第二章 呪術士メイリア 6~7歳

第2話 ~メイリア 6歳~

『ゼンリョー王国。

 肥沃な土壌に恵まれたこの地では、麦や野菜の栽培が盛んである。貿易においては隣国のチューリツ共和国との往来が盛んで、沿岸漁業の漁獲量も豊富。国土の北部は大陸内でも有数規模の穀倉地帯でもあり、国力の源となっている。工業においては山を切り崩して開発した鉱山からの金銀銅、鉄、硫黄、石炭の産出が主力産業のひとつであり、これに従事する労働者たちで構成される街は治安がよく経済活動も活発である。気候は温暖で過ごしやすく、水資源も豊富だ。各地で温泉が見つかり、観光産業も盛んである。

 この地は現国王リゼンベルグによって治められている。彼はゼンリョーの英雄と呼ばれる。彼の代において王国は飛躍的な発展を遂げ、近隣諸国における富の分布を塗り替えるに至った。平和を重んじる国柄でチューリツ共和国への援軍戦争を除く戦争を、長らく経験していない。国民の生活水準は高く、ワルダー帝国を除いて近隣諸国との摩擦はない。治安がよく、食料価格も安定しているため、国民の不満は少ない。

 ただし西側は国境を隔てて多くの魔物が生息している魔大陸と接続されており、魔物との戦闘で命を落とすものも少なくない。近年、大陸からあふれ出した魔物によって犠牲となる民が増加傾向にあるため、王国軍や冒険者ギルドに依頼される討伐クエストの量は増加の一途を辿っている』

 

 ゼンリョー王国に関する文献を読み漁っていた少女は静かに本を閉じてその端正な顔をあげた。

 アルトコロニー国立図書館は五階建ての建物で、一階につき蔵書数は三千冊ずつ。二階にはこの図書館の目玉である絵画展示エリアが広がっている。美術史に残る著名な画家たちの原画や絵手紙、あとは宗教的な書物など年中最新のものが展示されていた。三階には古典文学や詩歌などが収納されている。四階と五階は各種専門書や研究用の資料類が納められており、錬金術関連の書籍もこの階に保管されている。

 少女が二階のテーブルに腰をかけて読み漁っているものは、彼女が暮らすゼンリョー王国の歴史に関するものだった。

 図書館のなかは静寂に包まれ、壁に掛けられた振り子時計だけがカチ、コチと音をたてて時間の流れを告げている。整然と並んだ本棚には分厚い歴史書から絵本まで各種取り揃えられていたが、いまはひとの姿もまばらである。平日の午前中は図書館の職員もひまを持て余しているらしく、受付窓口ではお人好しを絵に書いたような中年女性が児童文学らしき本に視線を落としていた。

 少女は漆黒の瞳を机に落としたまましばらく物思いに耽っていたが、やがて物音を立てないように立ち上がり、階段を降りている途中で、ふと壁にかけられている姿見に視線を移した。

 清潔な平民の衣装に身を包んでいる6歳の少女がそこにいた。肌は白磁器のようになめらかで髪も瞳も深みのある烏の濡羽色をしている。やや垂れ気味の目尻。通った鼻筋。薄い唇。顔の輪郭は細面で、さらさらと流れるような長い黒髪を背中で束ねている。背丈は110cmほどで、年齢と比較してやや小柄だった。着ているものは余計な意匠の凝らされていない薄茶色のワンピースで、ゼンリョー王国ではごくありふれた服装だった。

 少女はじっと自分の容姿を見つめたまま物思いにふけっていたが、やがてその小さな口を開いた。

「わたくしは、メイリア。メイリア・ホーランド。歳は6歳。貿易都市アルトコロニーの郊外にある農家の生まれ。父の名はエバンス、母の名前はリズ。ふたつ下には弟のエミディオ。よっつ下には妹のトトラ。我が家はイルド教を信奉している。来年には初等学校へ入学予定」

