫や子供たちの称賛の言葉に満更でもない面持ちのリズだったが、伏せ目がちのメイリアに視線を向けると、不意に話題を変えてきた。

「エバンス。明日の日曜日はやっぱり釣りへ?」

「もちろんさっ。先々週は海釣りだったから、今週は川釣りにしようかな。よかったらみんなもついてくるか?」

「いくーっ」「あたしもーっ」

 と口々にはしゃいだ声をあげる弟妹たち。うんうんとうなずくエバンスは、絶対に断れないキラキラとした子犬の瞳をメイリアへ向けながら、

「メイリアもくるだろ?」

 と誘ってきたのだった。



 ──────



 貿易都市アルトコロニーから南へと続く街道を西側へそれ、野原を30分ほど歩くとアルルの森の入り口につく。

 アルルの森は街からほど近い距離にあるため、王国の依頼により定期的に冒険者たちによる害獣討伐がおこなわれており、民草に迷惑をかける野犬やオオガミは姿を消している。いるのは無害な草食動物や小型の肉食動物ばかりで、あまり森の奥へ踏み込んでいかなければ女子供でも安全に散策を楽しむことができる。この森は狩り場や採取所としても利用されており、ハーブや食用キノコ、苔の採取や草食動物の狩りなどを目的とし、森の恵みを享受しているものもいる。さらに清らかな水源、温泉源が存在していることから、湯治に訪れたり水浴びを楽しむものもいた。

 静寂が支配する森は翠緑の葉と青空とが交わる空間で、自然の調和が見事に広がっていた。高い木々が太陽の光を遮り、地面には柔らかなシダや色とりどりの野草がカーペットのごとく敷き詰められ、ほのかに漂う花々の香りや羽虫の奏でる鈴の音が森のなかを散策する人間の心を癒すのである。ときおり旅人や採集者が訪れるのであろう、苔の上にいくつもの足跡が残されていて、それが自然と地面を踏み固める形で森の奥へと続く小さな道ができていた。

 エミディオの手を引き、トトラをおぶいながら慣れた様子でその道を進んでいくエバンスの背中をメイリアは追っていく。しばらく歩いていると木々が減っていき、目の前に幅広ながら背の低い滝が姿を現した。水量豊富で清らかな水がどぽどぽと音を立てて滝壺へと注ぎ落ちて、その周囲には飛び散る飛沫が光を乱反射して虹がかかる様は、まさに天然のカーテンである。川の流れ独特の香りと、心地よい涼しさがメイリアを包み込む。水を飲みにきていたらしい小動物たちがホーランド家の登場によって驚いてそそくさと茂みへと隠れてしまった。

「到着だぁっ。さあ子供たち、なにをして遊ぶ?」

「泳ぐーっ」

 真っ先にそういってすっぽんぽんになり川へ飛び込んだのはトトラであった。エミディオも負けじと服を脱ぎ捨てて妹のあとを追う。透明な水しぶきが空へと舞い上がり太陽の光を浴びて虹をつくる。この川は流れがゆるやかで深みもないため、3歳と5歳の子供が泳いでも流されることはないだろう。とはいえ、さすがに目を離すことはできないが。

 キャンプ用の焚き木を集め終えたエバンスが、川に両足を浸して涼んでいるメイリアに声をかけた。

「メイリアも泳いできたらどうだい」

「えっ。わ、わたくしは、その……」

「見ればわかるさ。本当は泳ぎたくてうずうずしてるんだろ? ここにはオレたち以外にだれもいないし、思いっきり楽しむといい」

 しばらく俯いていたメイリアだったが、相手が若い男性とはいえ自分の実の父親であると思い直し、透明な水に素足を浸しながらその場にワンピースを脱ぎ落とした。身にまとうすべての衣類を脱ぎ捨てて裸身を晒したメイリアは恥ずかしさを抑え込むようにぐっと両手を握りしめると、勢いに身を任せて川へ飛び込んだ。

 最初は冷たさを感じていたが、徐々に水の感触に慣れていき、お尻まで川に浸かったところで小さな足が力強く水面を蹴り上げ、身体全体に浮力を乗せた。水面を滑る浮遊感が心地いい。エミディオやトトラがふざけて抱きついてくるので水をかけ返してやる。

 思う存分に滝壺で泳いだメイリアは白い泡をまといながら水面から顔を出した。滝の流れが水面を叩く静かな音が全身を包み込み、シダの葉が擦れあうざわめきがわずかにきこえてくる。この大自然のなかにいると、自分が引きずり転生したことに対する懊悩がクリアになっていくような気持ちになる。まだ穢れを知らない純粋な子供に戻ったかのように楽しくなってきて、エミディオたちに交ざって水飛沫を高々と舞わせたり水中へ潜ったり、岩のあいだから顔を出す小さなカニを弄んだりと、遊びの時間に夢中になった。

「おおい、おまえたち。魚が焼けたからあがっておいで」

 いったいどのくらい川遊びに興じていたのだろう。いつの間にかお天道さまが中天へと差し掛かり、木々の梢を切り裂いて差し込んでくる白い陽光によって河原の石が静かに輝いていた。

 大きな魚を釣りあげていたエバンスが川辺から子供たちに呼びかけると、エミディオとトトラは元気よく返事をして全裸のまま大慌てで川からあがっていった。その後ろで恥ずかしそうに俯いて、自らの大切なところと右肩を隠しながら歩いていたメイリアを、不意に引き返してきたエミディオが引っ張って、背中からバシャッと川に突き落とした。

