第1話 季節外れの桜
4年前の春――
私の名前は
社会人7年目になる私は、肩書に役職が付き、忙しい毎日を過ごしている。責任のある仕事を任せてもらえるようになった最初の頃はやる気に満ち溢れていたが、それも数年もすると、やってもやっても終わらないタスクと新たに追加された新人教育に追われ、今や社畜になりかけている。
そんな私は、職場ではスーツを着こなし『できる女』を装っているが、プライベートはすっぴんジャージと完全に手を抜いている干物女。恋人は……お恥ずかしながら29年いたことがない。
おひとり様社畜街道爆進中の私だが、唯一楽しみにしていることがある。それは、毎晩晩酌をしながら、動画アプリのMeTubeで歌い手が歌う『歌ってみた動画』を観ること。ちなみに、私の推しは俺様系のビジュアルで、声はもちろん低音イケボ。その推しを愛でることが、完全社畜にならないための唯一の息抜き方法なのだ。
今晩も仕事終わりに近所のコンビニに寄り、残業のため遅くなってしまった夕食と晩酌用の缶ビール1本を買い、すっかりと花が散り葉ばかりになった桜並木の下を歩きながら家路につく。
自宅に着き玄関の鍵を開けようとした時、隣の部屋の灯りがついていることに気がついた。今朝までは空き部屋だったから、どうも日中の間に引っ越してきたらしい。
どんな人が引っ越してきたのか気にはなるが、そんなことよりもあと少しで推しの配信が始まってしまうから、そんなことに気を回している時間はない。
私は部屋に入るとすぐにシャワーを浴び、ダルっとした部屋着に着替え、冷えた缶ビールを片手にPCを起動させた。
カシュと軽快な音を響かせながらビールを開け、『さぁ、飲むぞ!』と缶に口を付けた瞬間、玄関のチャイムが鳴った。もうすぐ配信が始まるのに……と出るのを渋っていると、再びチャイムが鳴った。緊急の用なのか、それも今度は連続で。
「はいはいっ、今出ますよ!」
渋々ドアを開けると、季節外れの桜が舞ったのかと錯覚するような淡いピンク色が視界に入った。
「こんばんわ〜、夜分にスミマセン! 隣に引っ越してきた春野咲良と申します」
ドアの向こうには、桜色の髪が特徴的な若い男が立っていた。男は、『御挨拶』と書かれた箱を私の方へ差し出しながら、私の顔を見てクスッと笑った。
「ご、ご丁寧にありがとうございます。……てか、なんで顔見て笑うんですか?」
「だって、お姉さん、顔に泡ついてますよ?」
「えっ、マジ!? もうっ、ヤダッ!」
慌てて指で泡の位置を探っていると、男は『ほらここ』と、細くスラッとした指で私の鼻に触れた。突然の出来事に、顔が燃えるように熱くなるのと同時に、髪色と同じ春の穏やかさを感じる柔らかな笑顔に思わず目を惹きつけられた。
私が呆然としていると、男は『じゃ、失礼します』とペコリと頭を下げ、自分の部屋に戻っていった。私も自分の部屋に戻りそのままベッドにダイブすると、枕に顔を埋めながら思い切り足をバタつかせた。そして先程の出来事を反芻しているうち、私は初めて推しの配信を見逃した。
こうして、職場と自宅を往復するだけの単調な私の毎日は、咲良に出逢ったことでキラキラと輝くものへと変化していくことになった。
最推しで最愛のキミ 元 蜜 @motomitsu
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