 息を整え直し、

「……わたくしは、もう、死神じゃない。トゥースじゃない。わたくしは、メイリア……慣れなくちゃ」

 自らをメイリアと名乗った少女は、鏡のなかに映る自分から目を背けるように踵を返し、図書館から立ち去った。

 貿易都市アルトコロニーは、その広大な土地を囲うように高い城壁によって円形に囲まれている城塞都市だ。都市の中心部には市庁舎をはじめ商業地区、工業地区、居住区などが集まり、門を隔てて外側には広大な農地が広がっている。人口の四割は農業に従事しており、三割が工業に、残りが商業や衛兵、冒険者などの都市内での労働に携わっている。

 レンガで舗装された大通りでは野菜や果物を乗せた手押し車がゆっくりと行き交っていて、その隙間を子供たちが楽しそうに駆けている。花柄のエプロンをつけた母親が子供を背中におぶって歌を口ずさみながら歩いている。年老いた男性と手を繋いでいるのは彼の息子だろうか。畑仕事の道具を手にしている青年のはつらつとした声が、遠方から響いていた。

 建物や道路のあちこちにはガーデニングが施されていて、レンガ造りの古風な町並みを色鮮やかな花々が鮮やかに彩っている。春の日差しが雲の隙間から差し込んでいた。太陽はまもなく中天に差し掛かろうとしており、東風に乗って小さな白雲が山へと流れていくのが見える。

 大通りをしばらく歩くと街の人々の憩いの場となっている中央広場がある。メイリアはそこの噴水のそばのベンチに腰を掛けて、幸福な時間を堪能している人々の様子を、どこか虚ろな眼差しで眺めていた。

 彼女は手のひらをグーパーと開閉させて、だれにもきこえぬよう小声でつぶやいた。

「お師匠さまからきいてはいたけれど、まさかわたくしが引きずり転生をするなんて……」

 6歳の少女メイリア・ホーランド──かつての死神トゥースは、ぼんやりと自分を拾ってくれた師匠、ハニィ・スカイハイツの言葉を思い出していた。

 生物は息を引き取ると、その魂は次の生命へと転生する。ただし前世の記憶を継承して次の生命へと生まれ変わることは、ごくごく一部の例外を除いて不可能だ。かつてのしがらみや思い入れを忘却の彼方へ追いやることでいったん魂の穢れを洗い流し、まっさらな状態で新たな生命を享受することが、この世の通例なのだという。

 しかし、ごくまれに生前の記憶や能力を維持したまま、次の肉体へと生まれ変わる事例が存在する。そういうものを転生者、あるいはその執念深さや往生際の悪さから引きずり転生などと呼ぶそうだ。ハニィ・スカイハイツもかつてチキューという世界のニホンと呼ばれる国で暮らしており、そのときに身につけていた薬学、化学、生物学、博物学の知識によって世界に名を馳せ、いまでは300歳を超える錬金術の権威、伝説の魔女として隣国のチューリツ共和国に君臨している。

 メイリアもどうやら、その転生者になったらしい。それも異世界へ転生したお師匠さまのケースとは異なり、国こそ違うがおなじ世界、おなじ大陸で。

 転生した直後はわけがわからなかった。いましがたまで血の海に倒れていたはずなのに、ふと気がついたら、とある家庭の食卓に座っていたのだから。

 20歳後半くらいの父親と母親、小さな弟と妹に囲まれて、彼女は温かい料理を口に運んでいるところだった。ドテカボチャを蒸してバターで味付けしたなんともいえない甘みを頬張っている最中に「あれっ」と、死神トゥースだったころの記憶が蘇ってきたのだ。

 呆然とスプーンを口に咥えたままの愛娘の様子を見て、父親のエバンスは、

「どうした? ママの料理が美味しすぎてビックリしちゃったか? そうだろう、そうだろう。パパの育てたドテカボチャをママが料理すれば最高のごちそうに仕上がるもんな! ほら、たくさんあるからたんとお食べ。子供はいっぱい食べて元気に大きくなるのが仕事だからな。しかしこれホントにうまいな! うまいぞぉっ、うまい、うまいっ」