「わっぷ……な、なにするんですかぁ!」

 とメイリアが叱るものの、エミディオはにやにやと笑いながらさっさと焚き火のそばへ座ってしまった。

 呆れつつ、上体だけ起こしたメイリアが濡れた黒髪を絞っていると、川の水で顔を洗っていたエバンスが歩み寄ってきて、両手でメイリアを引き上げてくれた。

 成人男性のまえに全身を曝け出すことになってしまったメイリアが思わず赤面していると、ふとエバンスは、娘が右肩を隠そうとしていることに気づいたらしかった。生まれながらに彼女の右肩にある『023』と読めるあざ。生前、奴隷のころに焼きごてで刻印された忌々しい数字。どういった事情かわからないが、引きずり転生をした際にこの焼印までもがメイリアの肉体に継承されてしまったらしいのだ。自らのコンプレックスであると同時に、彼女の前世が死神であるという証になりかねないこの数字を、メイリアはなるべく衆人の目から隠すように努めていた。

「メイリア、もしかしてそのあざのことを気にしているのかい。パパはチャームポイントで可愛らしいと思うんだけれどな」

「えっ、あ……」

 言葉を濁すメイリア。エバンスはふと考え込むような素振りをして、

「パパ、思っていたんだ。もしかしたらそのあざは……」

「…………」

「天使の印なんじゃないかって」

「……。え?」

「きっと天国で神さまに仕えている天使たちの肩にはナンバーが刻印されているんだ。その天使の魂がおまえの身体に舞い降りてきて、その天使の名残があざとして表れているんじゃないかな……ほら、焼けたぞ。あったかいうちにお食べ」

 メイリアの返事を待たずに訳知り顔でうなずきながら、エバンスは焚き火で炙られていた川魚を子供たちに差し出してきた。緑色の鱗をテラテラと光らせた魚に塩を振りかけて焼いただけのシンプルな食べ物。一口かじってみると、ほどよく脂が乗って柔らかい食感がメイリアの口内に広がった。噛みしめる度にみずみずしい川魚の味わいが身体に染み渡る。

 ──もしかしてパパは気を使ってくれたのだろうか、とメイリアは思う。わたくしがこのあざを疎ましく思っていることを察して、その劣等感を払拭させるために天使の印なんて話をして慰めようとしたのだろうか。メイリアは彼の胸元に灯っている光がまばゆいほど透明な黄緑色であることを、どこか羨ましそうな眼差しで見つめた。見るものに温かな印象を与える、誠実さと思いやりを表す心の輝き。エミディオにもトトラにも、それぞれ同様の色が宿っているのをメイリアは知っていた。


       ──わたくしには決して望めない美しい色。

       ──自分の心の色までは見えなくてよかった。

       ──どうせ、わたくしの心の色なんて……。


「あっ、すっごく大きな魚がいた! ほら、あそこ!」

 一足早く食べ終えたエミディオとトトラがふたたび川へと走っていき、焚き火のそばにメイリアと父親だけが取り残された。

 メイリアは軽くほほを叩いて、腐りかけた思考から気をそらすようにエバンスへ語りかけた。

「ママも、一緒にきたらよかったのにね」

 娘からのその言葉が意外だったのか、エバンスは虚を突かれたような面持ちをメイリアへ向けてきた。

「え? ああ、うーん……まあ、メイリアは賢い子だからいってもいいか。エミディオやトトラには内緒だぞ。今日はパパな、ママにひとりを満喫してもらうために、おまえたちをキャンプへ誘ったんだ。ママは料理を作ったり、洗濯したり、おまえたちの面倒を見たりでなかなかぼんやりする時間を持てないからね。ぼんやりする時間がないと、ひとって疲れちゃうことがあるんだ。メイリアはそういうの、わかるかな」

 わかるような、わからないような……というところではあるが、メイリアは言葉もなくうなずいた。

「だからパパはママにお小遣いを渡して、アルトコロニーへひとりで遊びにいってもらったんだよ。たぶんいまごろはお芝居を見たり、そのへんの出店で買い食いをしたり、お洋服を選んだりしてるんじゃないかな。とくにこれからはもうひとり家族が増えて忙しくなるだろうから、いまのうちにひとりでのんびりしてもらいたかったんだよ。ま、パパもなるべくママをサポートしているつもりではあるけどね」

 もうひとり家族が増える──という言葉が、メイリアの身体を強張らせたのを彼は悟ったのだろうか。弟妹たちが川辺で石投げをして遊んでいるのを眺めながら、エバンスがふと話題を変えてきた。

「ママのことをちゃんと気にかけるなんて、やっぱりメイリアはいい子だ。このところメイリアがママとおしゃべりしてるところを見かけなかったから、ママとなにかあったのかなって、パパちょっと気になってたんだよ」

「…………」

 メイリアは唇を固く噛み締めていたが、やがて重々しく口を開いた。

「大丈夫。もうすぐ、またいつもみたいにお話できるようになるから。いまは、その……ママを見るのが、怖いんです」

「怖い?」

「ママの、大きなお腹を見ていると、その……なんていえばいいのか……怖いんです。怖くて、どうしようもなくなるんです……」

 我知らず、メイリアは自分の肩を抱えて震えていた。

 リズのおなかにひとつの生命が宿っていることに、メイリアはだれよりも早く気がついていた。ある日、ふと彼女の下腹部に視線を落としたとき、そこにあったのだ。見えるか見えないかというとても小さくて透き通った、この世の美をみっしりと詰め込んだかのような優しい光、生命の輝きが。リズは妊娠一ヶ月目であった。

