チョコレートケーキ

焦がしミルク

チョコレートケーキ

朝の電車はそれだけで気分が滅入るものである。

それでも人の多い電車に乗らなければ会社に行き着かない。

毎日毎日こうやって電車を乗り継いで、私を含め会社員はみんなよく頑張っている。


改札へ向かう人々の中で、白杖を持った男性が点字ブロックの上をゆっくりと歩いていた。

その様子を2、3秒観察したあと男性に近づく。

緊張で胸がドっと鳴る。


「あの、何かお手伝いしましょうか。」

少しうわずった声になってしまった。

こめかみの汗は、駅構内の暖房のせいだけではない。


男性は立ち止まった。

「結構です!」

怒ってはいないが、しかし大きな声で断られてしまった。


終わった―――

今日の私は、もうおしまいです。

親切で声をかけても、助けが必要ない人はあんなにもはっきりと断ってくるものなのですね。


気まずいまま男性と別れた私は、駅のホームで一人反省会を開催した。

駅に滑り込んできた電車に、他の乗客とともに流れ入る。

電車の中でも暖房が効いて、コートを着てきた上に満員の車内で私の服の中はじんわり汗をかいていた。



仕事が始まる前に疲れてしまった私は更衣室でぐったりとしながら髪を整えた。


「おはようございま〜す」

後輩のサエキちゃんが更衣室に入ってきた。

真っ白でふわふわのコートを着ている。

「おはよう。今日は少しあったかいね。」

「そうですね。」


サエキちゃんのコートの下は、昨日と同じ服。

営業部の彼氏の家に泊まったのだろう。


「昨日彼の家に泊まったんですけど、カレー作ってくれたんです!美味しくて感動しちゃいました〜」

嬉しそうなサエキちゃん。

やっぱり泊まりだったのか。


「良かったね。いいな〜彼氏、私も欲しいな。」

心にもないことを口にする。


サエキちゃんが付き合っている彼は、私も密かに憧れていた1年上の先輩だった。



PCで仕事をしているとどうしても目が疲れる。

社内の健康経営の講習では、1時間に一度10分の休憩を取ることとされると教わったが、そんなに休憩はしていられない。

トイレに行ったり、コピー機に印刷物を取りに行ったり、今みたいに給茶室へ飲み物を取りに来るくらいしか席を外す時間はない。


紙コップをセットしウォーターサーバーの画面をタッチすると

「ボトルを交換してください」

と表示が出ていた。

たしか3日ほど前にもこの表示を見た。

ボトルの入っている扉を開け、隣に積んである20Lのボトルと空のボトルを入れ替える。


私がここにやって来る頻度が高いからたまたまボトル交換することが多いのだろうか。


席に戻ると同時に上司に声をかけられた。


「イトウさん、さっきのエクセルデータチェックしたから先方に送っておいて。」

「わかりました。念の為先月分との価格の比較表も送っておきます。」

「それは助かるよ。」

「それから先ほど外出されている際、K商事の担当者からお電話ありまして、配送を早めてほしいとのことでしたので工場のキムラさんに手配の連絡をしました。」

「了解。イトウさん真面目で助かるなあ。」


いえいえ、と謙遜しながらイスに腰を掛けた。

真面目、か。

学生の頃から幾度となく言われ続けた言葉だ。


美人でもなく人当たりがいいわけでもない私は真面目っぽく振る舞うしかない。

それなのに真面目だと言われても気持ちが良くないのは何故なのだろうか。



仕事が終わり、また人の多い電車に乗って家路につく。

青とオレンジが混じる夕焼けを眺めながらお気に入りのショートブーツの踵を鳴らす。


マンションの自分の部屋の前に着くと、隣の家の男の子と女の子が玄関の前で遊んでいた。


「こんばんは。」

声を掛けると、二人とも「こんばんは!」と元気に返してくれた。

チョークで地面に絵を描いていた。


「ショウくんね、明日たんじょうびなの!」

女の子は妹で、名前をヒナタちゃんという。

お兄ちゃんの方はショウくん。