 白い歯を見せながら自分が育てたドテカボチャの品質を自画自賛するエバンスの横で、母親リズは静かにワインを傾けて父親のグラスに酒を注いでいる。大口を開けてカボチャ料理を頬張る父親の姿を唖然と見つめるメイリアを、妹のトトラが不思議そうな顔をして覗き込んでくるのだった。

 不思議なことに、死神トゥースとしての自我はその瞬間に新しい肉体で目覚めたにもかかわらず、彼女にはその家族から大切に育てられてきたという記憶──というよりも思い出が数多く残っていた。物心つく前に父方の祖父を亡くしていること。おしゃべりな父親の趣味が川釣りであること。無口な母親はあらゆる家事が得意であること。エミディオはメイリアと遊ぶことが大好きであること。トトラは好奇心が旺盛で兄の真似をしたがること。すべて、メイリアは覚えていた。

 そして、彼女には死神トゥースとしての記憶もたしかに存在していた。

 メイリアは噴水を覗き込んだ。透き通る水のなかに、虹色に輝く尻尾を翻して優雅に泳ぐ大きな魚の姿があった。メイリアは黒色の瞳を細めると、緑色の鱗に太陽を反射させて悠然と身体を翻す魚へと静かに声をかけた。


《円を描いて泳げ》


 とたん、緑色の大きな魚は噴水の内周を二度ほど旋回したあと、尾びれで水を叩いて水底へと潜っていった。

 メイリアは静かにため息をつく。すでに何度か試してはいるが、どうやら彼女は死神としての力を持ち越しているらしかった──とはいえ、相手の死を願い、危害を加えるレベルの呪術はこの幼い肉体に穢れを蓄積させてしまうため、使用できるかまだ確認していない。しかしこの手応えなら、前世で体得した呪術はすべて駆使できるだろうという手応えはあった。もっとも、彼女にはもう、呪術を乱用するつもりはないが。

 ──あれからどうなったんだろう、とメイリアは思う。

 死の間際に目視した光景を、メイリアは思い出している。

 疫病風。大陸の人口の半分ほどの死に至らしめるはずの、死神トゥースが編み出した最強最悪の呪法。彼女の死によってそれが発動したはずだ。

 あの紫髪の剣士の首筋に浮かんでいた黒い斑点は、トゥースの最期の呪術が成功した証だった。ということは、あの剣士の帰還先や、立ち寄った村や街のあちこちで、致死性の疫病を撒き散らしているのは疑うべくもない。なのに。

 メイリアが顔をあげると、暖かな陽光の下で幸福な日常を謳歌している人々の姿が目に入ってきた。楽しそうに会話をしている恋人たち、無邪気に親の手を引く小さな子どもたち。ベンチに腰掛けて編み棒を動かす老女とその背後で居眠りする中年男性。優し気な微笑みを浮かべながら花に水をやっているエプロン姿の女性。

 かつてトゥースが弾き出した試算では、疫病風の影響はこの国にまで届いているはずなのだが、どう見てもこの街は疫病の影響を受けていないようだ。そんなことがあるだろうか?

 メイリアはその疑問を解消すべく、さきほど図書館でこの国に関する情報をかき集めていたのだった。結果、疫病風の『え』の字もこの国では話題になっていないことが判明した。つまり、疫病風による死亡者を出すことはおろか、疫病に関する情報すら、この国には届いていないことになる。

 これが意味する可能性はみっつある、とメイリアは考えている。

 ひとつ。疫病風はまだこのゼンリョー王国にまで届いていないだけで、ワルダー帝国やチューリツ共和国では猛威を奮っている──この可能性は非常に低いだろう、とメイリアは思う。なぜなら諸外国の情報にすら疫病風の発生が見受けられないためだ。つまり、この大陸のすべての国において、いまだ疫病風はその脅威を晒していないことになる。

 ふたつ。じつはすでに疫病風はこの国を襲っているのだが、その痕跡すら消え去るほどの時間が、転生するまでのあいだに経過しているというケース。数十年から数百年も過去のことであれば、世界を股にかけるほどの大疫病とはいえ過去の記録として残っていないのも無理はないかもしれない──が、これも可能性は低いだろう。なぜなら、現在のこの国の風景は、かつて彼女が死神だったころ、ふらりと立ち寄ったときの文化レベルとほとんどおなじだからだ。それだけの時間が経っているのであれば、彼らの生活水準があのころと大差ないのはおかしい。なにより、メイリアが知っている人物がまだ存命であることからもそれがうかがえた。たぶん、トゥースの死からさほど時間は経過していないはずだ。