 そのときから、メイリアはリズを直視できなくなった。家族のみなが喜びの声をあげて、彼女の膨らんだ腹を優しく撫でる姿を視界に入れないよう、なるべく母親に近づかないようにしていた。無論、メイリアが母親を嫌いになったわけではない。ただ、驚くほどに膨らんだ、皮膚の表面に蜘蛛の巣のごとく静脈が浮き出た、ときおり内側から蹴飛ばされてポンと形を変えるおなかを見ていると……。


       ──光が消失していく。生命が消えていく。


 歪む視界のなか、ふとメイリアは、自分が温かく柔らかな感触に包まれていることに気づいた。いつのまにかそばに寄り添ってくれていたエバンスが、半裸のメイリアを抱きしめていた。

「メイリアがママを嫌いになったわけじゃなくてホッとしたよ。だれにだって苦手なものはある。メイリアがそんなに怖いんだったら、無理をすることはまったくない。もうすぐ、ちゃんと元気な赤ちゃんが生まれるから、そうしたらまたママとおしゃべりできるかな」

「…………はい」

「ママにもちゃんと、そう伝えておいてあげるから、おまえはなにも心配しなくていいぞ。おまえはいい子だ」

 いい子なんかじゃない。

 天使なんかじゃない。

 そう自虐的に思いながらも、メイリアはエバンスの服の裾にすがりつくのだった。

 彼女は耳がいい。死神時代に戦場を渡り歩きながら20年近くも無傷で生き延びることができたのは、ひとえにひとの息遣いや何者かの忍び寄る気配をいち早く感じ取れる彼女の聴覚能力によるところが大きい。ありがたいことにメイリアの耳のよさは転生後も健在であり、人間の話し声だけでなく動物や虫の声、風に揺られる草の音といったあらゆる音を意識的に分析することが可能だった。

 離れた位置から人間サイズの動物が足音を殺しつつ茂みをかき分けて近づいてくるのを察知したメイリアは、父親へと注意喚起した。

「……なにかいる。けっこう大きな生き物っぽい。シカか、キツネかも」

「おおっ。このあたりはキャンプ場として利用されているから、野生動物が姿を現すことは珍しいんだぞ。おまえたち、こっちへおいで。なにか動物がいるってさ」

 あまりにも無邪気に、エバンスは子供たちを呼び寄せた。一方でメイリアは、音の出処をそれなりに警戒しつつ睨み続ける。野生動物ならいい。問題は、相手が野盗であった場合だ。

 このゼンリョー王国で暮らすほとんどの人間が善人であることを、彼らの胸に灯る光の色によってメイリアは知っている。性善説が生きて歩いているようなひとたちだからこそ、彼らは人間の悪意に対する免疫がないため、ごく少数の悪人の振る舞いが致命的な結果を招くことがある。警戒心も抱かずに信じた相手から金品を詐取されたり、子供を誘拐されたり。悪意あるいいかたをすれば、ゼンリョー国民は悪人からすれば絶好のカモなのだ。メイリアひとりならそんな悪人からのコンタクトも適当にかわすことができるが、エバンスなどは簡単に丸め込まれるだろう。場合によっては「根拠もなくひとを疑ってはいけないよ」などと諭してくるのは火を見るより明らかだ。厄介なことにならないといいけれど……などと思うが、実際のところ、メイリアはこの国に生まれてから、まだ一度もトラブルに見舞われたことがない。たぶん今回もなにも問題なく……。

 がさり、と乾いた音を立てて草場から顔を覗かせたのは、犬に似た灰色の毛並みを持つ鼻の長い四本脚のケモノであった。全身を覆う体毛は迷彩模様のようになっており、顔は獰猛な猟犬を連想させる凶暴性に満ち溢れている。生ゴミの腐ったようなすえた臭いを放ちながら低く唸るその肉食獣を観察したメイリアは、「なんだ、オオガミか」と肩をすくめた。

 死神時代、トゥースはこのケモノをよく使役していた。ひとたび呪術を用いれば、それなりに知能があるため狩りや夜営のお供として優秀だし、ボディーガードとしても役立つ。たくさんの数を引き連れて放浪するのは目立つためせいぜい3匹ほど従者として連れ回していたが、気がつけば彼らに愛着すら抱いていたものだ。消し去りたい記憶もあるが、それでも動物に罪はないのだから。

 ペトルーシュカ。

 ふとメイリアは、かつてもっとも頼りにしていた巨大な眷属を思い出した。世界を放浪していたときに偶然に発見した、ワルダー帝国の魔術研究所で実験動物として扱われ、死ぬことすら許されない身体にされていた巨大なゾンビ犬。気持ち悪い研究者たちを始末したのち、あの子を気まぐれで連れ回すようになってからはだいぶ生きることが楽になったと思う。オークすら噛み殺す力を有しながらも、主人に対しては無二の忠臣となり、一途な瞳を向けてくるペトルーシュカ。彼女がいなければ、おそらくトゥースは心の支えをとっくに失って、早々に自殺していたはずだ。頭を踏み砕かれて動けなくなった彼女の魂は、いまもあのボロボロの身体に憑いたまま砦の床に転がっているのだろうか。

