第5話

 私は黄泉の御饌みけを口にしてしまった。

 取り返しのつかない事をしてしまったという慄き以上に、あり得ないものを見た事に混乱する。

 なぜ吾子あこがここにいるのか。

 私が命をかけて生んだ、愛しい乙児おとご

 私の身体を焼きながら生まれた子。

 この子は、いつからここにいたのだろう。

 吾子あこを抱く。

 私にはもう吾子あこに与える乳がない。

 私の乳房はすでに腐り落ちてしまった。

 ここは黄泉。

 命を終えてたどり着くところ。

 私が最期に産み落とした吾子あこは、すでに命を終えていた。

 なぜ。

 いや、考えればわかることだ。

 この子は父親に、私の汝兄なせに、命を奪われたのだろう。

 汝兄なせが私を焼き殺した子を許すはずはなかった。

 愛しい汝兄なせ

 私の唯一人のつま

 汝兄なせが私を求めることを、私のために激昂することを、喜ぶ気持ちは確かにある。

 でも。

 私は吾子あこに生きて欲しかった。

 例え私を焼いた子でも、生きて、育って欲しかった。

 それを汝兄なせにわかってもらうということは、できないのだとしても。

 ふと、我が身が輪郭を取り戻していることに気づく。

 黄泉の御饌を口にした私は、すでに黄泉の神なのだ。

 そして、同時に悟る。

 私を見つめていた黄泉大神。

 黄泉を、根の国を、死者を統べる神。

 あれは、私自身だったのだ。

 私と汝兄なせが地におりて国土を生み、命を育てた。

 私の前に死んだ神はなく、当然黄泉を訪れた神もいない。

 むしろ黄泉とは私という神が命を喪ったことで、はじめて立ち現れた場所なのだろう。

 そこを統べるにふさわしい神が、私の他にいるはずもない。

 私は立ち上がり、吾子あこを抱く。

 私の乳房が腐り落ちているように、吾子あこの小さな身体も原型をとどめてはいなかった。

 私は、吾子は、命を失ったが、それぞれの身体は未だ命の輪の中にある。

 死んだものの身体に宿る命は、他の命に食われるのが定め。

 食われ、腐り、崩れて命の輪を巡ってゆく。

 全ての身体を失った時、私はまことの黄泉大神となるのだろう。

 死者を迎え、死者を統べ、根の国を治める偉大な神。

 もう、時間がない。

 汝兄なせよ、私の汝兄なせよ。

 きっとここへと向かっている汝兄なせよ。

 疾く、疾く、疾く、来よ。

 私の身体が全て腐り落ちる前に。

 私がまだ汝兄なせの妻である内に。

 そしてもう一度だけ吾妹わぎもと呼ばれたいと願う。

 ここは黄泉。

 の枯れた場所。

 きっと汝兄なせはすぐにも気づくだろう。

 そしてその 褻枯けがれを疎むだろう。

 腐り落ちた私を捨て、黄泉比良坂へと逃げるだろう。

 汝兄なせよ。

 私の汝兄なせよ。

 私に子を生ませ、その子を殺してしまった汝兄なせよ。

 私はあなたを追い、黄泉比良坂の向こうへ返そう。

 そしてこの根の国をおさめ、あなたがいつか褻枯けがれてここへと降りる日を待とう。

 天降り、国を生み、根の国へと下り。

 思えばなんと深くまで、潜って来てしまったのだろう。

 甘い、甘い、黄泉の御饌みけ 。

 花とも、果物とも、蜜とも違う甘い香り。

 私はその御饌みけをいつか汝兄なせの盃に注ぎ、飲み干すのを見守ろう。

 汝兄なせよ疾く来よ。

 そして疾く逃げよ。

 いつか汝兄なせ褻枯けがれるその日まで、私は御饌みけを醸すだろう。

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よもつへぐい 真夜中 緒 @mayonaka-hajime

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