 みっつ。疫病風が失敗したという可能性。これが本命だろう、とメイリアは考えている。なぜなら疫病風そのものが死神トゥースの創作呪術であり、理論上の成功確率には自信があったものの、実際の試行回数はまったくのゼロだったからだ。ぶっちゃければ、ぶっつけ本番だった。あのときアルタイルという剣士の肌に浮かんだ斑点は見間違いか、生来のものだったのか、さもなければ疫病風そのものが大した被害をもたらさず、ろくに人々へ感染しなかったのだろう。

 つまり、トゥースは失敗したのだ。なんの意味もなく、罪のない若者を巻き添えにして、犬死にしただけ。認めるのは悔しいが、それが現実なのだろう。


       ──ああ、わたくしのかつての人生は、いよいよなんだったのだろう。せめて最期に、この世界に大きな傷を残してやれると思っていたのに。

       ──どうせ引きずり転生をするのなら、もっと早く死んでおけばよかった。あんなつらく苦しい屈辱の日々を送るくらいなら、もっと早く自殺でもしていれば……。

       ──それにしても、こんな理不尽があっていいのかしら。生まれが違うというだけで、奴隷に生まれるか平民に生まれるかで、ここまで人生の幸福度が変わるなんて許されていいの?

       ──そうだ。もし不幸なひとを見かけたら、あなたも次の人生に賭けて早く死んだほうがいいと教えてあげましょうよ。どうせ人生は運次第。生まれた環境が悪ければ、生きていたっていいことなんかなにもないのだから。

 

 どろりとした思考に嵌りかけた少女は大きく首を横へ振り、通行人にきかれることも厭わず声を荒らげた。

「わたくしはメイリア。メイリア・ホーランド……トゥースじゃ、ない。わたくしは、奴隷じゃない。死神じゃない。だから……もう考えるな。忘れろ。もう全部、終わったんだから。悲しいことも、つらいことも、全部、なくなったんだから。好きなように遊んでもいいし、勉強もできる。友達だって作れる。大きくなったら」

 わずかにいい淀み、

「大きくなったら、赤ちゃんだって、作れるんだから。もう嫉妬しなくていい。もう憎まなくていい。もう、だれも、呪わなくていいんだから」


       ──どうして、わたくしは……。

       ──どうして、あなたたちは……。


 早春の日差しを浴びながら、メイリアはベンチの上でぎゅっと身体を縮こませて、あのイスキという青年のことを想った。

 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

 トゥースと関わらなければ生きていられただろうに。自分のせいで若くして生命を散らせてしまったあの青年に、メイリアはもう届かない謝罪を繰り返す。国外へ足を運べるまで成長したら、あの砦へいこう。そして彼の亡骸を葬ってあげなくてはなるまい。

 ──だれかのために墓を作るのは二度目だな、と自虐的な感慨に囚われながら、メイリアはハムを挟んだパンをひと齧りすると、それを飲み込んだあとに眼を細めた。死神だったころは魚と蔓草と豆と虫ばかりの食生活だったので、こうして文化的な料理を口にするたびに、こんな幸せな体験がこの世にあるのか、これはじつはトゥースが今際の際に見ている夢ではないのか、と勘ぐってしまうのだった。このハムパンを購入するお金は、母のリズから渡されたお小遣いから出したものだ。奴隷時代にはどれだけ働いても1ダラー(1ダラー=およそ100円)だってもらえなかったのに、いまは子供ながら自由にできるお金があるなんて。