 もし自分に治療士としての力があったなら彼女を浄化してあげたかったな、などと考えていると、

「みんな、パパのそばから離れちゃいけないよ。火のそばにいれば安全だからね。安心なさい、パパは強いんだ。これくらいならまったく問題ない」

 という張り詰めたエバンスの声がきこえた。子供たちは怯えて彼の背中にぴたりと張りついている。さっきまであれほど上機嫌だったエバンスの顔には緊張の色が入り混じっており、まばたきもせずに招かれざる客を睨みつけている。

 そうか、とメイリアは認識を改めた。ここは国民がレジャー気分で訪れることができるアルルの森だった。そんな安全な場所に、中型の肉食獣がいること自体がおかしいのだ。なにしろ王国軍や冒険者たちによって、この森の危険な魔物や肉食獣はあらかた駆除されているはずなのだから。いつのまにか西の魔大陸から流入してきたのだろうか。

 ふと気づくと、メイリアたちを取り囲む唸り声が増えていた。茂みから複数のケモノが赤い目を炯々と輝かせながら顔を覗かせている。数は10匹ほどだろう。オオガミは群れをなして獲物を狩ることで知られる生き物である。しかし、10匹とはまた多いな、とメイリアは思う。彼らはじわじわと輪を縮めて新鮮な肉を味わえる瞬間をいまかいまかと待ちわびている様子だった。焚き火がなければ連中はすでにメイリアたちへ飛びかかってきていただろう。

 と、エバンスが焚き火のなかからひときわ太い松明を持ち上げて振り回しつつ、

「ほら、子供たちを怖がらせるんじゃないっ。あっちへいけっ、しっ、しっ」

 と威嚇し始めた。オオガミは多少怯みはするものの、それでも獲物を諦めようとはしない。本来、あまり人間を襲撃することのない動物なのだが、よほど腹をすかせているのだろうか。

 けれど、エバンスのその行動のおかげで、メイリアが取ろうとしていた行動が不自然ではなくなった。彼女はその薄い唇を開いて、


《あっちへいけ》


 とオオガミたちへ命じたのである。身体に穢れが蓄積しないように憎しみも恨みも込めず、相手への危害を一切望まないように注意して、10匹もの肉食獣に初級呪術をおみまいする。

 とたん、灰毛の肉食獣たちは頭を横へ向けて耳を震わせたかと思うと、メイリアたちに興味を失ったかのように踵を返して茂みのなかへと姿を消した。梢を掻き分ける気配と足音が十分に遠ざかっていくのを確認してからメイリアは、せっかくのキャンプが台無しになっちゃったな、とため息をついた。引きずり転生をしてから初めてまともに呪術を使用したが、ブランクがあるにもかかわらず複数の相手、それも中型肉食獣を相手にまとめて初級呪術を付与できるのならまずまずだろう。これが上級の人間や大型の魔物相手となると話は変わってくるだろうが。

 エバンスはオオガミたちが脈絡もなくこの場を去ってしまったことに呆気にとられていたようだが、いまが好機と見たのか、すぐ帰り支度をして松明を手にし、子供たちの手を引きながらアルトコロニーへと向かった。

 アルルの森でのオオガミ目撃の通報を受けた役所はすぐさま一般人のアルルの森への立ち入りを禁じたうえで、冒険者ギルドにオオガミの討伐クエストを発行した。

 オオガミは初級冒険者、いわゆるDランクまでの駆け出しにうってつけの相手である。翌日の昼頃には100名を超える志願者が集い、オオガミ討伐隊が結成された。生肉香や誘引魔術などを駆使してアルルの森に迷い込んだオオガミたちをおびき寄せると、まず落とし穴にかけるなり投網に絡めるなりして動きを封じてから安全に仕留めていく。

 役所への報告を終えたエバンスは「もう大丈夫だよ、強いひとたちがオオガミたちをやっつけてくれるからね」と、夕食の席で子供たちに語った。

 その夜、トイレへいくために一階へと降りたメイリアは、両親の寝室から「うおおおおおんっ。怖かったよぉぉぉぉっ、もうダメかと思ったよぉぉぉっ」という成人男性の泣き声と、「うんうん、よく子供たちを守ってくれました。あなたはあたしの誇りよ、エバンス」という穏やかな女性の声、そして男女がイチャイチャする気配が漏れてきているのに気づかないふりをした。

 10日ほどの探索の末、合計5匹ほどのオオガミが駆除されたという話を、メイリアは後日、アルトコロニーで聞き及んだ。「残りの5匹が発見されるまではアルルの森へいくのはおあずけだな」とエバンスは物足りなさそうにいうのだった。


 メイリアは後日、《あっちへいけ》などという甘っちょろい命令しか使わなかったことを後悔することになる。



 ──────



 初等学校の1年生の教室には20人分の机と椅子が並べられており、児童たちはみな行儀よく座っていた。低学年のクラスを担当する教師は老女で、人当たりが柔らかく子供たちから人気が高い。特に彼女の教科書を読む声色は子守唄のようで、うとうとと舟を漕いでいる児童がひとりいた。

 この時間は文学の授業で、1年生はまだゼンリョー王国の基礎的な文字を覚える段階である。教室の壁には花や草や動物たちの絵画が飾られており、入り口のそばに置かれた水槽のなかではリュウキンカが長い尾ビレを振りながら気持ちよさそうに泳いでいる。教室の背後にオオガエルのぬいぐるみが置かれているのは、精神的に幼い児童たちへの学校側の配慮だろうか。

