第2話 蝦夷地の実態、そして「北海道」へ

俺の親も兄弟も、すべて亡くなったとのこと。


長崎で仏の道を説いている間に、俺の身内はすべて鬼籍に入ってしまっていたのだった。

俺は天涯孤独となった。

俺に帰るところはなくなった。


仏道に入っても、結局のところは親不孝な人生であった。

俺にできることは「旅」だけなのだ。


無力さに打ちのめされた俺は、僧侶を辞めた。

還俗し、旅人に戻る決意を固めた。



長崎で暮らしていると、やたらと耳にするのが異国の話だ。

元々、異国に興味はあったのだが、いかんせん、庶民が異国に渡ることはできない世の中であった。

そんな中、日本のはるか北、蝦夷地えぞち露西亜ロシアという異国の船が盛んにやってきているという話を聞いた。

幕府は、蝦夷地を守るために地理調査を行う者を募集しているとのこと。



これだ!!



誰も行きたがらない極寒の未開地を旅して記録を取る。

これぞ、我が天命!!

俺がやらずして誰がやる!!



こうして、俺は蝦夷地の箱館はこだてへと渡った。



* * *



さっそく、蝦夷地の調査を開始した。


山や川の位置を帳面に記録していく。

蝦夷地は松前藩が支配しているとはいえ、広大であり、ほとんどが未開の地であった。

俺の記録がきっと役に立つだろう。



土地の名前、山や川の名前、これには少々困った。

先住民たちの言葉がよくわからなかったからだ。

先住民たちは、自分たちのことを「カイ」、あるいは「カイナー」と言っていた。


カイナーの文化は魅力的であった。

自然界のあらゆるところに「カムイ」が宿っていると考えていた。


そして、「カムイ」と「人間アイヌ」とが共存して生きる社会でもあった。


先住民たちは、文字を持たなかった。

なので、発音を聞き取ってそれを記録していった。

それぞれの言葉には意味があるので、それを元に地名を和語に変えてみる試みもした。


調査の途中で、広い原野へとたどり着いた。

先住民たちは、この地を「サツポロペツ」と呼んでいた。

「ペツ」の意味はすぐ分かった。「川」である。

川は生活に必要なものだ。

川の近くには集落コタンが形成されることが多い。


「サツポロペツ」の意味は「大きな乾いた川」であることが分かった。

なるほど、その名の通りこの地は平らであり、水のない川のようであった。

では、この地の和名はどうしようか……


このように、行く先々で地名を考えてみたのであるが、結局のところ、先住民たちが呼んでいる名で呼ぶのが一番自然であるように思えた。

「サツポロペツ」か……

では、この地の名前は「札幌さっぽろ」にしよう!


こうして、俺は蝦夷地を調査し、地名を次々に記録していった。


記録したのは土地の様子だけではない。

俺の特技の一つは「絵」だ。


今まで見たこともないような動物たちにたくさん遭遇した。

鹿のような巨大な動物に出会った。

先住民たちに名前を聞いた。


「トナカイ」


なるほど、そういう名の動物なのか。

姿を絵で描き、名前を文字で記した。


* * *


カイたちは川で産卵する魚を捕まえて食べていた。

お腹にたくさんの卵を抱いており、なかなかに美味な魚であった。

これは「シシャモ」という魚らしい。


* * *


調査は内陸だけではない。

海岸も調べて歩いた。


海にとてもかわいい動物を見つけた。

カイたちはそれを採って毛皮にしているという。

何という名前の海獣なのか、カイたちに聞いてみた。


「ラッコ」


俺は書き留めた。

よし! これらの動物の記録は、江戸の学者たちにきっと喜ばれるだろう!