 メイリアはパンをたいらげるとベンチを立ち、家路をたどった。今日はお昼ごろに帰宅することを両親に告げていた。約束を違えることはしたくなかった。

 屈強そうな門番に見送られて貿易都市の門をくぐると、街の外には春が広がっていた。南に位置する海へと続くまっすぐな街道沿いに黄色や紫色や白色の小さな花々が咲き誇り、甘い香りがそよ風に乗ってメイリアの鼻腔をくすぐってくる。風を浴びた草花たちが、虹を思わせる色彩の波となって次々に頭を垂れている。はるか彼方には山並みの雄大な稜線がくっきりと見える。頭上から降りそそぐ太陽は母の腕に包まれるように暖かで、時折それを遮ってくれる木漏れ日もまた穏やかで心地よい。

 それは彼女のかつての生のなかでは見たことのない平和で雄大な光景だった。いや、たぶん以前から彼女とともにこの風景はあったのだろうが、まるで気づかなかった。

 土を踏み固めて舗装された街道を徒歩で数十分も南下すると、広大な耕作地が見えてきた。王国の大穀倉地帯であるこの農地はいまが旬とばかりに一面の麦畑となっていて、春風にたなびく無数の麦穂が緑色のさざ波となって揺らいでおり、その光景はメイリアにすら神の存在を感じさせるほど神秘的に思えた。この国は古くから暴食はらぺこの魔女と呼ばれる樹霊の恩恵を受けていて、天候や風土の乱れなどが農作物に悪影響を与えず、毎年の豊作を約束されているのだという。ホーランド家も暴食はらぺこの魔女イルドを豊穣の神として信奉しており、年に四度ほどアルトコロニーにて開催される豊饒祭で魔女イルドに収穫した中麦と地酒を奉納するのが習わしだ。

 街道を横道へそれ、並木道に沿って歩けばメイリアが暮らす村にすぐに到着する。およそ50世帯が肩を寄せあい暮らしている小さな集落で、村人のほとんどは農業か牧畜に携わっている。まもなく迎えようとしている穀物の収穫期を期待してか、彼らの顔は明るい。畑で土を耕している男たちには疲労と満足げな笑顔が同居しており、女たちも炉端に集まっておしゃべりに興じたり家畜の世話をしており、子供たちは近所の小川で釣りに興じたり、あるいは日陰で本を読んでいるようだ。

 村は背の高い木製の柵で囲まれている。これは魔大陸から迷い込んできた魔物や、オオガミなどの害獣の侵入を妨げ、同時に家畜の逃亡を防ぐためだ。これは王国のあちこちで採用されている安全装置だが、いくら徹底していてもまれに魔物が柵を破壊して侵入することがあるし、オオガミのような野生動物が忍び込んでくることがある。まさかの事態に備えて夜は男衆が見回りをしているのが常だ。

 メイリアの家はレンガ造りの二階建てで、大きな煙突がついている。小さな出窓や小物いっぱいのポーチなど、童話に登場するお菓子の家を彷彿とさせるデザインなのだが、壁や床を隙間なく覆うレンガは頑強な造りで、建築からそれなりの年月を経た現在でも質実剛健な雰囲気を保っている。中に入ってみると一階はキッチンとリビングルームが一体になった部屋があり、その奥には両親の部屋が、二階に上がるとみっつのベッドが並んだ子供部屋がある。ベッドはふかふかで、奴隷時代の馬小屋の藁とは雲泥の差の寝心地でメイリアの身体を包んでくれるのだ。

「パパ、ママ、ただいま戻りました」

 挨拶をするも、返事は帰ってこない。平日の日中、父親エバンスは農地で汗を流しており、母親リズは貿易都市の保育所で働いていることが多い。下の弟妹は日によってエバンスのそばをうろちょろしていたり、リズが職場で面倒を見ていたりするが、今日はたしか父親と行動をともにしていたはずだ。そろそろ昼食の時間なので、父と弟たちが戻ってくるころだろう。