 窓際の席に腰を落ち着けながら、メイリアは老教師の授業を真剣に受けていた。伝説の魔女のもとで語学を嗜んだ彼女にとっては児戯にも等しい講義であるが、それでも多人数のクラスメイトとともに勉学に励むこの平穏な時間を、メイリアは噛みしめるようにして味わっている。

 ずっと学校へいきたかった。クラスメイトと一緒に勉強して放課後に遊んで。ずっと夢見続けていたそんな日常を、いまは心から謳歌できている。黒板に羅列された単語を教師が順番に読んでいくだけの単調な授業風景だが、それでもメイリアの胸は喜びに弾んでいた。

 初等学校では言語、算術、社会学、自然科など生活に欠かせない基礎的な学問を教え、数年後に通うことになる中等学校からは武術、魔術、法術、錬金術、芸術、さらには裁縫や料理など様々な分野の専門知識を教授することになっている。自らが持つ特性をより伸ばし研鑽し、夢を叶え、幸福な人生を送れる人材を育成するという名目のもと、教育課程には特別授業が多数用意されている。自分もいずれはなにかしらの専門分野に進むことになるのだろうと思いつつ、メイリアはいまはただ、のんびりとした時間に浸っていたかった。

 昼食には給食が出され、数種類のパンと果物、チーズサラダやミルクが配布された。表面をカリカリに焼き上げた3口サイズのロールパンにタマゴとキューリを挟んだもので、彼女はもっぱらこのシンプルなタイプを好んでいた。なにしろキューリはエバンスが育てたものを、この初等学校に卸しているのだから。児童や教師たちの口に入る野菜が自分の父親が作った野菜であることに誇りを抱きつつ、メイリアが残さず給食をたいらげたときには昼休みの時間となっていた。

 メイリアはクラスメイトに誘われて校庭へと遊びに出た。空模様はあまり芳しくなく、黒雲が立ち込めていつ雨が降ってもおかしくない様子だった。低学年の子供たちは雨雲など気にせず元気よく走り回っており、ほかのクラスの生徒たちもボール遊びをしたり木陰でおしゃべりしたりと思い思いの時間を過ごしていた。

 メイリアが参加したのはかくれんぼであった。どこの国にもある子供の遊戯で、道具も必要なく一試合あたりの時間もさしてかからないことから人気の遊びである。

 最初こそ「こんなお子様の遊びなんて」と思っていたメイリアであったが、これが意外と奥深かったりする。フィールドは校舎から校庭のすべてに至り、樹木や遊具、カーテンの裏などの隠れ場所が数多く存在する。これではあまりに鬼側が不利だということで、「鬼側が合図をしたら隠れる側は軽く叫ばなければならない」「捕まったらそのひとも鬼になる」など工夫を凝らして、メイリアは10人ほどの子供たちとゲームを楽しんだ。

 3度ほどローテーションしたときだ。ふとメイリアの視界に、校庭のすみでひとり木登りをして遊んでいる男児の姿が映った。よほど運動神経がいいのか、彼は10マートル以上ある高い広葉樹の幹をすいすいとマシラのように登っていく。枝から枝へ軽々と跳躍し、太い枝を両足で挟んで逆さ吊りになっては宙返りをしている。だが、その表情はどことなく浮かない様子で、かくれんぼをしている子供たちを物欲しげな眼差しで見つめている。

「あの子は誘わなくていいのですか?」

 とメイリアはさりげなくクラスメイトにたずねてみた。彼女は家族を除き、相手がだれであっても敬語を使うクセがまだ抜けていない。

「ああ、あの男の子? うーん、そうしてあげたいけど、ゲームにならなくなっちゃうから。名前はなんていったっけ……孤児院の子だからわかんないや。あの子ね、すっっっごく隠れるのも見つけるのもうまいの。勝負にならなくなっちゃうんだよね。ほかの遊びのときはちゃんと仲間に入れてあげてるんだけど」

 バツが悪そうなクラスメイトの説明をききながら、メイリアは木の上で寂しそうにこちらを眺めている少年を見上げた。年齢はメイリアとおなじくらいだろうか。背丈はメイリアよりもわずかに高いくらいで、質素な平民服を身にまとっている。おでこにかかる長さの栗色の髪を風になびかせている。髪の色とおなじ茶色の瞳は澄んでいて、人間が持つ暗い感情を一切うかがわせない。美形ではないものの歪みもない、これといった特徴のない素朴で目立たない顔立ちの少年を、どうしてだろう、メイリアはずっと昔から知っているような気がした。



 ──────



 昼下がりになると、灰色の分厚い雲に覆われたいまにも泣き出しそうだった空から雨が降ってきた。潤いの月である六月ミズナキが近づいてきており、この時期の雨は珍しくないため、メイリアは事前に準備しておいた雨除け用のマントを頭から被りつつ帰路をのんびりと辿っていく。

 人々の往来が激しい貿易都市アルトコロニーの門をくぐれば、住宅街からは一変して広大な野原が広がっている。春頃には赤色や黄色、紫色の草花で満開だった街道沿いの野原も、いまは青々とした新緑に彩られて、白色や黄色のツツジの花がそこかしこで咲き誇っている。春から夏へと移り変わっていくその刹那を、花々は精一杯謳歌しているのだ。濡れた腐葉土から放たれる初夏の薫りが、開花しようとしている花の香りと混ざりあっている。大気は湿気を帯びて冷え込んでいるが、メイリアの心は満たされた気持ちでいっぱいになっていた。こんなふうに清らかでみずみずしい歓びが心の底から湧き出てくるなんて、死神時代は想像したことすらなかった。これが幸福というものなのだろうか、と歩きながら考えたりする。少なくとも自分はいま充分に満たされているし、これからもそうありたいと願っている。