でも、動物の記録ばかりでは申し訳ないな。

カイナーたちに「花」のことを何と呼んでいるか聞いてみた。


「ノンノ」


そうか、花は「ノンノ」というのか。


俺は蝦夷地に幾度も渡り、その都度、たくさんの記録を江戸に持ち帰った。


蝦夷地の探検では、道なき道を行くことも多い。

俺は、先住民である「カイ」たちに何度も助けられた。


川が増水して渡れなくなった時、わざわざ丸太を川に架けてくれた。

そして、丸太を渡る時、俺が落ちないようにとカイたちは手をつなぎ、人の鎖を作ってくれた。


断崖絶壁を登ったり降りたりする時も、道案内のために同行してくれたカイたちが何度も助けてくれた。

カイたちはとても優しかった。


しかし、カイたちとの交流を深めるうちに、知りたくなかった現実を知ることとなった。


松前藩による搾取である。


蝦夷地は魅力的な食材が豊富にあり、松前藩と交易を行っていた。

しかし、カイたちには文字という文化がなかった。

そして、軍事的な力も弱かった。

カイたちは不利な交易を強いられていたのである。

また、開拓のためにカイの若者たちがたくさん連れていかれ、遠い地で過酷な労務をさせられていたのだった。



俺の書く書物は、江戸で大いに売れていた。

なにせ、江戸の人たちにとって遠い蝦夷地は文化も違い、すべてが新鮮で魅力的に見えたのだろう。

俺は、「出版」の力を使おうと決心した。


松前藩による搾取や強制労役の実態を、出版によって世間に晒し、幕府に改善を求めるのだ。



この作戦は大いに成功した。

時代が江戸から明治に変わると、蝦夷地の支配は旧松前藩ではなく、明治政府が開拓使を置いて行うこととなった。


* * *


蝦夷地について、江戸の子供たちにも知ってもらいたい。


そう考えた俺は、得意の絵を生かして、スゴロクを作成した。

その名も「蝦夷土産えぞみやげ道中スゴロク」。

箱館から蝦夷地をぐるりと一周するスゴロクだ。


マスには蝦夷地の地名を書き、その地の名物などを絵で描いた。

これで、蝦夷地のことを楽しく知ってもらえるだろう。


* * *


やがて俺は、明治政府に認められて蝦夷地開拓の役人に任命された。

さっそく、「蝦夷地」という地名の改名に取り組んだ。

時代も明治に変わり、「江戸」は「東京」になった。

蝦夷地の支配者も、もはや松前藩ではない。

そもそも、蝦夷という呼び名は和人による呼び名だ。

では、何と改名しようか。

いくつか候補を考えてみた。

そして、「カムイ」と「人間アイヌ」との共生文化を持つ「カイ」たちの土地でもあることを忘れてはいけないと思った。



決めた。

蝦夷地は、こう改名しよう。



「北」の「カイ」たちの地方という意味で、


ほっ加伊かいどう



この案を明治政府に出したところ、東海道などと語呂を合わせるために、「加伊」の文字は「海」へと直されることとなった。


明治二年。

蝦夷地の新しい呼び名が決定した。



北海道ほっかいどう



* * *



その後も、俺は北海道開拓の仕事を進めていった。

明治政府に懇願し、カイたちへの強制的な使役を禁じる法令を制定させることにも成功した。

これで、俺を助けてくれたカイたちへの恩返しができたかに思えた。


しかし、現実は厳しかった。

商人たちは相変わらず先住民たちとの交易で搾取を繰り返したり、強制的な使役を続けたりしていたのだった。



役人は商人たちと癒着しており、多額の賄賂が横行していた。

先住民たちが搾取される実態は変わらなかったのだ。

俺は無力だった。

どんなに抗議しても事態は改善されなかったのだ。

俺の最後の抵抗、それは開拓使を辞任することだった。



明治三年、俺は役人を辞め、東京で余生を送った。



北のカイたちの土地、北海道がすべての人にとって暮らしやすい土地になるには、あと数十年かかるのかも知れない。

その望みは、次世代の若者に託すこととなった。



< 了 >

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

その地は「道」となった 神楽堂 @haiho_

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画