 メイリアは戸棚を漁って火打ち石を取り出し、キッチンのかまどに火を入れた。細長い硬パンをナイフで均等に切り分けつつ、父、弟、妹、そして自分の分を並べた皿へ香草と干し肉とともに手際よく乗せていく。煮立った鍋へバヅルペーストをひとすくい入れて乳酪チーズの風味を纏わせてからガジャイモとキャラット、そして先日エバンスが釣ってきた海魚の切り身を放り込んだ。鍋のシチューをひとすくい小さじですくって舐めてみる。芳醇な香り。ほんのりと効いた塩味がちょうどよい味つけだった。これなら家族も喜んでくれるだろう。6歳が作ったにしては完成度が高すぎる気もするが、父はいい塩梅に楽天家なので怪しみはしないはずだ。

 火にかけた鍋がぐつぐつと音を立て始める頃合いになって、玄関ポーチからいくつかのにぎやかな足音が響いてきた。家族が帰宅してきたらしい。

 ドアが開き、父親のエバンスがリビングへ姿を現した。20代後半にして3児の父親である働き者の彼はいつだってボロシャツとオーバーオールを土まみれにして、大きめの麦わら帽子を被っている。小動物を連想させる垂れ目の眼差しや低めの鼻、卵型の輪郭と、ハンサムとはいえないながらも愛嬌のある顔立ちをしており、あごに生えた無精ひげが彼の野性味をかもし出している。背は高く体つきもがっしりしており貫禄は十分で、冬場は凍てついた海辺で魚釣りに興じ、夏場は炎天下の麦畑で汗まみれになって穂を刈るのが彼の喜びだった。どことなく少年っぽい雰囲気を残したひとだな、とメイリアは感じている。

 彼の足元には4歳になる弟のエミディオと、2歳の妹トトラがしがみついていた。エミディオの栗色の短い髪の毛は父親に似てややカールがかかっており、垂れ気味の目には愛嬌のある顔立ちが備わっている。子供らしいぷっくりとしたほほと淡い桜色の唇。肌は健康的に日焼けしており、あどけない笑顔が可愛い男の子だ。

 一方のトトラは母親似で、ストレートの黒髪を頭の後ろでしばっており、切れ長の黒い瞳にはやや気が強そうな光が宿っている。エミディオはのんびりした気性の持ち主で、トトラは無口ながら聞き分けのよい聡い子だった。

 と、その背後から母親のリズが静かに入室してきた。メイリアの黒髪と黒い瞳は彼女からの遺伝なのだが、垂れ目のメイリアとは異なり目尻は切れ長で、鼻も高めである。細面で目鼻だちがバランスよく整っており、いかにも上品そうな印象だが、その芯の強さを表すやや下がり気味の柳眉、真一文字に結ばれたふっくらとした唇が彼女を大人の女性としての魅力も兼ね備えさせているのだった。体つきは細身でやや背が低く、一見すると健康に恵まれていない身体つきに見えるが、そのじつ農夫の妻らしく、彼女は三マートルはある大柄な馬を乗りこなすほどの体力と胆力を持ちあわせている。その涼し気な顔つきとよく通る澄んだ声から、彼女は村人たちから水の女神のようだと称されることがあった。保育所からの帰りらしい彼女の衣服は幼児たちのよだれで光っていた。

 あれっとメイリアは思う。リズは夕方まで保育所で仕事をしているはずじゃなかったか。もしかして予定が変更されたのだろうか。すぐにもう一人分、料理を作らないと……。

 焦りが指先に現れた。熱いシチューをよそった容器がメイリアの小さな手から滑り、重い音を立てて床に落ちた。メイリアが身につけていたワンピースのスカートに薄乳色の液体がかかる。しまっ……。

 反射的に父親のほうを振り返り、

「もっ、申し訳ございま……」

「メイリアッ、メイリアァァァァッ」

 とたん、エバンスが目の色を変え、靴を踏み鳴らしてメイリアに駆け寄ってきた。

 背筋の凍りつく恐怖がメイリアに絡みついた。彼女は身を竦ませて反射的に両腕を上げ、頭部をかばう。絶対に殴られると思った。彼女がミスをしたとき、いや、ミスをしなかったときでさえ、奴隷主がトゥースを殴らなかった日はなかったから。

 が、父親は彼女のスカートをまくりあげてその細い両脚を確認しつつ、重く響く声を張りあげた。

「ヤケドしていないか? 痛いところはないか? 大丈夫? 肌にかかってない? あああ可哀想に、こんないい子がケガをしちゃうなんて、パパ耐えられないっ。すぐに痛いの痛いの飛んでけーしてあげるからねっ」