 ただ、いつかは自分もふたたび大人になるのだと思うと、ほんの少しだけ切なさもある。いったいいつまで自分は子供でいられるのだろう。いつから大人にならなければならないのだろう。

 昔の自分は、早く大人になりたかった。大人になって強くなれば、奴隷主人から運ばされる重い荷物も軽くなって、寒さも暑さも痛さも苦しさも我慢することができるようになると思っていた。そんな希望にすがっていたから、どんなに辛くても、泣きたかったときも、「大人になるまでの辛抱だ」と、ぐっと奥歯を噛みしめて抑え込むことができたのだ。

 けれど実際は違った。「大人になったら楽になれる」という希望があったからこそ、子供のころはあの地獄に耐えられたのだと思う。大人になったらもっと辛いことが待っているなんて知らなかったから。そんな希望すら取り上げられた先に待っているのが、苦痛と屈辱と絶望しかない世界だなんて知らなかったから。まあ、最終的に、生きるための目標は復讐そのものにすり替わってしまったけれど。

 いまは、どうだろう。自分は大人になりたいのだろうか。子供でいることが楽しい、と感じられるのは、いまが充実しているからにほかならないのではないか。

 なら、大人になる意味ってなんだろうか。いまより楽しいことが待っているという保証もないのに大人にならなくてはならないのは、ずいぶんと残酷なことじゃないだろうか、とメイリアはとりとめもなく考えたりする。こんな埒もない思考にたゆたっていられるあたり、やはり自分は平和ボケしてきているのかな、と苦笑したりもする。

 ふと視界の端、野原を動物らしき影が横切った気がしてメイリアはそちらを振り向いた。中型獣の息遣いと足音。草をかき分ける距離はそれなりに離れている。

 灰色の毛並みを持つ犬に似たケモノが早足でアルルの森のほうへ向かっていた。オオガミ。なにか大きな白いものを咥えている。草食動物でも狩ったのだろうか。ハンターや冒険者たちは5匹しか仕留めていないという報告だった。取り逃した5匹のうちの1匹か。森だけじゃなくこんな街に近い野原にまできているのか。メイリアにとってはただのザコ、あるいは眷属にすぎないが一般人にはそうではない。引き返して衛兵に報告したほうがいいだろう。踵を返そうとして、もう一度オオガミのほうを見る。

 咥えられている大きな白いものは、血を流した小さなヒツジだった。ピンク色の首輪をつけている。

 メイリアの全身に悪寒が走り、慣れ親しんだ嫌な熱が腹の底に生じた。考えるより先に彼女は叫んでいた。死神時代に動物を味方につけるときに愛用していた言葉。


《わたくしへの害意をなくせ、こっちへこいッ》


 メイリアの下知を受けたとたん、灰色のケモノは尻尾を振って彼女の足元に控えた。そして牙の合間から生暖かい鮮血を滴らせた白色の子ヒツジを落とし、そのまま静かに頭を垂れる。この状態であれば、このオオガミがメイリアを襲うことはありえない。

 黒髪の少女は地面に寝そべられた子ヒツジの容態を確かめた。首を食いちぎられて動脈が破れているせいで血まみれになり、腹の毛が赤黒く染まっている。瞳は虚ろで光をまったく宿していない。まだ温もりが残っており、死後硬直が始まっていないことから、襲撃を受けたのが1時間以内だと推察できた。ピンク色の首輪は、間違いない、おじさんの家畜がつけていたものだった。どうしてオオガミがこの子を咥えていたのか? 考えるまでもない、オオガミたちが村を襲撃したのだ。ここに1匹いるということは残り4匹……いや、そもそも10匹は考えられる最小の数だ。巣に20匹、30匹いてもおかしくない。それが集団で村へ急襲をかけていたとしたら。

 こんな街道の脇に置いていくことを心のなかで子ヒツジにわびながら、伏せているオオガミの背中にまたがるなり、


《村まで走れッ》


 と命じた。自分より4倍近くも重量のあるケモノの胸元に手を回し、灰色の毛を握りしめて振り落とされないようにする。

 オオガミは太くて硬い尻尾を振って駆け出した。小さな身体を宙に浮かせるほどの風圧が襲いかかり、メイリアはわずかに吹き飛ばされそうになるも両手で長毛を掴んでどうにか堪える。景色が猛スピードで背後へと飛び退っていき、オオガミの巨体が跳躍するたびにメイリアの小さな身体が大きくバウンドする。さきほどは見下ろしていたオオガミの頭部がすぐ目の前にあり、その生命力に満ち満ちた金色の瞳には前方の景色が反射していた。時間が惜しかった。村は無事なのか。エミディオやトトラは、たしか今日は畑で遊んでいたはず……。

 途中、馬を早駆けさせた壮年の男性とすれ違った。ベイオードおじさん。服の一部に赤黒い斑点を付着させて、顔中を涙で濡らしている。きっと衛兵に村での状況を報告しに向かっているのだろう。彼は中型の肉食獣を疾駆させている黒髪の少女を目撃して仰天していたようだけれど、いまはそちらに気を取られている場合ではない。