「そうなんだ。ショウくん、何歳になるの?」

「6さい」

ショウくんは開いた右手と人差し指だけ出した左手を向けてきた。


「そっか、来年は小学生だね。」

「うん」

「明日はケーキ食べるの?」

「もちろん。でも…」


ショウくんは俯いた。

「チョコのケーキがよかったのに、おかあさんが勝手に別のケーキにした。」


私は二人の近くにしゃがんだ。


「チョコのケーキがいいって、お母さんには言ったの?」

「うん、でも、ロールケーキにするって。」

「そっか…」


「ヒナちゃんもケーキたべるよ!」

ヒナタちゃんはかまわず元気に言った。地面にはさくらんぼが描かれていた。


「ショウくん、きっとね、ロールケーキもおいしいと思うよ。」

私はそんなことしか言えず、そんな自分が頼りなくて少し恥ずかしかった。

ショウくんは小さく頷いたが、表情は明るくならなかった。

好きなケーキが食べられなくて残念そうな男の子をどう励ませばいいか、私にはわからなかった。


「かえるね。」

ショウくんはそう言って、ヒナタちゃんと一緒に家へ入っていった。

私も自分の家へ入る。


玄関に入り、ブーツを脱ぐ。

深いため息が出た。



翌日の朝、職場の最寄り駅を出てすぐのコンビニで昼ごはんの調達をしていた時に、ふとスナックコーナーに目が行った。

チョコレートに包まれた小さなカスタードケーキのお菓子が置いてあるのを見た私は、1箱取り、おにぎりといっしょにセルフレジを通した。


職場までの道、帰りの駅からの道、小さなお菓子の箱を大事に抱えて歩いた。


家の前に着いたとき、昨日の朝と同じような緊張感でいっぱいだった。


こんなの、私の自己満足なのかもしれない。

隣のショウくんは昨日言ったことなど忘れて、ロールケーキを美味しいと言いながら満足して食べているかもしれない。

第一、親御さんがいらないと言うかもしれない。


でも、

あんな話を聞いて、あんな顔を見て、

何もせずにいられなかった。

親御さんが買ったケーキもあるのだからと、あげるなら日持ちもするお菓子のほうが良いと思った。


押し付けがましいかな。

どんな顔されるかな。


隣の家のチャイムを押す。

自分の心臓の音を鼓膜で感じる。

ピンポンと短く鳴ってから数秒で、ショウくんのお母さんがドアを開けた。


「こんばんは。」

「ハシモトさん、お夕飯時にすみません。あの…」

話しながらエコバッグの中から箱を取り出した。

小さなチョコレートのお菓子、6個入り。

「昨日ショウくんから、今日が誕生日だと聞いて、それでその、よかったらこれ、ショウくんに…。」

早口になり、手汗もかいていた。


「えー!ありがとうございます!実はさっきまでふてくされてて…呼んできますね。」

ハシモトさんの奥さんは明るく言い、一度ドアを閉めた。

ドアの奥からかすかに会話が聞こえてくる。


「おとなりさんがくれたよ。」

「え〜すごいね!お礼言おう!」

旦那さんの声も聞こえる。


ドアが開き、家族4人総出で登場した。

ショウくんはいつもどおり、笑うでもなく悲しむでもない、その年相応の人見知りの顔をしていた。

手には私のあげたお菓子の箱を持っていた。


「どうもありがとうございます!ほらショウ、何て言うの?」

ハシモトさんの旦那さんがショウくんの頭を撫でながら言った。

ショウくんは小さい声で

「ありがとう」と言った。

持った箱をぎゅっと大事に抱えていた。


「お誕生日おめでとう。」

私はにっこり笑ってみせて、祝福した。

「ありがとう!」

妹のヒナタちゃんもお礼を言ってくれて、隣のご家族と笑いながらお別れをした。


自分の家に入る。

ブーツも脱がずにドアへ寄りかかる。

大きなため息をついたが、昨日とは全く違う感情だった。

手の平を合わせて指を組む。

ショウくんの誕生日をお祝いして、よかった。

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