 と、眉根を寄せて、目尻に涙さえ湛えつつ、心配そうにたずねてくるばかりだった。一方のメイリアは顔色を真っ青にしながら全身を強張らせたままだ。

「…………ぁ、ぁ……」

「んん……おお、よかった、シチューは肌にかかっていないようだなっ。メイリア、おまえが無事で本当によかった。服の汚れなら洗濯すれば落ちるからね。おまえが無事でなによりだっ。オレの天使、なにがあってもパパが守ってあげるからねーっ」

 そういって彼は、そっとメイリアを抱きしめ、頬ずりしてくるのだった。メイリアのほほに、彼の瞳から零れた透明な雫が擦りつけられていく。

 そんな夫の後頭部を手のひらで軽く叩きつつ、リズがため息をついた。

「そういう甘やかすような真似はやめてくださいな。エバンスもメイリアも、すぐにその汚れた服を脱いで。あとで洗濯しておくから。メイリア、この料理はあなたが作ったの?」

「……あ……は、はい。あの、申し訳ございません、ママが帰宅なさるとは知らず、まだ食事の準備が……」

「いいのよ、あとはわたしがするから。それより、すごいじゃないの。ひとりでこれほどのものを作れるなんて、あなたは本当にたいした子だわね。けど危ないから、次からは大人のいないところで火を使わないように。いいわね?」

「は、はい」

「それと、そんな他人行儀なしゃべりかたはやめてちょうだい。国語の本を読んで試してみたくなったもしれないけれど、敬語は親子間で使うものじゃないのよ……ふうん、これをメイリアが」

 リズは思案げにテーブルの上に並べられたパンと干し肉、スープを観察していく。時折、あごを指でとんとんと叩きつつ、首を傾げる彼女は一体なにを考えているのかわからない薄気味悪さがある。彼女の胸に宿る光の色はエメラルドを彷彿とさせる緑蒼色で、冷静さと芯の強さを表している。決して悪人というわけではないのだが、淡々とそつなく物事をこなすため、悪くいえば冷淡な印象を与える女性でもあった。

 どうやら怒られずに済みそうだ、と理解したメイリアはようやく胸を撫でおろした。持ち前の呪術を用いればどうとでもできる脆弱な存在である彼らを、もちろんどうこうするつもりなどメイリアには毛頭ない。だからこそ、彼らから忌み嫌われて、いまの暖かな生活を手放すこと、壊してしまうことが、いまの彼女にはなによりも恐ろしかった。

 エバンスとメイリアが服を着替えて食卓についたタイミングで、家族全員による暴食はらぺこの魔女イルドへの祈りが始まる。イルド教はゼンリョー王国における二大宗教のひとつで、教義は『よく働き、よく遊んで、よく食べて、よく眠れ』だそうだ。信仰者は農民から王族の者まであらゆる階層に及んでおり、王都ではその信徒の多さから定期的に礼拝がおこなわれるほどだ。ちなみに魔女イルド・ハーヴェスターはゼンリョー王国の北の大地に根を下ろしている天を見上げるほどの巨木の精霊、ドライアドであるという。メイリアも豊饒祭のときアルトコロニーの大広場で農民たちに交じって「バカ野郎おまえ。いいだろそんなこと、ほら飲め飲め」と大笑いしながら酒をかっくらっている彼女を見たことがある。物質面での豊かさを追求し、豊饒祭やら酒宴祭やら、飲めや歌えのお祭り騒ぎが大好きな宗派といえよう。

 そんなイルド教とは対照的に、もうひとつの宗教であるノア教は精神面での豊かさに重きをおいている。こちらは怠惰ぐうたらの魔女ノアを祀っており、教義は『すべて運命。なるようになる』である。信徒は瞑想や思索に耽ることを好む勤勉家が多く、清貧を美徳とし、派手な振る舞いは控える傾向にあるらしい。魔女ノア・シルバーアークは世界でも最強クラスの魔術をたしなむ幽霊だという話だが、ノア教は別に彼女自身が設立したわけではなく、魔女ノアを慕う人々が勝手に彼女を祀りあげているそうで、本人いわく「なんで自分が教祖扱いされているのかわからない」とのことだ。