 村の方角、遠くない空に黒い煙が立ち昇っているのが見えた。貿易都市へ危機を知らせる狼煙か、それともオオガミ除けの焚き火だろうか。

 村の木製の玄関門へと飛び込んだメイリアが周囲を見渡すも、畑や牧場に人影はない。すでにどこかへ避難したのだろうか。家へ向かう途中、ベイオードおじさんの牧場が視界をよぎる。木製の柵が破壊されており、少量の鮮血と白い毛が地面に付着している。家畜たちの姿はなく、小屋の扉が閉じられている。被害はあの子ヒツジ一頭だけなのか、それともほかの子も……。

「広場へいったぞーッ」

 屋根の上に乗った近所の男性の緊迫した怒鳴り声がメイリアの鼓膜を震わせた。メイリアはオオガミに命じて広場へとひた走る。オオガミはチームワークを重んじる動物であり、一丸となって獲物を付け狙うことが多い。1匹見かけたら、たいていそこは集団が揃っている。メイリアが使役している個体は、おそらく獲物を巣へと運ぶ係だったのだろう。

 整然と並ぶ広大な畑の真ん中に、催事や祭事をおこなうための広場がある。普段は村の住民たちの憩いの場として活用されているその広場は、緊急時に村人たちが避難できる場所として機能していた。

 畑仕事をしていたであろう人々がその広場の中央に寄り集まり、小さな子供たちを背後に庇いながらオオガミたちの動向をうかがっていた。人数は15人ほどだろうか。円を描いて集う彼らの中央にはもうもうとした黒煙を巻き上げる巨大な篝火があり、黄色い灯りが恐怖に震える人々の顔を照らしている。さきほど空へと昇っていた狼煙は、やはりオオガミ除けのものだったようだ。彼らは家へ逃げ込む間もなく、ここへ追い詰められたらしい。若い男性が松明を振り回してオオガミを追い払おうとしているが、それもどこまで効果があるのか。オオガミは円陣を縮めつつ、じりじりと村人たちとの距離を詰めていく。

 その人々のなかにエバンスとエミディオ、トトラがいた。子供たちをかばうように抱きしめている父親の姿を確認したとき、メイリアの手のひらに痺れが走った。思考が白紙になり、後先も考えずに彼女はみんなの前で叫んでいた。


《襲うなッわたくしの前へひれ伏せッ》


 元死神の少女の命令が、オオガミたちの筋肉を勝手に操った。耳まで裂けた口からよだれを垂らしていまにも獲物たちに襲いかかろうとしていた中型肉食獣たちは、全身をビクリと硬直させた直後、そのまま居住まいを正してケモノにまたがった少女へと向き直り、おすわりをした。

 その場にいる全員が呆気に取られるなか、メイリアはオオガミの背中から飛び降りるなり、柳眉を吊り上げて襲撃者たちを睨みつけた。危なかった。篝火に守られていなければ、ここにいるひとたちは、このケモノたちの牙にかかっていたに違いない。そうでなくてもオオガミは集団になると気が強くなって大型獣さえ襲うことがあるのだ。メイリアの到着が遅ければどうなっていたことか。

 オオガミも生きるために食料を狩らなくてはならないことは重々承知している。だが、胸の底から湧き上がるどす黒い怒りがメイリアの理性を汚染しかけていた。


       ──可哀想に。あの子ヒツジにはなんの罪もなかったのに、こいつらが殺してしまった。

       ──こいつらにはお仕置きが必要よね? ちょうどいいじゃない。中級以上の呪術を転生後に持ち越しているか、こいつらで実験してみましょうよ。

       ──それとも、わたくしは子ヒツジを殺されたことをなんとも思っていないの? わたくしを慕って顔を舐めてくれた、あの可愛い子を殺したこいつらを許すの?

       ──お願い。あの子の仇を……。


 ……メイリアは。

 かなり強い力で自分のほほを引っ叩くと、大きく吐息を漏らしてから村の平和をかき乱したモノたちを見据えた。


《二度と人間や家畜を襲うな。家族とともに魔大陸へ帰れ》


 可能な限り、憎しみも恨みも乗せないよう注意しながら、メイリアは初級呪術を口にした。メイリアにはわかっていた。この8匹のオオガミたちは、アルルの森で冒険者たちによって殺された5匹の仇を討ちにきたのだ。オオガミは賢い生き物だ。彼らは恩も仇も忘れることはない。それを知っていながら、メイリアはさらに言葉を続けた。


《人間への恨みを忘れて生きろ》


 絶対的な強制力を持つその言葉を耳にしたオオガミたちは、直前まで食肉としかみなしていなかった村人たちへの興味を不意に失ったかのようにふいと顔をそらして村の出口へと走り去っていった。メイリアは、子ヒツジを食い殺したオオガミの灰色の尻尾が遠ざかっていくのを、瞳を細めたまま見守り続ける。うまく説明のできない悔しさに胸を軋ませたまま、メイリアはこぶしを強く握りしめていた。

