我が社の糞(ふん)な習慣
闇雲ねね
我が社の糞(ふん)な習慣
私の転職は成功したように思えた。仕事にも前向きに取り組んでいるし、人間関係も割かし良好である。特に大きな揉め事もなく、給与も前職より上がった。
ただ一つだけおかしなことがある。おかしなことというか、ある一点においてのみ異常なほどに狂っている。
ここの同僚たちは、誰もトイレのあと流してくれない。トイレに入ると、最初に前の利用者の糞尿を流して、それから自分の用を足し始める習慣を持っている。おかしい。意味が分からない。そんな会社あるはずがない。だがここに一社存在しているのだ。そのうえ、私がそこに勤めてしまっている。せめてなぜ募集要項に書いておいてくれないのか。「弊社ではトイレのあと流さない運動推進中です」とでも書いておいてくれれば、この会社は気狂いだと応募せずに済んだのに。シット!
入社してすぐ、同僚たちの立ち話を思わず盗み聞きしてしまった。聞きたくもないのに給湯室にそのとき向かってしまったばかりに、入る手前で立ち止まって聞く羽目になってしまった。
「中途でこの前入ってきた前野さんって、普通にいい人なんだけど、、トイレ流してから出ちゃうのよね…」
「うそっ、やだー。本人おかしい自覚ないのかな…」
私は耳を疑った。薄々気付いていたが、これがこの会社の常識であった。ここでは私の人生で築き上げてきたトイレ習慣が非常識になってしまう。異文化トイレコミュニケーションだ。トイレの不和子さんだ。私はこのまま、郷に入りては郷に従うのか。それともコミュニケーションブレークOLになれるのか。
私の一世一代の開戦宣言が喉のあたりまで出かかっていたある朝、当然我が社に、あるプロレスラーが来社した。社長と旧知の仲だそうで、社内の風通しのために一日社員として外でのイベントを兼ねて社長が呼んだのだ。
しばらくして、
「トイレはどこですか?」
長い顎のしゃくれた声で彼は礼儀正しく聞き、トイレへと向かった。扉を閉めて轟かせたのは、ダー!!!の悲鳴。ホッとした。ここに一人、共感者が生まれた。強い味方だ。英雄が現れた。
「どうかされましたか?」
「実はトイレが流されていなくて。」
そのプロレスラーは苦笑しながら話したが、ここの同僚たちにとってはそれが当たり前で、何一つ疑問に思っていない。
「それが何か?」
「トイレは使ったらすぐ流すものでしょう。流してから出れば便器も清潔。」
「はぁ…。」
それから社長の提案で、そのプロレスラーに気合のビンタをしてもらうことになった。一列に並んで気合を注入されていく。
「トイレをすぐに流しなさい!いくぞー!」
そう叫びながら一人一人ビンタしていく。すると一人一人目を覚ましていく。
「トイレをすぐに流すわ!」
「これからはトイレを流してから出ましょうよ!ね!?」
「便器があれば何でもできる!!」
皆が口々に言い出し、常識が変わる瞬間を私は目の当たりにした。感動して少し泣いた。私もビンタされた。その痛みでさらに泣けた。
続けてプロレスラーによるトイレトレーニングが始まった。
「用を足したら1で立ち上がりましょう。2で服のウエスト部分をつかむ。3ではいたら、ダー!でトイレのバーを下げる。いいですね?」
「1、2、3、ダー!!」
デスクの椅子に座って、トイレにいるイメージで皆で一緒に練習する。声を揃えて、立ち上がって、流したらまた座って、1、2、3。
「皆さん、もう大丈夫ですね?私に出来ることは全てやりました。あとは皆さんの心がけしだいです。」
英雄が夕暮れに赤く染まりながら社を後にした。
今では同僚の糞尿を見かけなくなったし、トイレも清潔に保ちやすくなった。
「1、2、3、ダー!!」
だがトイレからは皆の明るい掛け声が響く。元気があってよろしいですね。。なわけないだろ!トイレくらい黙って流してくれよ。そう心でぼやいて、私も用を足しにいく。用を足して立ち上がり、バーを下げる瞬間、ダー!と言いそうになった自分に思わずクスッと笑う。習慣って怖いわ。勢い良く便器に水が流れてくる。私は水が流れるその便器に両手を突っ込んで、手もばしゃばしゃと洗う。便器のフチを指でこすり上げ、ついでに洗う。便器も手も清潔が一番。
我が社の糞(ふん)な習慣 闇雲ねね @nee839m
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