 メイリアはふと、テーブルを囲んで両手のひらを組んでまぶたを閉じ、生命を捧げてくれた食材と、恵みを与えてくれた魔女に祈る家族を見て、こういう世界も存在するのだということを感慨深く思った。奴隷時代も、魔女の弟子時代も、死神時代も、ものを食べるということに感謝の意を捧げたことなどなかった。食事だって『お腹が空いたから口に持っていく』『飢えを凌ぐ』ばかりで『味わう』『楽しむ』という概念が抜け落ちていた。おなじ世界のおなじ大陸で生まれているのに、生まれ次第でこうも価値観が変わるものなのか。

「……さて、ではいただきます! メイリアの作った料理か、すごく美味しそうだなぁ。もしかして将来は凄腕のコックさんになったりするかもなぁ」

 魔女イルドへの短い祈りが終わり、エバンスの言葉を皮切りにして、ホーランド家の面々がいよいよメイリアの作った食事に手をつけ始めた。大丈夫、美味しいはずだ、とメイリアは思う。味見はちゃんとしたし、スープも冷めていない。ああ、どうしてこう、ひとに料理を振る舞うというのは不安を覚えてしまうのだろう。自分ひとりであれば草でも虫でも気兼ねなく食べられるのに。

 と、スプーンを一口つけたエバンスが「うぐっ」とのどから太い声を発し、ひたいを左手で覆った。身体を固くするメイリアの前で、エバンスはほほに透明な雫を伝い落としながらいった。

「この子は天才だ……うますぎる。うまい、うまい、うまいっ」

 一口ひとくちをもったいぶるように舌の上で転がしながら、エバンスはメイリアの料理をどんどん口へ運んでいく。眉を弛めて、ときおり首を横へ振って「最高だっ」ともらしてはパン、干し肉、シチュー、またパンとローテーションで味わっていく。見ているだけで美味が伝わってくるような食べっぷりであった。弟エミディオも妹トトラも「おいしいっ」と料理を褒めながら、父に負けないくらいの勢いでがっついていく。

「リズ、これからはメイリアに料理を手伝ってもらってもいいんじゃないか? 週末のバーベキューの準備と片付けはいままでどおりオレがやるとして、普段の食事作りはおまえひとりに任せっきりだから大変だろう」

「ええ……そうね」

 母親リズは一口スープを口に運んでは、なにかを考え込むようにあごに指を当ててトントンと叩く。もしかして嫌いな食材でも入っていたのだろうか──というメイリアの懸念が伝わったのか、リズは今日の功労者のほうへ微笑んで、

「すごく美味しいわ。これも図書館の本を読んで勉強したのかしら。ありがとう、メイリア」

 と、感謝の言葉を述べたのであった。リズはいつもこうで、無口というよりも不必要な言葉を極力避けるような傾向があるため、メイリアは彼女の思わせぶりな態度をあまり気にしないようにした。エミディオやトトラも「おねーちゃん、ありがとー」と屈託のない笑みを浮かべていうのだった。

 ほっと人心地がついたメイリアの胸に、ふと温かな熱が灯る気配があった。「ありがとう」という感謝の言葉。もちろん、生まれて初めてきいたわけではない。けれど、自分に対してかけてもらえたことなど、数えるほどしかなかったから。思い出せるのは、せいぜい師匠の娘だったララバイという少女から。そして死神時代にイスキから。

 こんなに気持ちのいい言葉があるのか、といまになって身にしみる想いだった。家族に囲まれてメイリアは、胸の奥からこみあげてくる感動に身を焦がしている。

 が。

 なぜだろう。家族から温かな笑顔を向けられた彼女の胸に、じくり、と重く苦い痛みが生じるのだった。その正体不明の痛みに気づかないふりをして、メイリアはチーズ風味のシチューを舌の上で転がした。

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