第4話

 腹はもう鳴らなくなった。

 ただ、喉が渇く。

 馥郁ふくいくとあたりを満たす甘い香り。

 机の上にはいつの間にか、新しい土師はじの器が置かれていた。

 脆そうな、黒い土師には波々というほどではない、けれど僅かということもない、程々の御饌みけが注がれている。

 喉が渇く。

 うかうかと土師を手に取り、投げ捨てていらい、喉の渇きがきつくなった。

 砕けた土師からこぼれた御饌みけが強く香るせいだろうか。

 喉が貼り付くように、焼け付くように、渇く。

 とても苦しい。

 私の身体を作っていたものが、抜け落ちてゆくのを感じる。

 汝兄なせよ。

 なぜ、まだ来ないのか。

 汝兄なせが来ないはずもないのに。

 ここは暗い。

 明かりがないわけではない。

 ものが見えないわけでもない。

 けれども、どうしようもなく暗い。

 汝兄なせよ、汝兄なせよ。

 私の唯一人の汝兄なせよ。

 私は苦しい。

 とても喉が渇くので。

 ここがあまりに暗いので。

 そして私のことをずっと、黄泉大神が見つめているので。

 汝兄なせよ。

 汝兄なせよ。

 汝兄なせよ。

 苦しい。

 私はこれほどの苦しみを知らない。

 あの時でさえ、死を得た時でさえ、吾子あこに焼かれたあの時でさえ、これほどに苦しくはなかったものを。

 あの時は熱くて。

 本当に熱くて。

 でも、吾子あこを生むまでと、吾子あこを生まねばと、ただそれだけをおもって。

 汝兄なせ

 そして愛しい吾子あこよ。

 甘い、甘い、甘い香り。

 渇きはひたすらに苦しく。

 香りはひたすらにに甘い。

 黄泉大神はただ黙して、私が耐えているのを見つめている。

 ここは暗い。

 暗くて淋しい。

 ただ香りが、甘い甘い香りだけが。

 酔いそうなほどに、まとわりつく。

 舌先にとろりと落ちて、じわりとしみる。

 しみいるように喉へと落ちる。

 それは甘い。

 果物とも、花とも、蜜とも違うその甘さ。

 馥郁たる香りを放ちながら喉を滑り、身体の隅々までもしみてゆく。

 ふと、振り返る。

 はじめて、自分以外の影を見る。

 小さい。

 とても小さい。

 このかいなに包み込めるほどに小さい。

 「吾子あこ

 そっと呼びかけ、腕を伸ばす。

 掌から土師はじが落ちて、割れる。

 御饌みけは飛び散らない。

 黒い、脆い、土師はじの器。

 そこに満たされていた御饌みけは、無意識の内に私の喉を通っていた。

 

 

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