階層2 生クリームの海


 やはり、二つ目の階層は生クリームであった。舐めると甘いし、独特のふんわりとしたやわらかさがある。ヨーグルトとは決定的に異なる感触だ。


 生クリームの海を、泳ぐというよりは、かき分けるようにして、僕は上へ、上へと向かった。気を抜くと体がずぶずぶと沈んでいきそうになった。かき分ける行為を中断すれば、生クリームに押しつぶされて窒息しそうになる。まるで底なしの沼だった。沼にしては随分と清潔な色をしているが。


 視界は真っ白だ。まだ景色は変わりそうに無い。


「もしもし、そこの人」


 白い海から突如現れたのは、クマノミだった。オレンジと黒が視界に飛び込んでくる。


「はい……ッ」


 返事をしようとしたが、生クリームが僕の口の中を侵す。呼吸ができない苦しさとは裏腹に、甘い香りが口の中に広がる。


「こっちへいらっしゃい」


 クマノミは僕を先導するように泳いでいく。


「もうご存知かと思うけれど、私はメタファーとしてのクマノミよ」


 ようやく落ち着いたのは、白い海に迷い込んだらしいコーンフレークの岩盤の上だった。生クリームの海の中で、そこだけは息のつける空間となっていた。


「なるほど、わかります」


 僕は体中にまとわりつく生クリームをぬぐった。生暖かいクリームが服の中にまで入り込んで、まるで体重が二倍になったように重い。


「ところで、あなた何をする人?」

「突然だね」

「突然でなく起こることなんてないわ。いいから雑談をしましょう」

「雑談か……。僕が何をする人かって言われてもね」

「答えられないの? ではもう少し質問を具体的にするわ。あなたは何をして、何のために生きているの?」


 クマノミの口調は淡々としていた。本当にこれはただの雑談であって、さほど興味もない、という風に。


「仕事ってこと? 僕はまだ学生だから、生計を立てるほどの仕事はしていないかな」

「では勉強をして生きているの?」


 真っ白の中から、クマノミのつぶらな瞳が僕を見つめている。


「いや、それも違うな」

「ではもっと質問を変えるわ。あなたの趣味は?」


 唐突に質問が日常的になった。僕はてっきり、そろそろ「あなたの夢は?」と聞かれるかと思っていた。何のために生きているのか……それはつまり、何を目標として、夢として生きているかということ。『夢』という単語が恣意的に避けられているような、そんな違和感があった。


「何かに気が付いたような顔をしたわね」

「いや、気づいたというほどのことはないと思う」

「まあいいわ。ともかく、あなたの趣味は?」


 少しだけ、間を開ける。


「趣味は、小説を書くことかな」

「あらそう。じゃあ私の話をするわね」


 クマノミは自分から聞いておきながら、僕の話に興味はないようだった。


「ならどうして聞いたんだい?」

「あなたがそれを思い出すためよ。別に私が聞きたかったわけではないの。だからこれからは、私の話をするわ」


 クマノミは、異論は許さないといった口調で述べた。僕は肩をすくめる。


「私は隠喩的クマノミだけれど、実際のクマノミについての知識も一通り備えているのよ」

「はぁ、たとえば?」

「たとえば、クマノミっていうのは、イソギンチャクと共生しているの」

「ああ、本来イソギンチャクは触手にある刺胞で他の魚を攻撃するんだよね」

「そう。私たちクマノミにはその毒が効かないようになっているの」


 薀蓄を途中から横取りされたことに気分を害したのか、クマノミの声は少し低かった。


「クマノミはその毒によって他の魚から守られ、イソギンチャクはクマノミに食事をとってきてもらう。そこには、二人だけの閉鎖的な世界があるの」


 いや二匹か、とクマノミはほとんど聞こえないような声でつぶやいた。きっとイソギンチャクを匹で数えていいものかどうか分からなかったのだろう。僕もわからない。


「あなたはクマノミ? それともイソギンチャク?」


 突然の意味不明な質問に、僕は沈黙せざるを得なかった。しかし気を取り直して真剣に考えてみる。これも何かの暗喩なのかもしれない。


 見た目に綺麗なクマノミでは、たぶんないだろう。ではイソギンチャクか? 毒を吐きかける、イソギンチャク。それでもクマノミだけは近づいてきてくれる。二人だけの、閉じた世界。


「そんなに深く考えなくてもいいわ。ただの雑談なのだから」


 クマノミは言いたいことを言って満足したのか、尾ヒレをヒラヒラと振った。


「じゃ、がんばって。次の階層はもう少しよ」


 クマノミがそう言って去った後、僕は再び水泳を始めた。泳ぐというよりはもがくといった方が表現として正しいような気がするが。


 体中に疲労が溜まっていくのがわかる。抽象的だったはずの疲れが、意識することによって具体性を帯び始める。


 意識を別のところへシフトしよう。僕はそう考えた。たとえば、彼女とチョコレートパフェの関連性のようなものについて考えてみるのはどうだろう。


 そういえば以前、僕は彼女と二人で喫茶店に入ったことがあった。僕がブラックコーヒーを飲んでいる前で、彼女は何を食べていたっけ? そして僕らは、何について話していたのだろう?


 思い出そう。

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