「……メイリア。おまえは……」

 ふと背後からエバンスの声がして振り返ると、何十という村人たちの視線が、初級呪術を平然と使いこなした黒髪の少女に注がれていた。

 のどを詰まらせるメイリア。これだけたくさんの人々に呪術を使用しているところを目撃されたのだ、彼らはメイリアが普通の女の子ではないことに気づいただろう。けれど、彼女はあまり慌ててはいなかった。初級呪術を用いれば彼らの記憶を霞ませることができるからだ。死神時代のトゥースも《わたくしを忘れろ》や《死神は初老の男性の姿をしていたと記憶しろ》というシンプルな言葉によって目撃情報を混乱させて姿をくらまし、生き永らえてきた。

 しかしメイリアは、この純朴な村人たちに、手前勝手な呪術を付与することにためらいを覚えていた。無垢な瞳を向けてくる、悪意や害意なくメイリアと接してくれる友人たちを、メイリアの都合でコントロールするのは彼らに対する冒涜のような気がしたのだ。

 どうすべきかメイリアが逡巡していると、エバンスが声を震わせてたずねてきた。

「おまえは……本当に、天使の生まれ変わりだったのか……?」

 …………ん?

「そうだ……このあいだのキャンプのときも、おまえが《あっちへいけ》っていったとたんにオオガミたちは逃げ出したし。おまえにはもしかして、動物を自由に操れる力があるんじゃないか? おまえの腕のあざを、パパは冗談で『天使のナンバー』っていったけど、あれって真実だったんじゃ……」

 エバンスは自分の推論に自分で興奮を覚え始めたらしく、夢見る少年のごとく瞳を輝かせ始めた。

 いやいやいや、とメイリアが父親の勘違いを否定するよりも先に、村人たちが同調して声を上げていく。エバンスの仮説を裏付けるだけの根拠が次々と飛び交った。

「そういえば……オオガミに乗ってここまできたしな」「さっきのオオガミを見たか? メイリアちゃんのいいつけに従って、魔大陸のほうへ帰っていっちゃったぜ」「あたし知ってるわよ。メイリアちゃん、お料理がすっごく上手なんだって。教えたことのない献立まで知ってるらしいわよ。リズからきいたの」「働きものだし」「行儀もいい」「言葉遣いなんてお姫さまみたいに丁寧じゃしの」「あるいは聖女さまの生まれ変わりかもよ」「嫉妬やきもちの魔女シエル・クローバーハートの? ……あり得る!」「みんな、天使さまでも聖女さまでも、どっちだっていいじゃない。いずれにせよ、この子は村の英雄よ」「エバンス、おまえは本当に幸運な男だなぁ。水の女神だけじゃなく天使まで家族だなんて」「天使さまじゃぁぁっ」

 違う、わたくしは天使なんかじゃない。本物の天使だったら、もっと早く村の危機に気づいてあの子ヒツジを可哀想な目になんかあわせなかった。本当の聖女だったら、法術を使ってあの子を助けられたんだ──そんなメイリアの胸中も知らず、本人をほったらかして大盛りあがりになる村人たち。

 ふとメイリアは、何者かが自分の手を引いている感触に気づいた。まだ小さな妹トトラが、おずおずとした様子でメイリアに語りかけてきた。

「お姉ちゃんは、天使さまなの?」

 穢れのない眼差しに射抜かれながら、メイリアは……。

「……。このことは、ひとにはいわないでね。みなさまも、どうか、このことは村の外のひとには内密にお願いできますでしょうか。わたくしは、いままでどおり普通の女として、平穏にこの村で暮らしたいのです。特別扱いしていただくのは、どうも不得手でして……」

 自分が天使であるともないとも明言しないまま、メイリアは村人たちに頭を下げた。まさか自分が死神の転生者であると伝えるわけにもいかず、さりとて天使ではないと否定すれば彼女の正体を探られかねない。だったら「メイリアは天使かもしれない。そうじゃないかもしれない」と曖昧にごまかしたほうがよさそうだと考えた末での結論だった。

 村人たちは、メイリアが呆れるほど素直であった。

「わかった、メイリアちゃんがそういうなら」

 とふたつ返事で承諾すると、あとは「まあ人間に被害はなかったけど、ベイオードんとこは気の毒したなぁ」「子ヒツジも可哀想に」と、今後の生活に残るであろう傷跡について慰めあう会話へと移行していった。

 自分の生命が助かったことに喜ぶだけでなく、悲しみを負うひとへの気遣いを忘れない。彼らの胸に宿る透き通った黄緑色の清らかな光。メイリアは彼らを、家族を救えたのだという自覚がいまになって湧いてきて、我知らず瞳を細めたのだった。


 事後の処理は滞りなくおこなわれた。

 オオガミ除けの柵はより厳重に建て直され、犠牲となった子ヒツジは弔いも兼ねて村人たちで美味しくいただき、ベイオードおじさんにはホーランド家からも見舞金が支払われた。オオガミ退治のためアルトコロニーから少なくない数のハンターが派遣されたものの、襲撃者たちの足跡がまっすぐに魔大陸へと続いていたため追跡は困難と判断され、十日後には解散されたという。

 襲撃当日の夜、ことのあらましをエバンスからきいた母親リズが、生まれたばかりの赤ちゃんを背負いながら、あごに手を当てて考え込むいつもの仕草をしてから、

「……そう。天使か、そうかもね。うん、天使でもなんでもいいわ。あなたはあたしの誇りよ、メイリア。家族を守ってくれてありがとう」

 といい、そっと彼女を抱きしめてくれた。メイリアはわずかに身体を強張らせたものの、その温もりが心地よくて、母の腕に身を任せるのだった。

 かつての死神はいま、殺したいものがなにひとつない世界に包まれていた。

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